そこから十分か、二十分が経ったころだろうか。
 ハルノエン指揮官たちの決断は比較的早かった。
 くだんの位階の高い壮年の男と、その直属の配下だろう、二十数人の、他の兵士たちと比べると格段に身なりのよい男たちは、嵐によって左右に振られる小船のような同胞をざっと見回し、目配せと幾つかの言葉を交わしたあと、パッと散った。
 散った人々が、恐るべき俊足で、兵士たちの合間を、芯のある大声で人々を呼ばわりながら走り抜けると、それと同時に恐慌のうねりに飲み込まれかけていた塊の一部が息を吹き返し、平静を取り戻してゆく。
「……なるほど」
 霧に紛れ、手近な場所にいた兵士の首筋を一撃して昏倒させながら飛鳥はつぶやく。
 この短時間ですでに二百人以上を昏倒させている飛鳥だが、七千のうちの二百などたかが知れている。もう少しすれば冷静さを取り戻す兵士も増えて、更に厄介になるだろう。――要するに、まだまだこれから、ということだ。
「動ける連中だけ動かす気か……」
 動揺はしていても恐慌には陥っていない兵士たちだけを再度まとめ、ゲミュートリヒへ行くつもりなのだ。

「急げ、わずかな時間も惜しめ!」

 指揮官のひとりが鋭く呼ばわる。
 多少無茶をしてでも、この場を早く離れた方がいいという判断だろう。
「……賢明だ」
 小さく笑った飛鳥は、流水のように滑らかな――しかし稲妻のように激烈な動きで、霧のうねりとともに跳躍し、また手近な位置にいた数人を打ち倒した。
 ソル=ダートへ来る前から、ただでさえ規格外であり非常識だった飛鳥の身体能力だが、恐るべき力を内包する《死片》の毒と肉体を融合させた今のそれは、以前からは更に――飛躍的に向上しており、飛鳥が勢いをつけてひとりを蹴り飛ばすだけで、その勢いに巻き込まれて数人が吹っ飛ぶ。
 胡散臭いカンフー映画みたいだな、というのが飛鳥の正直な感想だが、無論手っ取り早くはある。
「使えるものは使う……それだけだ」
 低く独白し、呼吸ひとつ切らさずに霧中を舞う飛鳥の傍らで、息を吹き返したハルノエン軍の隊列が、先ほどから考えると性急過ぎるほどの速度でゲミュートリヒへと向かい始める。
 隊列からはぐれて右往左往する兵士たちに手が差し伸べられることはなく、腰を抜かしたまま、頼むから置いて行かないでくれ、と哀願する彼らに応えるものはなかった。
 平静を取り戻し再度統制の取られた軍隊は、前だけをまっすぐに見て、霧に揺らぐ森を一直線に下っていき、飛鳥が『作業』を進める数十分の間に殿(しんがり)が霧の迷宮をくぐってゲミュートリヒへと降りていった。
 それを非情とは思わない。
 お互いに、そうするしかないのだろうと思うだけだ。
 総司令官と思しきくだんの男が、先陣を切って森を下ってゆく様子を思い起こしながら飛鳥はつぶやく。眉間に刻まれた皺が、彼の内心を物語っていたものの、その足取りに揺らぎはなかった。
「それほど大切な何かがある、ってことかな」
 レーヴェリヒトとの会話から、その『何か』に関してはそこそこ予測を立てている飛鳥だが――恐らくレーヴェリヒトも同じ認識を抱いたはずだ――、今はまだそれをどうこうする時期ではない。
「……降りたのは、五千前後、か」
 大まかに把握した人間の塊が過ぎ去ってゆく速度と、全員が霧を抜けて行くのにかかった時間から数を計算しつつ、飛鳥は周囲を見渡す。
 まだ立っているものは少なくない。
 が、もう立てないものも少なくない。
 飛鳥が打ち倒したものだけではなく、この異常な空間に置き去りにされたという衝撃が、彼らから立ち上がる気力を奪っているのだ。
「まだ動けるのは半分くらい……だな」
 及び腰ながらも武器を手放さず、何とか仲間たちと声を掛け合って身構えている兵士たちを霧の狭間から観察し、飛鳥は彼らをどうすることが最良か思案していた。
 と、そこへ、空気を切り裂く鋭い音がして、
「……っ、と」
 わずかに身を捻った飛鳥の頬をかすめるように、鈍く光るナイフが通り過ぎて行く。
 同時に、明らかに手練れと判る何者かの気配、かすかな足音。
 それが霧の向こうから現れる前に、飛鳥は軽く跳躍して近くの木へ駆け上がり、気配を殺した。
「くそ、逃がしたか……」
 すぐ、低い舌打ちとともに背の高い青年が踏み込んで来る。
 年のころは二十代半ばから後半の、濃い黄金の髪に深紅の眼をした、凛々しい顔立ちの青年で、身につけている甲冑のデザインが先陣を切った壮年の男のそれとよく似ているから、恐らく側近か直属の部下なのだろう。
「グラナート様!」
「副騎士団長!」
「首尾はいかに……!」
「エルン様は無事行かれましたか!」
「曲者たちは、いずこへ……!?」
 駆け寄ってきた人々、男や青年とよく似たデザインの甲冑を着込んだ――飛鳥の撹乱にも恐慌をきたすことなく壮年の男の言葉に従った――十数名のうちの何人かが口にしたいくつかの言葉が、彼らがどういう存在であるかを飛鳥に教えてくれた。
(……妙な話だ)
 木の太い枝に身を隠しつつ胸中につぶやく。
(彼が副騎士団長だと言うなら、さっきの男は騎士団長だろう。……ハルノエンでは、誰よりも騎士がいくさの先陣を切るのか?)
 リィンクローヴァにおいては、騎士は警察官のような役割だったはずだ。
 無論有事の際に剣を取るのは同じだろうが、軍隊があり兵士がいて将軍が存在する中、何故最初に投入されてくるのが騎士たちなのだろう。
 ――否、答えは恐らく、その辺りにあるのだ。
 彼らが一様に怯え、慄きつつも、親しき隣人の国へ攻め入らなくてはならなかったような『答え』が。
「いっそ、面と向かって尋ねてみるか」
 飛鳥は薄く笑い、人差し指の界神晶に意識を凝らした。
 と、周囲にわだかまる濃霧が渦を巻き始め、
「な……なんだ……!?」
 グラナートと呼ばれた青年を初めとして、緊張に面を引き締めた騎士たちが次々に剣を抜く。
 彼らは確かに動揺していたし、畏怖や不安を感じていないわけではないようだったが、少なくとも、異変に怯えて剣を抜き、結果同胞を傷つけてしまった兵士たちのような、腰の引けた様子はなかった。
 要するに、ハルノエンにも、肝の据わった武人は数多く存在すると言うことだろう。
 飛鳥が彼らに尋ねてみる気になったのは、単純な興味と、巧く行けば戦局を有利に進められるかもしれないというある種の先見の明が働いたからだが、当然それが危険を伴うことも理解はしている。
 飛鳥はまだ、千人近い兵士たちを行動不能にして、先行した五千の軍隊に、新たな援軍と言う名の種を蒔かないようにしなくてはならないのだ。
「誰だ……出て来い……!」
 腹に力をこめた、低い声でグラナートが言い、腰を低く落として身構える。
 他の騎士たちがグラナートに倣う頃には、泡立てられたクリームのような濃霧は、彼らを半径十メートルの輪に閉じ込めようとでも言うように、ぐるぐると彼らの周囲を渦巻きながら停滞していた。
 要するに、回転する濃霧の檻で彼らを囲んだわけだ。
 右往左往しているハルノエン兵はこの状況には気づかないだろうし、気づいたところで濃霧の檻に惑わされてこの中にまでは入って来られない。そういう風に設定した。
 ハルノエン騎士たちはその異様さに眉をひそめつつも戦意を失わず、その場に集った十二人全員でお互いをカバーしながら周囲を油断なく伺っている。
 飛鳥はうっすらと笑って木から飛び降りた。
「――……ッ!?」
 唐突に目の前に立った黒ずくめの少年に、騎士たちが息を飲む。
 飛鳥はゆるゆると顔を上げ、真っ向から彼らを見据えて不敵に笑ってみせた。
 飛鳥と眼が合った騎士がまた息を飲み、
「まさか……黒の御使い……!」
 ほんのわずか、声を上ずらせる。
 グラナートの顔にも畏怖が浮かんだ。
「先ほどの部隊を率いていたのは、貴殿か」
 部隊も何も俺ひとりだ、と教えてやるほど親切でもなく、小さく肩を竦めるにとどめる。
「あんたたちの事情は知らん。知らんが……好き勝手させてやるわけにも行かん」
 飛鳥が外見を裏切る低い声で言い、一歩踏み出すと、騎士たちの間に緊張が走った。
 とはいえ、飛鳥はまだ剣を抜いてはいない。
 全力でこの場にいる全員を殺せばいいだけだと――それがリィンクローヴァにとって最良の方法だと言うのなら、多少無茶をしても飛鳥は成し遂げるだろう。初めて人を殺してからまだ一日しか経っていなくとも、心の奥底を畏れに慄かせようとも、そのために穢れるならば本望だと断じるだろう。
 しかし、恐らく、それは決して十全ではない。
 黄の御使いの手出しがハルノエンにあったとしたら、それはかなり根深いもののはずだし、その原因こそ飛鳥が取り除くべきものであって、原因によってここに差し向けられたに過ぎない彼らをここで全員殺してしまったら、その根について知ることなく終わってしまう。
 それでは、何の意味もない。
 メイデとアルディアは、ハルノエンを滅ぼして欲しいとは言わなかった。
 レーヴェリヒトも、遠い親戚であるハルノエン王女を気遣っていた。
 だとしたら、飛鳥にとってもっとも相応しい選択肢は、ゲミュートリヒを護りつつもハルノエンの現状を知り、その解決に尽くすことだろう。
(さて……どうするか)
 兵士が落としたらしい槍を拾い上げ、指の力だけで穂先を――つまり、刃の部分を――捻じ切って落とし、完全な棒にしてから手の中でくるりと回す。
「ま、正直、こっちの方が性には合ってる」
 神殿なる場所で、巫女姫エーヴァンジェリーンの手の者とやりあった時のことを思い起こしながら飛鳥が身構えると、
「我らには剣を抜くだけの価値もないと言うか!」
 騎士のひとりがさっと頬に朱をのぼらせた。
 飛鳥は内心で苦笑する。
「そんな大仰な理由じゃない」
 戦場で命のぶつけ合いをする中に価値もくそもない。
 飛鳥は敵を侮りはしないし、過小評価もしない。
 必要ならば全力で潰すし、その逆に全力で生かすことを考えもする。
 殺し破壊するだけでものごとが解決するなどということがあるわけもない。
 ――無論、必要とあらば厭いはしないが。
「まァ……いい、まずは力比べと行こうか」
 一本の、ただの棒を手に、飛鳥はゆったりと身構えた。
 今、この濃霧の檻に囲まれた騎士たちは、取り残されたハルノエン人たちにとっての要、陳腐な表現をするなら最後の砦だ。彼らを叩けば、ここに残されたハルノエン兵たちは、もはや自力で立ち直ることは出来なくなるだろう。
「まあ……そういうのでも、いい」
 どちらにせよリィンクローヴァにとって無益な話ではない、と胸中につぶやいて、飛鳥は地面を蹴った。
「な……速……ッ!?」
 驚愕の声が上がるのを意識の片隅に聞きつつ、騎士たちの懐へと飛び込んでいく。