『彼』が必ず現れると予測していたわけではなかった。
 しかし、現れてもおかしくないだろうとは思っていたし、現れるのならば相対すべきだろうと、そう思ってもいた。
 ハルノエンの兵士たちがリィンクローヴァに攻め込んできた――攻め込まざるを得なかった理由が、彼らが命を賭して護るべき者の安全が脅かされていることだとするならば、騎士たちが黙して語れなかったのは、派遣されてきた彼らを見張る存在がいたからだろう。
 そして、これまでに起きた諸々を鑑みれば、その『見張り』が黄の御使いであることはほぼ間違いない。
 ことが終わったあとも、すぐにゲミュートリヒ市へ向かわず、飛鳥がここに留まったのは、そんな理由からだった。
「……皆、殺したのか」
 だから、小鳥の囀りのような可憐な声が背後からしても、飛鳥は特に驚きもしなかった。
「それが何か?」
 飄々と言って振り返れば、十メートルばかり離れたそこ、樹齢百年を少し過ぎて見える木の傍らには、案の定、美姫とも見紛う少年が佇んでいた。目映いばかりの黄金の髪をした彼は、飛鳥たちの故郷では決してありえないような、磨き抜かれ自ら輝く純金のごとき眼で、飛鳥を見据えている。
 無駄な贅肉もないがしっかりした筋肉もない、骨格からして華奢な身体つきと、裾の長い優美な衣装からは、彼が武器を手にしての戦闘を得意とはしていないことを物語るが、いかし、飛鳥が少年から感じるのは、自分が抱えるそれと似通った、絶大なる神威だった。
 以前、大量の使い魔を送り込んで来たことや、飛鳥と圓東を一瞬のうちに遠方へ転移させたこと、実体ではないのに城の一角を吹き飛ばすような力を揮ったことを鑑みれば、彼が所謂魔法使いであることは明白だ。
 要するに、飛鳥とはまったく逆の戦い方を得意とする御使いなのだろう。
「どこまで僕の邪魔をすれば気が済む、虐殺者め」
 黄金の双眸をぎらりと掠める、憎悪を孕んだ敵意に、飛鳥は肩を竦める。
 今更他者の思惑に怯んでやれるほど飛鳥はお人好しではない。
「お前にそれを言われたら終(しま)いだろうな、黄の御使い。彼らとて、踊りたくてお前の掌で踊ったわけでもないだろうに」
 言って、地面を顎でしゃくってみせる。
「勝利できないからには殺してくれ、全員を残らず滅ぼしてくれと言われた。俺はリィンクローヴァを護らなくてはならないし、彼らの覚悟と献身を貴くも思うから、そうした。それだけのことだ」
 ほんの十数分前、激烈に降った神なる光は、森の、山の、大地の一切を損ねてはいなかったが、そこにいた千あまりの人々をすべて飲み込み、完膚なきまでに打ち砕いていた。
 残されているのはたかだか五十弱の、わずかに燃え残り、炭化した骸と――天から降った光は一体どれほどの衝撃だったのか、不自然なまでに押し潰されたこれも、指で触れただけでぼろぼろと崩れて、風に解けるように消えてゆく――、完全には灼き尽くされず残った、いくつもの甲冑の残骸、そして金属部分が真っ黒になり切れ味など望むべくもない刀剣の類いばかりだ。
 そこに音はなく、飛鳥と黄金の少年以外、生あるものの気配はしない。
 様々なものが焼き尽くされ焼け焦げた、胸が悪くなるような臭いは、風に運ばれて徐々に薄れ始めているとはいえ、事情を知らずとも重苦しい沈黙に呑まれてしまいそうな、一種異様な雰囲気が周囲には漂っている。
「お前はこれで満足なのか、黄の御使い。他者への思い、自分を犠牲にしてでもという願いを利用して踏みつけにして何かをなすことが、お前の望みだということなのか」
 それは結局のところ飛鳥自身の選択とも似通っていたから、別段、少年を責めよう、嘲ろうと思って言ったことではなかったが、彼にとっては痛烈な言葉だったのか、黄金の少年は一瞬、ほんの一瞬痛みを堪えるような表情をして――飛鳥には、何故か、そちらが彼の本来の顔のように思えた――、
「お前に……」
 風化して消えてゆく骸を昏(くら)い目で見つめ、怨嗟にも似た呟きを漏らす。
「お前に、何が判ると言うんだ」
「あぁ?」
「どことも知れぬ地より来たった蛮族に、この連綿と続く苦しみの何が判る」
 お定まりの、しかし何か深い苦悩の見える、どこか独白めいた――自分に言い聞かせようとでもするようなそれを、飛鳥は鼻で嗤った。
 少年にどんな事情があろうとも、彼が彼の責務を果たし、目的を達成しようとするように、飛鳥には飛鳥の約束があり、義務と願いがある。誠ある言葉で理解しあう努力もなく、力でもって押してくる輩に向ける気遣いなどない。
「知るか、そんなもん」
 いっそ清々しいほどきっぱりとした飛鳥の断絶に、少年は眦を吊り上げた。
 ボーンチャイナを髣髴とさせる白い頬がさっと紅潮する。
 と、そこへ、
「やはり何としてでも殺しておくべきでした……クゥ、退いてください、私が始末をつけます!」
 鋭い、激しい怒りを含んだ女声がして、少年の背後から激烈な殺意と戦意が膨れ上がり、
「……ああ、あんたも来たか」
 飛鳥が呟くと同時に、太い木の影から、ほんの二三日前に飛鳥を瀕死にまで追い込んだ女刺客が飛び出してきた。
 あの時の飛鳥の、ほぼ必死の――要するに、手加減もくそもない――反撃で、彼女もまた相当なダメージを受けていたはずだが、魔法で傷を癒すという選択肢がこの世界には存在するので、剣を手にした女刺客、シュラハテンダーメに傷も疲労も感じ取れずとも、別段奇妙には思わなかった。
「まあ、そうだろうとは思ったが」
 瞬時に間合いを詰めてきたシュラハテンダーメの、恐るべき一閃を紙一重でかわし、後方へ軽く跳んで――と言ってもその軽い跳躍一回で十メートル近い距離が開いたが、ともあれ間合いをはかりながら飛鳥はごちる。
 シュラハテンダーメは、己が一閃を軽く避けた飛鳥を憎々しげに睨むと、
「あなたを殺して、その骸をゲミュートリヒの戦場に投げ込みに行きましょう」
「ふん?」
「あなたの王はさぞかし絶望されるでしょうね、親代わりの領主夫妻を亡くしたばかりだそうですから。しかし心配は要りません、すぐに彼も殺してあげます。分不相応な友情ごっこは“死者の国”でどうぞ」
 寸分の隙もなく剣を構えた。
「あなたの王を殺し、リィンクローヴァを滅ぼして、私はクゥの願いを叶えます」
 夏の草原のような鮮やかな緑の双眸に、黄の御使いへの愛と信念、断固たる意志を覗かせて言うシュラハテンダーメの身体から、殺意と決意が陽炎のように立ち昇るのを飛鳥は見た。
 だが、飛鳥は冷たく嗤っただけだった。
「出来るものならやってみろ」
 声の端には、さすがに怒りが滲んだ。
 ――メイデとアルディアが死んだのは、誰かひとりの所為ではない。
 飛鳥は自分の無力を悔やむが、ふたりはきっと、飛鳥が自分を責めることを望んではいないだろう。ふたりはハルノエンすら責めてはいないだろう。それが判るから、飛鳥は彼らの死に誰かの責任を求めようとは思わない。
 しかし。
「正直、これは八つ当たりだ。そんなことは判り切ってるが――まァ、どうでもいい。あんたを真ッ平に伸ばして、せめてもの餞にする」
 とてもとても好きだった、今でも好きだと言える人たちの死の、直接の要因となった者に対する怒りを、飛鳥が抑え切れなかったのもまた事実だったし、それを否定するつもりもなかった。
「悔いろとも詫びろとも言わんし、それが欲しいとも思わん。――ただ、思い知らせてやる。お前たちが喧嘩を売ったのが誰だったのか、敵に回したのが何者なのかを、骨の髄まで」
 ふつふつと湧き上がってくるのは、怒りと同等の戦意、闘志だ。
 八つ当たりで黄の御使いとその従者を打ち倒すと言いながらも、飛鳥の中の打算的な部分は、このふたりに対する牽制の必要性を算段している。ここで飛鳥の、黒の御使いの力を見せ付けておくことで、過剰な干渉を防ごうという意識が働いている。
 要するに、結局のところ、飛鳥は冷静だった。
 自分がなすべきことは復讐でも虐殺でもなく、レーヴェリヒトとリィンクローヴァを護ることなのだと、根っこの部分から理解しているだけだった。
 ハルノエンの騎士や兵士たちを『殺した』ことさえ、その一環に過ぎないのだった。
「相変わらずですね、あなたは。ならば……その大語、粉々にしてあげましょう!」
 吼えたシュラハテンダーメが地面を蹴る。
「シュリ、気をつけろ、そいつ……たぶんもう『覚醒』を始めてる。何か、違う……!」
 警告を発する少年の、左手中指に、眩しいほどの黄金でありながら何故か沈鬱な暗闇としか表現出来ない色彩の、神威に満ちた指輪があることに飛鳥が気づくと同時に、下段からの一閃が来る。
 一直線に命を摘み取りに訪れる、白く鋭い死。
「やっぱり……速い、な」
 たぶん、自分の剣技では、まだ敵わないだろう。
 技量、速さ、重さ、そのどれを取っても賞賛に値する彼女の剣は、先ほど相対したハルノエン騎士たちの陣よりも恐ろしく、レーヴェリヒトやグローエンデなど、リィンクローヴァでも五本の指に入る剣豪がようやく互角といったところだろうか。
 そのくらい、シュラハテンダーメという女剣士の実力は凄まじいものだったが、
「どうしました、剣を抜くことすら出来ませんか? 無論、抜いたところであなたの不利が覆されるわけでもありませんが!」
「馬鹿を言え、剣に対抗するには剣しかないなんて誰が決めた?」
 残念ながらというか幸いにもというか、飛鳥は剣を持たない方が強い。
 更に言うなら、今の飛鳥は、正直、いくつもの反則技を持っている。
 当然、その反則技を使わないつもりもない。
「ふむ……」
 飛鳥はしばし、問答無用で急所を狙いに来る剣を避けつつ間合いを計っていたが、
「……試してみるか」
 呟くと同時に、シュラハテンダーメの懐目がけて飛び込んだ。
「小賢しい!」
 もちろんそれで彼女が動揺するはずもなく――むしろ好機とばかりに、わずかに身を引き、身体を捻った体勢から、恐るべき柔軟さで揮われた剣が飛鳥の咽喉元を狙う。
 並の剣士なら、回避する間もなく咽喉を貫かれて死んでいただろう。
 しかし、飛鳥はそれを、目を細めて見遣り、無造作に手を伸ばして、――剣の切っ先を、右手の親指と人差し指、中指の三本で、まるで花畑のただ中にいるような、いっそ優雅でさえある手つきで摘み取っていた。
 がちん、という鈍い手応え。
 アズリシュカなる、特殊な繊維で創られた武装は、鋭い切っ先にもびくともせず、飛鳥に容易く刃を受け止めさせた。
「な、」
「……まあ、こんなもんか」
 さすがに衝撃的だったらしく、シュラハテンダーメがほんの一瞬目を瞠った。飛鳥はそれを見逃さず、剣の切っ先を押さえたまま、シュラハテンダーメの剣を握る手を、力を込めた左掌で打ち据える。
「ッ!」
 シュラハテンダーメが息を詰めた瞬間、剣から手を離し、彼女に向かって一歩踏み込んで、
「……ッ」
 低い呼気とともに、回転を加えた激烈な蹴撃をお見舞いする。
 がっ、と、鈍い音がした。
 賞賛すべきは、危険を悟るやこの一瞬の間に自らも剣を手放し、両腕を交錯させて防御の体勢を取ったシュラハテンダーメだったが、今の飛鳥にとって、その程度の『遮蔽物』は何の用もなさない。
「っ、ぐ……っ!?」
 防御した腕ごと激烈な勢いで飛鳥に蹴り飛ばされ、驚愕の表情でシュラハテンダーメが吹っ飛ぶ。飛鳥はそれに追い縋り、地面に激突した彼女が飛び起きて体勢を整え終わるより速く、シュラハテンダーメの脇腹付近を蹴り上げた。
 みしり、という感覚が脚から伝わってきたから、どこか折れたかもしれない。
「!!」
 更に、びくりと仰け反ったシュラハテンダーメの腕を捕らえ、襟首を掴むと思い切り脚を払い、そのまま彼女の身体を背負うように投げ飛ばし、地面に叩きつける。
 重く鈍い地響きがして、苦悶の表情を浮かべたシュラハテンダーメがそれでも飛び起きようとするが、わずかに先んじた飛鳥は、彼女の鳩尾へとどめとばかりに拳を叩き込んだ。
 シュラハテンダーメの眼が大きく見開かれ、
「――……ッッ!!」
 がくがくと身体が痙攣し、次の瞬間には四肢が弛緩する。
 同時に、夏草の色をした眼が虚ろになった。
 さすがというか何と言うか、意識を失うまでは至っていないが、少なくとももう起き上がることは出来ないようだ。
「シュリ!」
 少年が悲壮な声でシュラハテンダーメを呼ぶ。
 この戦闘中、彼とてシュラハテンダーメを補助したかったようだが、あまりにも目まぐるしいふたりの動きに、大々的な攻撃魔法を撃つことも出来ず、拳を握り締めてそれを見ていることしか出来なかったのだった。
 ぐったりと横たわるシュラハテンダーメの傍らに立った飛鳥が、にやりと笑って少年を見据えると、彼は何ごとかを短く呟き、
「串刺しにされたくなければそれ以上シュリに近づくな、蛮族!」
 自分の周囲にいくつもの光る矢を浮かび上がらせて飛鳥を威嚇した。
 飛鳥は肩を竦める。
「出来るものならやってみろ」
 冷ややかに笑って言い放ち、少年目がけて走り出す。
 黄金の少年は苦いものを噛んだような表情で、
「――馬鹿が!」
 シンプルな罵倒を合図に光る矢を解き放った。
 弾丸の如くに飛んだそれが、正確無比に飛鳥を狙い撃つ。
 数は、全部で二十。見ただけで高濃度のエネルギーと判るそれらに貫かれれば、ただではすまないだろう。
 が。
「さて……どのくらい、通用するものなのか……?」
 飛鳥は冷静極まりない口調で光矢の位置と方向を把握し、拳を握った。
 そして、飛来するそれを、無造作に――次々と、拳で撃ち落とし、弾き飛ばし、跳躍して蹴り落とし、軽やかに避けると同時に叩き落して、あっという間に二十の光矢を消滅させてしまった。
「馬鹿な、……!? お前、その腕は……!」
 少年の、二重の驚愕の声を耳の端に聞きつつ、飛鳥はそのまま踏み込み、あっという間に少年の間合いへと入り込むと、黒く輝く腕を伸ばして彼の首を掴み、力尽くでその華奢な身体を地面へと引き倒した。
 ずいぶん軽い身体だ、と、飛鳥は思った。
「……ッ!」
 背中を強かに打ちつけたらしく、少年が息を詰め、顔を引き攣らせて呻く。
 しかし彼は、自分の痛みよりも、飛鳥の身に起きている『何か』の方が気にかかったようで、
「お前、それは……一体……!」
 首を掴まれ、地面に引き据えられたまま、大きく目を見開いて飛鳥を見上げている。
 それも無理はない。
「何と問われても、明確な答えを提示し得ないが」
 なぜなら、今の飛鳥の両腕は、畏怖すら感じる漆黒の、光沢ある闇を思わせる無数の――美しくも恐ろしい鱗に覆われ、爪はまるで肉食の蜥蜴や猛禽のような鋭さ凶悪さを帯びていたからだ。
 今の武装が親和性の高いものだからなのかもしれないが、衣服のあるなしは関係なかった。鱗は衣装をも覆い尽くして飛鳥の『腕』となっていたが、違和感もなく、何もかもが自然だ。
「まあ……使えるものは何でも使う、ってことだろ」
 目を細め、猛々しい笑みをたたえて少年を見下ろすと、飛鳥たちの故郷においてはこれこそが稀有とも言うべき黄金の双眸が、驚愕と畏怖と苦痛に揺らぎながらもまっすぐに彼を見る。
「……お前は一体何者なんだ、黒の御使い。否、黒の御使いが、そんな、禍々しい力を纏うわけが」
「俺に訊かれても困る」
 少年の独白をあっさりと切って捨て、飛鳥はようやく手を離すと、彼の傍らにしゃがみ込んだ。
「俺もひとつ尋ねるぞ」
「……?」
「お前をかたちどる苦悩は何だ、クヴァール・ゴルトアイト。如何なる黄金の誓いがお前を縛り、衝き動かしている?」
 その問いに、今度こそ、零れ落ちそうなほど黄金の眼が見開かれ、飛鳥が、ああ泣くのか、と思った瞬間、その場を強烈としか表現出来ない颶風が吹き抜けていった。
 もちろん飛鳥はその一瞬前に察して跳び退いているが、そうでなかったら吹き飛ばされているところだ。
 跳び退り、体勢を整えて見遣れば、先ほどの場所にクヴァールの姿はない。
「……あんたも大概非常識だな。あれだけ喰らって、まだそこまで動けるか」
 呆れた口調の飛鳥の眼は、夏草色の目をした女刺客を映し出している。
 当然ながら、颶風の主は彼女である。
「汚らしい、手に……クゥを、委ねていられるほど、……私は、寛容……では、あり、ません……!」
 ゼイゼイと咽喉を鳴らし、必死で呼吸を整え――疲労と苦痛をその美しい顔に色濃く浮かばせつつも、黄の御使い、クヴァールを抱く彼女の手が震えることはなかった。
「シュリ! 無茶なことを……」
「あなたを、護る……ために、我が身、を、……惜しむ、わけには……行かない、でしょう」
「それは……だけど……!」
 泣きそうな顔をするクヴァールに、心底愛しげな笑みを向け、深呼吸をひとつしてから、シュラハテンダーメは告げる。
「退きましょう、クゥ」
「シュリ?」
「ハルノエンの『仕掛け』は動き始めました。彼らがどうぶつかり合い、どう転んでくれても、私たちの益になります。もうこれ以上、私たちが手を出す必要も、ここに留まる理由もありません。――……何よりも」
 言葉を切ったシュラハテンダーメが、飛鳥を真っ向から見据え、
「私に猶予を、クゥ。あの忌々しい黒の御使いを斬って捨てるだけの力を得るための、時間を下さい」
 明らかに本気の殺意を滲ませてシュラハテンダーメが言う。
 鱗を『仕舞って』いた飛鳥は、やっぱり斬る気なのかよ、と猪突猛進型女刺客に呆れたが、口には出さず、軽く肩を竦めるに留めた。
 女剣士の腕に抱きかかえられながら、彼女と、飛鳥とを交互に見遣ったあと、クヴァールはわずかに瞑目し、それから小さく頷いた。シュラハテンダーメの腕から降りると、咽喉をさすり、少し咳き込んで、飛鳥をちらりと見遣る。
「それで……まだ、『覚醒』の半ばか。末恐ろしいと言うべきなのか、いっそ憐れだと言うべきなのか、僕は黒と黄の残酷な差異を思い知らざるを得ない……けど、僕にも退けない理由はある。――……また会おう、出会えば出会っただけ、殺し合うしかないにしても」
 小鳥の囀りのような、可憐でやさしげな声で、決して交わることのない道と、敵意と断絶とを高らかに告げ、クヴァールは左手を空に掲げた。中指に鎮座した指輪が、暗い森の中でもそれと判るほどの光を放ち、周囲を照らす。
 光に包み込まれたふたりの姿が、ゆらり、と揺らめいてから消えるのを見送って、
「好きにしてくれ。俺はレイを、リィンクローヴァを護る。阻むものは粉々にする。それだけのことだ」
 飛鳥もまた、同じような断絶でもって返した。
 最後の瞬間、ほんの少し交わった視線の先で、クヴァールが泣きそうな顔をしていたような気がするが、定かではないし、どうでもいい。
「……さて」
 静寂を取り戻した森の中、周囲をざっと見渡してから、飛鳥は空を見上げる。
「なら……俺も、行くとしようか。出来れば、あいつらの『思う壺』を叩き壊してやりたいしな」
 恐らくハルノエン軍は、とっくの昔にゲミュートリヒ市に辿り着いているだろう。
 もう、戦いは始まっているだろう。
 すでに命を落としたものも、いるかもしれない。
 戦いの行方はまだ決まっていないが、飛鳥がなすべきことは明白だ。
 空を見上げたままの飛鳥の身体が、ざわざわぎしぎしと騒ぎ始める。
 飛鳥の身体が、光り輝く黒に覆われてゆく。
「……お前たちの思い通りには、させない」
 そう、どこに正しさがあり、どんな真実があるのだとしても。