少し前に夜が来た。
 いつものゲミュートリヒならば、この時間帯ともなれば穏やかな静寂が落ちはじめる頃だったが、さすがに今日はそうも行かないようだ。
 遠くの方から、剣戟の響きと喊声、大地を踏み鳴らす音が聞こえてくる。
 踏み鳴らされる大地の震動がここまで伝わって来る。
 戦場となっている、ゲミュートリヒ市の正面からはずいぶん離れているはずなのに、ここまで松明の熱気や薪の焦げる匂い、血の臭気、断末魔の叫び声までが風に乗って届くような気がして、圓東鏡介は思わず手を止め、周囲を見遣った。
 光霊石の静謐な光に照らされたこの辺りに戦争の激しさ、荒々しさは感じられない。それなのに、ぞくり、と背筋が寒くなったのは、心配のし過ぎなのか、ただの疲れか。
「どうかしたのか、キースのアニキ」
 鏡介と一緒に物資の運搬や退路の確保に奔走していた、“飛鳥の愉快な下僕たち”のひとり、シュメルツが声をかけてくる。
 初対面は碌でもなかった彼と仲間たちだが、飛鳥に弟子入りならぬ下僕入りが許されて以降、その時に鏡介が少し口添えをしたのもあってか――更に言うなら、下僕入り後ツァールトハイトに性根を叩き直されたのもあってか――お互いに打ち解け、彼らも今ではキースのアニキなどと呼んで親切にしてくれるし、何くれとなく手伝いをしてくれる。
 実は鏡介の方がシュメルツよりふたつか三つは年下なのだが、自分より三つ年下の飛鳥をアニキと呼んで何の疑問も持っていない鏡介なので、そこはあまり気にはしていない。
「や、何でもないよ、うん」
「そうか? 顔色がよくねぇぞ」
「まあ……そりゃ、そうだろうけど。それって皆じゃないかな? むしろおれとしてはここでイキイキツヤツヤしちゃってる人の方が驚きだよ」
「そうか? アスカも王様も普通だったぞ?」
「うーん、あの人たちとおれを一緒にしないでほしいかなー……」
 例えがあまりにもイレギュラーすぎる、とばかりに曖昧な笑みを浮かべた鏡介が首を傾げて言うと、シュメルツはかすかに笑って傍らの大きな箱を軽々と持ち上げた。
「まあいい、やるべきことをやっちまおう。これはどこに運べばいい?」
「えーとね、ちょっと待ってよ、アニキのメモはどこに……ああ、あった。ん、それは、向こうの、裏門の傍にある台車に載せといてもらえるかな」
「判った。そういや、避難所の連中はどうしてる?」
「皆落ち着いてる……ように見えたけどな。まあ、どっちにしてもお屋敷の人たちが詰めてるし、大丈夫だと思う」
 言って、石造りの神殿を振り向き、石壁のごくごく目立たない片隅に巧くカムフラージュされた避難所の扉を見遣る。中を覗いてきたのは三十分ほど前のことだが、恐らく大きな変化はないだろう。
 何代も前のゲミュートリヒ市領主によってこしらえられた、神殿地下の避難所では、現在、避難出来なかった、もしくは間に合わなかった非戦闘員およそ一万二千人が息を潜めている。
 女性、子ども、年寄りがほとんどだが、中には病人も怪我人もいるので、万が一ハルノエン軍が市内へ攻め入り、この避難所が見つかってしまった場合、彼らを速やかに逃がすことは困難そうだった。
「まあ……そうはならないだろうけど」
 信頼半分、希望半分で呟く。
 ――戦争などと言われても、鏡介には今ひとつぴんとは来ないのだ。
 彼らの故郷たる世界で、世界中を引っ繰り返して行われた戦争はもう半世紀以上経って久しく、日本人の大半は、鏡介と同じく、自ら武器を取って戦うなどという事柄とは無縁だろう。
 極道という世界に身を置いていた関係上、命の危機を感じたことが皆無というわけでもなかったが、少なくとも鏡介は、意図的に武器を持って誰かを殺さなくてはならないという環境に陥ったことはなかった。
「そう考えると、恵まれてたんだなあ、おれって」
 彼の、二十年と少しの人生における大半は、痛みと哀しみと絶望に彩られていたが、それでも、その大半は命を失うとか、奪われるといった不安、恐怖とは無縁だった。
 その、奇妙な、浮遊感に似た非現実味が、鏡介を落ち着かなくさせている。
 ゲミュートリヒの正面で戦う人々が敗北し、側面の防壁が破られ、ハルノエン軍が雪崩れ込んで来るようなことがあれば、鏡介もシュメルツたちも無事ではいられないだろう。
 万が一ハルノエン軍が攻め込んで来るとして、降伏という選択肢が許されるのか、また、親しい人たちを全員喪ってなお、降伏してまで生きる意味があるのか、そんなことすら判らない。
 それが現実として目前に突きつけられているのに、薄ぼんやりとした恐ればかりで、危機感に結びつかないこともまた、寒々しく、怖ろしい。
 もちろん、ほとんど刷り込みのように、アニキや王様がいるから大丈夫だろう、きっとこの戦いに勝利して、何もかもいい方向に進むんだろう、と思っている自分がいるのも事実ではあるのだが。
「まあ……考えたって仕方ないんだけど。――ん、この辺の荷物は全部運べたかな。あとは……」
 鏡介とシュメルツたち、“黒の御使いの眷族と下僕たち”は、避難所周辺に大きな台車や板、木材を積み重ねて即席のバリケードをつくり、避難所に立てこもる場合の水と食糧、医療品の類いを内部に運び終えて、避難所から――ゲミュートリヒから他都市へ脱出する際の段取りを整えていた。
 鏡介もシュメルツたちも、飛鳥を初めとした親しい人々が戦っているのに自分たちだけ避難所には入れない、と思っていたからだが、たぶん、どちらにせよ、こんな状態で避難したところで、何も手につかずかえって内部の統率者たちに迷惑をかけるだけだろう。
 手を、身体を動かしていたくて、こうして外で作業に精を出しているものの、恐れと不安と得体の知れない寒々しさは常に鏡介に付きまとい、そのくせ妙な楽観的思考も抜けず、彼に時折手を止めさせ、曖昧な困惑の笑みを浮かべさせるのだった。
 と、そこへ物資の運搬を終えたらしいシュメルツが戻ってきて、鏡介は少しホッとした。
 当然、ひとりよりふたりの方が心強いに決まっている。
「終わったぜ」
「ありがとう、お疲れさん。他の皆は?」
「脱出口で物資の整理をしてる。終わったら避難所に行くだろ、たぶん。キースのアニキ、あんたもそろそろ中に入ったらどうだ?」
「んー……シュメルツは?」
「あ? ああ、俺はここにいるわ。アスカには大人しく避難してろって言われたけどな、あの人たちが命をかけて戦ってんのに、自分だけ安全なとこにいるなんて嫌だからな。いざとなったら俺も向こうに行って戦いに加わるぜ。……まあ、アスカには滅茶苦茶怒られるだろうけどな」
「おれも同じような気持ちかな。戦うのは無理だけどさ、おれも何かしたいじゃん」
「ああ」
 にやりと笑って頷いたあと、鏡介の表情に気づいたのか、
「大丈夫だって、心配すんなよ、キースのアニキ。アスカと王様が絶対に何とかしてくれるさ」
 いっそ晴れやかですらある様子で笑い、潔く言い切ったシュメルツに背中をばしばしと叩かれ、鏡介は曖昧な、微妙な笑い顔になって頷く。
 蛇を思わせる目つきの彼だが、邪気なく笑うと思いのほか愛嬌があるのだということに、そして彼が身の内に入ったものにはとても親切な男なのだということに、鏡介は親しくなって初めて知った。
 それをとてつもなく貴く感じ、この人たちの誰も死なずにすめばいい、などと思うのだ。
「シュメルツは楽天的だね。おれは……やっぱり、怖いな。何が怖いのか、実は自分でもよく判ってないんだけど」
「そうか?」
「うん。や、アニキたちを信じてないってわけじゃないんだけどね、戦争とかさ、一般人を巻き込むような命のやり取りって、初めてのことだから」
「ふーん……」
 鏡介の言葉に、シュメルツが不思議そうな顔をする。
「でもよ、アスカだぜ?」
「え?」
「あの戦いの先頭に立ってんのが、さ。俺たちみてーなクズでも全員無事に帰す義務があるって言うような男が、あんたや街の連中を見捨てるはずも、助けねぇはずもねえだろ」
 その愚直で朴訥な言葉に、鏡介は目を見開いた。
「正直、俺たちなんかはさ、いつ死んでもおかしくねぇだろって思ってんだ。アスカはそんなんじゃねぇって言ってくれたけど、おれたちはクズだからな。一番に死ぬんだろうって思うんだよ」
「や、そんなこと。大体、シュメルツたちは強いじゃないか」
「はは、あんたも大概お人好しでいいやつだよな、キースのアニキ。俺たちにされたことをもう忘れたのかよ?」
「えー、忘れてないけど、もう終わったことだし。それに、今はシュメルツ、親切じゃん」
「そういうところがお人好しなんだよ。まあ、だからさ、俺たちですら助けようとしてくれるあの人が、あんたみてぇな連中を放っとくはずがねぇってことさ。それだけの力がアスカにはあるし、それだけの覚悟をしてるのがあの人だってこと、俺はまだアスカとの付き合いは短いけど、それだけは確信を持って言えるぜ?」
 妄信のような、確信のような、刷り込みのような、信頼のような、プラスもマイナスも全部積み重ねたシュメルツの言葉に、鏡介は思わず笑った。
「なんだよ」
「や、シュメルツも立派なアニキ馬鹿だなあと思って」
「そんなの当然じゃねぇか。あんたもだろ?」
「……まあ、たぶんね」
 肩を竦めると、気持ちが、身体が少し軽くなった。
 ――自分に出来ることなどたかが知れている。
 しかし、そのわずかな何かが、誰かを救うことはあるだろう。
 飛鳥やレーヴェリヒトが縦横無尽に戦場を駆け巡るような活躍は出来ずとも、鏡介には鏡介の戦う場所があるだろう。
「確かに、アニキがおれたちの期待を裏切るなんてこと、あるはずないもんな」
「だろ。そんなに気になるんなら、いっそあの人が戻って来るか来ねぇか賭けでもするか? って言いてぇとこだが」
「……最初から賭けになんないよね、それ」
「おう。正直、そんな判り切ったことで賭けなんかしたってアスカにばれたら逆さ吊りの刑にされそうだ」
 おどけた仕草でシュメルツが肩を竦め、鏡介は笑った。
「ん、そだね……ありがとう、ちょっと気持ちが楽になったよ。おれはおれで、出来ることをやって、皆が戻ってくるのを待とう」
「だな。まあ、礼を言われるようなことでもねぇけどな」
 と、そこへ、ふたりを呼ぶ声がして、“愉快な下僕たち”三人が手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
 シュメルツが楽しそうに笑う。
「なんだ、あいつらも結局居残り組か」
「みたいだね」
 手を振りながら走り寄ってくる彼らに悲壮感はない。
 ここに残ることが当然のような、あっけらかんとした表情をしている。
「まあ……うん、そんな気はしてたんだけど」
 言って、鏡介はバリケードの隅にこっそり隠してあった瓶と木製のコップを取り出した。
「ん、なんだ、それ」
「や、景気づけと疲労回復にって思って持って来たんだけど、ちょうどいいから皆で飲もう」
 言いつつ、コップに中の液体を注いでいく。
「ん? 葡萄酒……じゃ、ねぇな?」
「半分はそう。そこに、果物を切ったのとか、果汁とかシロップとか、そういうのを入れて、よーく冷やしてあるんだー。甘いけど、すっきりしてるし、飲むと元気が出るよ」
「ふーん……あの幻和灯とか人型とか見てると思うんだけど、ホント器用だな、あんた」
「え、あー……まあね」
 なみなみと液体――鏡介たちの故郷ではそれをサングリアと呼ぶこともある――の入ったコップを手渡しつつ、鏡介は空を見上げる。
 何故見上げたのか、実を言うと、自分でもよく判らない。
「アニキが運命を動かす力を、金村のアニキが精霊の寵を得たように、おれが与えられたギフトは『ものをつくる』ことだから。おれ自身の根本でもある、『ものをつくる』ことで、アニキが思い描く世界をつくる手助けをするのが、おれの課された使命だから」
「……何だって?」
 ほぼ無意識に、溢れ出る言葉を音にして吐き出していた鏡介だったが、訝しげにシュメルツに問い返され、首を傾げた。
「ん? おれ、今何か言った?」
「何か言ってたとは思うが、小難しかったからよく判らねぇ。熱でも出たのか、キースのアニキ」
「え、それは困るな。こんな忙しい時に」
「どれ……ああ、まあ大丈夫だろ。ま、心配すんな、いざって時は俺たちがあんたのことを護ってやるよ」
 腕を伸ばしたシュメルツが鏡介の額に手を伸ばし、体温を確かめてくれる。手の、まるく穏やかな温度に、幼い日の母親や、兄貴分の勇仁、そして今は亡き篠崎組の組長を思い出して、鏡介はまた少し笑った。
「ん、ありがとー。まあ……そうだね、きっと、大丈夫だ」
 薄ら寒い恐怖はずいぶんやわらいでいた。
 ――死への恐れを、強い確信が凌駕している。
「皆、おつかれー。よかったらこれ飲んで疲労回復してよ。まだやることはあると思うからさ」
 先行きはまだ判らないけれど、今はまず自分のつとめを果たそう、と、鏡介はひとまず、下僕のみなさんに赤くて冷たい液体を振る舞ったのだった。