3.麗しきリィンクローヴァ
――時間は少しさかのぼる。
狂気じみた重苦しい静寂の中、爆発的な恐慌が訪れるより早く動いたのは、針の怪物が獲物に狙いを定めたことに気づいた飛鳥だった。怪物は、蛇に睨まれた蛙よろしく、身動きすら出来ずにいる男たちのひとりを見据えて、ひとつしかない目をすっと細めたのだ。
そこに愉悦を感じ取って、飛鳥は舌打ちとともに匕首を抜き放つ。
あの巨体を相手にこの程度の武器しかないというのは何とも心もとなかったが、この際贅沢は言っていられない。
むしろ、今のこの場にどんなに立派で強力な武器があったところで、結局のところあの怪物と対峙し得るのは精神の強さだけだろう。
飛鳥とて心に恐怖がないわけでは決してなかったが、目の前にある危機に絶望し、拳を振り上げることすら出来ず最期を迎えるなどという情けないことは、強固に築き上げられた彼の信念とプライドが許さない。自分の生まれて来た意味、たったひとつのそれが、無意味になってしまうからだ。
飛鳥の行動に遅れること数瞬で、腹の紋章をびくびくと気味悪く蠕動させながら針の怪物が動く。
「くそっ、ちっとは動け、図体だけのうすのろども!」
口汚い罵声とともに男の首筋を掴み、その決して小さくない身体を一気に引きずり倒す。
野太い、聞き苦しい悲鳴を上げて男が引っ繰り返ると同時に、その数瞬前まで彼の頭部があった辺りをあの針がかすめていった。鈍い銀光を放ちながら飛んだそれは、鮮やかな緑の草地に突き刺さり、その周囲の草を黒々と枯れ果てさせてから消えた。
「逃げるか戦うか自分で決めろ、生き残りたいなら!」
飛鳥は肚の底からの意志を込めて怒鳴ると、男たちが雷に打たれたように飛び上がったのを見届けて、的を外したことが腹立たしいのか低い唸り声を上げている針の怪物へと向かって行った。
逆方向では、目玉の怪物が巨体をのたくらせるようにして徐々に距離を詰めてきている。
ぐずぐずしてはいられない。
「危ない、無茶だよアニキ!」
悲鳴じみた圓東の声を耳の端っこに聞きつつ、深々と呼吸をして怪物を見据える。獲物が自分から飛び込んできたとでも都合よく解釈したのだろう、血色の単眼を愉悦のかたちに細めた怪物が、飛鳥を捕えようと長い大きな手を伸ばす。サイズのわりに、思いのほか俊敏な動きだった。
「ご期待に添えなくて申し訳ないが、な!」
その、人間と比べると三倍以上の面積を持ち、鈍い銀の針が突き出した――どこか檻にも似た、そこに囚われれば逃れることは不可能であろう捕食者そのものの手は、しかし飛鳥を捕まえることは出来なかった。飛鳥がその動きを予測し、わずかに身体をひねってかわしてしまったからだ。
それどころか飛鳥は、巨大な手をかわすや肚にぐっと力を込め、匕首をきつく握り直すと、
「ふ……ッ!」
鋭い呼気とともにその刃を怪物の左手首へと振り下ろした。
みちり、という肉を断つ嫌な手応えがあって、次に刃が骨に当たる硬い感触が来る。それから、真っ赤な、生臭い血が勢いよく噴き出した。
それは大きさと硬度こそ多少違っていたが、生き物の――人間のもの以外にはありえない感覚だった。姿かたちは違えど、これが確かにある種の人間なのだということをはっきりと理解する。
生きるためとはいえ同属など斬りたいはずもなく、飛鳥はフラッシュバックのように、両親が死んだ七年前のことを思い出していた。
『奴ら』に指紋を渡すなという、両親のいまわの際の言葉に従って、十歳の飛鳥はふたりの両手首を切断し、追っ手が遺体を捜している間に、必死で熾した火でかたちがなくなるまで焼いたのだ。
思えばそれが、飛鳥が生まれて初めてヒトの肉を斬った日だった。
過去であり感傷でもある記憶にほんの一瞬心を奪われていた飛鳥だったが、匕首を握り締めた彼の手は意識とは裏腹の正確さ強靭さで動き、怪物の太く巨大な左手首を完全に切り落としていた。
ぼそり、という間抜けな音を立てて、緑あふれる野に手首が落ちる。ぼたぼたと草むらに血が滴ったかと思うと、何か毒性でもあるのかあっという間に緑を萎れさせてしまった。
痛覚も存在するのか、手首を切り落とされた怪物が大きく仰け反った。凶悪な歯に彩られた口を開き、絶叫を上げる。
「ぎいぃっ、ぎぎっ、ぐぎぎぎぎぎっっ!!」
魂を震撼させるほどの、怖気をそそる絶叫だった。
逃げ惑うというのが相応しい状態で右往左往していた男たちが、びくりと身体を竦ませて顔を引き攣らせ、絶え難いと言わんばかりに耳を押さえる。圓東は情けなくも悲鳴を上げて金村にしがみつき、金村は顔を蒼白にしつつもぐっと歯を食いしばって恐怖を堪えている様子だった。
しかし飛鳥はその声には頓着することなく、明らかに痛みに怯んだ風情を見せている怪物の背後に素早く回り込むと、鍼灸でもここまで刺すまいというほどに突き刺さった太い針を掴み、それに足をかけた。梯子でも上がるような感覚で、丈夫な針を伝って怪物の身体にするりとよじ登る。
違和感があるのだろう、怪物は身体を揺すって飛鳥を振り落とそうとしたが、非常識極まりない握力を持つ飛鳥にとって、しがみつくなどという行為は実に簡単なことだった。ゆさゆさという縦横の揺れの中、ほとんど腕の力だけで、軽々と怪物を登って行く。
肩の辺りまで来たところで、飛鳥は握り締めていた匕首を逆手に持ち替えると、その切っ先を首筋へ――恐らく頚動脈であろうと推測される位置に――突き立てた。全神経を集中させ、刃を硬い肉の中にめり込ませる。
ぶつり、という嫌な手応えに、自分が命を奪おうとしているのだということを自覚する。
思わず謝罪の言葉が漏れた。届くはずもないと知りながらも。
「……すまないな。お前にすべての罪があるなんて言えるはずもないが、こっちもまだ死にたくはないんだ」
人間と同属ならば急所も同じ位置にあるだろう、首筋は鍛えようがないだろうという飛鳥の予想は当たっていた。
「ぐっ……ぐぎっ、ぐががががっ!」
怪物の絶叫とともに生臭い血が噴き出し、飛鳥の全身を濡らした。
血の持つ毒素なのだろうか、血の触れた肌が引き攣れるような熱さと痛みとを訴える。
ぬらぬらとした生温かい体液に身体を染められて、皮膚を灼かれても表情ひとつ変えず、飛鳥が傷口を斬り開くようにして刃を引き抜くと、間欠泉のごとき勢いで更に血が噴き出し、周囲に降り注いで植物を枯らした。
怪物の身体がぐらぐらと揺れ、動きが緩慢になるのと同時に、徐々に悲鳴がか細くなっていく。
飛鳥は、斬り裂かれた頚動脈が噴きこぼす血の量が徐々に少なくなり、勢いが弱くなってきていることを確認すると、足場代わりの針を蹴って地面へと降り立った。無意味と知りつつ、血塗れの手で血塗れの顔を拭う。
匕首を握り締めた手が硬く強張り、柄から手をはがすことが出来ない。
――これが同属殺しだということを、魂の根っこが本能のように理解している。
「……くそ」
そうと意識して他者の命を奪う行為の、何と意志を萎えさせることだろうか。胸の奥に広がる罪悪感は、彼らもまた死にたくはないのだという、生き物として当然の思いに帰結するものだろう。
食い食われるが生き物の本質であり、お互いにどうしようもなく殺しあうしかないのだと、そう心に念じ続けても、どんな嘲笑めいた化け物が相手であろうとも、苦い感情が消せるわけでもないのだ。
自分たちがほんの少し前までいた日本という国の平和さ、少なくともこんな胸糞の悪い戦いを必要とはしない世界そのものに、飛鳥は懐かしさや憧憬さえ覚える。
そんな場合ではないのだ、と意識を簡単に切り替えてしまえるほど自分が強くないのだということを、飛鳥は痛いほどに実感していた。
――実感していたがゆえに、彼の行動は少し鈍った。
罪という名の穢れまでは拭えないのだと知りながら、そう創られながらも幸い今まで経験して来なかった、生まれて初めてのその感覚に唇を引き結び、再度血塗れの拳で顔を拭った飛鳥の耳に、
「ぎゃあああぁッ!!」
「うわッ、うわわっ、あああああっ!」
「たすけてっ……たすけてくれっ、いやだ死にたくないっっ!」
耐え難い苦痛と絶望を含んだいくつもの絶叫が届く。
ハッとなった飛鳥が声のした方向を見やると、そこには目玉の怪物がいた。予想外の、到達の早さだった。
その目玉の怪物に、片手にひとりずつ、ふたりの男が身体を掴み上げられ、文字通り頭から貪り食われていた。
凶悪な、ナイフのような歯が、獲物が二体ともばたばたと暴れていることなど意にも介さず、綿菓子でも食うかのように服地ごと肉を喰いちぎってゆく。最初に首を喰いちぎられた男の身体は、思考する部分が失われた一瞬びくりと大きく跳ね、あとはびくびくと生理的な痙攣を起こしながら怪物の口へ消えて行った。目玉の怪物がすべてを喰らい終わるまで三分もかからなかった。
そして男の身体が怪物の中へすべて消えるやいなや、怪物の胸の辺りに眼球がふたつ増えた。唐突に、他の目玉を押し退けるような風情で姿を見せたそれらは、しばらくの間、漆黒の色を宿して瞬きを繰り返していたが、ほんの十秒もすると周囲と同じく濁った血の色に変わってしまった。
百や二百ではきかないだろう数の、濁った血色の眼球をすべて愉悦のかたちにして、獲物たちの恐怖を楽しむように怪物が笑う。顔の中央の、ひときわ大きな眼球が、次の獲物を物色するかのようにきょろきょろと動く。
「ち、畜生……っ!」
あの夜改造拳銃を手にして飛鳥を激怒させた男が、恐怖と絶望に震える声で吐き捨て、拳銃でも金村を殺せなかったときの用心だったのだろう、シャツの下から匕首を引き抜いた。
「くそ……くそっ、死ね、死にやがれっ!」
彼は目を血走らせ、口から泡を吹きながら喚くと、匕首を両手で構えて怪物へと突っ込んで行った。
「馬鹿やろ、……ッ!?」
自暴自棄としか思えない、獲物の口に自ら飛び込むも同然の行為に、恐怖のあまり錯乱しているのだと知って飛鳥が男を引き止めるために走り出そうとした瞬間、凄まじい衝撃が左肩を襲った。彼の罵声が途中で途切れてしまったのはそのためだ。
衝撃のあまり前後によろめき、思わず匕首を取り落としてその場に膝をつく。激痛を訴える己の肩に視線をやると、そこから太い銀色の針が生えていた。
「――――ッ!!」
驚愕とも恐怖とも取れぬ感情の嵐が思考を駆け巡る。
「雪城!」
「あ、アニキっ!」
意識のどこか遠くでふたりの声を聞きながら針の怪物を見遣ると、萎れたきのこのような姿でうずくまった怪物は、血の気の失せた上半身を地面に折り曲げるような状態で、長い手だけを飛鳥に向けていた。あの、残った右手の平から針が打ち出されたのだろう。
もはや死の寸前にいる怪物もまた、地面に伏した顔をゆっくりと飛鳥に向け、ひとつしかない目で飛鳥を見遣ると、その目を笑みのかたちにしてみせた。ざまぁみろ、とでも言わんばかりに。そしてそのまま、濁った血色の目を閉じ、完全に動かなくなる。
掲げられていた手が力を失って地面に落ち、鈍い地響きを立てて身体が倒れ込む。
「くそ……置き土産とは、やるじゃないか……!」
飛鳥はそうこぼすと歯を食いしばり、激痛にかすれそうになる意志を叱咤する。ここで戦意を喪失し、意識を手放せば、死という終焉は無慈悲に――情け容赦なく飛鳥を訪れるだけだろう。
――こんな半端な、なにひとつとして判っていない、なにひとつとして成し遂げていない状態で死にたくはなかった。
しかしすべてを諦めてしまいたくなるほどの、神経を冒すかのような激痛が、肩を中心にして根を張って行く。傷みはじわじわと、肩から首筋、胸へと増殖していこうとしていた。
怪物は死んだが、針の力は死んでいないのだろう。
完全に息の根を止めたと確認したわけでもないのに、別のことに心を奪われるなどという愚行を犯した、その結果がこれだ。
飛鳥は、自分の未熟さ加減を嘲笑いたくなった。
「大丈夫か、雪城」
「アニキっ、しっかり!」
走り寄って来たふたりが、飛鳥を支えて立たせる。
大丈夫ならここまで萎れるもんか、と悪態をつこうとした飛鳥だったが、舌が強張って巧く言葉にならない。
顔をしかめた飛鳥が内心で己を毒づいたとき、
ぼきんっ
という鈍い音が響いた。
同時に、いくつもの、凄まじい恐怖を含んだ悲鳴と、血の滴る音がする。
音のした方向を見遣った圓東がひっと息を呑んだかと思うと、次の瞬間地面にうずくまり、激しく嘔吐した。涙と涎と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、何度も何度もえずき、咳き込む。もういやだ、という嗚咽めいた声が力なくこぼれた。
何となく予想のついていた飛鳥が、激痛に飛びそうになる意識に鞭打って首を動かすと、下腹部から匕首を生やした目玉の怪物が、匕首の持ち主であった男の首と足とを掴み、彼の身体を腹の辺りから引き千切っていた。
男の顔は、これ以上ないほどの苦痛と恐怖に引き攣ったままで固まっていた。引き千切れた臓物が汚らしい襤褸布のようにこぼれ、陽光を受けてぬらぬらと光っている。
酸鼻極まりない光景だった。