怪物はまたあの気味の悪い声で笑うと男の上半身を口元へ運び、ばりばりと音を立てて彼の身体を咀嚼していった。最初のふたりと同じく、その肉体が完全に怪物の腹に消えるまで、ほんのわずかな時間しかかからなかった。
そして、やはり最初のときと同じく、怪物の胸の辺りに新しい眼球が生まれた。漆黒の、救いを求めるかのように見開かれたそれは、初めのうちこそ恐怖や絶望といった色彩をそこに載せていたが、やがて周囲と同じく愉悦の色に染まり、不吉な血色となって同化していった。
「けけけっ、くけ、くくけけけっ」
ひどく満足げに、先ほどとは違った色合いの声で高らかに笑った怪物の、その全身をくまなく覆う眼球が、不意に激しく震え始めた。不気味で不可解な振動だった。
仲間の無残な死を目の当たりにし、腰を抜かしてしまっている男たちは、呆けたような表情でぽかんとそれを見上げていた。
そこに限りない不吉を感じた飛鳥は、早く逃げろとかそこから離れろと怒鳴りたかったのだが、ますますひどくなる痛みにそれを阻まれ、言葉は声としてなることはなかった。
(くそ……っ!)
胸をせり上がって来る危機感に飛鳥が歯噛みしたとき、唐突にその振動が止まる。
閃くものがあって、飛鳥は咄嗟に圓東の背中を蹴りつけて横転させると、金村の身体を地面に引きずり倒し、自分もまた同じく草むらに伏せた。身動きをしたことで、身体がばらばらになるような痛みが全身を襲ったが、この際文句は言っていられない。
呻きながら、出来るだけ身体を低くする。
ばうん!
飛鳥の勘は彼を裏切ることなく働き、三人が伏せると同時に、怪物の身体から目玉が弾け飛ぶ。
それは弾丸のような恐ろしい勢いで飛び、怪物のすぐ傍で呆然と座り込んでいた男たちの身体を次々と――易々と貫いた。
あの至近距離ではひとたまりもなかっただろう。悲鳴と血しぶきが上がり、身体を穴だらけにされた三人がそのまま絶命したのが見て取れた。残った三人もあちこちにひどい傷を負い、血を吐きながらのたうちまわっている。
あっという間に目玉を再生させ、目玉の炸裂で腹に深々と刺さっていた匕首をなきものにしてしまった怪物は、げっげっと声を上げて笑い、男たちの骸を拾い上げると、どこまでも果てのない食欲で次々に平らげていった。どこまで食えば気が済むのか見当もつかなかった。
なすすべもなく失われていく幾つもの命を、飛鳥は歯噛みしながら見過ごすしかない。
徐々に身体が冷たくなってゆく、そのことを理解しつつも、このままあの怪物に頭から喰らわれてやるつもりはなかった。
ますます数を増やしてゆく怪物の目玉が、まだ息のある残り三人を獲物と見定めたのを見計らい、飛鳥は気力を振り絞って起き上がった。彼を制止しようとする金村を完全に無視して、肩に突き刺さった針へ手をかけ、きつく握り締める。
そして、深呼吸をひとつすると、渾身の力を込めてそれを引き抜いた。
飛鳥の身体と同化し始めていたのだろう、びきびきびきっ、という、肉を無理やり引き剥がすような音がして、痛みというより閃光のような感覚が脳味噌を貫く。
すぐに灼熱のごとき痛みが肩に弾け、血が噴き出すのが判ったが、
「うぅう……っ」
低く呻きながら飛鳥は行動に移った。痛みや血に頓着している余裕はなかった。むしろ痛みは、生きていることの証明そのものでもあったのだ。肩口でどくどくと脈打つ熱は、確かに飛鳥が今生きていることのあかしだった。
我が身から引き抜いた針、血と飛鳥の身体から引き剥がされた肉片にまみれた、長さにして50cmほどの重いそれを手に、飛鳥は目玉の怪物へと向かってゆく。
すでに恐怖はなかった。
ただ、理不尽な死への絶大な怒りだけがあった。
怪物たちが生きたいのと同等に、男たちもまた生きたかったのだ。怪物たちに責がないのだとしても、男たちにもまた責はなかった。それに思い至った今、飛鳥がするべきことは、ひとりでも多くを生き延びさせることだった。
――『それ』が、彼だけが負うべき責務ではないのだと、彼だけが負うべき穢れではなかったのだと、そんなことにまでは気づかなかった。
「や……やめてくれっ、いやだ、死にたくない……いやだっ、く……食わないでくれ……ッ!」
血の混じった泡を吐きながら、血塗れの身体を必死に引きずって、何とか逃げようともがく瀕死の男へと怪物が手を伸ばす。飛鳥はその瞬間を逃さなかった。
「ガツガツ食うばかりじゃなく、たまには痛いモノも食わされてみろ……ッ!」
怪物を見据えて針を構えると、強く地面に踏み込み、怪物めがけてその針を投擲する。
針は槍よろしく空気を裂いて飛び、抜群のコントロールで怪物の顔の真ん中、つまり一番大きな眼球を狙い違わず貫いた。
ぶしっ、という、液体の詰まった何かが潰れる音がする。
予想はしていなかっただろうと飛鳥は思う。
逃げ惑い、ただ恐怖するしかできないような、か弱い無力な獲物が、強烈な反撃を食らわせるなどということは。そうでなくては、怪物が飛鳥たちに意識を払っていなかったことへの説明がつかない。
瀕死の男に手を伸ばしていた怪物、獲物をもてあそぶ最上位の捕食者そのものだったそいつの動きがぎくしゃくと強張る。
何か信じられないことが起きたかのように、忌々しくも人間じみた動きで、巨大な――血にまみれた手が、眼球を貫いた針に触れる。
そして、
「ぎ……ぎげっ、ぐががっ、ぎあああああ――――っっ!!」
出来れば二度と聞きたくないような、怖気をそそる絶叫を上げて怪物は仰け反った。
眼球で覆われた両手が針を引き抜こうとするのだが、飛鳥が先刻味わったごとく、針が肉に根を張ってしまったのだろう、怪物は針を引っ張ろうとするたびにギャアギャアと悲鳴を上げて手を離してしまう。そのたびに、ぬらぬらとした紅い粘液が滲み出て怪物の顔を汚した。
飛鳥は左肩の出血が止まっていないことに気づいたが頓着せず、針に気を取られている怪物の足元へ走ると、末期(まつご)の呼吸を繰り返している男の身体を担ぎ上げた。
「お、おまえ……」
「黙ってろ、阿呆」
ゼイゼイと咽喉を鳴らした男が何か言おうとするのを厳しく一刀両断にし、あちこちから血を噴きこぼす身体を引きずるようにして金村と圓東のいるところまで運ぶ。男を草むらに寝かせ、彼の命がもう長くないことを痛いほどに感じながら、
「いいか、弱気になるな、しっかりしろよ。――金村、手伝え、あのふたりもまだ息がある」
そう言って返事を待たずに走り出した。すぐ背後に、無言のままの金村が続いていることを気配だけで感じる。
草むらに倒れ伏し、震えているのか痙攣しているのか定かではないふたりの男の元へ辿り着くと、怪物はまだヒィヒィと甲高い悲鳴を上げながら身悶えし、啜り泣きのような声を漏らしていた。
「そいつの足を持ってくれ、俺は上半身を持つから。さすがに、ひとりで運ぶにはこいつはでかすぎる」
怪物の様子を伺いながら、飛鳥は金村とともに男の身体を担ぎ上げる。巨漢と言って過言ではない、ぐったりと力を失った身体を持ち上げるには、予想以上の腕力が必要だ。
しかも、飛鳥の左腕はすでに感覚が麻痺し始めていた。このまま腕が使いものにならなくなったら、と考えると恐ろしいが、せめて利き腕でなかっただけましだと思うしかないのだろう。
ふたり目をひとり目の隣に寝かせ、ひとり目と同じように声をかけてから、飛鳥と金村は三人目の救出に向かう。
その際、先刻取り落とした匕首を拾い上げたのは、何とかして目玉の怪物にとどめを刺さなくてはという意識があったからだ。巨体に加えて針の怪物のような足場もなく、表皮を露出していない分急所が計りにくいため、どう考えても難航することは明らかだったが。
それでもまずは三人目をあの場所から移動させなくては、と、血を吐きながら呻いている男の元へ辿り着き、彼の足元に屈み込んだ飛鳥は、不意に怪物の視線を感じて身体を強張らせた。
まずい、と思う暇もなかった。
がつん、という凄まじい衝撃が身体を襲い、怪物の長い大きな手に張り飛ばされたのだと理解するのと同時に、飛鳥は弾き飛ばされていた。衝撃のあまり、手にしていた匕首がこぼれ落ち、草むらに紛れてしまう。
「……ッッ!」
飛鳥は悲鳴とも呻きともつかぬ声とともに吹き飛び、草むらに叩きつけられて更に呻いた。何とか跳ね起きたものの、痛みのあまり立ち上がることが出来ない。胸が息苦しいのは肋骨にひびでも入った所為だろうか。
少なくとも彼には、左肩が激しく出血していることが判った。
頭が四方八方から殴りつけられているかのようにガンガンと痛み、口の中には血の味が満ちた。
凄まじい吐き気が襲ってくる。
――――金村と圓東が自分の名を呼んだ気がした。
けれど、今の飛鳥の耳に響いていたのは、彼自身の鼓動の音だけだった。
彼の目に届いていたのは、血色の目を怒りに燃え立たせた怪物が、金村や男には目もくれず、自分を目指して突進してくる姿だけだった。
飛鳥には、世界が静止しているようにすら感じられた。
どうしようもない、不可避の死が迫ってくることを、飛鳥はどこか冷静に理解していた。最後まで足掻いた結果がこれならば、それもまた仕方がない、と、飛鳥が死を甘受しようとしたそのときだった。
不意に、ほとんど朦朧としていた飛鳥の耳を、高らかな馬のいななきと、力強い蹄の音が打った。
そして、それと同時に、
「これを使えっ!」
耳慣れない、聞いたこともないような言葉が闊達な美声を伴って凛と響き、遅れること数瞬で空気を裂いて飛来した何かが、うずくまる飛鳥のすぐ傍にざくりと突き立った。
紗のかかった視界をのろのろと動かし、音のした方向を見遣ると、そこには見事な造りの剣が、陽光を受けて目映く――あまりにも美しく輝いていた。まるで、飛鳥に早く自分を持てと、今すぐに自分を揮えと催促しているかのようだった。
飛鳥の意識、闘志とでもいうべき壮絶なそれは、そこで唐突に覚醒した。
戦え、と、飛鳥の中に強固に創り上げられた領域が叫ぶ。
そう、このまま死ぬことなど、飛鳥には許されていないのだ。
「くそっ、こんな時に寝とぼけてる場合じゃないだろうが、救いようのない阿呆めっ」
自分を罵るや、痺れて感覚のない左腕を叱咤しながら剣の柄を掴み、剣を杖代わりに立ち上がると、地面から勢いよく引き抜く。ずしりとした重みと、あまりにも澄んで美しい刃のきらめきに心が引き締まる。
これを寄越してくれたのが誰なのかと訝るよりもまず、飛鳥の心は戦意と覚悟に満ちた。
飛鳥は、怒涛のごとき恐ろしい勢いで自分へ肉薄する目玉の怪物を厳しく見据えると、
「おおおおぉッッ!!」
凄絶な気合とともに一歩踏み込み、怪物の懐へ飛び込み様、剣をその下腹部へ力いっぱい突き立てた。よほどの名工の手になるものなのか、刃は抵抗もなくずぶずぶと怪物の腹へと沈んだ。
今更血に汚れることを躊躇するつもりは飛鳥にはなく、限界まで刃を突き入れる。
「あ゛っ……ぎ、が……ッがが、ぐげげ……ッ!」
怪物が狼狽した声を上げる。
飛鳥はぐっと歯を食いしばり、柄をぎゅっと握り締めると、怪物の中を思い切りかき混ぜるようにして剣を引き抜いた。飛鳥の膂力だからこそ出来た芸当だった。
ぶしゅっ、と音を立てて血が噴き出し、人間のものと酷似した臓物がぞろりとこぼれ落ちる。
「あががっ、うが、ぐがががが……っ!!」
こぼれた臓物を掬い集めようとしたのか、膝をつき、前のめりに屈んだ怪物の首筋へ、再度飛鳥は刃を叩き込んだ。
この先何度経験しても生涯慣れることはないだろう、生々しい肉の手応えを感じながら、その一撃の打ち込みで怪物の首を叩き落す。
斬り落としたというよりは、力任せに引き千切ったというのが相応しいだろう。切り口は不細工にひしゃげ、潰れていた。
赤インクの入った水袋でも叩き潰したかのような風情で、真っ赤な液体がほとばしった。
人間に近しい種であるのは確かなのだろう、思考する部分を失った瞬間、その巨体はびくりと大きく震え、そのままゆっくりと地面に倒れて動かなくなった。あとは、末端部分である手足が、ぴくぴくと時折生理的な痙攣を起こすだけだ。
きょろりきょろりと瞬きを繰り返していたすべての眼球が、愉悦という表情を失って冷え、完全に瞳孔が開いた状態で硬直したのを見届けて、飛鳥は大きな溜め息をついた。
彼には珍しい、安堵の混じった溜め息だった。
そこでようやく思い至って、剣の主を確かめようとした飛鳥を、
「アニキ、おっさんたちが……!」
泣き出しそうに震え、かすれた圓東の声が制止した。
半ば予測のついていたことではあったが、目を見開いたままで事切れている三人の姿を目にすると、無力感と疲労感がどっと襲ってくる。
めまいと吐き気と激痛が一息に押し寄せ、立っていられなくなった飛鳥は剣にもたれかかるようにしてその場にしゃがみこんだ。
「――――結局、残ったのは俺たちだけか」
招き手が何を思って飛鳥たちをここへ運び、何故招いておきながら手を差し伸べることもなく無残な死を迎えさせたのか、そもそも本当に自分たちはここへ来ることを望まれたのか、消しようのない疑念がぐるぐると渦巻く。
まぶしい陽光に包まれているはずなのに、飛鳥の身体は冷え切っていた。
「くそ、寒い……」
こみあげてくる激情を堪え、小さくつぶやく。
そこへ、
「大丈夫か、お前ら。大したもんだ、あの巨体を倒しちまうとは」
あの闊達な美声が、驚きの色合いを含んですぐ背後に響き、その言葉に同意するかのようなタイミングで馬がいななく。
「――そっちの仲間は、駄目だったのか。それでも、お前らが無事だっただけよかった。自分たちが生き延びたことをまずは喜べよ」
声の主が何を言っているのかはまったく判らなかったが、飛鳥はわけもなく安堵していた。どうしようもなくホッとしたのだ。
それが何故なのかは判らない。
「誰だ……?」
問いとともに背後を振り返り、声の主を見上げて、飛鳥は目を見開いた。
絶句したといっていい。
傷の痛みも寒気も吐き気も、身体に重くのしかかっていた疲労感や無力感さえ、その瞬間の衝撃には敵わず、どこか遠く現実味を欠いてすら感じられた。
「どこの国の人間だ、お前。変わった発音だな……」
また、よく判らない何かを口にして首を傾げた彼、陽光に輝く雪を思わせる長い銀の髪と、極上の、世界にひとつしかない最高級の紫水晶を削り出してはめ込んだかのような神秘的な目、滑らかな白皙としなやかな長身を有した、およそ今までに見たこともないような美貌の青年を、飛鳥は半ば呆然と見上げていた。
優美と雄々しさの同居した、繊細なのに男性的な美しさは、アジア的とかヨーロッパ的という言葉ではくくれない雰囲気だった。強いて言えば、世界中の人種のよい部分ばかりを集めて生み出されたという瑕疵のない印象だ。
飛鳥は芸能には詳しくないが、映画俳優やトップモデルなどと呼ばれる人種にも、こんな美貌の青年はいないと言い切れる。
その紫水晶の双眸が含む、きらきらとした表情豊かな光に、奇妙な懐かしさと憧憬とをかきたてられる。
飛鳥はそんな自分を訝しむように眉をひそめ、明るい笑顔を浮かべて手を差し伸べた青年を見上げた。