レーヴェリヒトは驚いていた。
むしろ、感嘆したと言っていい。
――彼らの概念から言えば至上を意味する漆黒をした、まばらに切り散らされた髪と、すらりとしたしなやかな肢体を持つ、少女めいた繊細な容貌の少年だった。
それなりに、そこそこ端正ではあるが、己の周囲に集う美男美女と比べれば十人並と言って過言ではない顔立ちなのに、レーヴェリヒトの視線はまるで吸い寄せられるように少年に惹かれた。二度と忘れようのない強烈さを伴って。
それはきっとこの少年の、極上の黒貴水晶(こっきすいしょう)でもこうまで強く輝くまいと言えるような、強靭な意志に光を放つ漆黒の双眸のためだろう。
髪と眼の色が同じということは、五色十柱に属する雷神か五色二十重に属する黒の精霊王、どちらかの強い加護を受けているということになるが、それにしてもこんなに光の強い、美しい黒色は珍しかった。身に持つ色が強さに直結するこの世界において、この黒は存在するだけで力そのものだと言える。
しかし、その強靭な黒は、鍛え上げられた鋼を彷彿とさせる少年によく似合っていた。
異形の血にまみれ、大の大人でも意志を挫かれる《死片》の一撃を受けても怯まず、己の立ち位置を全うした少年だった。
ひどい傷を負った満身創痍の中、己の投げた剣を揮い、裂帛の気合とともに狂乱する異形を屠った少年の様子を、レーヴェリヒトは驚きと感嘆を持って見つめ、そして手を差し伸べた。
死んでしまった彼の仲間には気の毒だと思うし、早く浄化処置を行わなくてはという意識もあったが、何よりもまずこの少年が無事だったことにレーヴェリヒトは安堵していた。
疲労からか、剣にもたれるようにして地面にしゃがみこんでしまった少年が、その稀有な漆黒の双眸でレーヴェリヒトを見上げ、ひどく珍しい発音の、今までに聞いたこともない言葉を口にする。
「ここはどこだ? あんたは誰だ? ここは一体、何なんだ」
外見による予想よりいくらか低い、どこかしわがれても聞こえる声は、こんな状況にもかかわらず静かで理知的だった。
意思疎通の魔法でもあればよかったが、生憎レーヴェリヒトの傍にいつもの魔導師は控えておらず、少年が何を言っているのかさっぱり判らない。こんな変わった言葉を聞いたことのないレーヴェリヒトは、彼らをどこか他区域と断絶された小さな島からの旅人と勝手に判断した。
「……くそ、間違いなく日本語は通じないだろうとは思っていたが、やはり駄目か。不便だな……」
血にまみれて固まってしまった黒髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかきまぜた少年が何事かぼやく。
しかし、何を言われても判らないモノは判らないので、レーヴェリヒトは首を傾げるとしゃがみ込み、血塗れの少年の手を勝手に取ると、そのまま引っ張り起こした。思いの他ごつごつとした、力強い手だった。
傷が痛んだのか起こされ方が気に食わなかったのか、少年はほんの一瞬顔をしかめたが、特に何を言うでもなく素直にレーヴェリヒトの隣に立った。
材質のよく判らない、身体にぴったりとした印象の衣装は髪と目と同じく漆黒で、余計な装飾は一切なかった。
黒で統一されたその姿に、御使い(みつかい)という単語がレーヴェリヒトの頭をよぎるが、まさかな、と否定する。神話や伝説に自分を重ねて心を躍らせるほど、レーヴェリヒトは夢想家でも子供でもない。
御使いは、神々や精霊王が己の意志を代行させるためにもっとも優れた国に遣わすという伝達者であり導き手だ。御使いの現れた国は末代まで栄えると言うし、御使いに膝を折られた王は、世界の覇者になることを許された者なのだともいう。
……つまるところ、大陸の南端につつましく鎮座するこの小国リィンクローヴァなどには、間違っても現れはしないだろう存在だ。
自分の統べる国ながら、このリィンクローヴァが『もっとも優れた国』などでないことはよく判っている。むしろ、大陸的に見ても世界的に見ても、規模の小ささで言えば下から数えた方が早いくらいだろう。――無論、レーヴェリヒトや国民たちにとっては、世界中のどこよりも麗しく居心地のよい国ではあるのだが。
しかし、連綿と続くこの乱世を終結させるために神々が御使い遣わすことを決意したとして、それが現れるとしたら、世界最大と称される大国、アルバトロウム=シェトラン以外には考えられない。
マントの裾で少年の血にまみれた顔を拭ってやりながら、通じないと理解しつつ語りかける。
「お前……加護持ちか。見事な黒だ、俺も初めて見る。だが、何の理由があってこんな辺鄙な場所に来たんだ? 何にしても不味いときに来ちまったもんだ、もう少し遅いか、早ければ仲間は死なずに済んだろうに」
少年はおとなしく顔を拭われながら、レーヴェリヒトの言葉をじっと聞いている様子だったが、不意にレーヴェリヒトの手首を外見からは想像もつかないような強い力で握ると、驚く彼を尻目に、明らかに発音形態の違ういくつもの言語を次々とまくし立てた。
レーヴェリヒトにはまったく理解できないものばかりだったが、少年の仲間であるらしい、少年と人種的に似通った面立ちをしたふたりもどうやら理解できていないらしく、灰金の髪の少年が大きな目を真ん丸に見開き、赤茶の髪の男は表情の少ない顔を珍妙にゆがめていた。
首を傾げるレーヴェリヒトをよそに、少年は更にいくつもの言葉を口にしたが、そのどれもがレーヴェリヒトには理解できなかった。
レーヴェリヒトが理解できていないことに気づいたのか……それとも最初から通じるとは思っていなかったのか、一瞬口をつぐんだ少年がひとつ大きな溜め息をつく。そして独り言のように、一番初めの言語と同じ音韻の言葉をつぶやいた。
「英語ウェールズ語アイルランド語スウェーデン語、中国語韓国語ヒンディ語サンスクリット語プラークリット語チベット語クメール語、フランス語ドイツ語ギリシャ語イタリア語スペイン語ラテン語、ペルシア語ロシア語アラビア語スワヒリ語。……どれも通じないか。コーカサス諸語とアメリカインディアン諸語、オーストロネシア語族はいまいち不勉強だから無理だとかそういう問題じゃなく駄目だなこれは。間違いなく地球じゃない」
「いやあの、さっきの化け物とか辺りの景色とかそこのすっげぇ綺麗な兄さんの明らかに妙なカッコとか、ここが地球じゃないってのはもうなんかお腹いっぱいってくらいに実感してるけど、アニキ、なんでそんないろんな国の言葉が喋れるんだ……?」
「は、そんなことも判らないのか、簡単なことだ」
「え、どういうこと?」
「俺が天才だからに決まってる」
「な、納得出来るような出来ないような……」
「納得しろ、天地の理(ことわり)並に不変の真理だ」
「いやそんな難しいこと言われても……ッ」
何とも言えない表情で呻いた灰金の髪の少年は、赤茶の髪の男と同じく黒の少年の眷族か同族なのだろう、ソル=ダートではひどく珍しい純粋な漆黒の目をしていた。
と言っても、灰金髪の少年からは、黒の少年のような強靭さや厳しさは感じられない。部下か、小姓なのだろうか。
などと、勝手な想像をしていたレーヴェリヒトだったが、首筋をチリリとした独特の感覚が灼くや否や、表情を厳しく引き締めて周囲を見渡した。
ほぼ同時に、レーヴェリヒトと同じことに気づいたらしい少年が、漆黒の双眸を周囲に巡らせる。
少年は、レーヴェリヒトの背後に影か空気のように控える双子異形に視線が行き着くと一瞬表情を強張らせたが、すぐに何かに納得した様子で視線を外し、辺りを見渡した。
ふたりの視線は、まったく同時にレッヒェルン玉樹森の一角へと行き着く。
――――そこからは、下半身が蚕、上半身が人間の女という筆舌に尽くし難くおぞましい形状をした異形が、ゆっくりゆっくりと這いずりながら姿を現していた。女の顔には、狂ったと表現するしかないような愉悦の笑みが張りついている。
下半身の環節や眼球を思わせる暗褐色の斑紋が、異形の前進に合わせて蠢く様など、悪夢以外のなにものでもなかった。
それを目にした灰金髪の少年の表情が強張り、その咽喉がぐびり、と奇妙な音を立てた。
レーヴェリヒトはその異形の姿に、なすすべもなく滅びたあの小村が、養蚕によってわずかな貨幣を得ていたことを思い起こして納得したが、それどころではないことに気づいて表情を引き締めた。
同じく、厳しい表情で異形を見据え、ひどい傷にも関わらずまた剣を取ろうとした少年を制すると、慣れた手つきで剣に手を伸ばした。
「怪我してんだ、無理すんな。心配しなくても、俺がやるさ……」
そう言って肩を軽く叩くと、大体の意味合いは理解したのか、少年が小さく頷いた。
疲弊しているのも確かなのだろう、顔色はよくない。
「カノウ、ウルル。そいつの手当てを頼む」
「御意」
「畏まりました」
双子が恭しく一礼して少年へ歩み寄るのを尻目に、剣の刃を確かめる。
ヴァイスゲベートすなわち楽園の手という銘を持つその剣は、レーヴェリヒトが王として立った十五歳の時に今は亡き祖父から贈られたもので、柄に彼の目と同じ色合いの紫貴水晶(しきすいしょう)がはめ込まれている。
リィンクローヴァどころかソル=ダート随一と謳われる鍛冶師の手になるものだけに、強度も切れ味も最上級だ。戦場において、また異形の討伐戦において、この剣に何度命を救われてきたか知れない。
その、身体の一部といって過言ではない剣を手に、レーヴェリヒトはズィンゲンメーネの背に飛び乗った。駿馬はブルルッと鼻を鳴らし、同時に高らかに蹄を鳴らした。
のろのろと――しかし確実にこちらへ近づいてくる異形の、張りついたような狂気の笑みを見据え、走り出そうとしてふと思い立つ。少年へ視線を移し、彼に声をかける。
「そうだ、お前、名前は? 俺はレーヴェリヒト、レーヴェリヒト・アウラ・エスト・リィンクローヴァだ」
何故、今この時に名乗ろうと思ったのかはよく判らない。
ただ、そうするのが当然だという強い意識があったのだ。
このまま、この討伐が終わればすべてが終わるのだとは、そこでこの少年との関係が途切れるとは、どうしても思えなかったのだ。
――――まるで運命の相手にでも巡り会ったかのように。
少年はカノウに傷口を拭われ、ウルルに傷を確かめられながら、しばらくレーヴェリヒトの言葉を反芻している様子だったが、やがて、
「……アスカ。ユキシロアスカ」
そう、端的に言った。
『アスカ』を二度繰り返しているということは、そちらが名でユキシロが姓だろう。他大陸には姓を先に名乗る国もあるというから、そういうところから来たのだ。
独特の、不思議な音韻ではあったが、耳にしっくりと馴染むその名に、レーヴェリヒトは笑みを浮かべた。
「アスカか……うん、何とも耳に気持ちのいい名だな。ならアスカ、お前はよく戦った、あとは俺がやるから少し休め。《死片》を受けたんだ、身体だって辛ぇだろ」
それだけ言って双子に目配せし、双子がかすかに頷くのを目の端に確認してから、レーヴェリヒトはズィンゲンメーネの首筋を軽く叩いた。高らかにいなないた黒馬が、雄々しい体躯を躍動させて走り出すと、あとはもう異形に意識を集中する。
――――その意識の隅に聞こえた双子の言葉、
「……にいや」
「どうした」
「この方……」
「ああ、そうじゃのう」
「どうしてでしょう?」
「判らぬ。判らぬが……」
「わたくしたちと、同じ匂い……」
「うむ。このように、祝福された色を持ちながら、のう」
「本当に、なんて美しい黒でしょう。鍛え上げられた強い鋼と、空を染める激しい嵐と、そこに輝く雷のような色。それなのに、わたくしたちと同じ、呪われた――《創り上げられたモノ》の匂いがするなんて」
「ああ。儂(わし)らと同じ、人外の匂いじゃ。これほどの、貴い色を持ちながら。――彼は一体何者なのじゃろう。何故、このような場所におったのじゃろう。何よりも、この邂逅は神々の導きか、それとも悪戯か……?」
ひどく不思議そうなその会話は、レーヴェリヒトの思考の深くに染み入った。
人間でしかない姿を持ち、生半な人間には与えられぬ色を持ちながら、双子と同じ『ヒトではない』存在だという少年の視線が、己の背中に注がれていることをひしひしと感じつつ、レーヴェリヒトは馬を駆る。
疑問は幾つもわいてくるが、今やるべきことならたったひとつだ。