剣を強く握り、いつも通りの感覚を確かめながら、レーヴェリヒトはズィンゲンメーネの耳にそっと――悪戯っぽく囁いた。
「さあ、行こうぜズィンゲンメーネ。あの加護持ちに、俺たちの恰好のいいところを見せてやろう」
 漆黒の駿馬が楽しげな鼻息を返すのへ、にやりと笑う。
 ズィンゲンメーネは風のように走り、瞬きほどの時間で、くすんだ茶色の蓬髪を振り乱した狂女の異形の元へと辿り着いた。
 咽喉の奥で喜悦とも威嚇とも取れぬ唸り声を上げる異形との間合いを計りつつ、レーヴェリヒトはその異形を観察した。
 異形の全長はおよそ五百ロフといったところだろうか、リィンクローヴァでは――というよりもこの大陸では――平均より少し背が高い程度のレーヴェリヒトが百八十ロフを少し越えた身長だということを考えると、その巨大さが際立つというものだ。
 ……無論、小国の王とは言え勇猛をもって大陸中に名を知られる彼が――《色なし》どころか高位魔族とすら一対一で対等に戦う彼が、敵が自分よりも大きいからといって怯むはずもないのだが。
 レーヴェリヒトはリィンクローヴァ王族だけが持ち得る紫貴水晶の双眸を細め、異形の、気味が悪いほど滑らかな腹に浮かび上がった《呪紋(じゅもん)》を確認した。血の色をした《呪紋》は、今にも異形の腹を食い破らんばかりに拍動している。
「悪創念を取り込んだんじゃなく、取り込まれたクチだな、こいつも。『為る』前の意識は残ってねぇか。……なら、悪ィが、狩らせてもらうぜ。これ以上、被害を拡大させたくはねぇからな」
 そう言ったレーヴェリヒトが剣を構え、それを観た異形が張りついたような狂人の笑みを更に深くし、一触即発の空気が辺りに立ち込めたとき、唐突に何か鋭いものが空気を切る音がした。
 それはすぐ、ぶつり、という肉にめり込む音となり、それと同時に血色の目を大きく見開いた異形が髪を振り乱して仰け反る。

「うっ、うぎ……あぐぐっ!」

 忌々しげに呻いた異形が背後を振り向く。
 レーヴェリヒトは、異形の背に何本もの太い矢が突き立っているのを確認し、更にイデュル街道側からリーノエンヴェに率いられた数騎が蹄の音も高らかに駆けて来るのを確認して、
「遅ぇっつの」
 小さな声でぼやいた。
 無論それが益体のないぼやきであることも理解しているレーヴェリヒトは、ズィンゲンメーネを促すと背後に気を取られている異形の懐へ入り込み、すれ違い様に不気味な拍動を見せる《呪紋》を薙ぎ払った。肉を裂く硬い手応えを感じながら、先刻アスカがしたように、異形の中を引き裂きかき回すようにして剣を振り抜く。

「ひっ、ぎっ……ひぃあああぁ――――ッ!!」

 異形が甲高い絶叫を上げた。
 濁った血色をした双眸から、大粒の涙がいくつもいくつもこぼれおちる。
 地面に滴った滂沱たる量の涙は、異形という存在の恐ろしさを証明するごとくに、周囲の緑を枯れ果てさせてしまった。彼らは肉体の一片一片が毒であり、呪いなのだ。
 異形の悲鳴は徐々に啜り泣きに変わり、恋に破れた女さながらの悲痛な泣き声が辺りを震わせた。声だけ聞いていると、自分の方が悪事を働いたような気分にすらなるような、あまりに哀しげな声だった。
 もちろんのこと、それで油断ができるわけでもないのだが。
 異形たちが個々に持つ、不可解で危険な異能を警戒して一旦異形から離れたズィンゲンメーネは、すぐに方向を転換し、異形との間合いを計りながら主人の命を待つ。
 鋭利な刃に斬り裂かれた《呪紋》の拍動がいびつになる。
 うずくまるようにして顔を覆い、初恋に破れた少女のように啜り泣く異形のぱっくりと開いた傷口からは、大量の血と生々しい臓物が噴きこぼれていた。滑稽なほどに鮮やかな桃色をした臓物の、やけにつややかな光沢が、レーヴェリヒトの心に寒々しさを運んでくる。
「……ったく、こんなとこばっかり人間と同じなんだもんな。せめて中身が黄色や青色をしてりゃあ気も楽だろうに。……あーくそ、萎える……」
 こぼしたものの、どうしようもない無力感罪悪感に酔って己の責務を忘れていられるほど、彼は愚か者でも幸せ者でもなかった。自分がなすべきことなさなくてはならないことは、王としてのあるべき姿は、常に彼の思考と行動を支配し、操るのだ。
「仕上げだ、行くぞジーネ」
 ズィンゲンメーネに声をかけ、剣の血を払ってから、レーヴェリヒトは再び柄をしっかりと握り締める。そして、風と紛うほどの速さで走り出した黒馬が再度異形の懐へ飛び込み、すれ違った瞬間、跳ね上げるようにしてヴァイスゲベートを一閃させた。
 物心ついた頃から剣を揮っていたレーヴェリヒトの、神技とすら称される剣の一閃は、啜り泣く異形の首を、飴細工でも断つがごとく易々と手首ごと落とし、あっさりと死に至らしめた。
 宙を舞った異形の首と手が、ぼそり、という間の抜けた音を立てて草むらに落ち、転がる。
 胴体は、しばらくの間失った首を捜すようにうろうろと動いていたが、やがてだらりと手のなくなった腕を下げ、そのままゆっくりと地面に沈んだ。最後までうねうねと蠢いていた環節部も、しばらくすると完全に動きを止めた。
「助けてやれなくて、ごめんな。せめて、来世のお前に幸いがあるように、祈る……」
 ズィンゲンメーネの背から降りたレーヴェリヒトが、死んだ異形を見下ろしてつぶやくと同時に、白馬マイスネーゼを駆ったリーノエンヴェが彼の傍らに辿り着いた。
「遅ェよ……つってもまぁ、俺もあんま人のことぁ言えねぇが」
「申し訳ありません。……あの異形、道すがら《種》を蒔いておりまして、その処理に手を取られました。今も、ほとんどが向こうに残って《種》の取り残しがないか調査しています」
「……そうか、それは仕方ねぇっちゃ仕方ねぇか。雌体はその辺おっかねぇよな、あれの小せぇのがボコボコ増えてゲミュートリヒを襲うとか考えると寒気がする。だが、俺たちが遅れた所為で、あそこの加護持ちの仲間が何人かやられた」
「加護持ち? ……ああ、本当ですね、何と見事な黒でしょう。しかし何故、このような場所に?」
「さあな。言葉が通じねぇから何とも言えねぇし、今はどうでもいいこった。……浄火葬の準備を。異形も死んだ奴らも丁重に『送って』やろう、せめて次の世では幸せに暮らせるように」
「御意」
 レーヴェリヒトの言葉に恭しく一礼したリーノエンヴェが、配下の騎士たちを呼び集めて指示を下す。
 それを見届けてから剣をマントの裾で拭い、腰の鞘に戻して、レーヴェリヒトは双子やアスカたちの元へゆっくり戻った。背後にはズィンゲンメーネが続く。
 アスカは血に汚れた上着とシャツを脱ぎ、裸の上半身をさらしていた。すらりとした細身ではあったが、レーヴェリヒトにはその全身が鋼のごとく硬質的に鍛え上げられているのがよく判った。そうでなくては、ああまで見事にヴァイスゲベートを揮うことも、異形を屠ることも出来はしないだろう。
 肉の弾けた左肩に、ウルルが包帯を巻いている。いつも携帯している簡易救急道具が役に立ったようだ。
 この心優しい異形は、戦うことや殺すことよりも守ること救うことに本領を発揮する。その白いしなやかな指が、器用な手つきで包帯を巻きつけるのを、アスカが物珍しそうに見つめていた。
 時折、その視線はウルルの顔及び尻尾へと向かうようだった。ウルルのように可憐で美しい異形は珍しいから、気になるのかもしれない。
「どうだ、傷の具合は」
 レーヴェリヒトがそう問うと、アスカの眷族ふたりに異常がないかを確かめていたカノウが振り向き、彼に歩み寄った。
「傷は深いが、命に別状はなかろう。眷族ふたりも異常なしじゃ、不幸中の幸いというヤツじゃの」
「そうか、そりゃよかった」
「ただ、ああまで深く《死片》を受けたのじゃ、特に念を入れての浄化が必要じゃろう。《死片》の毒は性質(たち)が悪い、あとあとになってどのような猛威を振るうや知れぬゆえな」
「ああ、そうだな。なら、王都まで連れて行って、神殿に頼むとするか」
「アスカ本人の都合は考えずともよろしいのかえ?」
「う、まぁ、でも仕方ねぇじゃん。浄化っつったらアインマールの中央黒華神殿だろ? エーヴァンジェリーン・ララナディアに匹敵するほどの浄化能力の持ち主なんか知らねぇし、俺」
「ふむ、それはその通りじゃが。言葉が通じぬのに、どう説明するおつもりじゃ?」
「ハイルを呼んで意思疎通の魔法をかけてもらうことにする。飛天魔法がありゃすぐに来られるだろ? そしたら向こうに戻るのもすぐだし」
「……よい案とは思うが、確か、ハイリヒトゥームは魔導師協会の要請でモーントシュタインに行っておるはずじゃぞ?」
「うわっ、そういやそうだった! 対異形魔法を指導しに行くとか言ってたっけか。賢者ってのも大変だよな。……まぁそれはさておき、あー、うーん、じゃあ、ゲミュートリヒの第五青蕾神殿に頼んでとりあえずの応急浄化をしてもらうかな。で、ハイルが戻り次第こっちに来てもらう、と」
「と、すると十日ほどはこちらに滞在することになりそうじゃの。どうせレヴィの視察も残っておるしな」
「ああ、ちょっと出鼻挫かれたけどな。観ておきてぇ施設とかもあるし、アスカたちにはしばらく我慢してもらおう。急いでるにしたって、浄化を待つ間もないとかは言わねぇだろ。命がかかってるんだし」
 などと、カノウと額をつき合わせて会話していたレーヴェリヒトだったが、不意に響いた、

「……何をする気だ?」

 ひどく不思議そうなアスカの声に振り返った。
 アスカは、遺体を浄火葬にするために組まれた小さなやぐらと熱のない青白い火を見遣り、騎士たちが死んだ男たちの骸を担ぎ上げる様を観て首を傾げていた。
 ――まるで、生まれて初めて浄火葬の光景を観るとでも言わんばかりに。
 そんな馬鹿な、と、レーヴェリヒトはつぶやく。
 異形は世界中のどこにでも湧く。悪創念が湧く限り、どこにでも。
 そう、どんなに清らかな地域であろうとも、ほんの少しの邪気や穢れ、あるいは人々の邪念を糧に、何の前触れもなく悪創念は湧くのだ。今回のあの小村がいい例だ。
 だから、例えどんなに世俗から隔絶された島の出身であろうとも、浄火葬を知らないなどということがあり得るはずがないのだ、この世界に生きている限り。――この世界の人間である限りは。
 レーヴェリヒトは濃い銀色の眉をひそめてアスカを見遣った。アスカは訝しげに――不思議そうに、青白く燃える聖なる火を見つめている。
 その視線に気づいたのか、アスカがふいとレーヴェリヒトに視線を移し、

「あの火は何だ? 死者を弔うための特別の火なのか?」

 浄火葬のやぐらとそこに燃える火とを交互に指差しながら何かを言った。問いかけの口調だった。
 言葉などまったく判らないのに、レーヴェリヒトには、アスカが知りたがっていることの大まかが理解できた。意思疎通の魔法もなしに、アスカの言っていることの大体が理解できた。
 何故か、それを不思議と思うよりも、くすぐったく嬉しいという意識が強かった。何故なのかは、レーヴェリヒトにもよく判らない。
「あれは異形に殺された人間を浄化するための火だ。あれで浄化してやらねぇと、殺された人間の『喰い残し』も異形になっちまうんだ」
 不思議なことに、アスカもまたレーヴェリヒトの言っていることの大体を理解しているようだった。男たちの遺骸と浄火炎、そして異形の骸を順番に指差してレーヴェリヒトが説明すると、アスカは眉をひそめて考え込む素振りを見せた。
 一瞬ののち、何か重大なことに気づいたかのように、その漆黒の双眸を大きく見開く。

「……まさか」

 つぶやきのあと、

「まさか、あの怪物は、本来は人間だった者が為った姿なのか……?」

 確信を持って思い至った様子で、口元を手の平で覆うと、針の異形、目玉の異形、蚕の異形へと順番に視線を移す。
「異形はもともと、普通の人間だった奴らが悪創念に取り込まれて為るモンだ。中にはカノウやウルルみてぇな例外もあるが、ほとんどは《色無し》に、人間としての意識が消え失せた人喰いの化け物になっちまう。……知らねぇのか? お前、本当に何者だ?」
 レーヴェリヒトが疑念とともにそう言うと、漆黒の目に、少年らしからぬ冷え冷えとした光が揺れ、そして、

「……では、真実、俺は人殺しというわけか……」

 どこか自嘲的な、かすれた声がこぼれ落ちた。
 アスカが、異形を手にかけたことと、異形が本来は人間だったのだという事実に苦悩しているのだと気づいて、レーヴェリヒトは、彼らにとっては死だけが救いであり来世への望みなのだ、と慰めとも励ましとも取れぬ言葉をかけようとした。
 しかしアスカは、レーヴェリヒトが言葉を紡ぐよりも早く、不意に表情を強張らせると、唐突に一番の巨漢の骸をやぐらへと運んでいる騎士ふたりに向かって走り出した。
 傷の存在を欠片も感じさせない、俊敏な動きだった。
 周囲に頓着せず走り抜けてゆくアスカに勢いよく突き飛ばされ、よろめいた騎士たちが口々に文句を言うが、言葉が通じない以前に、アスカは彼らに目もくれなかった。
 何をする気だと訝るレーヴェリヒトが見守る中、アスカは、若い騎士たちの元へ――骸の元へ辿り着くや、立ち止まって不思議そうに彼を観ていた騎士の片方を軽やかな回し蹴りで弾き飛ばした。
 小気味のいい、としか表現できないような音がする。
 蹴り飛ばされ遺骸から手を離した騎士が呻き声を上げてよろめくと、同僚に危害を加えられて血相を変える片方の騎士を、同じく思い切りのいい蹴撃で弾き飛ばす。低い悲鳴とともに骸から手を離し、よろめいてあとずさった騎士には目もくれず、アスカは地面に倒れた骸の元へしゃがみ込んだ。
「お前っ、一体なんのつもりで……!」
 騎士の片方が血相を変えて食ってかかるよりも早く、アスカの手が骸の首を捻じ切らんばかりの勢いで掴む。遠目にも、骸の首の肉がひしゃげているのが判るほどの強さだった。
 一体何を、とレーヴェリヒトが眉をしかめたその瞬間、先刻まで骸だった『それ』が血色に染まった目をかっと見開き、それと同時に、その全身から白く輝く刃が生えた。
 頭からも胸からも腹からも、足からも腕からも……無論、首からも。
 見てくれで言えば刃は剣よりも薄かったが、それは素晴らしく鋭利で、死者の首をきつく掴んでいたアスカの手の平を易々と貫いた。
 少年の手の甲を、白く輝く刃が突き抜け、血を噴きこぼす。
 苦痛に呻くアスカの下で、目を見開いた骸――異形として目覚めた『それ』が、《色無し》独特の声で笑う。

「くくく、くかかかか」

 それとともに、爆発的な肉体の変化が訪れるかと思われたが、手の平を貫かれたままのアスカが、ほんの一瞬何かを堪えるような表情をしたあと、

「……許せ」

 そう、小さくつぶやくと同時に、血を噴きこぼす己の手など気にも留めていない様子で、増殖を始めようとしていた首を握り潰した。
 ごきん、という生々しい音が響き、異形化しかけていた男の身体がびくんと大きく跳ねる。
 見開かれた目から血の色が失せ、狂気の光が失せ、そして骸は完全に動きを止めた。
 誰もが圧倒され、口を利くものもいない静寂の中、低い呻き声とともに手の平を貫く刃を引き抜いたアスカが立ち上がる。刃を引き抜いたことで、また新たな血が散り、青々とした雑草の群れに滴った。
「……何なんだ、あいつは……?」
 騎士たちと同じく、レーヴェリヒトもまた圧倒されていた。
 彼とて、まだ少年の頃から幾多の戦場を潜り抜けてきた、猛者と呼ばれる類いの人間だった。王として――武人として、命の危機に何度もさらされながら生きてきた。
 だが、この少年は明らかに何かが違っていた。
 あまりにも壮絶だった。
 それが加護持ちである由縁なのか、それとも他に何かの理由があるものなのかは判らなかったが、少なくともアスカは、レーヴェリヒトが今までに観たどの戦士とも違っていた。
 その姿に畏怖すら感じ、彼に歩み寄りながらどう声をかけるべきか考えていたレーヴェリヒトだったが、その目の前で顔をしかめたアスカは、

「……まったく、なんなんだここは。面倒なことに、なったな……」

 そう、誰に言うでもない風情でぽつりとこぼすやぐらりと身体を傾けさせ、そのままその場に崩れ落ちた。

「アニキっ!」
「雪城! おい、しっかりしろ!」


 レーヴェリヒトが近づこうとするよりも早くふたりの眷族が駆け寄り、その身体を抱き起こしたが、それきり意識を失ったらしく、アスカはぴくりとも動かなかった。
 レーヴェリヒトはひとつ息を吐き、周囲を見渡して口を開いた。
「さあ、とっとと浄火葬を終えてゲミュートリヒへ戻るぞ。加護持ちに敬意を表して、特に丁重にな」
 周囲から同意の声が上がるのを確認し、アスカの元へしゃがみこむ。
 泣きそうな声でアスカを呼ぶ少年の隣で、蒼白になったその顔を覗き込み、一体何が起こり、何がどのように始まるのかと、胸中に問う。
 ――――そう、レーヴェリヒトは何かが始まったことを、何かの流れが変わったことをひしひしと感じていた。
 その『何か』がなんなのかまでは、神ならぬ彼に判るはずもなかったが。