ふと気づくと、またしても見知らぬ空間だった。
 『場所』ではなく『空間』としか表現できないのは、ここが、先ほどまで飛鳥がいた緑あふれる明るい野原ではなく、無機質なビル群が立ち並ぶ飛鳥の故郷でもなく、ガラスのように透き通った漆黒としか表現できない暗闇が垂れ込めるだけの何もないところだったからだ。
 闇は深かったが、何故かその闇には光沢があった。闇は艶やかで、軽やかだった。光ひとつ通らない真闇の、あのねっとりと全身にからみつくような嫌らしい重苦しさはなかった。
 視界に映るのはすべて漆黒だったが、何故か飛鳥は自分の身体を確かめることが出来たし、目の前が閉ざされているとも感じなかった。飛鳥は伸ばした指先に遊ぶ軽やかな闇を感じることが出来た。
 闇にはまた、どこか神々しい芳香があった。
 胸の奥を清々しく、穏やかにするような、早朝の水辺を思わせる薫香だ。
 何よりも、そのときの飛鳥の胸を満たしていたのは奇妙な安らぎだった。
 また知らないうちにどこかへ飛ばされたのか、という思いは、傷の痛みがまったくないという事実に霧消する。
 針に貫かれたはずの左肩も、骸に生えた匕首型の刃に貫かれたはずの右手の平にも傷痕はなく、どちらもが滑らかに動いた。息苦しさを訴えていた胸も、全身を襲う打撲の痛みもそこにはなかった。
 あのときの、身体ごと砕かれるかと思うほどの激痛など嘘のようだった。
「――――夢か、これは」
 つぶやき、一歩踏み出す。
 足の裏が伝えてくる感覚はくっきりとリアルで、現実と何ら変わりがなかった。しかし飛鳥は、奇妙なほどに強く、これが確かに夢なのだということを理解していた。
 この空間から、生きたものの匂いがしない所為かもしれない。
「で、どうやったら目覚められるんだ、俺は……?」
 暢気に眠っている場合ではなく、知りたいこと知るべきことは山のようにあった。
 少なくとも、あのレーヴェリヒトと名乗った青年なら、飛鳥の身体や金村たちを無体に扱いはすまいと思うし、そういう意味での安全を疑ってはいないが、とにかく今は何もかもが判らないことだらけなのだ。夢の世界に逃避している場合ではない。
 ――――ないのだが、夢といえば過去の記憶の再生という、後ろ向きに過ぎる睡眠ライフを送っていた飛鳥には、それ以外の夢からどうやって醒めればいいのかなどとんと判らない。
 定石に従って頬をつねってみても、痛いばかりで一向に目覚めが訪れる気配はなかった。
「……どうしろと言うんだ……」
 常の彼には珍しいほどの困惑を含んだ声でこぼした飛鳥だったが、ふと、視界の隅に光がちらついたような気がして周囲を見渡し、そしてある一点に視線が行き着くや眉をひそめた。
「……?」
 いつの間に灯ったものか、飛鳥の右手前方にやわらかな――小さい光が輝いている。
 光が小さいのではなく、単に遠くで輝いているから小さく見えるのだと気づくのに時間はかからなかった。透き通った暗闇の中、その光は、驚くほどの温かさで飛鳥の胸に染み入る。
 飛鳥はしばし光を見つめながら思案し、ひとつ息を吐いた。
「どうせ夢だ、目覚めるまで好きにするさ」
 誰に言うともなくつぶやくと、光を目指して歩き始める。
 飛鳥が歩き始めると、まるで何かのスイッチが入ったかのように、漆黒一色だった空――と言うべきなのかどうかは不明だが――をいくつもの光の筋が駆け抜けて行った。
「流れ星か? 星もないのに」
 首を傾げる飛鳥の足元、やはり漆黒の地面から、光色をした泡がほわりと湧き出し、空へとのぼって行く。泡はあとからあとからあちこちに湧き出し、辺りを淡く照らしながらふわふわと空の中に消えた。
 あまりに綺麗で触れてみたくなり、思わず手を伸ばしてみたものの、泡は飛鳥の指先をすり抜け、空に溶け込むように消える。空では、流れ星たちの鮮やかな競演が続いていた。
 静謐で美しい、幻想的な光景だった。
 まるで、飛鳥を癒そうとでもするような。
 殺伐としていた精神に、ふわりと温かいものが満ちる。
 ――――あのおぞましい怪物たちが、元々は人間だったのだと知ったときの衝撃は大きかった。
 飛鳥は確かに、自分が生き延びるため――最愛の存在を生かすため、これまで様々な悪事に手を染めてきた。日々の糧とは奪い取るものだったし、他に寄る辺のない飛鳥にとってそれこそが日常であり、生きるための最善だった。
 幸いにも、飛鳥は幼い頃から非常識な俊敏さと怪力、そしてそれらを役立てることの出来る頭脳の持ち主だった。
 ――もっとも、そのように生まれたお陰で、それらの力のお陰で、望みもしない逃亡生活を強いられ、たくさんの大切なものをなくしてきたのだから、それが本当に『幸い』だったのかどうかは判らない。
 しかし少なくとも彼は、自分と同じ立場の人々を虐げたことだけはなかった。彼らは飛鳥の隣人だった。彼が出会ってきた底辺の人々は、貧しくとも心に光のある人ばかりだった。
 そのことは、今でも飛鳥の中で救いとなっている。
 飛鳥がその冷酷さを遺憾なく発揮するのは、驕り高ぶった『持てる者』ばかりだ。金力や権力を笠に着て、弱い人々を虐げる精神的不感症の連中は、飛鳥の恰好の餌食となった。
 そうやって飛鳥は生きてきた。
 そのことが、他に何ひとつとして寄る辺を持たない彼の誇りであり、そう生きることこそが信念だったのだ。
 ――――だが、飛鳥が手にかけたあの怪物たちは、本来何の罪もない普通の人々が転じたものなのだという。
 それを知ったときの虚脱感は凄まじかった。怪物の肉に刃を突き立てたとき、命を奪ったときの罪悪感よりもなお、己の築いてきた立ち位置や誇りのすべてを試されている気がした。
 自分が生き延びるためだけではなく、他者を生かすためにとはいえ、それは同属殺しであり、罪は罪だった。その苦悩はしこりとなり、どれだけの時間が経っても、きっと飛鳥の中で根を張り続けることだろう。
 しかし今、この透明な漆黒と舞い散る光の中、それらの苦悩は――罪悪感や無力感は、甘受という名の静かなオブラートにくるまれて、穏やかに飛鳥の心へと落ちた。
 苦悩は苦悩のままであり、罪悪感無力感が消えることはなかったが、飛鳥はそれらを隣人として生きる覚悟を決めていたのだ。
 血に穢れてしまった手が、二度と無垢には戻れないとしても、その手がなせることだってあるだろう、と、あくまでも折れることをよしとしない飛鳥の精神は、ひたすらに前を向くことで償う道を模索する。
「――――ならば俺は、招き手の思惑が何であれ、自分に出来ることをやるだけだ。自分がそうと望まれることをやるだけだ」
 自分に言い聞かせるように……誓うように飛鳥はつぶやく。
 そう思えたのは、この透き通った安らかな闇と、美しくやわらかな光のおかげだった。
 これが夢であれなんであれ、飛鳥は今のこの瞬間に誰ともなく感謝した。
「それとも、これも招き手の働きかけなのか? 確かに綺麗だし癒されるが、どうせなら腹のふくれるものを出してくれるか、もしくは本人が普通に姿を現してくれた方がありがたいんだけどな、訊きたいこともあるし」
 ずいぶん気分の楽になった飛鳥が、常日頃の彼らしい身勝手さで注文をつけながら歩いていると、あともう少しで光に辿り着こうかという辺りで、不意に彼の目の前に黒々とした『何か』がわだかまった。
 それは闇の色をしていたが、飛鳥を包む居心地のいいそれとは違い、息苦しささえ感じさせるような重々しい淀みだった。飛鳥の眼には、自分を包むガラスの闇と、この不気味なわだかまりがはっきり別物として写っていた。
「……何だ?」
 思わず歩みを止めた飛鳥だったが、わだかまりはぶよぶよと蠢きながら飛鳥に迫り、彼を取り囲んだ。わだかまりに取り囲まれた瞬間、生々しい血の臭いがして、飛鳥は顔をしかめる。夢の中のはずなのに、あまりにもリアルな臭いだった。
 もっとも飛鳥は、それだけで取り乱せるほど可愛らしい性格はしていない。首を傾げてわだかまりを見渡すばかりだ。
 どう反応するべきなのか、蹴散らしてでも前へ進むべきなのかを思案していた飛鳥だったが、おぼろげなヒトのかたちを取ったわだかまりから、

『痛ェ……痛ェよゥ……』
『ああ、苦しい、俺の手、俺の足、俺の身体……』
『死にたくなかった、もっともっと生きたかった、ああ、どうしてここはこんなに暗いんだ、どうしてこんなに寒いんだ……』
『助けてくれ、こんな暗いところはいやだ、こんな寂しいところはいやだ……』
『痛い、寒い……苦しい……何故だ、何故……』

 幾つもの呻き声が聴こえてきた時点で目を見開いた。
 それらは間違いなく、なすすべもなく怪物の餌食にされたヤクザたちのものだった。
 飛鳥の胸に苦いものが去来する。
 憎しみを抱いたまま彼らの死を観たのなら、いっそ清々しいほどにざまぁみとろと笑っただろうが、飛鳥は彼らをも救おうと――それを縁だと思ってしまったのだ。そう思いながらも果たせなかった意志は、飛鳥の心に棘で突かれるような痛みをもたらした。
 それを敏感に感じ取ったのか、わだかまりはぶよぶよと蠢いて、飛鳥に嘆きと怨嗟の呻きを投げつける。

『どうして……どうしてお前は生きているんだ、どうして。俺は死んでしまったのに、どうしてお前は生きているんだ』
『お前の温かさが恨めしい……俺たちは、こんなに寒いところに……こんなに苦しい場所に追いやられてしまったのに』
『どうして助けてくれなかった、どうせ自分が一番可愛いんだろう、お前だって。口ではどんなに立派なことを言おうとも、所詮お前も俺たちと同じ穴のムジナなんだよ……』
『憎い、光の当たる場所に戻れるお前が憎い……』
『お前もこっちに来い……俺たちと同じ場所に……』

 わだかまりは口々に身勝手なことを言い、飛鳥を本当に自分たちのいるところへ連れて行こうというのか、彼の身体を包み込んだ。
 重苦しいわだかまりの一片が頬に触れた瞬間、脳味噌を刺し貫かれるような冷たさが全身を襲ったが、飛鳥は表情ひとつ変えず、取り乱すこともなく死者たちの影を見つめていた。
 時間にして数分間、影たちの怨嗟を微動だにせず見つめていた飛鳥は、その薄い唇をゆるゆると開き、
「……確かに、俺はお前たちを助けてやれなかった。それは俺の不明だ、詫びてしかるべきことだ。――――すまない」
 そう言って、影たちに頭を下げた。
 それは彼の偽らざる気持ちだったのだ。
 飛鳥が詫びたことで勢いづいた死者たちは、彼を自分たちの仲間に加えようと包囲を更に狭めたが、
「――――だが」
 獰猛で強靭な何かを孕んだ飛鳥の声に威圧されるかのように、ぴたりと動きを止めてその場にわだかまった。
 飛鳥は死者たちをぐるりと見渡し、きっぱりと断ずる。
「お前たちが死んだのはお前たちの弱さの所為だ。俺はお前たちを助けてやれなかった、そのことを恥じる。だが、俺は少なくとも最善を尽くした。なすべきことを果たした。――お前たちのように、恐怖に飲まれて我を忘れ、戦いを放棄はしなかった。だから俺には、お前たちの仲間入りをしてやらなくてはならない根拠など、どこにもない」
 飛鳥の迷いなく強い言葉に気圧され、どう足掻いても彼を連れてゆくことは出来ないと理解したのか、わだかまりが啜り泣きを漏らしてゆらゆらと揺れる。風に煽られる小さな火のように。
 それでも最後の抵抗とばかりに手を伸ばそうとした死者たちを、飛鳥は食い殺しそうな目で睨みつけた。
 これが夢であろうがなかろうが、例え連れて行かれたところでその一環でしかないのだとしても、これ以上同情してやる気はなかった。彼らの嘆きは理解するが、それで自分の立ち位置を変えるつもりもなかった。
 一言、
「――――失せろ、惰弱な落伍者ども」
 低い声で冷酷に吐き捨てた飛鳥が、蝿でも追うかのように腕を振ると、か細い悲鳴と啜り泣きとともにわだかまりが霧散してゆく。
 なおも恨めしげな……悲痛な声で呻き、啜り泣く死者たちの影を置き去りに、もはや心を残すこともなく、飛鳥は光に向かって再び歩き出した。
 今ではそれが、漆黒の闇の中に浮かび上がった白いドアなのだと視認できるようになっていた。ドアはひどくシンプルで、何の装飾もなかったが、何もない暗闇の中にぼうっと浮かび上がった姿そのものにほっとさせられる。
「さて、今度は何が出る……?」
 楽しむような風情でつぶやき、ドアノブに手をかけた瞬間、飛鳥の視界を爆発的な白い光が覆った。
「――――…………ッ!?」
 あまりのまぶしさに思わず目を閉じ、右手で目元を庇った飛鳥が次に目を開けると、そこはまた違う場所だった。先ほどの暗闇と同じ、透き通った黒で出来た大きな部屋だ。
 非常に日本的な言い方をすれば、面積にして二十畳くらいのものだろうか。比べたところで無意味だが、飛鳥が勝手に潜り込み、仮宿として使っていた元工場の廃墟よりは狭い。
 部屋は簡素で、床も壁も天井もあの透き通った漆黒の色をしていた。光源などどこにもないのに部屋は暗くなく、部屋の中央に天球儀に似た大きなオブジェが据えられているのがはっきりと見える。オブジェは光沢のある黒と銀で出来ていたが、それそのものが光を放っていた。
「……なんだ、ここ」
 と、首を傾げて周囲を見渡した飛鳥の視線が、いつの間にかオブジェの隣にたたずんでいた小柄な人物に行き着いたのと、その人物が薄紅色の愛らしい唇をかすかに笑みのかたちにしたのとはほぼ同時だった。
 それは幼い少女の姿をしていた。
 年の頃で言えば十二歳といったところだろうか、白と茶色の境い目の淡い淡い髪と、赤味の強い茶色の目をした美しい少女だった。肌は病的なまでに白く、簡素な濃灰色のワンピースを身にまとった身体は、触れれば折れてしまいそうに細い。
 幼い丸みを残した頬と広くて滑らかな額、アーモンドの形をした大きな目、ふっくらとした愛らしい唇。それらのすべてが完璧な配置で少女をかたちづくり、彩っている。
 類を見ないほどに美しい少女だった。
『珍しい客人もあったものだ』
 その顔を目にし、その声を耳にした飛鳥は思わず絶句し、真剣に卒倒しそうになった。
 目の前がすっと暗くなり、視界がぐるぐる回る。
「れ、……!」
 絶叫のようにその名を呼ぼうとした飛鳥は、唐突に込み上げてきた強烈な吐き気に口元を覆った。
 それは飛鳥の疵、飛鳥のトラウマそのものだった。

(わたしは幸せだったから。一緒にいられて、守ってもらえて幸せだったから。だから、泣く必要なんてない)
(わたしはもう行かなきゃならないけど、幸せをずっと祈ってる)
(大好きよ、大好き。世界で一番大好きだった。わたしは世界一幸せだった。だからお願い、わたしがいなくなっても絶望しないで。わたしはずっとここにいるから。生きて――――わたしの分まで)

 最期の日の、最後の言葉が脳裏を渦巻く。
 苦い苦い懊悩が胸を這い上がる。
 ――夢にしてはたちが悪い、と、精神の冷ややかな部分がつぶやく。
 いつもの、幸せだった記憶のリピートとは違い、少女の登場は突然すぎた。このことに関してだけは、心の準備なしに出会って正常を保てるほど、飛鳥の疵は癒されてはいなかった。
 あまりに見慣れた、あまりに愛しい、しかしすでに失って久しいその姿に呆然としていた飛鳥だったが、
『――どうした、何を呆けている?』
 片眉を跳ね上げた少女の口にしたそれ、声の調子や口調、そして眼差しが本来のものと――自分の記憶と大きくかけ離れていることに気づいて眉をひそめた。
 そう、本当の彼女はもういないのだ。だとしたら、これは、似ているだけの別人だ。毛ひとつの違いもなかったとしても。
 そこまで思い至った飛鳥はようやく……何とか平静を取り戻し、大きな息を吐いて、少女の姿をしたその人物と向き合った。心臓は未だに跳ね上がったままだったが。
 少女はひどく年経た雰囲気をまとっていた。愛らしい姿かたちとは裏腹に、その赤味がかった茶色の眼には静謐だが老獪な光が揺れている。
「誰だ、あんた」
『そういうお前は誰だ? 人にものを尋ねるときには自分から名乗れと教わらなかったか?』
 本来の少女とはあまりに違うその口調、言い様に飛鳥は鼻白む。しかし、唯一絶対の存在だった少女そっくりの姿をしたこの人物に乱暴な態度を取れるほど飛鳥は強くなく、一瞬呻いてから口を開く。
「飛鳥。雪城飛鳥だ」
『アスカか。変わった名だな。――もっとも、招かれた者なら当然か。確かによい黒だ、彼奴らの目もなかなか悪くない』
 少女の口にしたそれに、飛鳥は目を見開く。
「俺を招いたのが誰なのか知っているのか……!?」
 少女に詰め寄ろうとして、夢なのだと思い直して足を止める。夢に対して真剣になっても仕方がない、と自嘲気味に苦笑する。
 しかし、そんな飛鳥の様子に、少女は薄紅色の唇を笑みのかたちに歪め、
『お前……まだこれが単なる夢だと思っているのか?』
「なんだって?」
『これをただの夢だと思えるほど、お前の脳味噌は幸せで錆びついているのかと訊いているんだ』
 容赦のない言い草に飛鳥はまた詰まる。常の彼を知るものが観たら卒倒しかねない押され加減だ。
「……いや、夢にしてはリアルだと思いはしたんだが」
『幸せなヤツだ。御使いがこんなでは、下界の安寧はほど遠そうだな』
「なんだ、その御使いとか下界とか言うわけの判らん単語は。言葉が通じるのはありがたいが、もう少し理解出来るように話してくれ」
『今ここで話したところでお前には判るまい。そこまで親切にしてやるいわれもないしな。自分自身で必死になって学び、探すがいいさ。若いうちの苦労は大事だぞ』
「くそ……好き勝手なことを……」
『事実だ。それとも、嘘偽りの言葉で白々しく褒め称えてほしいのか?』
「……要らん。というか、頼むからその顔でそういうきつい言葉を吐かないでくれ。大事な記憶が壊れそうだ……」
『ふん? そう言えば、誰かの名を呼ぼうとしていたな。お前の目に私はどんな姿で映っているんだ?』
 容姿に不相応な、冷ややかかつ酷薄な笑みとともに言った少女が白い繊手をツイと動かすと、唐突にその隣に大きな姿見が現れる。
 なんだか色々と馬鹿馬鹿しくなってきて、鏡の出所はどこだと突っ込むのも嫌になり、驚くのもやめてしまった飛鳥の前で、少女は己の姿を鏡に映してくるりと一回転した。くすくすと楽しげに笑う。
『これはまた、ずいぶんと可憐な美少女だな。こんな可愛らしい姿になるのは久しぶりだ』
「……待て、その言い方だと本来の姿は違うように聴こえるぞ」
『そう言っているんだ、鈍いヤツだな。この姿の持ち主は誰なんだ?』
 少女の問いに、飛鳥は思わず沈黙した。
 引き結ばれた唇から、低い呻きのような言葉が漏れる。
「――――――――妹だ。二年前に死んだ」
 その言葉に、少女の笑みが深くなった。そこに確かな慈愛が含まれていることを感じ取り、飛鳥は眉をひそめる。
『それは、悪いことを訊いた。なるほど、だからこんなにもくっきりとしているんだな』
「……どういうことだ?」
『私の本来の姿を目にできる者はそう多くない。何故なら私は、お前たちの魂がもっとも縛られている相手のそのかたちを投影するからだ。特に、この世から去ってしまった者に囚われた魂は、哀しいほど鮮やかにその記憶を保ち続ける。――――お前のように』
 静かにそう言って、少女は飛鳥の目をまっすぐに見据えた。愛しい少女のかたちをしながら、その双眸に輝く光の老獪さは決して彼女のものではありえなかった。
 あいつの目はあんなのじゃなかった、もっと明るくて表情豊かで、いつも楽しそうにくるくる動いて輝いてた、などと嘆息しかけた飛鳥は、不意に少女のものとまったく同じ光を宿した闊達な眼差しをつい最近目にしたことを思い出した。
 紫水晶の美しい光が脳裏をかすめる。
 あの時感じた懐かしさの意味を、ようやく飛鳥は理解した。
『どうした?』
「――――いや、ああ……うん」
 飛鳥は苦笑した。少女であって少女ではない、ひどく年経たその人物は、何故か飛鳥に率直な言葉を漏らさせる。
「もう二度と出会うことがないだろうと思っていた唯一絶対の眼を、その光と笑顔を、まったく別の人間に見出してしまったときの気持ちをどう表現すればいい? 俺はそいつにどう接すればいい?」
 どこか頑是ないその問いに、少女は静かな笑みを見せた。
『容易いことだ、それは希望だ。どうも何も、その人間を愛せばいいだけのこと。果たせなかった何かがあるからこそ、お前は未だこの娘に囚われているのだろう? 抜け出せずにいるのだろう? ならば模倣ではなく、身代わりでもなく、それに倍する愛で誓いを果たせばいい』
「――そう、かな」
『お前は面白いな、アスカ。強靭な魂の奥に、ひどく疵ついた光が見えるぞ。それが癒され、誓いが果たされるとき、あるいはあの長い長い乱世も終焉を迎えるかも知れん。私はそれを祈ろう、御使いよ』
「…………だから何だ、その御使いというのは」
 重ねて問おうとした飛鳥だったが、先刻とはうって変わって優しい笑みをふわりと浮かべて近づいた少女が彼の右手を取り、その手の甲に軽く口づけたので、眉をひそめて彼女を見下ろした。
 少女は、まるであの愛しい存在がそこにいるかのように屈託なく笑い、飛鳥の手の甲をやわらかく撫でて彼を見上げる。
『世界の祝福あれ、黒の御使いよ。招き手の意志は――その願いは、じきに姿を現し、お前に助けを乞うだろう。どうか彼らを助けてやってくれ、この世界に生きるすべての存在のためにも』
「……よく、判らん……」
『判らなくていい、今はな。どうせまた会うさ、そのときにでもじっくり話してやる。私はお前を気に入った、こんな辺鄙なところまで来てしまう、お前のその孤独で強靭な魂をな。――――さあ、目覚めの時間だ、坊や。目覚めてまずは世界を知るがいい、お前がどれだけ必要とされているのかを』
 少女が高らかにそう告げると、飛鳥の目の前に白く輝く扉が現れた。同時に、周囲の景色がぐにゃりと歪み、自身の意識が曖昧になってゆくのを飛鳥は理解する。
 同時に、誰かが自分を呼んでいるのが判った。
 あの忙しない、騒がしい声は圓東に違いない。
 飛鳥の薄い唇に、ゆるゆると笑みがのぼる。
「ああ、そうだな。機会があればまた来るさ、今度は茶でも出してくれ」
 言ってドアノブに手をかけ、ドアをくぐろうとしてから、ふと思い出して尋ねる。
「ああそうだ、あんたの名は? 俺だけ名乗って、結局教えてもらえなかったな」
 飛鳥の問いに少女は笑い、彼の背を押して答えた。
『私の名はソル=ダート。この世界の創り手にして、すでに亡き者。――――そして、この世界の果てで、子どもたちの行く末を見守る、埒外の者』
 それらすべてが飛鳥の思考に落ちると同時に、彼の視界を純白の光が包み込み、そこで彼の意識は途切れた。