4.お人好しのライオン王
謎の少女に背を押されるようにして覚醒した飛鳥の眼に飛び込んできたのは、涙でぐしゃぐしゃになった圓東の顔だった。ずっと泣いていたのか、涙で目を真っ赤にし、鼻水まで垂らした様は真剣に見苦しい。
先ほどまで見ていたものが天使か女神なら、今のこれは間違いなく珍獣だ、 などと、非常に冷たいことを考えていた飛鳥だったが、彼の内心など知る由もない圓東は、飛鳥が起きたことに気づくやその子犬めいた顔にパッと歓喜の色を載せ、
「あああっ、起きたっ! やった、アニキ、目ぇ覚めたっ!」
躍り上がり、全身で喜びを表現すると、ベッドに横たわる飛鳥に勢いよく抱きつく。抱きつくというよりぶつかるというのが相応しいであろう勢いに、さすがの飛鳥も呻いたのだが、圓東はお構いなしだった。
そして、
「ああホントによかったー、もうこのまま起きなかったらどうしようかって心配してたんだー。アニキ、怪我痛くない? 身体は大丈夫か? ええと……水飲む?」
服の袖で乱暴に顔を拭うと、飛鳥の反応も待たず矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、やや灰色がかっても見える黒の目で彼を覗き込む。
飛鳥は一瞬沈黙したが、無言のままその横面を張り倒し、
「っぎゃ――ッッ!?」
情けない悲鳴と派手な音を立ててベッドから転がり落ちた圓東を尻目にゆっくりと起き上がった。ベッドの造りは簡素だったが、マットレスの中にハーブか何かが詰めてあるらしく、ふかふかとして寝心地がいい上にとてもよい薫りがした。
部屋は白い配色で統一されていた。寝室も居間も一緒くたになっていて、部屋の端にベッドがあり、部屋の真ん中に座り心地のよさそうな大きなソファが二つとガラス張りのテーブルがあり、その向こう側に戸棚やクロゼットらしきもの、本棚などが見える。その更に向こう側には、精緻な彫刻の施された大きなドアが見えた。
日本的な表現で広さを言うなら三十畳といったところだろうか。大層広いが、ベッドが一つしかないのを見ると、これは一人用の部屋だった。……場所の無駄遣いもいいところである。余計なお世話かもしれないが。
開かれた大きな窓の外は明るい光に満ち、爽やかで涼しい、かぐわしい風が部屋に流れ込んでくる。空は青く、高く、鮮やかだった。太陽の位置からして、昼前といったところだろうか。
身体を見回すと、入院患者が身につけるような、病衣めいた白い服を着せられている。肩と右手の平には包帯が巻かれていたが、双方とも痛みがほとんどないことに気づき、訝しげに手の平を見遣る。まだかすかに引き攣れたような感覚はあったが、手も肩も何の問題もなく動いた。
基本的に飛鳥の治癒力は常人の二倍近いが、それにしてもこの回復の速さは異様だった。
首を傾げる飛鳥の耳に、
「ひひひ、ひどいよアニキっ! ずっと心配してたのにッ。おれが何をしたっていうんだっ!」
転がり落ちたときに打ったのだろう、腰を押さえて石張りの床に這いつくばった圓東の涙声の抗議が響く。
飛鳥は冷笑めいた微笑を唇に載せ、素晴らしく偉そうに彼を見下ろすと、
「存在そのものが鬱陶しい」
きっぱりと言い切ってみせた。
頭を抱えた圓東がひどいっ! と喚く声を脳味噌のすみっこに聞きながら、ベッドから足を下ろし立ち上がる。目玉の怪物に全身を強打された痛みも今はなく、身体は力に満ちて軽やかだった。
「金村、俺はどのくらい寝てた? それほど長く眠っていたつもりはないんだが、それにしては身体の回復が早すぎる」
なおも何やら大袈裟に喚いている圓東を完全に無視して、籐を編んで作ったものらしい、優美で瀟洒な椅子に腰かけてこちらを見ているヤクザ者に声をかける。
「三日というところだな。俺にはよく判らんが坊さんみたいな雰囲気のヤツが来て、何か不思議なことをしたら傷が塞がってたんだ。あれは魔法とかいうヤツかな?」
「なるほど。まぁ、あんな怪物が存在するんだ、魔法があったところでおかしくはないか。お陰で俺は長い時間痛い思いをせずに済んだわけだし、感謝しないとな。しかしあんた、ずいぶん面白い恰好をしてるな。でも意外と似合ってるぞ、それ」
飛鳥が呆れと笑みとを含んだ声で言ったとおり、圓東が出会ったときと同じ長袖シャツにジーンズという恰好をしているのに対して、金村は明らかに現代日本もしくは先進国家とか呼ばれる区域ではお目にかかれないような衣装を身につけていた。
飛鳥はそれほど服飾の歴史には詳しくないが、十二世紀ごろのイギリスなどで見られた、サーコートと呼ばれるチュニカ(チュニック)の変形版に似ている。もう少し袖と裾が長ければダルマティカと呼べたかもしれない。
ちなみにチュニカとは、今日でいうところのTシャツの原型となったものだ。あれの布地が分厚くなったものと考えて間違いない。
もっとも、ファンタジーと名のつく映画や漫画などでよく見られる衣装の多くはチュニカかサーコートを基本に作られていると考えていいから、漫画世代の日本人にはそう物珍しくもないだろう。
金村が身にまとっているのはサーコートとチュニカの中間といった印象のもので、植物の根っこか何かで染めたものだろうか、渋い茶色をしていた。その袖口や襟元などには黒で何かの紋様が描いてある。上着であるそれの下には、まさしくチュニカと呼ぶべき乳白色の長袖を着ている。
それだけ見れば中世ヨーロッパに類似した文化を持つ国であり世界なのだろうかと思わせるが、金村はヨーロッパでは十六世紀まで登場しなかった黒い脚衣、つまりズボンを穿いていた。
金村があまり純粋な日本人らしい顔立ちではないという所為もあるが、彼の容姿及び体格にその衣装はよく似合った。剣でも握れば、そのまま騎士道物語の主役が張れそうだ。
異世界の文化が自分たちの故郷と同じとは思わないが、少しちぐはぐな印象も受ける飛鳥である。
部屋の造作、空気から感じる匂い、窓の外に広がる建物や空の様子はギリシアのそれを彷彿とさせるが、装飾や衣装からは中世から近世のヨーロッパが感じられる。無論、金村の着ているものだけで判断できるわけではないが。
「案外着心地はいい。あなたもどうだ、若」
かすかに笑った金村に言われ、ファンタジー物語の主人公になるつもりなどさらさらない飛鳥は苦笑して「俺はいい」と返そうとしたのだが、『あなた』『若』などという不穏当な表現に気づいて一瞬動きを止めた。
「……なんだそのよく判らない呼称は」
しばらく熟考したが答えが出ず、低い声で尋ねると、金村は晴れやかなと表現するのが相応しいであろう表情で笑い、
「命を救われた。圓東じゃあないが、命の借りには命で返さなきゃならねぇだろう。俺はどこまで行っても、どこで生きても兵隊だ、それ以外のことは出来ないが、俺をあなたの手足にしてくれ、若」
そう、嬉しげですらある風情できっぱり言った。
「誰が若だ、誰が」
「若が嫌なら坊ちゃんでもいいが?」
「力の限り遠慮させてくれ」
ゼロコンマの勢いで否定して、飛鳥は眉根を寄せた。凄まじく嫌そうな表情になっているであろうことが自分でも想像できる。
金村と圓東の視線が寄せられるのが判る。前者からはかすかな期待、後者からは懇願に近い希望を感じる。
突っ撥ねることは簡単だったし、瞬間的にはそうしなくてはとも思った。ここで拒絶すれば飛鳥は間違いなく悪人だが、自分が悪人であることに何の抵抗もない飛鳥にとってそれは枷ではない。
何せ、金村のそれを受け入れれば、圓東のそれも同等に受け入れねばならないということになる。基本的にひとりを貴ぶ彼にとって、そうあることで己を己と位置づけている飛鳥にとって、部下だの子分だの兵隊だのは鬱陶しい以外の何者でもない。
が、どこででもどうあっても生きていける、そういう風に出来ている飛鳥とは違って、彼らふたりのこれからはあまりにも困難だろう。ここで普通の人間が――普通の地球人が生きていくことは、新鮮な喜びやいくつもの新しい発見をするのと同じくらいの、たくさんの痛みと苦さを味わわなくてはならないのと同義だろう。
怪物が闊歩し、人間もまた怪物に変化し、得体の知れない力が横行する奇妙な世界。今までの知識や常識は十全ではなく、言葉も通じず、恐らく便利な道具のほとんどは存在せず、元の世界に帰れるのかどうかも判らない。
その状況下に、お前らはお前らで勝手にやれと言いおいて踵を返せるほど飛鳥は冷酷にはなりきれなかった。ましてやふたりは、あのひどい地獄を生き延びた、ある種の同胞なのだから。
だから飛鳥は、大袈裟な溜め息をひとつついてみせ、仕方がない、と言うしかなかった。
「別にあんたの命なんか要らん。俺の命が俺のものなら、あんたの命はあんたが思うように使うべきだ。――だから、あんたがそう生きたいと思うなら、それで後悔しないのなら、手足にでも何でもなってくれるがいいさ。そっちの馬鹿もな」
明確な否定も肯定もしない飛鳥の言に、
「それで十分だ」
と金村が頷き、
「ば、馬鹿って。ううぅ、嬉しいけど何か複雑……」
圓東がなんとも言えない珍妙な表情で呻く。
飛鳥はもう一度溜め息をついた。
初めて顔を合わせてからまだ一週間も経っていないはずの男ふたりと、何故いきなりこんなディープな関係にならなくてはならないのか、などと胸中に愚痴る。自分がいいと言ってしまったのだから仕方ないのだが、どうも飛鳥の周囲には変な連中が集まりすぎる。
俺はこんなに真っ当なのに、などと、自分のことを完全に棚上げしてつぶやく。脳裏を、再会することが出来るのかどうかも判らない、友人と呼ぶのも微妙な連中の顔がよぎった。
それでも、何事もなるようにしかならないことを理解している飛鳥は、まぁいいさ、それがいい方向に働くこともあるだろう、と思考を切り替えた。長く伸びた前髪が鬱陶しく、そろそろ切らないとと思いつつかきあげようとして、右手を持ち上げたところで気づいた。
「……? 何だ、これ」
右手の人差し指に、指輪がはまっていた。
今までまったく気づかなかったのは、それが肌に触れているという感覚が一切なかったからだ。
奇妙なことに、抜こうとしても抜けない。触れるとひんやりして気持ちいいのだが、何をどうやっても人差し指から引き抜くことが出来なかった。六回ほど試して無駄だった時点で諦め、しげしげと指輪を見つめる。
それは輝くような漆黒の、宝石とも金属とも取れぬもので出来ていた。
光を内包して自ら輝くその黒は、ソル=ダートと名乗った謎の人物の部屋に至るまでの、あの美しく澄んだ闇に似ていた。
「なにそれ、アニキ。いつの間に?」
「昨日まではなかったような気がするんだが……」
「俺に訊くな、さっぱり判らん。まぁ、嫌な感じはしないから、悪いものじゃないんだろ、多分。というか、そろそろ着替えたいんだけどな。ずっとこの恰好ってのはちょっと心もとないぞ……」
「あー、そだね。多分もうちょっとしたら昼飯を持ってきてくれるから、そのときに頼んだらいいんじゃない? おれ言葉ぜんっぜんわかんないけど、アニキなら何とかなりそうだし」
と、圓東が言うのとほぼ同時に、飛鳥の優秀な聴覚は、三人がいる部屋に近づいてくるいくつもの足音を捉えていた。
そのうちひとつの足音には聞き覚えがある。靴の種類が違うように思えたが、間違いない。
「……レーヴェリヒト」
飛鳥がそうつぶやくのと同時に部屋のドアがノックされた。
そして、
「お待ちかねの飯だぞ。つーかどうだ、アスカは起きたか?」
あの闊達な美声がひどく陽気な声音で響き、扉が開かれる。
部屋に踏み込んできたのは三人、三人とも男だ。先頭にいるのはレーヴェリヒト、背後のふたりは見覚えがあるようなないような顔立ちのまだ若い男たちで、ふたりとも手に、丸い蓋のされた大きな銀盆を持っている。
――男ばっかりなんてつまらん、せめてあの見目のいい青い角持ちを連れてきてくれればよかったのに、などと思った飛鳥の内心など知る由もなく、飛鳥が覚醒していることに気づいたレーヴェリヒトが満面の笑みを浮かべる。
その笑顔があまりにも最愛の少女のそれと似ていて、飛鳥は胸中に苦笑する。愛しい少女と比較するには少々とうが立ちすぎているが、彼の笑顔には見るものを惹き込まずにはいられない魅力があった。
「起きたか、アスカ! よかったよかった、傷の回復も順調みてぇだな。まぁ、しばらくは養生しろよ、そのうちちゃんとした浄化にも連れて行ってやるからな。ああ、何か欲しいモノがあったら遠慮なく言え」
レーヴェリヒトが身にまとっているのはサーコートではなかった。ヨーロッパではカフタンと呼ばれる、前開きになったコートのような筒型衣を上着に、中にはチュニカよりもやわらかそうな印象の灰色のシャツ、そして下半身には黒の脚衣と籐編みのサンダルを穿いている。
まぶしいほどの白に、やわらかな風合いの青の糸で繊細な刺繍の施された上着は、豪奢すぎず清潔な印象を飛鳥に与えた。額部分にダイアモンドを彷彿とさせる宝石が輝く黄金の冠は、明らかに彼が平民やただの武人ではないことを如実に物語っていたが、彼の衣装はその位にある者が着るにしては簡素すぎるような気がした。
何故か彼の言っていることのおおよそが理解でき、飛鳥は苦笑して頷く。
「なんともまぁ、名前のわりに人の好い」
「どゆこと? レーヴェリヒトって、何か意味あんの?」
つぶやきを聞きつけた圓東が、子どもっぽい仕草で首を傾げる。飛鳥は軽く肩をすくめてみせた。
「ここの世界の意味は知らん。だが、ドイツ語に同じような発音の言葉がある。レーヴェは獅子、リヒトは光を意味する単語だ。なんとも厳つい、雄々しい名前じゃないか? そのくせあの国王陛下は、欲しいものがあれば何でも言えなどと気さくに仰る」
「へー。気さくってのはよく判るよ、あの兄さん、おれたちにもすっごい親切だったもん。でもここ、ドイツ語は通じないんだよな?」
「ああ。だからきっと、本当の意味は違うんだろうよ。だがまぁ、何となくだが、ドイツ語としての意味もまた相応しいように思うな」
「うん、そだね、あんなに綺麗なのにあんなに強いんだもんな、兄さん」
話題の中心たるレーヴェリヒトは、淡々とした飛鳥と感心したように頷く圓東とを交互に見ていたが、ちょっと首を傾げてから背後のふたりに何事かを囁いた。それに恭しく頷いたふたりの青年が、ガラス張りのテーブルに銀の盆を置く。丸い蓋を取ると、片方の盆からは色とりどりの果物や菓子、パン、こんがりと焼かれた肉や美しく細工された野菜などが顔をのぞかせる。もう片方では、たっぷりとした乳白色のスープが湯気を立てていた。
どうにも貴い身分らしからぬ気配りのよさで、部屋の隅の棚から水差しと赤ワインの入ったディキャンタとグラスとを持って来たレーヴェリヒトが、グラスに赤ワインを注ぎながら三人を手招きする。
「ま、なにはともあれ食え。あとでアスカの着替えも持ってこさせるから、まずは腹ごしらえだ。特にアスカ、三日間何も食ってないだろ? スープで腹を落ち着けてからにしろよ、胃が受けつけねぇからな」
やはり何故か意味の察せられる言葉に苦笑して頷き、飛鳥は圓東と金村とともにテーブルへと歩み寄った。
「うわ、うまそー。おれ、あんなうまいメシ食ったの生まれて初めてなんだ。ここの人たちって幸せだよな」
無邪気に笑った圓東の言葉に、これだけ図太ければひとりでも何とかなるんじゃないかなどと思いつつ肩をすくめる。
残念ながら食事に質を求めたことのない飛鳥にとって、それが豪華であることは彼に何の感慨も与えない。要は、腹が満たされて、活動が出来ればいいのだ。
「メシが食えるなら順応も早いだろ。ま、食えるときに食っておけよ」
促されるままソファに腰かけながら言うと、圓東は満面の笑みのまま頷く。やはり、案外順応は早そうだ。