アスカの順応は素晴らしく早かった。
 彼が目覚めて七日間――ゲミュートリヒ市領主宅に滞在して十日間――、そのたった七日間でアスカはすっかりこの地域に馴染み、あたかも生まれたときからここで生活しているかのように溶け込んでいた。
 言葉こそ喋れないものの理解力は抜群で、衣装の着付け方や食事の作法、街中でのちょっとしたルールまで、恐らく彼の故郷とは異なるであろう文化を、アスカはあっという間に吸収して行った。言葉が理解できるようになれば普通のリィンクローヴァ人と何ら変わりないだろう、たとえ顔立ちが異国的だとしても。
 目覚めてからの七日間のほとんどをアスカは外で過ごしていた。
 何か目的でもあるのか、それとも物見遊山なのか、眷族ふたりとしもべとなった直属騎士ふたりを引き連れて、ゲミュートリヒ市内のあちこちへ出歩いているようだった。
「いいよなー、あいつら。俺も遊びに行きてぇ……」
 素晴らしく天気のいい日の昼過ぎ、初夏らしい爽やかな風が吹き込む仮設の執務室で、決裁の書類にサインを施し、御璽を落としながらレーヴェリヒトはぼやく。
 決してレーヴェリヒトの仕事の手が遅いわけでも怠けているわけでもないのに、領主から借り受けた執務机の上の書類は一向に減る気配を見せない。
 最高権力者にして最終的決定権を持つのが国王である以上、施行される様々な法案や公共事業の確認を求める書類に目を通し判を押さなくてはならないのは当然なのだが、王都から遠く離れたゲミュートリヒで、アインマールの下水拡張事業の許可を求める書類に判を押すのは何となく侘しい。
 いくら長期の視察だからってこんな微細な書類まで持ってこなくても、というのがレーヴェリヒトの正直な気持ちだ。
 十五歳で即位して以来、仕事に忙殺されてきたレーヴェリヒトだが、今までそのことを不満に思ったこともなかったのに、ノートヴェンディヒカイトから今日のアスカは何をしたとか何を食べたとかこんなことに喜んでいたとか、そういう他愛ない報告を受けるたびに、すべての責務を放棄してその仲間に加わりたいという子どものわがままじみた欲求にかられる。
 ――自分を、何の敬称も尊称もつけず、ただのレーヴェリヒトとして呼ぶ飛鳥に、王としてではない何かを感じるからかもしれない。
 ちなみにそのアスカだが、今日はゲミュートリヒ市領主夫妻に招かれて、夫妻自慢の庭園を観に行っているらしい。
 お前もあとで来いよ、午後のお茶の時間に間に合うくらいには、などとアスカに誘われ、実は書類仕事に追われてそれどころでないくらい忙しかったりするのだがすっかりその気になっているレーヴェリヒトである。
 何故か唯一彼の言葉を理解することが出来るレーヴェリヒトは、時に直属の騎士ふたりに便利な通訳のように扱われるようになっていた。どうしても意思が通じなかったりすると、彼らはアスカを執務室まで連れてきて、レーヴェリヒトにその言葉を訳させるのだ。
 たかだか七日間ですでにすっかりアスカのしもべと化し、彼に付き従うことに至上の喜びを感じているらしいふたりには、俺一応お前らの王様だぞというツッコミも虚しいほどだ。
「なぁリーエ、これって後回しにできねぇのか? 来期の穀物庫増設の決裁なんざ、今やる必要ねぇだろ。まだ、今年度の収穫高がどうなるかも定かじゃねぇのに。それと、こっちのこれ……来期の軍事演習予定だの、視察予定地の選別だのも」
 この国の著名な特産品のひとつでもある、白く滑らかで非常に扱いやすい紙、細かい文字がびっしり書かれたそれの一束を手に取り、ぱらぱらとめくって案件の内容を確かめたレーヴェリヒトがぼやくと、
「何を仰るんです、計画だけでも組んでおかないと、あなたの予定が立てられませんでしょう。大体、片付けられるときに片付けてしまわれないと、そのうち溜まり溜まった書類に殺されますよ? ただでさえレヴィは机上のお仕事は苦手であらせられますのに」
 白磁のカップに香茶を注いでいたリーノエンヴェ・カイエ・ゾイレリッタァが嘆息とともにそう言った。
 執務室にこもって書類と格闘しているよりは、様々な施設を視察して改善点を議論したり戦場の最前線で指揮を取ったり異形の討伐戦に出たりする方が格段に得手なうえ、往々にして得意ではない仕事からは目を背けがちなレーヴェリヒトはそう言われると押し黙るしかない。
 無論、戦時中などの場合は宰相にまつりごとの全権を委任して戦いに専念するが、基本的にまつりごとの方向性を決定づけるのは国王すなわちレーヴェリヒトなのだ。おまけにレーヴェリヒトをいつも補助してくれる有能かつ親身な宰相は彼以上に忙しく、これ以上頼ると真剣に過労で死にかねない。
 となると、やはり、出来ることは自分でやるしかないのだ。他に変わってもらうわけにも行かない類いの、貴く重い責務を負うことが国を統べる者の務めなのだから。
 その国王が、客人たる加護持ちと遊びに出たいから仕事を後回しにするなど、確かにあり得ない話ではある。
 ――判ってはいるのだが。
「うー、それは判ってるけどな……」
 近衛騎士団長であり側近である以前に、遠くで血のつながった従兄であり物心ついたころからの友人でもあるリーノエンヴェの前では、レーヴェリヒトの態度はどことなく子どもっぽくなる。レーヴェリヒトにはとことん甘いリーノエンヴェが、口では何を言っても自分を甘やかしてくれることが判っているからかもしれない。
 兄代わりのこの青年は、小さい頃、彼がリィンクローヴァ王族として迎え入れられた頃から、レーヴェリヒトが他愛ないわがままを言うたび、お小言や愚痴をこぼしつつも彼の願いを叶えてくれた。
 案の定というかいつも通りというか、絶世の美姫とも見紛う繊細にして婀娜な美貌に困ったような笑みを載せたリーノエンヴェは、
「でも……そうですね、せっかくの稀有なお客人ですし、レヴィがご一緒したいと思われる気持ちも判ります。でしたら……じゃあ、ここからここまでの、一番重要な書類への決裁だけ終わらせてください。その他の書類は後回しにしても結構ですよ」
 そう言って書類の山のひとつを指し示し、レーヴェリヒトの前に白磁のティーカップを置いた。ふわりと立ちのぼる柑橘系の香りは、レーヴェリヒトの好きなプラーティーン市産ダルク茶だ。
 リーノエンヴェの言葉に、レーヴェリヒトはぱっと明るい笑みを浮かべた。
 二十四歳にもなって子どもっぽさが抜けない、とカノウ辺りはいつも呆れるが、腹芸の一切出来ないレーヴェリヒトの表情は、それに相応しく常に彼の心情そのものを物語る。権謀術数渦巻く大国との厳しい外交などには向かないだろうが、その裏表のない性質を快く思ってくれる同盟国も多い。
「いいのか?」
「もちろんのこと、何の問題もないとは口が裂けても申しませんが、うわの空で仕事をされて大事な書類に変なサインをされても困りますしね。それに、どうせ明日か明後日でここも引き払わなければなりませんし、そろそろ片付けもしたいと思っていたところですから。ということなのでレヴィ、その書類の山だけ片付けてください。そうしたらあとは自由です」
「判った。ありがとな、リーエ」
「どういたしまして。ああそうだ、ちょっと水晶鏡のところへ行って来ますね、アインマールの状況とハイリヒトゥームが帰国したかどうかを尋ねたいので。北部の警備体制で確認したいこともありますし、グローエンデ将軍が戻っておられるといいんですが……」
「ハイルは今日の夕方に戻ってくるって言ってたけどな。戻り次第こっちに来るよう念押ししといてくれ、早くアスカたちの言葉の問題を何とかしてやりてぇし。しかしグロウか……予定の上では昨日辺りに戻ってきてるハズだけどなぁ。でも、あいつの担当区域はこのところ物騒だから、予定通りにとはいかないかもしれねぇな」
「そうですね、時期が時期ですから。……では行って来ますね。自由時間のためにも頑張ってください」
「ああ」
 レーヴェリヒトが片手を上げて応えると、リーノエンヴェは慈母めいた笑みを浮かべて一礼し、緩く結い上げたやわらかな金色の髪をなびかせて部屋から出て行った。
 その優雅で流麗な動作や女性的な顔立ちから、王家の守護と同時にリィンクローヴァ全域の治安をも司る騎士団の長などという、武骨で厳つい肩書きを想像することはひどく難しいだろう。――実際には、レーヴェリヒトの隣に並んで剣を揮えば、彼と何ら遜色のない働きの出来る人物なのだが。
「さて、と」
 ダルク茶をひとくち啜り、その爽やかな酸味を味わいながらレーヴェリヒトはつぶやく。
「とっとと終わらせて、あいつらのとこに行くかな……」
 どう少なく見積もっても百はありそうな案件だが、ここまでという区切りが出来ればやる気は増す。ましてやこれが終われば久々の自由な時間で、色々な意味で気になる少年のところへ行けるのだ。
 それでレーヴェリヒトが張り切らないはずがないし、やる気になった彼は非常に優秀だ。やる気のない時の数倍、などと言えば、リーノエンヴェや宰相辺りは嘆くかもしれないが。
 ――目標、午後の茶の時間に間に合う辺り、などと心に気合を入れ、レーヴェリヒトはペンを握り直す。

 書類がすべて片付いたのはそこから三時間ほど経ってからだった。
 日時計へ目をやると、午後三時半頃と判る。
 三時間弱で総勢百二十八の案件を片付けたその手際は見事と褒めてもらいたいところだが、目標の時間は少し過ぎてしまった。
「う、茶の時間は始まっちまったかな……」
 こんなことなら俺が行くまで待っててくれとか頼んでおけばよかった、茶会にもまぜてもらえないなんて俺って王様なのに不幸、などと他人が聞いたら呆れ返るような情けないことを胸中に思いつつ仮設執務室を出ると、レーヴェリヒトはその足で庭園へと向かった。
 ゲミュートリヒ市領主夫妻から借り受けたこの部屋は、夫妻の居宅たる屋敷の部屋のひとつで、何度もここを訪れているレーヴェリヒトには馴染みの場所だ。それと同じく、国王とそれに仕える領主だからという理由だけではない親交のあるゲミュートリヒ夫妻の自慢の庭園は、レーヴェリヒトにとっても自慢の場所だった。
 彼は、あれほど美しい庭を他に知らない。
 このゲミュートリヒ市は確かに田舎都市だが、非常に牧歌的で美しいことで有名な都市でもあった。リィンクローヴァはそもそも絶景の多い国だが、生きた宝石と名高いレッヒェルン玉樹森を領地内に有するゲミュートリヒは、誰もが一生に一度は訪れてみたいと願う場所なのだ。
 その中でももっとも美しい場所と誰もが口をそろえるのが、ゲミュートリヒ夫妻が手塩にかけて整備したというグーテドゥフト庭園だ。
 あまりに美しいものだから、リィンクローヴァ国内のあちこちから、この庭を一目見ようとやってくる人間が後を絶たないほどだ。しかも、夫妻自らに庭園へと招待されることは自慢のタネともなる。――夫妻の意図するところではないかもしれないが。
「ええと……どの辺だろ」
 屋敷の隣だけあって、庭園まではそう遠くない。レーヴェリヒトは五分ほどで庭園の入口へと辿り着き、見知った顔を求めてきょろきょろと辺りを見渡すと中へ踏み込む。
 初夏の庭園は、鮮やかでまぶしい緑と色とりどりの薔薇に彩られ、輝いていた。どの薔薇も見事な大輪で、すべてに手入れが行き届いていた。広々として解放的な、芸術的としか言えない手法で花壇と石、垣根と水場が配置された空間には、薔薇の穏やかな芳香が満ちている。
 藤棚を戴いた瀟洒な四阿(あずまや)が一定の間隔で配され、中に設置された、繊細な彫刻の施された椅子とテーブルでは、侍従や奴隷の類いを傍らに侍らせた人々が様々に談笑している。訪問者の半数以上が――特に、四阿で寛いでいるのは―― 一定以上の富裕階級と思しき身なりの人々だったが、明らかに平均的な一般市民といった出で立ちの人々も少なくはなかった。
 ここはそれだけ、たくさんの人々に愛され、そしてまた誰にでも開かれた場所なのだ。
「お」
 時に宝石にも優る価値を持つ美しい花々の、色合いと輝きと香りの三重奏を愛でつつ目的の人物を探していたレーヴェリヒトは、進行方向の四阿、緑の垣根の向こうに漆黒の輝きを認めて破顔した。そもそもリィンクローヴァの属する第三大陸には黒髪を持つ人間は少ないし、あれほど見事な光を放つ黒は更に少ない。
 近づくと、横顔ではあったがそれが間違いなくアスカであることが判る。眷族ふたりとゲミュートリヒ市領主夫妻とともにテーブルにつき、領主手製の菓子などを口にしている。
 直属の騎士ふたりは、五人を守るかのようにアスカの背後に立っていた。
 言葉が通じないなりに身振り手振りで何事かを伝え合っている、アスカと夫妻の表情はひどくやわらかく、穏やかだった。
「アス、」
 友人を見つけたときの子どもっぽい喜びが沸きあがり、垣根の向こう側へ声をかけようとしたレーヴェリヒトだったが、四阿の更に向こう側からアスカたちに視線を投げかけている青年の顔に気づいて思わずその声を飲み込んだ。
 条件反射のようなものだ。
 彼に気づいたゲミュートリヒ市領主、メイデ・ルクス・ゲミュートリヒが椅子から立ち上がり、やわらかく会釈をする。萌黄色のシンプルなドレスがふわりとたわんだ。
 青年は背後に控える侍従たちに下がるように命じ、ゆっくりとした動作で四阿へと近づく。
「あら……大公家の若様。このような辺鄙な場所においでくださってありがとうございます。お構いもできませんが、どうぞごゆっくり」
 完璧な所作で優雅に挨拶をするメイデは確か五十歳を超えるはずだが、若い頃には求婚者が列を作ったという彼女の繊細にして婀娜な美貌にはいささかの翳りもなく、むしろよい意味で重ねられた年齢は、そこに知性と慈愛という豊かな彩りを添えていた。
 これで二、三十年前にはその名を各地に轟かせた戦上手の女騎士だったというのだから、人間というのは判らない。
 ちなみに、茶色の髪に淡青の目という色彩の違いさえなければ、とある人物と非常によく似ている。
「お邪魔いたしておりますよ、メイデ殿。リィンクローヴァ一美しいと評判の庭園を拝見しに参りました。噂に違わぬ美しさです。しかし、それにも増してあなたはお美しい、あなたが人妻であらせられなければ、私も求婚者の列に身を投じたことでしょう」
「まあ、ユギネ様ったらお上手ですこと。そうやってあちこちの乙女を泣かせておられるのね?」
「私は世辞など申しませんよ、美しいものを美しいと率直に述べることは真実に沿っておりますでしょう」
 くすくすと可愛らしく笑うメイデへ近づくとその白い繊手を取り、優雅な所作で甲に口づけてにっこり笑った青年の姿に、レーヴェリヒトは困惑の溜め息をついた。アスカたちのところへ行きたいという思いも強いのだが、彼がいるとなるとものすごく躊躇う。
 そう、有り体に言えばレーヴェリヒトはあの青年が苦手なのだ。
 彼は、赤茶色の髪に榛(はしばみ)色の目をした、優雅な所作と甘い顔立ちの青年だ。
 基本的に王族貴族というのは美形が多いが、その中でも特に整った容貌の人物で、その博愛主義的性質と巧みな話術、豊富な知識から、社交界にも彼に憧れる乙女は多いと聞くし、彼を巡って激しい恋の火花が散らされてもいるのだという。
 国王のくせにと笑われそうだが、華やかな場所が色恋に関するあれこれと同じくらい得意ではなく、夜ごと催される夜会にも滅多に顔を出さないレーヴェリヒトにはよく判らない話だ。
 青年は、名を、ユゲーネソート・ウォレン・ドロッセルという。
 リィンクローヴァに並々ならぬ影響力を持つ大貴族、すなわち十大公家のひとつドロッセル家の嫡男である。ゾイレリッタァ家やロベルタ家、シュトゥルム家に次ぐ名門で、国王といえどもその影響力を無視は出来ない。
 二十八歳と適齢期を過ぎても独身を通しているが、同じく適齢期ぎりぎりといったレーヴェリヒトが奥手すぎて恋人のひとりもいないのとは違い、彼の場合は引く手あまた過ぎてひとりに絞れないのだという。同じ男なのに、と時に切なさすら感じるが、性質などというものは本人にはどうしようもない。
 ドロッセル家は武門ではない一族なので、基本的に武人であるレーヴェリヒトとはあまり親交がなく、彼らの内情にせよユゲーネソートの人となりにせよ、詳しくは知らない。少なくとも悪人でないことはよく判るのだが、レーヴェリヒトは彼が苦手だ。話の輪に入っていくのを躊躇う程度には。
 ――――理由は、出来ればあまり思い出したくない。
 だからと言ってこのまま踵を返したいわけもなく、どうしようかと情けなくも真剣に悩むレーヴェリヒトを尻目に、アスカに目をとめたユゲーネソートが首を傾げてメイデに声をかける。
「メイデ殿、こちらは? 見たところ、加護持ちのようですが。ずいぶんと美しい黒だ、私も初めて見ます。こんなに美しい加護色は、国王陛下の御髪(おぐし)以来です」
「ああ……そうですわね。ご紹介いたします、こちらはアスカ、アスカ・ユキシロと仰る遠方からのお客人ですわ。十日前の異形騒ぎをご存知かしら、あの時、二体の異形を屠られたのだとか」
「へえ……こんな、ほっそりした子が。人は見かけによらないとは至言ですね、メイデ殿しかり、国王陛下しかり、この彼しかり。貴い色を宿すだけのことはある、ということでしょうか。私は荒事には向いていないから、余計に偉大なことのように感じます。そんなに強い子なら、私のところに欲しいくらいだ。――初めまして、アスカ。私はユゲーネソート・ウォレン・ドロッセル、ドロッセル市領主ハティ・ブレス・ドロッセルの息子です。どうぞ、お見知りおきを。よろしければ、ユギネと呼んでください」
 国王に次ぐ影響力を持つ十大公家の一員とは思えぬほど丁寧に一礼したユゲーネソートが言うが、アスカは微動だにせず、強靭な光を宿した双眸で彼を見つめているだけだった。不思議そうな表情をするユゲーネソートに、微苦笑したメイデが言を継ぐ。
「ユギネ様、アスカはまだここの言葉が理解できていないのですわ。彼の眷族おふたりもね。わたくしたちも彼らの言葉を理解することはできませんの。でも、不思議なことに、レヴィ陛下だけは彼と意志の疎通がおできになりますのよ。アスカと一番最初に言葉をお交わしになったのがレヴィ陛下だからなのかしら」
「おや……では、アスカは陛下のお客人なのですか。ああ、もしかして、」
 一瞬何かを考える風だったユゲーネソートが、悪戯っぽい、妖艶ですらある微笑を浮かべ、レーヴェリヒトは悪寒を覚えて硬直した。……ますます出て行けない。
 でもこのままここの突っ立ってるわけにもいかねぇし、どうしよう、などとまたしても情けないことを思っていたレーヴェリヒトだったが、
「アスカは陛下のお小姓なのかな? もしくは、その候補者?」
 思いきり見当違いのことを、問いかけというより確認といった風情でユゲーネソートが言ったので、めまいを感じてその場に昏倒しそうになった。
 誤解どころの話ではない。
 レーヴェリヒトには、美少年とかいうカテゴリの人種を侍らせて悦にいるような趣味はない。同性同士の絆や友愛を貴く思うし、珍しくもないことだけに同性間の恋愛を忌避もしないが、レーヴェリヒトとしては出来れば愛を囁くのは可憐な女性がいい。
 ――そもそも、十日前のアスカを見ていて、彼を小姓になどと思うわけがないのだ。
 あの裂帛の気合と覚悟は、ただの少年のものではなかった。
 あれは間違いなく、紛うことなく武人だし、将の器を持つ人間だ。
 誰かに従うより、誰かを従わせることの似合う人間だ。人々を導き、魂を昂揚させ、誓いを新たにさせることの出来る人間なのだ。
 だからきっと、レーヴェリヒトも惹かれるのだ。あの、強靭で揺るぎない、貴い色を宿した眼差しに。――魂を射抜くような、あの漆黒に。
 しかし、
「気持ちは判りますね、アスカはとても綺麗だ。何というか、顔が特別整っているわけでもないのに、色と雰囲気がとても強くて綺麗で、一度見たら忘れられなさそうです。――――そうか、残念だな、彼はもう陛下のものか。誰のものでもないのならもらい受けたかったけれど、仕方がありませんね」
 武人でないものに、アスカという少年の孕む獰猛ななにものかを察することは出来ないのか、ユゲーネソートは素晴らしく素っ頓狂なことを口にして笑った。メイデが困ったように微笑み、騎士ふたりは困惑とも呆れとも取れぬ表情でお互い顔を見合わせている。
 泰然としているのはアスカとその眷族ふたり、そして話に口を挟むことなく茶を啜っているメイデの夫だけだ。
 ユゲーネソートの言から悪意は感じないのだが、嬉しくない。
 言葉が理解できるようになってから、自分がそんな目で見られていると知ったらアスカは腹を立てるだろうし、あの日あれだけの覚悟と強い意志で異形を屠った彼に失礼だ、とレーヴェリヒトは思う。
 ユゲーネソートと顔を合わせるのはイヤだが、それでもこの誤解を解かなくてはという使命感にも似た意識の元、意を決したレーヴェリヒトが四阿のある一角へ踏み込んだのと、
「馬鹿を言うな」
 ――――その声が響いたのはほぼ同時だった。
 誰もが一瞬沈黙し、周囲を見渡し、お互いに顔を見合わせた。
 レーヴェリヒトに気づいたメイデが小さく一礼する。
「俺がレーヴェリヒトの小姓? 逆ならともかく、何で俺が。つぐみというだけあっておしゃべりな男だな。だが……あまり頭のゆるいことを言うなよ、面白くもない」
 静かだが紛れもない嘲笑を含んだ厳しい言葉を紡ぐのは、少年のものにしては低い、どこかしわがれても聞こえる声。この十日間で何度も耳にした、冷静で理知的な――――異国の言葉しか、知らないはずの。
「――――アスカ…………?」
 メイデが、ユゲーネソートが、イスフェニアが、ノートヴェンディヒカイトが呆然と見つめる中、漆黒の少年はゆっくりと立ち上がった。そして、レーヴェリヒトをその稀有な漆黒で見つめる。
「おまえ、なんで、言葉……」
 何が何だか判らず、喘ぐように言葉を紡ぐレーヴェリヒトに、少年はにやりと笑ってみせる。意地の悪い、強靭で凶悪な笑みだった。これほど似合う笑みもあるまいと思うほど、様になっていた。
「判らないのか、簡単なことだ」
「……何だって?」
 眉をひそめて問い返すレーヴェリヒトに、少年はますます笑みを深くした。素晴らしく凶悪で、噛みつかれたらただでは済むまいと思わせるだけの凶暴さを含んでいるのに、ひどく人を惹きつける、魅力的な笑みだった。
「俺が天才だからに決まってるだろう、レーヴェリヒト・アウラ・エスト・リィンクローヴァ」
「……なんだよ、それ…………」
 それは完璧な発音と、完璧な文法の。
 どこから聴いても、このソル=ダートの言葉以外ではあり得ない言語だった。
 レーヴェリヒトの混乱は増すばかりだ。