レーヴェリヒト及び周囲の反応は飛鳥をひどく満足させた。
驚かれるだろうとは思っていたが、あそこまで驚愕してくれるとは思ってもみなかった。
あの時の、鳩が豆鉄砲を食らったような、どころか、鳩に豆鉄砲でも食らったかのような、皆の珍妙な表情を思い出して飛鳥はくすくすと笑う。狐につままれたような、でもいい。
とにかく、面白かったのだ。
……もっとも、飛鳥にとっては、だが。
「本当に見ものだったな、あれは」
堪えきれず、笑いを含んでつぶやくと、
「見もので悪かったな……」
恨みがましげでいてどことなく情けない、それなのにちょっと聞いたこともないくらいの美声が飛鳥の右隣から響いた。
肩をすくめると、視線の端に、陽光に照らし出された雪原を思わせる、白銀の髪がちらつく。窓から吹き込む強い風が、その、まとめられもしていない銀を吹き散らかし、翼のようにはためかせていた。
――なんのてらいもなく、素直にそれを綺麗だと思う。心が洗われるような、清らかなで健やかな美だと思う。
髪だけでなく、隣で子どもっぽくふくれている青年王の、姿かたちや眼差しのすべてを。
「大体にしてお前、言葉が判らねぇんじゃなかったのか。いったいいつそんな上手に喋れるようになったんだよ? まさか、実は最初から判ってたとか言わねぇだろうな?」
もっとも、その類い稀な、神聖ですらある美の持ち主は、その姿かたちの神々しさとは裏腹に、まったくもって『国王陛下』らしくなかった。顔立ちと口調のギャップがすごすぎるのだ。
黙っていれば神話の美とでも言うべきレーヴェリヒトだが、口調はまるでその辺りの悪童のようだし、おまけにどうやら己の姿かたちが――その眼差しの持つ強靭で闊達な力がいかに他者を惹きつけるか、目を離せなくするかも判っていない風情で、そのうえ為政者としてあるべき貫禄や威圧感の類いがさっぱり感じられないのだ。
しかし、飛鳥にはそれが心地よかった。
彼の心根はまるで初夏の風だ。
今のこの季節独特の、闊達で爽快で、そしてどこか緑の匂いを含んだ風のようだ。その涼しさに包まれたものの心を清らかに洗い、思わず微笑ませる風のようだ。
押し付けや束縛、命令や強制を憎悪しているといって過言ではない飛鳥には、この『王様』は傍にいて苦痛ではない、珍しい人間のひとりだった。こんな為政者が治める国ならば、民にはさぞかし暮らしやすかろうと思う。
――レーヴェリヒトの心根を心地よく感じるのと同じく、この世界の美しさは飛鳥の心を静かに、穏やかにした。
それもまた、飛鳥には心地よく、風景のすべてが驚きだった。
飛鳥の知るあの故郷の風景などたかが知れているが、それでも、飛鳥はこの世界で見るものほど美しい景色を知らなかった。この世界に存在するものほど鮮やかで美しい色彩を知らなかった。
まぶたの裏側に刻み込まれたたくさんの風景と色を、飛鳥は生涯忘れないだろう。
そう、ここに滞在してたかだか十日、世界のすべてを観たわけでもなく、レーヴェリヒトと顔を合わせている時間が特別に長かったわけでもないのに、飛鳥はもうすでにこの地を、そしてこの人物の傍を離れ難く思っていた。
あの少女と同じ眼差しをもつという理由だけではなく、この青年の存在が近くにあることを自然と思うようになっていたのだ。
無論、気懸かりがまるでないわけでもなかったけれど。
「もしそうだと言ったらどうする? 不敬罪で斬首刑にでもするか、国王陛下?」
恨めしげなレーヴェリヒトの問いに、まったく動じることなく笑った飛鳥が返すと、レーヴェリヒトは嫌そうに顔をしかめた。
「馬鹿言え、そんなわけねぇだろうが。だいたい、何でそこまでヒデェことしなきゃいけねぇんだ、どこの暴君だ俺は。敬うに値しねぇと本人が思ったんなら仕方ねぇだろ」
「何ともまぁ人の好い王様もいたものだ。だが、じゃあ、他にどうする?」
飛鳥が更に問うと、レーヴェリヒトは何故か偉そうに――子どもっぽく――胸を張り、
「拗ねる」
などとのたまった。
飛鳥は思わず吹き出す。
レーヴェリヒトが、また、盛大に顔をしかめた。
爆笑しそうなのを、懸命に声を殺して笑っていると、
「笑うなっつーの!」
心外だと言わんばかりに抗議された。
「これで笑わない方がどうかしてる! 本当にらしくない王様だな、お前!」
「『お前』だぁ!? どう観ても俺の方が年長だろう! せめてもーちょっと敬意を払え!」
「わがままなヤツだな……」
「別にわがままとかそんなんじゃねぇっ。人として当然のことだろーがっ」
「仕方ないな。そうだな……なら、あなたさまか貴殿か御身か貴兄かレーヴェリヒト様か選べ」
「…………」
「遠慮するな、好きに選べよ」
「ううっ、そんな微妙極まりない呼称は要らねぇ……ッ」
「ん、なんだ、せっかく人が選択権を準備してやったのに、張り合いのない」
「つーか、何でそんな仰々しいのしかないんだよ!? わざとか!? わざとだな!?」
「…………ばれたか」
「ばれたか、じゃねぇっ! 何でそんなことすんだっ」
「面白いからに決まってるだろう」
「そんなもんに面白さを求めるお前をどうかと思うんだが……っ」
「まったく、困ったヤツだ……じゃあ、なんて呼んでほしいんだ?」
一国を統べる国王とその客分というふたりがするにはあまりに滑稽な、品位だ格式だといった代物とはまったく無縁で素晴らしくおとなげのない舌戦の中、肩をすくめた飛鳥がそう問うと、
「えっ」
レーヴェリヒトは虚を衝かれたような、『ポカンとした』という表現がもっとも相応しいであろう表情になった。しかし、神々しい美貌の持ち主がやると、こんな間抜けな表情でも様になってしまうから面白い。圓東辺りがやったら単なる間抜け顔なんだが、とはそのときの飛鳥の非情に過ぎる胸中である。
「えっ、じゃないだろうが。陛下も貴殿も様づけもいやなんだろう? だったら、レーヴェリヒト・アウラ・エスト・リィンクローヴァ本人はなんて呼んでほしいと思ってるんだ?」
「う、え、いや、それは……」
飛鳥は特に意識したわけではなく、何の気なしに訊いただけだったのだが、それに対してレーヴェリヒトはしどろもどろになった。隣を見やると、何故か知らないが首まで赤くなっている。
平素が美しい白皙だけに、その差は歴然だ。
いちごやりんごだってここまで勢いよく色づきはしないだろうさなどと妙な感心をしつつ、飛鳥は首を傾げた。
「……何故そこで恥ずかしがる」
訝しげなそれに返事は返らず、レーヴェリヒトはもじもじと落ち着かない風情でソファに座り直したりしている。紫水晶の目をあちこちに泳がせ、上着の裾を長くて優美な、それでいて武人であることをうかがわせる武骨さを有した指でいじくっている様子は、とてもではないが一国を統べる国王とは思えないし、自分より年上とも思えない。
飛鳥は呆れると同時におかしくなった。
十七年と何ヶ月か生きてきて、年上の、自分より図体のでかい同性を『可愛い』などという言葉で表現したくなったのは生まれて初めてだ。
――――それでも、悪い気がしないのは、何故だろう。
「いや、だってな、」
肉親でも身内でもない相手にこんな感情を抱くことすら生まれて初めてで、何ともまぁ稀有なことだ、などと思っていた飛鳥の隣で、不意にレーヴェリヒトが口を開く。飛鳥は小首を傾げたままで続きを促した。
「だって、なんだ?」
「ああ、だから……その」
「はっきりしろ、その図体で恥ずかしがられても鬱陶しいだけだ」
「うわっ、ひでぇッ! ……いやだから、そんな風に尋ねられたことがなかったんだよ、今まで。国のヤツらにとって俺はどんなときでも王様だからさ。それで、ちょっとびっくりした」
「ああ……なるほど。俺は王様と呼ばなくていいのか? 王家の威信に関わらないか?」
「そんな威信、別に要らねぇ。大事なのは、そんなことじゃねぇだろ。……お前の好きなように呼んでくれ、よっぽど変なのじゃなきゃ、それでいい」
言って晴れやかに――開けっ広げに笑う姿は少年のようだが、飛鳥は、威信を不要と言い切ったその言葉に強い力を感じた。民を統べる者として、国を導く者として、その性質を稀有だと思う。
飛鳥の世界でも、そう断じることのできる者ばかりがまつりごとを統べていたなら、きっと世界はもっと住み心地がよかっただろう。
飛鳥は笑って肩をすくめた。
「変な呼び名は却下されるのか、気をつけよう」
その言のあと、とてもとても大切な宝物を掌(たなごころ)に乗せるような感覚でその名を紡ぐ。
「……そうだな、レイ、はどうだ。綺麗でいい音じゃないか?」
「レイ? 何でまた、そんな音になるんだ」
「レーヴェリヒトだからレヴィ陛下と呼ばれてるんだろう。他の連中と同じでもつまらん」
と飛鳥が言うと、レーヴェリヒトは遠い目をした。
「……つまるとかつまらんとかそういう量り方をするのもどうかと思う俺は器が小せぇのか……?」
「ああ、小さいな。そんなことじゃあ大物になれないぞ」
「別になりたくもねぇんだが……」
「一国を統べる国王陛下が何を言ってる。で、どうなんだ、それでいいのか? それとも、レヴィの方がいいのか?」
どこまでも為政者らしくないレーヴェリヒトに呆れつつ問うと、青年王はほんの一瞬何かを考え、
「ん、そだな、悪くねぇ。ローゼとか言われるよりマシだし、うん、それでいいぞ」
「……ローゼ?」
まだ自分の語彙の中にない単語が出て来たので、飛鳥は眉をひそめてその意味を問おうとしたのだが、それとまったく同時のタイミングで扉がノックされたので、思わず言葉を飲み込んでしまった。これが茶や菓子だったら盛大にむせているところだ。
レーヴェリヒトが扉へ紫水晶の双眸を向ける。
扉の向こうの気配はふたつ。
ひとつは静かで、ひとつは弾むように楽しげだ。
「おう、どしたよ?」
「茶をお持ちしたぞ、レヴィ」
返った声、非常に中性的なそれは、初めてレーヴェリヒトと会ったときに、彼の背後に控えていた双子の片割れのものだ。
「そうか、ありがとな」
レーヴェリヒトが破顔するのと同時に扉が開き、銀の盆に茶器や菓子の類いを載せたふたりが部屋に入ってくる。
赤い目に赤い角、赤い尻尾がカノウ・ゾンネ、青い眼に青い角、青い尻尾がウルル・シックザールだ。
太陽に運命とはご大層な、とはその名を聞いたときの、おそらくこの世界の人々には判らないだろう飛鳥の胸中だが、ふたりとも、神秘的な雰囲気の、人ならざる美しさの持ち主で、レーヴェリヒトとは違う意味で目の保養になる。
顔立ちはそっくりなのに、雰囲気は全然違う。
カノウは闊達で少年っぽく、ウルルはおとなしく控え目で少女のようだ。もっとも、身長で言えば飛鳥よりもいくらか高いが。
こういう、人間ならざる存在を、飛鳥が十日前に屠った類いのものをすべてひっくるめて『異形』と呼ぶのだと知ったのはつい最近のことだ。その中でも、カノウやウルルのように人間に近い姿かたちをした異形は強い力を有し、また、非常に珍しいものであるらしい。
初めて目にしたときは、さすがにあの惨い出来事のあとだっただけに警戒したが、今の飛鳥はこのふたりが真実信用の出来る相手だということを理解していた。ふたりがレーヴェリヒトに向ける慈しみの視線を見れば自ずと判ろうというものだ。
「リーエはどうした?」
「向こうで、メイデ殿とともにお客人を接待しておるようじゃ。ドロッセルの若君に続いて、ザーデバルクの領主殿が参られたようでな」
「へえ、ツァールトハイトが来てるのか。珍しいな、あの武骨なヤツが。まぁ……メイデの友達みてぇだし、おかしなことでもねぇのか。それに、今の季節のグーテドゥフトの薔薇は一生に一回は観ておかねぇとな。あとで挨拶にでも行って来よう」
「そうなされよ、卿も喜ばれよう。おお、アスカ、おぬしの眷族としもべたちは別の部屋で待機しておるでな、あとで顔を見せてやっておくれ」
「――判った」
いつの間に眷族としもべとかいう表現までされるようになってしまったのか、ちょっとめまいすら感じた飛鳥だったが、自分がいいと言ってしまったのだから仕方がない。こうなったら、とことんまでこき使ってやるまでだ、飛鳥の配下になったことを後悔するほどに。