そんな、剣呑極まりない思考とともに肩をすくめた飛鳥が返すと、彼に目をやったカノウが楽しげに笑った。飛鳥は小さく首を傾げる。
「どうかしたか」
「いや、メイデ殿がな、アスカが共通語を話せたとは知らなんだと驚いておったのでな。いつの間に喋れるようになったのじゃ?」
「あっ、それ、俺も訊きたかったんだ、話がずれまくって忘れてたが。で、どうなんだよ? 本当は元から喋れたのか?」
「話をずらしたのはお前だろうが。……まぁそれはさておき、そこそこ聞き取れるようになったのが目覚めて二日後、ほとんど理解出来るようになったのが五日後だな。で、今日、おおよそ話せると思ったから喋ってみたわけだが。まぁまぁだろう、発音も」
「まぁまぁどころか完璧だよ、薄気味悪ィほどだ。十日前、初めて会った時は本当に何にも判ってなかったよな。でも、何をどうやったらたかだか七日でそこまで喋れるようになるんだ? また俺を騙そうとしてるんじゃねぇだろうな?」
 ややひがみっぽいレーヴェリヒトの言葉に、飛鳥は肩をすくめた。人間、一度騙されると用心深くなるというが、レーヴェリヒトのこれはその顕著な例だろう。
「何でこんなことでお前を騙さなきゃならないんだ、面倒臭い。騙すならもっと奇抜で面白いネタを使うさ。そうじゃなく、……そうだな、異国語の真っ只中に放り込まれたことのない人間には判らないかもしれないが、まったく下地のない異国語を理解しようという場合は、たくさんの言葉を聴いて記憶して選別して、その言葉を使う人種や地位、年齢や性別、場面や状況ごとに分けて、ひとつずつその意味を当てはめていくんだ。面倒臭い作業ではあるが、それを繰り返しているとそのうち理解できるようになる」
「……いや、判んねぇって。どんな記憶力だ一体。つーか、少なくとも七日でってのは難しいだろ」
 レーヴェリヒトが途方にくれた顔でこぼし、飛鳥は肩をすくめる。
 無論のことそのほとんどは飛鳥自身の鍛錬の結果だったが、それと同時に、何か大きな力に助けられたような感覚も確かにあった。ここまで短時間で、ここまで完璧に異国の言葉が話せるようになったのは初めてのことだ。
 もっとも、そんな胡散臭いことをあっけらかんと口に出すほど子どもでもないが。
「普通はそうかも知れないが……まぁ、俺の時間は普通の人間の三倍速だからな。そうでなくては意味がない」
「……何だって?」
「いや……いい、気にするな、こっちの話だ。ああ、文字もおおよそ覚えたぞ、といってもまだ、名前を書けるくらいのものだけどな。ここは表音文字と表意文字双方を使っているんだな」
「もうそんなことまで出来るようになったのか、お前ホントにすげぇな。リィンクローヴァの国民だって、文字なんか半分くらいしか書けねぇのに」
「故郷では読み書きが出来ることは常識だったからな、そうと意識すればそれほど難しくもない。まぁそんなわけで、この七日間、できるだけ色々な区域へ出かけていって語彙を集めたが、まだ偏りはありそうだ。基本的に騎士たちの言葉を手本にしたからな……」
「ああ、確かに。ちょっと堅苦しい」
「お前の方がよっぽど砕けた印象だ。理解出来るようになってみれば、どこの悪ガキだという感じだな。まったく、何度も思うが、王様らしくない王様もいたものだ」
「しょうがねぇだろ、性分なんだから」
「……ふむ、まぁ、それは確かに悪くないな。偉そうにふんぞり返られるよりは、親しみが持てる」
 肩をすくめて返す飛鳥と、何故か胸を張って「だろ?」と頷くレーヴェリヒトの前に双子が白磁のティーセットと菓子の載った皿を置く。
 ふたりがティーセットや菓子を両手で給仕しつつ、赤と青の長い尻尾を手指のように器用に使って蜂蜜の瓶や銀のスプーンを準備するのを、飛鳥は物珍しく見つめていた。ウルルの尻尾は猫っぽいので、それがぱたぱたと動く様などは何とも可愛らしいし、カノウの尻尾の先端を飾る金の鈴が時折ちりりと鳴るのも微笑ましかった。
 ティーカップは持ち手の細工が非常に繊細で、銀で蔦が描かれた様などはちょっとした芸術品だ。
 菓子はこの館の誰かがレーヴェリヒトのために焼いたものなのか、非常に洗練されている。薄く焼かれた色のいいパイと乳白色のクリームを幾重にも重ね、天辺に宝石のような美しい光沢のある青い大きなベリーが輝く様子は、その姿かたちの絶妙さと言い、よほどの名人が手がけたのだろうと思わせた。
 準備を終えた双子を手招きし、前のソファに座らせたレーヴェリヒトが、青いベリーを見て目を細める。
「お、今日の茶菓子はウルルの作だな。ケユクの実がすっげぇ綺麗に映えてる。お前の目みたいに綺麗だ。しかし、こんな綺麗ででかいケユクは珍しいんじゃねぇか?」
「あ……はい、とてもいい実が手に入りましたので、それで、その。お口に合えばよろしいのですが……」
「そうか、じゃあいただくとするかな。アスカ、お前も食え、ウルルは菓子作りの天才だ」
「い、いえ、決してそんなことは。レヴィ、お客様の前で大仰な世辞など仰らないでくださいまし」
「何言ってんだ、世辞なんかじゃねぇって。なぁ、カノウ?」
「身内贔屓でよろしいと仰るのなら、儂もそのように思うがのう」
「もう、にいやまでっ」
 ふたりの褒め言葉にウルルが首まで赤くなる。レーヴェリヒトとカノウがそれを観て顔を見合わせ、笑みを交わす。
 それは主従というよりも、強い絆で結ばれた家族を彷彿とさせた。非常に微笑ましい、自分の存在が場違いですらあるような光景に微苦笑し、飛鳥は銀のフォークを手に取った。
「……ふむ、なら、いただいてみよう。ただ、全部食うと養分過多になるから悪いが残すぞ」
「ああ、そうだった、ちょっとしか食えないんだったか。しかし難儀な身体してるな、お前」
「仕方ないだろ、生まれつきだ。この身体とも長いつきあいだ、こんなものかと納得しているさ」
「ふぅん、そういうもんか。ま、いい、とりあえず食え。ウルルの作る菓子はリィンクローヴァ一だ。リィンクローヴァ一ってことは、世界中のどこに出してもそうそう引けは取らねぇってことさ」
「レヴィ、また、そんな……!」
 またしても真っ赤になったウルルが抗議する姿に笑い、飛鳥はパイにフォークを入れた。よい色に焼き上げられたパイがさくり、という小気味のいい音を立てる。
 パイの欠片をこぼさないよう注意しながら、一口大に切ったそれをゆっくりと口に運ぶ。
 飛鳥は、自分が咀嚼するのを、ウルルが緊張した面持ちで見つめているのを感じていた。味にうるさい美食家でなし、美味い不味いが運命を決する場面でもなし、そんなに気を張らなくてもとはそのときの飛鳥の率直な心境だ。
 それでも飛鳥は、自分が感想を求められていることを無言のままに理解してもいたので、パイのひとかけらを嚥下し終わるとウルルを見遣った。
 どこか可憐な風情の、美しい異形の背筋が伸びる。
 飛鳥は苦笑した。後ろ盾も強制力も持たない自分に、何をそんなに緊張する必要があるというのだろう、などと思う。
「あの、いかがですか、アスカ?」
 恐る恐るといった印象のウルルの問いに、飛鳥はほんのちょっと肩をすくめてみせた。そして一言、
「悪くない」
 そう、返す。
 それは非常に素っ気ない、褒め言葉とも取れぬ褒め言葉だったが、ウルルの頬には薔薇色の喜色が差した。パイを華やかに彩るケユクの実、もしくはこの世界の空を思わせる、澄んだ真青の双眸がやわらかく緩み、薄紅色の唇に童女めいた無垢な笑みが浮かんだ。
 それを微笑とともに見遣ったレーヴェリヒトが、飛鳥に笑みを含んだ視線をちらりと向けた。
「お前は知らねぇだろうが、アスカ、このケユクの実には幸運を呼び寄せる力があるって言われてるんだぜ。こいつは青の精霊王の加護篤き果実なのさ。で、こんだけ大きくて色合いの綺麗な実はすっげぇ貴重なんだ。なぁウルル、今日のこれはアスカのために焼いたんだろ?」
「……そうなのか?」
「え、あ、いえ……あの、」
「うろたえなくていい。別に、あんたを糾弾しようとか意地悪をしてやろうとか思ってるわけじゃない」
 ふたり同時に問いかけられた所為なのか、今すぐにでもどこかへ隠れてしまいたいとでもいった表情になっているウルルに苦笑した飛鳥がそう言うと、
「あっ、は、はい……あの、も……申し訳ございません……」
 ウルルは、何故だか知らないが謝罪の言葉を口にした。恥ずかしげな、消え入りそうな声だ。
 飛鳥は肩をすくめる。
「あんたに謝られるようなことをされた覚えもないな。……いい出来の菓子だった、もしあんたが本当にこれを俺のために作ってくれたんだと言うなら、感謝する」
 パイの天辺に乗っていた青いケユクを指先でつまみ、口に入れる。つるつるした表面に歯を立てると、ぷつり、と薄い皮が破れ、瑞々しい香りと果汁があふれて広がった。
 ――実際のところ、飛鳥にとって『味』などというものはまったくもってどうでもいい部類に入る感覚のひとつだった。
 彼にとって大切なのは、そこに身体を動かし、充分に活動するに足るエネルギーが含まれているか否か。それ以上のことを食物に求めたことはなかったし、悠長に求めていられるような恵まれた環境にもいなかった。
 飛鳥の身体は、食事を楽しむために存在してはいなかった。大切なもの、どうしても失い難いものを守るためにあるものだった。
 なすすべもなくたくさんのものを失ったあとも、己の意義を何度も見失いかけていたときも、その立ち位置が変わることはなかった。
 だが今、この世界に来てから、彼の日々は変化を見せている。
 レーヴェリヒトや同郷人ふたり、しもべを名乗るふたりの騎士、ゲミュートリヒ市を統べる為政者にしては親切すぎる領主夫妻など、様々な人々と摂る食事は、飛鳥の心をひどく穏やかで静かな、深いなにものかで満たした。
 それは、やわらかくくすぐったくむず痒い、不慣れで奇妙な感覚だった。
 ウルルが焼いたという菓子にしてもそうだ。
 飛鳥には、それが食通とか呼ばれる人種を唸らせる逸品なのかどうかは判らない。判断基準を持たないからだ。
 しかし、この菓子に気持ちがこもっていることは理解出来る。思いや気遣いという名の、強靭で揺るぎないエネルギーを理解することが出来る。
 だからこそ、判らないなりに彼は、それらを彼にとっての最上級ともいえる「悪くない」で評価するし、自分のためにというその言に感謝もする。――無論、レーヴェリヒトや圓東のような、裏表のない開けっ広げな反応は出来そうにもないが。
 それらを踏まえてのことではないのだろうが、飛鳥の素っ気ない謝意に、ウルルはちょっと恥ずかしげに――けれど無邪気に笑み崩れた。
 可愛いヤツだ、と素直に思う。
「いえ、あの……そんな、お礼なんて仰らないでくださいまし。あなたのその至上なる黒に、五色十柱の神々と五色二十重の精霊王のご加護がありますように」
「加護か。その言葉はありがたくいただくが、黒髪や黒い眼なんか、別にそんなに珍しいものでもないんだがな、俺たちの故郷では。ところ変われば品変わると言うヤツかな」
「第三大陸で黒髪なんか百人もいねぇし、黒い眼に至っては二桁にも登らねぇぞ。第一第二大陸だって、多少の差こそあれそうそう変わらねぇ。いったいどんなところなんだ、お前の故郷ってのは」
「……そうだな、とても雑多で広大で奇妙なところだ。言葉だけでは何とも説明し難い。俺としてはそれほど嫌いじゃあないが、少なくとも、ここよりは生きにくいだろうな……特に、精神的な面で」
 戻れるのかすら判然としないが、戻れと言われて自分が戻りたいと思うのかも判らない、愛憎双方に満ちたあの世界を思い起こしながら飛鳥が言うと、レーヴェリヒトはそうか、とつぶやいた。飛鳥の口調から何かを察したのか、気遣いとも感嘆とも取れる色合いの光が双眸に揺れている。
「なるほど、だからそんなに強いのか、お前。じゃあ、俺もそこに行ったら強くなれるかな?」
「肉体的には充分強いだろとかいう指摘以前に、やめとけ、お前みたいな甘ったれじゃ食い物にされるのがオチだ」
「……ひでぇ言われようだな、俺……」
「事実だろ」
 淡々と断言した飛鳥に、レーヴェリヒトがやるせない遠い目をする。
 それを観ていたカノウがぷっと吹き出した。
「にいや、レヴィに失礼です」
「仕方あるまい、面白いのじゃもの」
 くっくっと声を殺して笑うカノウをウルルが困った顔でたしなめるが、真紅を宿した異形の笑いは止まらなかった。
 それを観たレーヴェリヒトが顔をしかめる。
「カノウ、お前俺のしもべのくせに……」
「すまぬのうレヴィ坊や。もちろんのこと儂は御身をこれ以上ないほどに愛してはおるがな、それ以前にまずは自分に正直に、が信念なのでな」
「そんなとこで信念を駆使すんな。つーか子ども扱いもすんなっ」
「仕方なかろう、儂らにとって御身など赤子も同然じゃ」
「つってもお前の主人だろーがっ。敬えとは言わねぇから、もーちょっと一人前の扱いをしろッ」
「儂らの十分の一も生きておらぬのじゃ、もう少し齢を重ねて精練なされよ」
「……お前ら、いくつだ?」
 主人であるはずのレーヴェリヒトが押されっ放しという喜劇めいた応酬を黙って観賞していた飛鳥だったが、カノウの言葉についつい口を挟んだ。
 レーヴェリヒトが二十歳前後として、カノウとウルルの外見はそれとさほど変わりないように見える。見えるのだが、カノウの言からするにこの双子異形は外見通りの年齢ではないらしい。
 異形という、ヒトならぬ存在のゆえなのだろうか。
「俺は二十四歳になったとこだ。で、こいつらはきっかり五百歳」
「五百歳? とんでもない数字だな。それだけの時間があれば、樹木だってちょっとした大きさになってる」
「ふむ、違いない。もっとも、樹木ほど穏やかな生ではないし、平穏な生い立ちでもなかったがの」
「そうなのか。あんたたちは、異形の中でも特別なのか?」
「さァ、特別かどうかは知らぬ。じゃが、一般的に言う異形とも少ぅし違うやも知れぬな。儂らはな、リィンクローヴァが建国されて二十年経った辺りだったか、不吉と言われ生まれたその場で殺されそうになっておったところをレヴィの遠い遠いおじいさまに拾っていただいたのじゃ。それ以降この国を見てきたが、月日とは、驚くほど早く過ぎ去ってゆくものよな」
「拾ってもらってよかっただろ、お陰でこんないい国に住めたんだ」
「そうじゃの。これでもう少し今代の王が頼りになれば言うこともないのじゃが」
「うぅっ、結局行き着くのはそこか……ッ」
 真紅の眼を細めたカノウが楽しげに言い、矛先を向けられたレーヴェリヒトが頭を抱える。しもべと主人という関係にしては滑稽に過ぎるそれに、飛鳥はまた笑いをこらえたが、ふと気づいてカノウを見遣った。
「異形は確か、悪創念とかいうものに取り込まれたヤツがなるんだろう。生まれたその場でということは、胎児だったときに悪創念に取り込まれたということか? それとも、生まれつき異形だったという者もあるのか? ……ああ、尋ねられたくないことなら答えなくていいが」
「いや、別に構わぬ、今更気にしてもおらぬでな。いかにも異形とは、本来普通の人間だったものが悪創念に染められて為るものじゃ。悪創念なしに異形は生まれぬ」
「ならあんたたちは?」
「儂らはのう、悪創念によって異形と……《色無し》と化した男に乱暴された女から生まれたのじゃ。儂らはそのとき胎児ですらなかった。種として宿ってすらおらなんだ。儂らは一日で宿り、一日で生まれた不吉な子じゃった。女は――母御殿は、儂らを生んだ恐怖と衝撃で、儂らを生むと同時に身罷られたがのう」
「……そうなのか」
「《色持ち》や《五色》と呼ばれる、強い力を持った特殊な異形たちは確かに、人間や同属との間に子を設けることも出来る。生まれる子はどれもが異形であり、《色持ち》じゃ。儂らは《五色》たちをディア・ルイカと呼んで区別しておる」
「ディア・ルイカ……ああ、『魔族』、か。魔なる者なのか、それは?」
「さて、儂には判らぬ。善や悪で彼奴らを量ったこともないのでな。彼奴らが最初にそう名乗ったのじゃ、意図は知らぬ。儂らは《色持ち》でも《五色》でもあるが、厳密には魔族ではない。何故なら、ヒトから転じたわけではなく、《色持ち》から生まれたものでもないからじゃ。儂らは、本来生まれるはずのない、《色無し》と人間との不吉な混血じゃ。本来、あってはならなかったものなのかも知れぬ、しかし今、儂らはこうしてレヴィの傍におる。今後、離れるつもりもない。それは、幸運と言うしかないのじゃろうな」
「幸運だし、必然だろ。今更、あっちゃならねぇなんざ言われても困るぞ。お前らが欠けたらリィンクローヴァはまわらねぇんだからな」
「それはそうじゃの、頼りない国王陛下のお守り役が要るゆえな」
「って、だから、何でもかんでもそっち方向に話を持って行こうとするなっつーの!」
 喚くレーヴェリヒトを尻目に飛鳥は思う。
 カノウにせよウルルにせよ、その生まれや成り立ちに苦しみや嘆きを感じている風ではなかった。ただ事実を事実として、すべてを受け入れているだけだった。
 きっと、ふたりを拾った初代リィンクローヴァ国王は、レーヴェリヒトと同じく闊達な目をした、心根の美しい人間だったのだろう。開けっ広げで騒がしくて放っておけないような、魅力的な人間だったのだろう。
 だからこそ、双子は五百年という気の遠くなるような時間をこの国と王とに捧げて悔いることなくここまできたのだ。必要とされる喜びを、その充足を、飛鳥は理解することが出来る。
 それと同時に、ひとつ、胸に迫るものがあった。
 それが、遠い記憶をちくちくと刺す。
(ごめんね、飛鳥。お前は、生まれて来てはいけなかった。わたしたちは間違っていた……お前を生むべきではなかった。でも、それでも愛していたわ……いつでも、誰よりも愛しているわ)
(すまない、飛鳥。お前に、こんな重い枷を与えるつもりはなかった。俺たちは間違っていた……お前をこんな風にするべきではなかった。けれど、それでも愛していたよ……いつでも、誰よりも愛しているよ)
 もはや二度と聴くことのない声。
 脳裏をよぎる、懐かしく優しい声。

 お前は生まれてきてはいけなかった。
 お前を生むべきではなかった。
 お前はここにいてはいけない。
 お前の存在は、本来あるべきではない。
 わたしたちは間違っていた。
 決してそんなつもりじゃなかったのに。
 ただ、世界の明日を担いたいと思っただけだったのに。
 ――――それでも、生きなさい。
 日の当たる場所で生きることは出来なくとも。
 あの研究所以外、生きる場所がないのだとしても、それでも。
 わたしたちは皆、お前のことを愛しているよ、飛鳥。
 お前の存在を間違いだと苦悩しながらも、誰よりも深く愛しているよ。

 飛鳥は、ほんの少し笑った。
 懐かしく苦く惨い、記憶の中のたくさんの言葉たち。
 それでも、その裏側にある、深い深い懊悩と愛を今も見出せるから、その別れを嘆くことはあれ、飛鳥が彼らを恨むことはない。
 飛鳥は今でも彼らを愛しく思う。
 あの、七年前の、血生臭い別れを経てもなお。
(ああ、判ってるよ……父さん、母さん。プロフェッサーたち。――――ちゃんと、判ってる)
 記憶の中ですまなげに――困ったように、それでいて慈しむように微笑む幾つもの顔へ、飛鳥は声なき声を返す。もはや、届くことなどないと知りながらも。
「……どうかしたのか、アスカ?」
「ん、……ああ、いや、何でもない」
「ならいいけどな。急に黙り込むから、どうしたのかと思ったじゃねぇか」
「お前らのやり取りがあまりに滑稽で言葉を失っていただけだ。まったく、俺の隣で暢気に茶を啜っておられるのは本当にリィンクローヴァを統べる偉大なる国王陛下なのか、どうにも疑わしいな」
「ふむ、残念ながらこちらにおられるのが正真正銘リィンクローヴァの正統なる統治者じゃ。何事にも懸命なのはよいのじゃが、どうにも威厳が足りぬで周囲は苦労しておる」
「なるほど、それは残念だな」
「……またしてもひでぇ言われようだな、俺。しかもふたり同時かよ……」
 非常に息の合った、飛鳥とカノウのダブル国王いじめとでも言うべきそれに、ティーカップを手にしたままのレーヴェリヒトが、やるせない色を宿した紫水晶の目を遠くへ向ける。
 何かフォローを入れるべきか悩んでいるらしいウルルと、どうせ俺は駄目な王様だよなどとひがみっぽくこぼすレーヴェリヒトとを交互に見遣った飛鳥が、こらえきれずまた噴き出したとき、
「おお、そうじゃ」
 不意にカノウが声を上げた。
 飛鳥は笑いを収め、首を傾げてカノウを見る。
 真紅の異形は忘れておったなどと独語しながら懐へ手をやり、そこから藤色の薄布に包まれた何かを取り出した。そして、それを飛鳥へ差し出す。
「ずっと預かったまま忘れておった、アスカ、これはおぬしのものじゃろう?」
「ん? なんだ、それ」
 何か預けていただろうか、と、眉をひそめて包みを受け取る。手の平に収まる程度の、硬い質感の何か。薄布の上からその表面を撫でてみて、つるつると滑らかなその手触りに、それが何なのか思い至った。
「……携帯電話か」
 思わず日本語でつぶやく。
 というより、この世界でこれに相当する語彙がない。
 布をそっと剥がしてみれば、やはり折りたたみ式のコンパクトな携帯電話が収められている。飾り気も何もない、使い勝手一辺倒の黒いそれは、飛鳥が『仕事』に使っていたものだ。
 手当てを受け、着替えさせられた辺りで預かってもらったのだろうが、仕事以外の日常では使うこともなかったから、ここに来てそれに思いを馳せることすらしなかった。電源すら入っていなかったくらいだ、現代っ子とやらが陥りがちな、携帯電話依存症などという心の病とも言えるものとは無縁極まりない飛鳥である。
「ケイタイデンワ……なんだその珍妙な言葉は」
 非常に発音しにくそうに、レーヴェリヒトがその単語を口にする。
 むしろ、彼らのような言語圏で、この母音の多い言葉をそれなりに発音できたことを褒めてやるべきかもしれない。
「これのことだが?」
「なんなんだ、その黒い塊は。変な光沢だな。いったい何に使うもんなんだ?」
「あー……」
 さすがの飛鳥も、その問いにはしばし躊躇する。
 電気も電波もプラスティックも、デジタルカメラもメールも存在しないこの世界では、その用途を説明する語彙がない。結果、恐らく中世前後の異世界に迷い込んだ人間の大抵がそうするであろう、気の抜けた説明となる。
「……あー、まぁ、あれだな、遠くにいる人間と会話が出来る道具だ。もっとも、これだけでは使えないんだが」
「へぇ、そんな小せぇ箱が声を届けてくれるのか。そりゃ便利だな。まるで遠距離交信用のディア・ソールみてぇだ」
「ディア・ソール……ああ、『魔法』か。まぁ、そんなものだ。魔法ほど万能ではないけどな」
 言いながら画面を開き、ボタンを押して電源を入れてみる。
 間抜けな電子音がして、画面に光が灯る。電源を切りっぱなしにしていた所為だろう、電池は元気いっぱい三つ残っている。
 もっとも、当然ながら電波は圏外だ。もちろんここで勢いよく三本立っていても相当びっくりするが、これでは携帯電話としての役目を果たすことは出来ない。
「まぁ、特に必要もないしな……」
 つぶやいた飛鳥が、急にレーヴェリヒトが静かになったのを訝しんで隣を見ると、
「な……何だ、今の音!?」
 神々しい美貌の国王陛下は、その顔立ちには相応しくない、思い切り腰の引けた様子で、まるでそこから化け物でも出てくるとでも言うように、気味悪げな視線を黒い塊に向けていた。
 よほど驚いたのだろう、ソファから腰を浮かせかけている辺りが笑える。
 ふと見遣れば、双子の目にも不審の光が揺れていて、飛鳥はそれで、中世前後の文化圏の人間に、電子音などというものを耳にする機会のあろうはずもないことに気づいた。――それは確かに気味が悪いだろう。明らかに、自然に存在する音とはかけ離れている。
「別に危険なものじゃない」
「ホントか!? なんか、明らかに怪しいぞその音!」
「あー、だからな……」
 細かく説明してやろうかと思ったが、面倒臭くなってやめる。
 その代わり、モバイルカメラを起動して、レンズをレーヴェリヒトに向けた。得体の知れないものを向けられた国王陛下が顔を引き攣らせる。
 例えば、江戸時代からタイムスリップしてきた武士や将軍に同じことをしてみたら、きっと同じような反応が返ることだろう。ある意味セオリー通りともいえるレーヴェリヒトの動揺に笑いが込み上げる。
「やめろ、変なもん向けんな、怖ぇからッ」
 率直に怖いと口にする辺り、王様としての威厳もクソもないが、実際の話、生まれて初めて観た、得体の知れない怪音を発する謎の物体を向けられたら誰でも怖いような気もする。
 かといってそこで斟酌してやるほど飛鳥は善人でもなく、問答無用でシャッターを切る。カシャッ、という電子音に、レーヴェリヒトが蒼白になった。これが深窓の姫君辺りならその場で卒倒していたかもしれない。
 画面上には、レーヴェリヒトの情けない表情がばっちり撮れていて、飛鳥は笑いをこらえながらそれを保存する。今までモバイルカメラなど使ったこともなかったし必要性も感じなかったが、このことを思えばとりあえずカメラつき携帯電話にしておいてよかった、と妙な満足感を覚える。
「ナニしたんだ、いったい……ッ!?」
「ん、写真を撮ったんだが」
「シャシンて何だ、シャシンて!?」
「あー……そうか、異なる文化圏ってやり難いな……。まぁつまるところこういうヤツだ」
 言ってフォルダを開き、保存されたそれを呼び出して見せてやると、
「な、な、な……!?」
「……なるほど、やっぱりそうなるか……」
 自分の顔がその小さな画面上に存在する理由や意味が判らないのか、紫水晶の双眸を真ん丸に見開いたレーヴェリヒトが口をぱくぱくさせる。またしても定石通りの反応に、飛鳥は満足げに頷いた。
「せっかくだから、もう一枚二枚撮らせろ。待ち受け画面にしてやろう、ありがたく思え」
 素晴らしく偉そうに言った飛鳥が、再度起動したカメラを向けると、レーヴェリヒトは「ぎゃあ」という非常に情けない悲鳴を上げてソファから立ち上がった。否、立ち上がったというよりはむしろ、転がり落ちるようにして逃げたと言った方が正しいかもしれない。
「だっ……だから、やめろって……!」
「別に危険はないと言ってるだろ、ほら逃げるな動くな、画面がぶれる」
「なんか信用できねぇッ!」
「罪のない客の言葉ひとつ信用できないで何が国王陛下だ、海のように広い心で甘受しろ」
「罪のない客とやらは、嫌がってる人間に無理やり得体の知れねぇモノを向けたりしねぇっ! やめろっ、向けんな近づけんなッ」
 同じくソファから立ち上がった飛鳥がカメラを向けながら近づくと、レーヴェリヒトはこの世の終わりでも来たかのような表情で逃げる。更に追うと更に逃げる。
 ……こいつ面白すぎる、とは、そのときの飛鳥の非情な感想である。
「逃げるなよ、いいのが撮れないだろ」
「逃げるに決まってるだろーがっ! っつーかカノウ、ウルル、観てねぇで助けろッ!」
 部屋のあちこちを必死に逃げ回るレーヴェリヒトが双子を呼ぶが、知らぬ間に平静を取り戻していたカノウは笑って肩をすくめた。おろおろしているウルルを大事ないとなだめつつ、にこやかだが非常に冷たい答えを返す。
「下手に助けてこちらが被害に遭うのはいやなのでな。ご自分で何とかなされよ」
「お前俺のしもべだろ、護衛官だろっ!?」
「おや、これは異なことを。楯となって国たみを守るが王としての御身の責務であろうが。その御身が、罪のない一護衛を贄に差し出すなどと仰るのか? 仰らぬよな? ……では、あとのことは心配要らぬゆえ、心置きのぅ犠牲になられよ」
「うぅっ、お前なんか嫌いだっ!」
「嫌いで結構じゃ、御身の『嫌い』なぞたかが知れておるわ」
「ううぅっ、薄情者――っ!!」
 こちらもまた非常に楽しげなカノウに素っ気なくあしらわれ、レーヴェリヒトが叫ぶ。半ば悲鳴である。はっきり言って、今のこの場面だけ見せられて彼を国王と理解出来る人間はいるまいし、見事な綱裁きで黒馬を駆って異形を屠った武勇の人と気づける人間もいるまい。
 そうこうしているうちに、容赦のない飛鳥の追撃に逃げ切れず、とうとうレーヴェリヒトは部屋の隅に追い詰められてしまった。
「さぁ、覚悟するんだな」
 飛鳥は悪人そのものの台詞を吐くと、内心笑いをこらえつつ、部屋のすみっこでへたり込んで自分を見上げている国王陛下にカメラを向けた。すでに半べそなのが更に笑える。
「もう少しきりっとしろよ、画面映えしないだろ」
「この状態で何をどう頑張ればきりっとできるのか教えてくれ……ッ」
「それはもうアレだ、根性とか気合とか魂とかその類いだな」
「その類いを根こそぎにするようなことをお前がしてるんだろーが!」
「そこを何とかするのが王様としての人柄の示しどころなんじゃないか。まったく、まだまだだなお前」
「それ、お前にだけは言われたくねぇ……っ」
 すっかり涙目のレーヴェリヒトにカメラを向け、容赦なくシャッターを切る。電子音が響くたびにいちいちびくっと身体を震わせる姿は、とてもではないが成人男性とは思えない。お陰でいまいち代わり映えのしない写真ばかりになってしまったが、飛鳥はものすごく満足した。
「ああ、面白かった」
 晴れやかに人でなしなことを言い、携帯電話の電源をオフにする。充電できないのだ、どちらにせよいずれは切れてしまうにしても、こんなに楽しい使い方が出来るなら電池は無駄遣いしないに越したことはない。
 などと思いつつ、飛鳥は折りたたんだ携帯電話を懐に仕舞う。
 今の彼が着ているのはゲミュートリヒ市領主のメイデが用立ててくれたもので、チュニカやカフタンというよりはどことなく東洋的な印象の衣装だった。この世界ではどうやら黒というのは貴色らしいのだが、飛鳥の衣装はほとんどがその黒で統一されている。
 歓迎されていると喜ぶべきなのか微妙なところだが、常日頃から黒を身にまとってきた飛鳥には落ち着ける色合いだ。服の裾や袖口に銀の糸で繊細な刺繍がされているのはちょっとむず痒いが、貸してもらっているのだから文句を言うわけにも行くまい。
 ちなみにこの衣装、内部には物を入れるための、ポケット状の小さな切り込みがいくつもあり、重宝する。
 携帯電話を服の内側に仕舞いこみ、満足げに笑った飛鳥がレーヴェリヒトを見下ろすと、まだ部屋のすみっこでへたり込んだままの彼が、安堵と不審の入り混じった情けない表情で飛鳥を見上げる。
「……今更、俺を助けたことを後悔しても遅いぞ?」
 笑いながら飛鳥が言うと、レーヴェリヒトは大きな溜め息をついた。上目遣いなのが笑いを誘う。
「あー、うー、確かに今ちょっと世を儚みそうになったけどなー。……でも、まぁ、後悔は出来そうもねぇし、仕方ねぇや」
 諦観を多分に含みながらも、レーヴェリヒトの唇が紡ぐ言葉はどこまでもお人好しなものばかりで、飛鳥は思わず苦笑した。
「お前……本当に一国の王か? よくもまぁそんな人の好いことで生き残ってこられたな」
「……よく言われる」
「お前の周囲は苦労してそうだな」
「…………それもよく言われる…………」
 飛鳥はまた噴き出した。
 まったくもってこの青年はお人好し過ぎる。
 美しい姿かたちと、貴い玉座と、獅子の光の名が不相応なほど。
 ――――それでも、飛鳥は、少し安堵している。
 確かにレーヴェリヒトは、あの少女と同じ眼差しを持っている。あの少女と同じ、綺麗な心を持っている。もっとも彼女の近くにいた飛鳥が言うのだ、それは間違いがない。
 けれど、こうして観ていると、彼があの少女と同じ存在でないことは明らかだ。少女はレーヴェリヒトのように騒がしくなかったし、職務に対して不相応でもなかった。ここまで、中身が外見に反してはいなかった。
 彼は、彼女ではない。
(――――同じじゃない。身代わり、じゃあない…………)
 悲劇的な最期を遂げた、守ってやることが出来なかった、あの少女と同じではない。
 それは、飛鳥を安堵させた。
 救われたような気持ちにすらさせた。
 彼は、飛鳥が守らなくとも、儚く失われはしないだろう。どこまでもしぶとく、騒がしく、しかし凛と立ち続けることが出来るだろう。ただ傍にあることすら許されない、そんな哀しい未来はきっと訪れないだろう。
 だから、飛鳥は安堵する。
 そして、心に断ずるのだ。その魂が命ずるままに。
「――――よし、決めた」
 飛鳥はそうつぶやくと、レーヴェリヒトに向かって屈み込み、彼の秀でた、白い額を指先でぱちんと弾いた。「痛ぇッ!」と、赤くなったそこを押さえて抗議する声に笑って口を開く。
「俺はお前と友達になろう、レイ」
「ったく何すんだ、痛ぇだろ……って、え?」
「絶対に裏切らない、絶対に心を違えない、そんな唯一無二の友達になろう。――お前が嫌だと言っても、もう決めた」
「な……?」
 何を言われたか理解しきれていない風情で、呆然と自分を見上げる青年に、無造作に手を差し出す。
 そこへ、もう一度、繰り返す。
「友達になろう、レイ」
 その言葉に押されるようにして、レーヴェリヒトがゆるゆると手を伸ばした。かすかに触れた手を、飛鳥がぐっと握って笑うと、
「……ああ、うん、そっか……」
 レーヴェリヒトの唇に、はにかんだような、無邪気な笑みが浮かんだ。心根と正反対の武骨な手が、確かな暖かさを伴って飛鳥の手を握る。
 その身体を強く引っ張り起こしながら、飛鳥はまた笑った。沸きあがる、不可解な歓喜を、なんと表現すればいいのかすら判らないまま、声をこぼしてまた笑う。

 ――――そのときの、レーヴェリヒトの無垢な笑顔を、飛鳥が忘れることは生涯なかった。