5.王国の花アインマール

 夢と理解してそれを観ていた。
 奇妙な現実味と、それと同等の浮遊感にたゆたいながら。
 どこまでもどこまでも、永遠を思わせる広大さで続く荒野に彼女らはいた。
 荒涼たるそこには草も樹も花もなく、灰色のヴェールにでも覆われたかのように薄ぼんやりとした空には雲も風も鳥もなかった。彼女らのほかに命と感じられるものは何ひとつ存在せず、世界は停滞していた。
 ただただひたすらに――無意味に、不気味に、不毛に続く、無音の大地だけがそこにはあった。
 それは孤独というより、死を喚起させる虚無そのものだった。
 その荒野の一角に、互いに背を向け合った五人の娘たちが座り込んでいる。座り込んで、薄暗い空を見上げている。視線の先には、いかなる変化も動きもない。
 娘らの年の頃は十代後半から二十代前半といったところだろうか、外見は様々だったが彼女らは一様に驚くほど美しく、たおやかで繊細だった。華奢な首筋や細い指先が、彼女らの少女性を主張する。
 ひとりは光沢のある闇を思わせる漆黒の髪と眼を。
 ひとりは陽光に輝く雪を思わせる白銀の髪と眼を。
 ひとりは秋の昼下がりに地上へ降り注ぐ陽光を思わせる黄金の髪と眼を。
 ひとりは生命を謳う熱い血潮を思わせる真紅の髪と眼を。
 そしてひとりは穏やかさをたたえて凪ぐ南の海を思わせる真青の髪と眼をしていた。
 五つの色はどれもが神秘的で、鮮やかで、美しかった。
 しかし、美しい色を宿した美しい娘たちの眼差しは悲哀に満ち、表情に生気はなく、生命の躍動と言う名の力を微塵も感じることの出来ない華奢な身体は、声もなく痛みを絶叫していた。
 いつからこうしているのか、娘たちは互いに声をかけ合うこともなく空を見上げていたが、やがて黒の娘がこちらに気づいた。
 稀有な輝きを放つ黒の双眸に、ほんのわずかな生気が宿る。
《あなたは……誰?》
 彼女の紅く色づいた唇がかすかに動き、声ならぬ声をこぼすと、他の娘たちの身体と双眸もまたこちらを向いた。――まるで、すがるような色彩の揺れる双眸が。
《どうして人の子がここに?》
《どうして、こんなところに?》
《何のためにここに?》
《いったい、どうやって?》
 童女のような頑是無さを感じさせる問いに、苦笑する。この夢の傍観者ではなく、登場人物なのだと気づかされる。
 夢にのめり込むのも滑稽なことだと思いつつ、戯れに言葉を返す。
「他人に名を尋ねるときは、先に自分が名乗れと教わらなかったか」
 どこまでも悪態めいた言い草しか出てこない己には呆れるが、そのあくまでも揺るがぬ態度に娘たちがさわさわとさんざめく。互いの存在に気づいていないのではとすら思わせた希薄感が遠のき、顔を見合わせ、囁くように言葉をかわすその様子は年頃の少女そのものだ。
《あなたは強い子ね……わたしたちの前で、そんなにも強い自我を保てるなんて。……そう、では、あなたが御使いなのね……》
 黒い娘の言葉に、肩をすくめてみせる。
 気になる単語がないでもなかったが、それよりもまず、同世代の少女に、『強い子』扱いされるいわれはなかった。
「前にも誰かに言われたような気がするが、そんなものは知らん。なんだ、それは」
 言い捨てると、また、漣のようなささやきが交わされる。
 娘たちの色とりどりの目に、確かな懇願の色が加わったのが判る。
 黒い娘が、花のように可憐な唇を開いた。それが震えているように見えたのは、きっと気の所為ではないだろう。
《わたしはエルシャンディナ。エルシャンディナ・ユア・ニィ・クレア・ソレスト。――――お願いよ、強い子。強き御使いよ。あなたがここに遣わされたのが運命だというのなら、どうかわたしをあの方に逢わせて。わたしたちを、あの方たちに逢わせて》
 それを皮切りに、娘たちが次々に口を開く。
 すがるような、必死さを含んだ表情で。
 次に言葉を告いだのは白銀の娘だった。
《私はヴェリカナ。ヴェリカナ・ヘル・アヌ・ローナ・エリン。どうか、道をつないで、強い子。私たちに、新しい道を》
 その次は、黄金の娘。
《わたくしはフィーリス、フィーリス・ルウ・クク・アクス・ディーナ。これ以上、世界を苦しめたくないの。これ以上、狂いたくないの。だからお願い、わたくしたちに希望を与えて》
 そして、真紅の娘。
《あたしはカトレイナ。カトレイナ・セイ・コナ・ファム・ロスタメルト。判っているわ……人の子にそれが難しいことくらい。けれど、ほんの少しの望みでいいの、あたしたちに夢を観させて、あの方たちに逢えるという甘い夢を》
 最後が、真青の娘だ。
《妾(わたくし)はサレイノーラ。サレイノーラ・ネン・レス・ダリア・ルウジーン。多くのものを欲張るつもりはないのです、ただ、世界の平穏と、妾たちの平穏とが欲しいだけ。そのために、どうか力を貸してください》
 そうやって、次々に言い募られても何がなにやら判らない。
 懇願をたたえて見上げる五対の瞳に涙がないのは、きっとその哀しみが深すぎるからなのだろう。何故か、確かなあかしもないのに、魂の根幹でそれが真実だということを理解している。
 それでも、理解できぬものに安請け合いなど出来るはずもない。例えこれが、夢の中の話だとしても、だ。
「……あんたたちの言うことはよく判らん。俺は、判らんものを簡単に引き受けてやれるほど浅はかではないし、お人好しでもない」
 きっぱり断じると、顔を見合わせた娘たちがほんの少しだけ笑った。
 見ているこちらの胸が痛くなるような、たくさんの感情が内包された笑みだった。
 黒い娘……エルシャンディナがまた口を開く。
《それでいいのよ、それでいいの。あなたのその強くて誇り高い、揺るぎない魂をわたしたちは信じるわ。だからただほんの少しだけ記憶の中に留めておいて、人の子の世が平らかになれば、わたしたちの望みもまた叶うのだということを。あなたなら、きっと出来るわ》
「……ご大層なことだ。俺に一体何の力があると言うんだ? そんな大それたことを頼まれても困る」
 五色の娘たちの視線を感じる。淡い期待と希望、切実な懇願と哀しみ、そして……何故か慈母のようなやわらかさを含んだそれを。
 それらがあまりにも痛切に感じられ、溜め息が、ひとつ、こぼれた。
 仕方がない、と、胸中に思う。
「俺に何が出来るのかは知らない。何も出来ない可能性の方が高いし、出来なかったからと言って恨まれても困るが、その程度の頼りなさでいいのなら、心のどこかにあんたたちの願いを留めておこう。幸い、ほんの少しの可能性ではあるが、心当たりがないでもない。あいつも相当なヘタレだから難しいかもしれないけどな」
 娘たちの、血の気の失せた頬に、希望という名のわずかな喜色が灯る。
 エルシャンディナが、ヴェリカナが、フィーリスが、カトレイナが、サレイノーラが、童女のような無垢な笑みを浮かべ、小さく頷いた。
《ありがとう……人の子、強く純粋なる御使いよ。待っているわ、ずっと。わたしたちには、時間だけはたくさんあるのだもの》
「時間だけというのも辛い話だな。なら、肝に銘じておくさ、あんたたちがそうやって待っていることを」
《ええ、そうね、期待しているわ。――ああ、そうだ、あなたの名前を教えて、人の子。あなたの名前を呼んで、祈りながら待っているわ》
「それは、なかなか、ありがたいのかありがたくないのか判らんな。……まぁ、いい」
 苦笑し、そして己を己たらしめるその名を口にした瞬間、自我は唐突に拡散し、白い光に押し上げられるようにして覚醒への道を辿る。
 朝だ、と、意識のどこかがつぶやいた。