目を開けると、部屋にはまぶしい光が満ちていた。
 白く、目映く、清冽なそれは、飛鳥が友達になろうと決めた青年王の髪とよく似ていた。
 空気はまだどこかひやりとした鋭さを持っていたが、そこにはなるほど今は夏の初めなのだと思わせるような鮮やかな緑の匂いが含まれ、何よりも清浄に澄んでいる。
 とても気持ちのいい朝だった。
 世界のすべてが自分を祝福しているような気持ちにすらなる。
「……何か、変な夢を観たような……?」
 大きな欠伸とともにつぶやき、しばらく考えてみて、いまいち内容を覚えていないという結論に達した時点で飛鳥はそれへの言及を諦めた。夢など、そんなものだろう。
 ただ、心のほんのすみっこが、世界中が平和であればいい、そうすればきっと哀しむヤツが減るから、などと脈絡のない――柄でもないことを思っている。そして何故か、それを突拍子もない思考とは思わない彼がいる。
「まぁ、いい。散歩にでも、行くかな……」
 部屋の一角に設置された水時計へ目をやると、午前六時といったところだった。それなら、空気の冷たさも納得できる。
 朝食にはまだ早く、かといって二度寝をする気にもなれず、飛鳥は外へ出ることにした。
 飛鳥はぐっと伸びをしてからベッドを降り、大富豪夫人のウォークインクローゼットもかくやというほど大きな衣装入れへ向かうと、適当に服を選んで引っ張り出す。
 厚着も華美な装飾も身体の動きを妨げる仕様も主義ではないと主張した結果、飛鳥の衣装の大抵は、余計な色みのない黒で、丈夫ではあるが薄手で、そして非常に動きやすいやわらかな素材を使ったものになった。
 デザインは簡素だがいい生地を使ったものなのだろう、それらの手触りは滑らかで、きめが細かい。たまに色糸で袖口に刺繍がしてあったりするが、その辺りはもう気にしないことにした飛鳥である。
「借りているものに、文句も言えないしな」
 つぶやき、綿の夜着を脱ぎ捨てる。
 すらりとした細身ではあるが、日本という平和な国に生きる十七歳の少年の身体とは思えない程度には鍛えられた、それを目の当たりにする者がいれば感嘆の声を漏らさずにはいられないだろう、芸術的とすら言える裸身をさらしつつ、適当に服を身につけてゆく。
 ちなみにブーツだけは故郷で履いていたものだ。思い切り頑張れば自動車でもスクラップに出来そうな強度の、様々な現代技術を駆使して作られたそれと同じような頑丈さをここの文化レヴェルに求めるのは酷だし、何よりも自分の足にとって履き慣れた靴というのは非常に大切だ。
 脚衣に長袖シャツに薄手のチュニカという出で立ちでは、着替えの仕方が判らない云々にはなりそうもなく、ましてや現代日本の平均的(自称)一般人である飛鳥がひとりで着替えを出来ないはずもなく、それはほんのわずかな時間で終わった。
 最後にチュニカのうえからベルトを締めつつ、自分の着替えを手伝いたくてうずうずしていたふたりの『しもべ』のことを思い起こし、飛鳥は小さく息を吐いた。深窓の姫君でもなし、何で着替えを手伝われて楽しいものかと思うし逆もまたしかりだろうと思うのだが、それを断ったときのふたりの落胆ぶりといったら滑稽なほどだ。
 この世界に滞在して十一日目、連中との付き合いは八日目だが、飛鳥の何がそんなにお気に召したのか、ふたりは彼が行くところへならどこへでもついてくる。さながら金魚のフンだ。――この世界に金魚などという愛玩用の魚類がいるかどうかはさておき。
 どちらかというと年下の片割れ、コバルトブルーの目をした青年にその傾向が強く、わずか七日の間に、これで二十二歳は絶対に嘘だと思う程度の馬鹿っぷりをみせてくれている。
 この国においての騎士が飛鳥の故郷における警察官に相当することを知ってからは、他に仕事があるならそっちを優先しろ、という意味合いのことをレーヴェリヒトを通じて伝えたのだが、ふたりの――特にノーヴァことノートヴェンディヒカイトの――行動に変化はなかった。
 それどころか、飛鳥が圓東をしばき倒しているのを観て、圓東へ羨ましげな視線を向けたりしている辺り、お前らいったい俺に何を望んでいるんだと全身全霊でツッコミを入れたい飛鳥である。
 残念ながら飛鳥には、年上の……しかもガタイのいい同性を小突き回して悦に入る趣味はないし、求められるのもごめんだ。倒錯的なプレイがしたいなら、飛鳥の故郷の裏路地を更に奥へ行けば、それに適したいい人材がたくさんいるのだが。
 ――などという、益体もないことを考えていた飛鳥だったが、己の思考の無益さに気づいて深々と息を吐き、さっさと部屋をあとにした。そんな思考に労力を使うくらいなら、その辺りに生えている雑草の一本一本に名前をつけて愛でる方がいくらか建設的な気がする。
「……何で俺の周囲にはああいう変なヤツらが多いんだ? レイといい金村といい圓東といい、イースといいノーヴァといい。……そんな連中に囲まれてる俺って、もしかしてちょっと不幸なんじゃないか……?」
 などと、『類は友を呼ぶ』という、的確にして絶妙なる至言を完全に意識から締め出しながらつぶやく。
 しかし、何を言ってももう見捨てられないことに気づいてしまったのだ、愚痴は無意味な言葉遊びでしかない。この景色を、この空間を、この関係を、飛鳥自身が心地よいと認識してしまった以上、『変なヤツら』はすでに飛鳥の魂の一部だった。
 たとえそのことが、今後飛鳥自身を変質させてゆくとしても、それはもはや変えようのない運命だった。
 そんなことを思い、またひとつ小さな息を吐いてから、これといった私物がないため鍵をかける必要すらない部屋を出て廊下をまっすぐに進む。そのまま館の外へ出てゆくと、朝露に濡れた鮮やかな緑がぱっと目に入り、飛鳥は目元を和ませた。
「ああ……いいな、緑って」
 あの貧困階層の人々が住まう路地裏の町、飛鳥が二年を過ごしたあの場所にも、このくらいたくさんの緑があれば、もっともっと人々の心は自由に――そして豊かになるのではないかと思う。
 それら、きらきら輝く朝露をまとった木々や草花を眺めつつ、飛鳥は館から少し離れたところにある丘へ向かった。
 七日の間に何度も訪れたそこは、ラントシャフツマーレライという長ったらしい名を持つ。広大な天然の緑地公園といった趣で、領主夫妻自慢の庭園と同じく、このゲミュートリヒ市を代表する名所とでも言うべき場所だ。
 丘と言っても、その麓にはやわらかな下草に覆われた天然の広場がなだらかに広がり、人々の憩いの場となっている。丸太を組んで造ったベンチがいくつか置いてあるほかは、特に何かの手入れがされているわけでもないのに、そこは人々が集う場所としての体裁を持っていた。
 飛鳥の故郷たる世界と何かつながりでもあるのか、ラントシャフツマーレライという単語はドイツ語にも存在する。この八日間で飛鳥はその類いの言葉をたくさんみつけたが、理由はまったく判らない。
 ただ、つながりというよりは、啓示のような気がする。魂の根っこがそう感じている。
 ちなみにラントシャフツマーレライの意味は『風景画』である。はっきりいってそのまんまだ。もっとも、この世界での意味を知らないので、本来の由来も判らないのだが。
 しかしここは、風景画の名に相応しいだけの、穏やかでパストラルな空気を有している。労働からは解放されている子どもや老夫婦、若い恋人、親子連れなどがここでゆったりと憩うのもよく判る気がする。
 そんな場所だから、飛鳥は、そこで見る朝の風景は素晴らしかろうと思ったのだが、十五分ほど歩いて辿り着いた、麓の広場には先客がいた。
 しかも、ひとりやふたりではなかった。
 ざっと数えても百人はいる。
「……何だ、朝練か……?」
 むさ苦しい群れを見遣り、思わず日本語でつぶやく。ここ数日で見慣れた顔をあちこちに見つけた。
 飛鳥の視線の先では、彼が朝練と評した通り、木刀を手にしたたくさんの男たちが盛んに打ち合っている。乾いた硬い木と木がぶつかり合って立てる、硬質的な音が辺りには満ちていた。
 普通に散歩をしている一般人もちらほらいるのだが、明らかに一般人ではない雰囲気の連中の方が多かった。
 どうやらここは、朝方に限っては兵士や騎士たちの鍛練場であるらしい。飛鳥と同年代から倍以上の年齢を思わせる者まで、色彩も出で立ちも様々な男たちの誰もが、真剣な表情で汗を流している。
 日常の実践(実戦)イコール鍛錬だった飛鳥は、汗水を垂らしてでしか鍛え上げられることのない肉体に対して、朝っぱらからご苦労なことだなどと思いながら彼らを眺めているだけだったが、しかし、ぐるりと回した視界の中、ものすごく見慣れた赤茶色の後頭部に視線が行き着くや、
「何やってるんだあの馬鹿は。言葉も判らないくせに……」
 顔をしかめ、深々と溜め息を吐いた。
 それほど大柄ではないものの、背中だけで全身が鋼のような筋肉によろわれていることが見て取れるその人物は、現在飛鳥の眷族というカテゴリで呼ばれている元ヤクザに違いなかった。
 その男、金村勇仁は、半袖のTシャツに似た、白い薄手のチュニカに濃紺の脚衣だけという出で立ちだった。運動にはこれほど適した状態もあるまいという恰好だ。
 彼は、非常にこなれた足さばきで木刀を揮い、同じような出で立ちのイスフェニア・ティトラ・エルンテと打ち合っている。その打ち込みは素早く的確で、観ているだけで一撃一撃が重いことも判る。何かの訓練を受けていたことがあるのかもしれないと思わせる、非常に洗練された動きだ。
 それら、様々な角度から打ち込まれる木刀を難なく受け止めながらも、イスフェニアの表情の少ない顔には、隠しきれない感嘆と親しみの色彩が揺れていた。同属への親近感というヤツだろう。
 流れ落ちる汗をほんの時折拭いながら、ふたりは武骨な戦舞を続けていた。
 言葉などこれっぽっちも通じていないはずなのに、ふたりの間にあるのは深い理解だった。熟練の武人は剣を合わせれば相手の力量や人柄までが判るというが、その類いだろうか。
 そして実際の話、飛鳥の目に映る金村の腕は大したものだった。初めて彼を観た時、ヤクザというより武将だと思った飛鳥の目は正しかったと言えるだろう。金村の立ち居振る舞いは、故郷たる現代日本よりも、むしろこの世界にこそ似つかわしかった。
 この様子なら、更に鍛錬を重ねて実戦慣れさせれば、じきに異形との一騎打ちも出来るようになるに違いない。ああいうタイプは、肝が据われば驚くほどの実力を発揮してみせる。
 それと同じく、イスフェニアの腕も大したものだった。
 突き込まれ、打ち込まれ、薙ぎ払われる、決して生易しくはない金村の一撃を、己の手にした木刀で的確に止め、また力を殺して流し、瞬時に反撃に転じては金村を押しやるのだ。
 騎士団におけるイスフェニアの役職は騎士小長、一般騎士二百人を指揮する、企業で言えば課長といった役割らしいのだが、騎士団が実力によってのみ物事の図られるところなのだとして、『課長』の彼でこの手練れだとしたら、『部長』や『社長』の腕前がどんなものなのか考えるだけで恐ろしいほどだ。
 もっとも、もしかしたらただ単にイスフェニアの実力が突出しているだけで、彼はものすごい出世頭なのかもしれないが。
 などと、見物する、見守ると言うよりは品定めするような目でふたりを見ていた飛鳥の背後で、不意に歓喜とでも言うべき気配が膨れ上がり、
「我が君! 俺たちの鍛錬風景を観に来てくださったんですか!? それならそうと言ってくださればよかったのに! うわぁどうしよう、喜びのあまり心臓が引っ繰り返りそうです!」
 これが少女向けの漫画や小説なら明らかに語尾にハートか星のマークがついていそうな、うきうきとかどきどきとかいう少女じみた擬音語が似合いそうな、内容の一部だけ聞けば可愛らしげだがその実どこからどう聴いても声変わりのばっちり済んだ男声という凄まじく不釣合いな声が響いた。
 その時点で飛鳥は、無表情のまま拳を握り、恐ろしい勢いの裏拳で、己の肩上二十p辺りの空間を強打していた。
 無論、空気を打とうと思ったわけではない。
 案の定というか予想通りというか、がっつりとした手応えと肉を打つ音と同時に、「うぎゃあっ」という情けない悲鳴が上がり、一瞬遅れて何かが地面に倒れる音がする。
「い、いたたた……。な、な……何なんですか、我が君! 主君に鉄拳制裁を喰らうようなことをした覚えはないんですが、俺っ」
「うるさいこの馬鹿騎士。二十二歳(百万歩譲って仮にも適齢期)にもなってうきうきしやがって恥ずかしい。大体、我が君とか主君とか、そういう痛々しい呼称で呼ぶなと言っておいただろうが。それを破ってこの程度なら幸運と思え?」
「な……なんか、年齢の後ろに微妙かつ皮肉な含みを感じるのは俺の気の所為ですか……? いやあの、でも、だったら他に何て呼べばいいんです?」
「普通に呼び捨てろ、敬称をつけられる方が不快だ。お前らがそう望むからこき使ってはやるが、俺はお前らの主でも支配者でもない」
「ええぇっ、そんな薄情なことを仰らずに! 寂しくて泣いちゃいますよ、俺!」
「泣きたきゃ家の隅に向かって膝でも抱えて泣いてろ。くれぐれも家人に迷惑のかからないようにな」
 淡々と……冷ややかに言い捨てた飛鳥が見下ろした先の地面では、どうやら彼の拳が顔面に直撃したらしいノーヴァがへたり込んで飛鳥を見上げている。ちなみに、きちんと呼ぶには彼の名は長すぎて、思考の上でもすでに略名を使ってしまっている。
 鼻を覆っているのは鼻血が出たからだろう、右手の平が赤く染まっていた。しかも指の隙間からは際限なく赤黒い液体があふれている辺り、女子どもやお年寄りに優しくない風景だ。
 どことなく圓東の同類を思わせる犬系の雰囲気の、コバルトブルーの鮮やかな目をしたこの青年が、百八十pは軽くありそうな長躯でいわゆる『打ちひしがれた人妻』ポーズを取るのだ、その視覚的な――暴力的ですらあるインパクトは推して知るべしだ。
 あまりの情けなさに、飛鳥はリィンクローヴァの治安を守る騎士団の将来を真剣に憂慮する。故郷の警察も大概不祥事が多かったが、それとは別の意味で居たたまれない。
 救うつもりで救ったわけでもない、それほど大したことをしてやったわけでもない相手にここまで懐かれると、一体何をどうしてほしいのかと途方に暮れたくもなる。
 ――もちろん、そんな感情が素直に表に出るほど、飛鳥の顔の筋肉はやわらかくないのだが。
「何にせよご苦労なことだな、こんな朝早くから鍛錬とは。それが職務なら、仕方のないことなのかもしれないが、少なくともそれは労われるべきことだと思う」
 それだけは皮肉でなくそう言った飛鳥に、まだ鼻血が止まらないために鼻をつまんだままという間抜けな恰好のままだったが、それが気にならないほど晴れやかにノーヴァは笑った。プライドと信念とが見える、揺るぎない自分を持つ者のする笑みだった。
「俺たち騎士や兵士は、この国と民の剣となり盾となるために存在するわけですから。鍛錬や職務を辛いと思ったことはないです。俺たちはいつだって、リィンクローヴァと人々のために斃れることを夢見てますからね」
 きっぱりとした物言いに飛鳥は肩をすくめる。
 その凄絶な覚悟は、国という共同体よりも個人が尊重されるようになって久しい現代社会にはありえない代物で、飛鳥には馴染みが薄かった。
 しかし、それは、なんの迷いも躊躇いもなく彼にその言葉を口にさせてしまう、このリィンクローヴァという小さな国が、どれだけ住みよく素晴らしい場所なのかを如実に物語っていた。
 そして、そんな強い覚悟を持って国と人とを守りたいと願う人間にこそ、誰よりもまず生きてほしいとも思う。
「凄まじい信念だな、俺には真似できそうもないが。――ああ、別に、他人の覚悟にけちをつけるつもりはないが、死んだらそこで奉公は解くからな。死人の名を負ってまで生きてやるほど暇じゃないし、酔狂でもお人好しでもない。お前の人生なら好きにすればいいが、俺のしもべとやらでいたいなら多少は気をつけろ?」
 その、彼なりの、ものすごく判り辛い気遣いの言葉、普段から口さがなさに隠れて見え難いそれに、しかしどうやらノーヴァは気づいたようだった。
 懐から出したタオル状の拭布で鼻を拭っていた彼の、丸く見開かれた鮮やかなコバルトブルーが、少年っぽい喜色を含んで細められる。
「我が君にそんな優しい言葉をかけてもらうのは初めてです。そんな風に言ってもらったら、死んでも死ねませんね」
「我が君じゃないって言っただろ」
 死んでも死ねないなどという文章としておかしい言葉に突っ込みを入れるより早く、飛鳥は、まだへたりこんだままだったノーヴァの脳天に無造作な拳の一撃を食らわせる。本人にとっては軽い一撃だが、非常識な膂力を持つ飛鳥の『軽い』なので、あまり慰めにはならないかもしれない。
 ガツンという鈍い音がして、声にならない悲鳴を上げて頭頂を押さえたノーヴァが涙目で悶絶する。
「馬鹿になったらどうするんですか、我が君!」
 まったく懲りていないその抗議の声に、飛鳥は胡散臭いほど晴れやかな笑みを浮かべた。彼がはっきりと笑うことそのものが珍しいうえ、漆黒のその双眸がまったく笑っていないことに気づいたのだろう、ノーヴァがものすごく不安げに飛鳥を見上げる。
 こういう表情を見るに、彼も圓東と同じく非常に犬っぽいが、上背があるのでこれはゴールデン・レトリバーといったところだろう。
 飛鳥は嘘臭い笑顔のまま彼に近づくと、中指で思い切りその額を弾き、痛いっ! という当然の悲鳴を上げたノーヴァの両こめかみに、固めた拳の尖った部分を押し付けてごりごりと捻じる。
「いたたたたっ、痛い、ちょっ……待っ……マジで穴開きますって、穴!」
「……お前の記憶容量は鶏以下か、あぁ? そんなに働いてない脳味噌なら、穴を開けて少し中身を抉(えぐ)り出しても問題なさそうだな? もっと頭を使わなきゃいけないのに中身が足りなくて困ってる奴らにでも分けてやれ、気前よくな」
「ぎゃーっ、すみませんごめんなさい勘弁してくださいっ。抉り出されるのは嫌だとか分けて役に立つものでもないとかそういう以前に、穴開けられた時点で死んじゃいますからっ!」
「そんな細かいことは気にするな、少なくとも俺は気にしない」
「明らかに細かい部分じゃありませんし、それっ! わ、判りました、もう呼びませんから勘弁してください、折檻で命を落とす騎士なんて不名誉すぎて嫌ですっ!」
 必死かつ半べそで、騎士などという名前だけですでに恰好のいい職業に従事する人間とは思えない情けなさでノーヴァが叫ぶ。
「……仕方ない、今回だけは許してやる。ただし、今度呼んだら、中身が液状化して色んな穴からはみ出るまでその首の上に乗っかった丸いのを揺さぶるぞ? 判ったか?」
「液状って、どんな高速で揺さぶられたらなるんですか……。うう、はい、肝に銘じます、わが……じゃなくてアスカにお仕置きされるのは別に嫌じゃないですけど、それで死んだら笑い話にもなりませんしっ」
 やっと解放されたこめかみをさすりながらノーヴァがこぼす。
 台詞の一端に不穏な内容が含まれていたような気がするのだが、ぶつぶつとこぼしながらもこめかみをさするノーヴァの表情がどことなく嬉しそうな気もするのだが、出来れば気の所為ということにしておきたい。切実に。
 いじめられて悦ぶ被虐趣味の、しかも自分より年上で上背のある同性の『しもべ』なんて、持って嬉しいわけがない。
 人間として男として危機的に不味い主義と嗜好を持った、自称飛鳥の友人とかいう故郷の知り合いなら、嬉々として甘受し様々な趣向を凝らしてくれそうだが、それらに関しても飛鳥はあまり目にしたいとも思わない。
「やっぱりなんかちょっと不幸っぽいぞ、俺……」
 すでにのっぴきならない状況に陥って来ているこの『飛鳥と愉快な下僕たち』御一行様だが、主導権を握ってしかるべき位置にいるはずの飛鳥に、これっぽっちも選択肢がないような気がするのも気の所為だろうか。
 結局のところもうどうしようもないのだが、なんとなく面白くないのも事実だった。
 むかつくからあとでレイをいじりに行こう、携帯電話の電池はまだ残ってたし、などと、本人が聴いたら泣いて逃げるようなことを淡々と胸中に思っていた飛鳥だったが、
「散歩か、若? ずいぶん早ェな」
「おはようございます、アスカ」
 日本語と異世界語(どうやら飛鳥が覚えたこれは、この世界における全大陸共通語であるらしい)が背後から同時に響いたので、小さな息を吐いてからゆるゆると振り返った。
 ひとつの口でふたつの言語を同時に駆使することはさすがの飛鳥にも不可能なので、イスフェニアに「おはよう」と返してから金村に応える。ふたりとも、一汗流したからかさっぱりした表情をしていた。
「お察しの通りだ、早くに目覚めすぎたんだが、二度寝をする気にもなれなくてな。そういうあんたもずいぶん早いな、もしかしてずっとこんな朝を続けてるのか? 言葉はどうしてるんだ?」
「若が目覚めた次の日からだから、これで七日目だな。なに、性分みたいなもんでね、毎日一定以上身体を動かさねぇと、なまっちまうんじゃねぇかって気が気じゃなくなるんだ。言葉はさっぱりだが、雰囲気で察するくらいならできるようになったぜ? それに、イースはその辺りの察しがいいからな」
「なるほど、十日いれば慣れもするか。しかし……あんたも大概貧乏性だな。そんな、一日二日で筋肉が衰えるわけがないだろ。ああ、ここから観てたんだが、いい動きしてるな、あんた。あれならすぐにでも実戦に入れそうだ」
「それはどうも……と、言いてぇとこだが、あの化け物相手に何も出来なかったんだ、どうしようもねぇわな。手習いは手習いでしかなかったってことさ。まぁ、だからこそ二度目に備えてこうしてるんだけどな」
「そう言うな、あれを目にして我を失わなかっただけでもすごいと思うぞ、俺は。あの時は俺が動けたからというだけのことで、もしも俺がやられてたら、次に奴らに挑んだのは間違いなくあんただっただろうさ。あれだけの動きが出来るなら、不可能じゃない」
「ふむ、褒め言葉と受け取っておこうか。もっとも、若や王様のあれを観たあとじゃ、何とも情けねぇ気分だがな」
「自分の力量を把握するってのは大事だぞ、それが把握できたんなら、そこからどうやれば自分が強くなれるか判るんだからな。方法が判ったら今からだって遅くはない、好きなように鍛えろよ」
 何故かこの、武将の雰囲気を持ったヤクザにはあまり悪い感情の起きない飛鳥が、柄でもないと自分でも思いつつ励ましめいたことを言うと、金村は苦笑して肩をすくめた。
「ああ、そうさせてもらう。まぁ、学生時代剣道をやってたから、鍛えるのは嫌いじゃねぇし、慣れてもいるしな」
 あまり感情の動かない、淡々とした金村の物言いの中、気になる部分があって飛鳥は首を傾げた。本来、他人の過去や背景など気にも留めないのだが、今回ばかりは好奇心に負けた。
「待て、学生時代とかいう表現が出てくるってことは、あんた大学行ってたのか」
「……ん、ああ。院まで行ったが。何か問題あるか?」
「あー、いや、まぁ、特にないけどな。なんつーかこう、そぐわないというか人は見かけによらないというかあんたの学生時代やら輝かしい青春時代が想像出来ないというか。じゃあ、インテリヤクザとかいうヤツか。院までって相当だな……どこの大学に通ったんだ」
 わりと失礼な言葉を列挙した飛鳥だが、金村はそこには頓着せず、ただインテリ云々にちょっと顔をしかめる。
「その表現はあんまりありがたくねぇな……。そもそも極道に入ったのは院を出てからだ、順番が違う。――ああ、大学は国際昇華大学ってとこだが、若は知ってるか?」
 飛鳥としては、大学院を出てからヤクザの道に入るという、不条理極まりない金村の人生に物申したい気持ちでいっぱいだったのだが、それよりもまず久しぶりに耳にする、それでいてひどく聞きなれたその名前に虚をつかれ、一瞬沈黙させられた。
 黙り込んだ飛鳥に、金村が訝しげな目を向ける。
「――――若?」
 飛鳥は苦笑した。そして、首を横に振る。
「いや、何でもない、気にするな。しかし、国際昇華大学か……確か偏差値七十ちょっとなきゃ入れないだろ、あそこ。メインの遺伝子工学科なんか、東大並に八十必要とか言われてるしな。ってことは案外賢いのか、あんた。それでヤクザになるんだからよく判らないぞ……」
「この道に入ったのはほぼ成り行きだ。まぁ、特に後悔もしてねぇが、あのまま大学に残ってたら今ごろは世界に名を残す歴史学者になってたかもしれねぇな。それを思うと多少もったいないことをしたような気もする」
「ということは史学科か……ますますそぐわん……」
「ああ、専攻は古代東洋史学だ。楽しかったぞ、教授の遺跡発掘の供をしたりしてな。しかし、あれからもう十年以上経つんだと考えると、なんかこう感慨深ェな……」
 飛鳥がぽつぽつと漏らす失礼な驚きをまったく気にすることなく、金村が昔を懐かしむような目をした。飛鳥の驚きのツボがどこにあるのかを理解していない風情がある。
 ――――この男、図太いというよりも天然だ。強面なので気がつかない人間も多いだろうが。
 ちなみに国際昇華大学は、各分野(だけ)に突出した才能を見せる教授と学生が多いことで世界的に知られている。三十年ほど前に設立された、比較的若い部類に入る大学で、偏差値は高いが人気も高い。
 そこは飛鳥の人生や、彼が辿った運命にとっても非常に大きな意味を持つ場所だったが、それらを懐かしむ気持ちは、金村の学生時代という衝撃的な代物の前に薄れてしまった。……それもまた非常に失礼な衝撃だが。
 人は見かけに寄らない、という至言を、まさに飛鳥は肌で味わっていた。
 この分だと、もしかしたら圓東はああ見えて東大生だったりするのかもしれない。……さすがにあり得ないとも思うが。
「さて……俺はこれからもう少し歩いてから風呂にでも行こうと思うんだが。あんたたちはどうするんだ?」
 『あり得ない想像』から思考を切り替えた飛鳥が、日本語と異世界語で同じ問いかけをすると、まずノーヴァが口を開いた。
「俺はわが……もとい、アスカたちの朝飯の準備があるんで先に戻ります。イースは確か、これから騎士団小隊の簡単な会合があるんだよな?」
「へえ、そうなのか。まぁ、管理職だしな」
「はい、分不相応ではありますが。もっとも小隊の者たちは皆が自分の本分を理解してくれているので、それほど時間はかからないでしょう」
「そうか、ならとりあえず、あんたはあんたの果たすべき職務を果たして来い。まぁ、朝飯に間に合うようならいつもの食堂に来いよ」
「……御意」
「じゃあ、そういうことで、アスカ。朝食は八時からですので、それまでゆっくりしてください」
 恭しく一礼したイスフェニアと、嬉しげに……尻尾を振る大型犬さながらに手を振ったノーヴァとが踵を返し、市内へ戻って行くのを見送ってから、飛鳥は騎士や兵士たちの鍛錬風景へもう一度目をやった。こちらに気づいた何人かが、何事かを囁き交わしているのが見える。
 それらには頓着せず、飛鳥は隣の金村へ目を向けた。
「で、あんたはどうする?」
 金村の答えは簡潔だった。
「――――供をしよう」
 予想通りといえば予想通りの言葉に、飛鳥は肩をすくめる。
「よし、じゃあせっかくだから古墳時代における古墳と統一国家の密接な関係についてでもみっちり語るとするか」
「おお、若は話が判るな。俺にその辺りを語らせると一晩や二晩じゃきかねぇぞ?」
「……そこまで濃厚に語らなくていい」
 などと、他愛なく馬鹿馬鹿しい会話に興じながら歩き出した飛鳥だったが、不意に、世界のどこかで――この国の、この町のどこかで、決して遠くはない場所で、何かがざわりとざわめいたような気がして立ち止まった。背骨を何かが滑り落ちてゆくような、奇妙な感覚だった。
 不可解ななにものかに首を傾げたものの、それ以上のことは何も起きず、訝しげな金村に何でもないと合図してまた歩き出す。
 ――――事実、運命の歯車とかいう不可視の代物が、ほんのわずかずつ動き出していたことを、このときの飛鳥はまだ知らない。



 何故だろう、と彼はつぶやいた。
 つい先日まであれほどはっきり見えていた『道筋』が、唐突に――あまりにもあっさりと曖昧かつ不確定なものになった。
 彼の力ではいかにしても変え難かった、ただただその定められた姿を従順に紡ぎ上げるだけのものでしかなかった『道筋』が。何度も何度も、彼に苦悩と辛酸を舐めさせてきた『道筋』が。
 何故だろう、ともう一度つぶやいた彼が一歩踏み出すと、長い長い彼の髪、不思議な光沢のある灰色のそれがふわりと揺れる。
 『道筋』が変質した瞬間、世界の匂いが変わったことに彼は気づいていた。停滞していた世界が、ゆっくりと動き出したことに彼は気づいていた。
 それがよい方向へ進むのであれ悪い方向へ進むのであれ、世界には抗いようのない混乱が訪れるだろう。その結果最後にもたらされるものが平穏と秩序だとしても、その過程の中で、世界にはどうしようもなく避け難い死が満ちるだろう。
 彼は、全身でそれを感じていた。
 けれど、それは彼に希望をもたらしてくれた。
 ひしひしと迫り来る不可避の運命の日に怯え、その先に待つものへの絶望から逃れられず、疲れ果てすべてを諦めかけた彼の魂に希望という名の火を灯してくれた。
 だから、と彼はまたつぶやく。
 あでやかな紅色の唇に、ほんのわずかな笑みを刷いて。
 守ってみせる、と、誓いをこめる。
 そこに、欠片ほどであれ、描かれた『道筋』とは違う運命が存在するのなら、彼は彼の持てる力のすべてを使い、彼の愛するたったひとつのために命を賭けるだろう。躊躇いなく、その命と魂を投げ出すだろう。
 彼は、そのためにここにいるのだから。
 ――――ああ、と、溜め息が漏れる。
 それは、嘆息ではなかった。
 彼は、笑っていた。
 くすくすと、軽やかに声を立てて、楽しくてたまらないというように。切実な渇望の結露を望むと同等に、これから訪れる混乱が楽しみでたまらないというように。
 それから彼は、彼を迎えに訪れた青年が、彼を目にしてやわらかく微笑んだのへ優雅に……流れるように一礼し、同じく艶然と微笑んでみせた。吹き込む風に、灰色の髪が翻る。
 そして、彼は告げる。どこか誇らしげに。
「国王付き賢者ハイリヒトゥーム・ディシェイラ、お召しにより罷り越しました。どうぞ、国王陛下にお取次ぎを」
 変質と拍動を高らかに謳う、世界の声を聴きながら。