三十分ほどして帰ってみると、部屋の前には仁王立ちの圓東がいた。
 ただでさえ手入れされていないくしゃくしゃのアッシュブロンドを寝癖そのままのかたちであちこちへはねさせ、服はというと少々丈の長い夜着のままで、ひどく不機嫌そうに腕組みをしている。
 もっとも、これが金村やふたりの騎士ならさぞかし威圧されただろうが、仁王立ちなどしたところで、貧相というのがもっとも妥当な身体つきの圓東では迫力もクソもない。
 飛鳥は圓東の不機嫌を理解しつつも頓着はせず、片眉を撥ね上げるようにして彼を見る。
 一体何を怒っているのか――それとも拗ねているのか、頬をぷっくりと膨らませた様子などは、とてもではないが飛鳥よりも年上とは思えないし、成人しているようにも見えない。その仕草や表情はただ、彼の少年っぽさを助長するだけだった。
 もっとも、飛鳥たちが戻ってきたことに気づいた瞬間、相好を崩してしまう辺りが圓東らしい。所詮は柴犬である。
「……何だ、そんなところで立ち尽くして。痴呆による徘徊か?」
「どこ行ってたんだよふたりとも、探しちゃったじゃないか……って、ええっ!? いやあのっ、おれ別にぼけてないよっ!?」
「ああすまん、間違った」
「あ、うん、判ってもらえればいいんだけどさ」
「そうだった、今はもう痴呆症とは言わないんだったな、きちんと言い直そう。その年で認知症による徘徊とは、同情してもしきれないが、俺がしてやれることなどたかが知れている。無力な己が歯痒いな。気の毒とは思うが、何事にも強く生きろよ」
「だから、別にそういうのじゃないってば……!」
「ボケた人間ほど自分はボケていないと言い張るものだ」
「うわあぁんッ、アニキがいじめるっっ!」
 淡々とした、よどみなく流れる河のように滔々と紡がれる飛鳥の言に、助けて金村のアニキっ! と叫んだ圓東が金村に泣きつく。
 恐らく、向こうにいたときからふたりの関係はこうだったのだろう。近辺のヤクザたちに名の売れた、天然気味だが生粋の武人であり筋者である金村と、下っ端スメルに満ち溢れた、とても仁侠の世界に住まうとは思えない圓東がどうしてそうなったのかは知らないが、金村にとって圓東は庇護すべき存在であるらしかった。
 確かに、異形たちと遭遇したあの時も、金村は何かと圓東を叱咤し庇っていたように思うし、それなら金村と圓東が同じ部屋を使っている理由も判る気がする。飛鳥はあのだだっ広い部屋にひとりで寝起きしているのに、だ。
 今回もまたその類いと認識したのか、呆れた風情でかすかに笑った金村は、圓東の頭をまるで子どもにでもするようにぽんぽんと叩き、
「冗談に決まってるだろう」
 そう、淡々と、しかしなだめる口調で言った。
「ううっ、で、でも……ッ!」
「ったくお前はちっとも変わらねぇな。ひとりの男に仕えると決めたんなら何を言われようと甘受するのが筋ってもんだ、もっと肝を据えて、もう少ししゃきっとしろ、しゃきっと。でねぇとしまいにゃ若に愛想を尽かされちまうぞ」
「ええっ、それはヤだっ」
「なら、もっとしゃきっと構えろ、配下として恥ずかしくねぇようにな」
「……うん、判った……」
 ほだされたかなだめられて納得させられたか、従順にうなずく圓東の姿に、飛鳥は、強面だが熱心で愛情深い保父と、手はかかるけれど素直な園児を想像し、思わず笑いをこらえた。ここで吹き出すと、多分圓東は更に拗ねるだろうと思ったからだ。
 笑いをこらえた時点で、自分がここに戻ってきた理由と当初の目的を思い出し、部屋のドアノブへ手をかける。余計な道草をしている場合ではないのだ、あと四十分ほどで朝食が始まってしまう。
 扉を開きながら顔だけ振り返り、
「お前らもぐずぐずするな、早く準備して来い」
 端的に言うと、圓東が訝しげな顔で飛鳥を見遣り、それから金村を見上げた。
「……って、何の?」
「ああ、若は風呂へ行くらしい。汗をかいたことだし、俺も供をしようと思うんだが、お前はどうする?」
「え、それってあのでっかい風呂? 行く行く、おれも行く! じゃ、着替え取って来るしっ! 金村のアニキ、ほら、急いで!」
「判った判った、そう急くな」
 ふたりがあてがわれた来客用の部屋、飛鳥の使っている部屋の隣に当たる――といっても、ひとつひとつの部屋がだだっ広いため、『隣』なのにドアとドアの間隔が十メートル以上あるのだが――そこへ向かって勢いよく、金村を催促しながら圓東が駆け出し、苦笑した金村が引率の教師さながらにそのあとを追う。
 飛鳥はそれを見送ると肩をすくめ、ドアノブをゆっくり回した。
 ゆるゆると下りた視線が、人差し指にはまった漆黒の指輪へ行き着く。
 別にきついわけでもないのに――むしろはめているという感覚すらないのに、自ら取り外すことの出来ないこの指輪は、今のところまだ誰の目にも留まっていないのか、まだこちらの世界の面々がこれについて言及してきたことはないが、問われたところで答えようがないのも事実だ。
 指先でそっと触れると、胸の奥に静けさが満ちるような気がしてとても心地いいから、きっと悪いものではないのだろうとは思うが、これが何なのか判る者がいるのなら是非教えて欲しいとも思う。
 『知る』ことへの欲求は、常に彼の中にあるエネルギーだからだ。
「……まぁ、そのうち判るだろ。今はまず風呂だ風呂」
 無論のこと今それを考えたところで無駄だと知っている飛鳥が、その欲求をさっさと収めたのも当然ではあるのだが。
 飛鳥は部屋に入ると、クロゼット内の引き出しを引っ掻き回して吸水性のいい幅広の拭布を二枚ばかり手に取り、あっという間に戻ってきた圓東が上げる催促の声を聞きながらまた部屋を出た。
 扉を閉め、鍵はかけず、三人並んで歩き出す。
 まるで旅行にでも来たようだ、と飛鳥は思ったが、生まれてこの方『旅行』などというものをしたことがない彼には、これが本当に『旅行』を体現しているのかどうかは判らない。
 しかし、どうやら同じようなことを考えていたらしく、着替えと拭布とを抱えた圓東がはしゃいだ声を上げた。
「なぁなぁっ、なんか温泉旅行にでも来たみたいだよな、おれたち。美味しいメシと広い風呂とキレーな景色なんて、旅行そのものだしっ」
「暢気だな、お前。まぁ、不安と心労のあまり食事も喉を通らず痩せ細るとかよりは気楽だけどな、帰る方法も判らなければ、行く当てもないんだぞ? 家族は心配しないのか?」
「ん? ああ、大丈夫。みんな、おれがいない方が巧く行くと思うからさ。だから、今すぐに帰らなきゃならない、ってことはないし、帰れなくてもそれはそれで仕方ないと思うよ」
「……そうなのか」
「うん、そう。おれがいなくなっても、誰も探したりはしないと思う。……気楽でいいだろ?」
 そこだけはひどく大人びた、諦観にも似た表情で圓東が言い、飛鳥はひどく意外な思いで彼を観る。
 この少年じみた人物を、誰からも愛される類いだと思っていたからだ。手はかかるけれど素直で開けっ広げで、他者に警戒心を抱かせない雰囲気を持った圓東が、そんな風に、自分がいない方が巧く行くのだとこぼすような環境にいたとは思えなかったのだ。
 他者の生活環境や過去に頓着するほど詮索好きではない飛鳥だが、もののついでとばかりに金村を見遣る。複雑な表情で圓東を見下ろしていた金村は、飛鳥の表情に気づくやかすかに首を傾げてみせた。
「どうした、若」
「いや、あんたはどうなのかと思ってな。こんなところまで一緒に飛ばされたのも何かの縁だ、どうせ進む方向は今後とも一緒なんだろうが、あんたには今すぐ、どんなことをしてでも帰らなきゃならないような事情はないのか?」
「……ねぇな。組のことも俺の手を離れて久しい、俺がいなくとも何とかなるだろう」
「あんた、家族は?」
「親はもう鬼籍に入ったし、姉がひとりいるが連絡も取ってねぇ。母親が再婚しててな、義理の弟もいるんだが、めちゃくちゃ嫌われてたからな。まぁ、つまりは問題ねぇってことだ」
 どこか自嘲的なニュアンスを含んだ金村の言だったが、飛鳥はそこで気安く、その場しのぎの同情や慰めの言葉をかけるほどお人好しでも偽善者でもなく、さらりと次の問いを口にする。
「結婚はしてないのか」
「……まぁ、な。色恋と縁遠かったってのもあるが、そもそも、あの商売やってて嫁をもらうなんざ不可能な話だ。どうあっても結局のところ不幸にしちまうんだからな」
「なるほど、あんたらしいな」
 飛鳥にしてみれば金村のようなタイプは女にもてると思うのだが、色恋と縁遠いなどと自ら断言してしまう辺り、朴念仁なのかもしれない。
 彼は不幸にするなどというが、こういう男はどんな仕事をしていても、どんな場所にいても、自分が愛した相手を全身全霊で幸せにすることが出来るタイプだとも思う。
 しかし、己の立ち位置を客観的に理解している彼の在り方は、飛鳥にはとても心地よかった。
「そういう若はどうなんだ。家族は心配してるんじゃねぇのか?」
 反撃とばかりに金村が問うたので、飛鳥は苦笑して肩をすくめた。
 どこまで本当のことを言うべきなのか、どこまでなら知られても大丈夫かという意識が脳裏をかすめたが、ここまで来てひた隠しにする必要もないだろうと囁く声があるのも事実で、少々思案してから飛鳥は口を開く。
「親も兄弟も親族も誰もいない。二年ほど世話になった育ての親も半年前に死んだし、正真正銘天涯孤独というヤツだ、俺もまったく問題はないな。近所の連中は多少寂しがるかもしれないが、いない人間のことをいつまでもぐちぐち言ってはいられないだろ。だから、例え向こうに戻れなかったとしても、それはそれで、構わないと思う」
「――――なんだ、似た者同士か、俺たちは」
「そういうことだな。だから今こうしているのかも知れん」
「そっかー。アニキたちもそうなのか。なんか、ちょっと嬉しいな、おれだけがひとりなんじゃないって思えて」
「人間なんざ誰だってひとりだろう。ただ、群れる必要がある奴らは群れて、必要のない奴らはひとりでいるだけの話だ。親兄弟だろうが血縁だろうが、そこに違いはないと思うぞ」
「へぇー。哲学的なんだなぁ、アニキは」
「……いつの間にそんな高尚なことを言ったかな、俺……」
 微妙にずれた圓東の感心に呆れつつ、そこから二分も歩くと目的地へ辿り着く。
 ゲミュートリヒ市領主の居宅であると同時にゲミュートリヒ市の中心であり顔でもあるこの館は、土地の不足による地価高騰に悩む日本人たちが白目を剥いて羨みそうなほど広い。無意味ですらあるほどだ。
 おかげでひとつの目的地に辿り着くまでに数分を要するという遠距離ぶりだが、飛鳥は決して派手でも華美でもないこの館の、頑健で清潔でストイックな造りが好きだった。
 そして、広々として居心地のいい、館自慢の大浴場も。
「でも、別の世界に来て温泉に入れるなんて思わなかったな、おれ。ちょっと得した気分かも」
「確かに。案外恵まれてるのかもしれねぇな」
 そう、地熱の関係なのか、このゲミュートリヒ市には温泉が湧いているのだ。それも、非常に豊かで気持ちのいい湯が。
 入浴を習慣的に行う風習こそあれ、各家庭に風呂が存在するほどの文化レヴェルではないが、市内にはゲミュートリヒの住民なら奴隷を含めて誰でもタダ同然で入れる共同浴場があちこちにあるし、一定以上の財力を持った家庭の中には、自宅にその湯を引いている家もある。
 日本で言えば温泉町といったところだろう。
 そして、湯を引いている家の中でも地域最大規模の広さと湯量を誇るのが、このゲミュートリヒ市領主の邸宅なのだ。
 メイデに自由に使っていいと言われたためその通りにしているのだが、こうも風呂に入り浸っていると、本当に温泉宿にでも滞在しているような気分になってくる。
 無論、ここが温泉町にあるただの温泉宿などではないということは、脱衣所(と表現していいのか不明だが)や湯殿、湯船の造りや広さ、備え付けられた湯具の類いを見ればはっきりするだろうが。
「朝飯はいつもの通り八時からだ、あまりゆっくりはしていられないぞ」
 脱衣所の隅に設置された水時計が、もうじき七時半を差すのを確認しながら飛鳥が言うと、ばさばさと、いっそ清々しいほどに勢いよく服を脱ぎ捨てていた圓東が頷く。
「おれ別に洗わなくてもいいし。どうせ夜にも入るんだろうしさ。金村のアニキは汗かいたんならカラダ洗うの?」
「ああ……まぁな。このままってのも不衛生だ」
「案外綺麗好きなんだな、あんた」
「そうか?」
「うん、綺麗好きだよ。だって金村のアニキ、部屋とかいっつも綺麗だもんな。組のみんなも、金村のアニキが綺麗好きだからって、怒られないように事務所とかちゃんと掃除してたし」
「……それは初耳だ」
「高偏差値の大学出身で綺麗好きのヤクザか。ますますあんたのことが判らん」
「判らんと言われるほどご大層なものでもねぇと思うんだがな……」
 首を傾げた金村が言うが、飛鳥は肩をすくめて返した。
「思うのは自由だ、好きにしろ」
 それから脱衣所と向こう側とを区切る籐製の扉を押し開き、湯殿へ踏み込む。
 そこは、ちょっとした日本家屋が二軒ばかりすっぽりと納まりそうな、狭い土地に慣れた日本人の常識を超える広さだった。
 湯がなみなみとたゆたっている湯船には、色鮮やかで香りのよい花や草が浮かべられている。そこは競泳でも出来そうなサイズを誇っているうえ、小振りの浴槽が他にも三つある。
 それぞれの浴槽には、花篭や獅子や鳥を模した注水口があり、そこから常に新鮮で清潔な湯が流れ込むようになっている。
 大きいだけかと言ったらそんなことはなく、内装もまた見事だ。
 純白の、磨き上げられたタイルが床全体を覆い、壁や天井のあちこちを、色違いの細かなタイルを組み合わせて描かれた、花や鳥などをモチーフにした精緻な絵が飾っている。侍従や奴隷たちが毎日きちんと掃除をしているからか、どこへ目を向けても汚れを見つけることは出来なかった。
 さすがにシャワーや蛇口はないものの、顔や身体を洗うための大ぶりの桶から、手触りのいい木をくりぬいて作られた手桶、いい匂いのする石鹸や香油、大きなブラシ、身体を洗うのに最適の小さな椅子、小振りの湯殿に入れて使うのであろうバスソルトに似たものなど、およそ入浴を快適にするために必要と思われるすべてのものが揃っている。
 やっほう、などと間の抜けた奇声を上げた圓東が、律儀にもかけ湯をしてから湯船に飛び込んだ。盛大な水音がして、派手な水しぶきが上がる。
 飛鳥はいくつだお前などと呆れつつ、銭湯に置いてあるものより格段に座り心地も肌触りもいい小さな椅子を引っ張ってくると、大ぶりの桶(洗面器よりちょっと大きい)に湯を汲んで石鹸を泡立てた。皆が一同に会して朝食を摂るのだから、顔くらいは洗おうと思ったのだ。
 石鹸は物静かで控え目なのにどこか懐かしくいい匂いがして、密かに飛鳥のお気に入りだった。
 圓東が、明らかに湯船の中で泳いでいるとしか思えない音を立てているのを耳の片隅に聴きながら顔を洗っていると、
「いつ観ても思うんだが、若はいいカラダしてるな。とてもじゃねぇが、十七歳とは思えねぇぞ。いったい何をしてそんなに鍛えたんだ?」
 しみじみとした金村の声がそう言ったので、飛鳥は持ち込んだ拭布で水分を拭って顔を上げた。
 隣では、小さな椅子に腰かけた金村が、石鹸をブラシで泡立てていた。こうして並ぶとまさしくノリは銭湯だ。
「俺はまぁ、あれだ、色々事情があるんだ。長い長い話になるから、そのうち機会があったら話してやるよ。だがあんただって相当だぞ、身体が資本の商売と言っても、よくそこまで仕上げたな」
「仕上げたのはどっちかってぇと学生時代の剣道で、だがな」
「でも、スミは極道に入ってからだろ? ヤクザ者の刺青にしちゃ、デザインにしろ入れる場所にしろ、ちょっと変わってるな」
「ん、ああ、そうだ。親父殿に何か入れろと言われて入れたんだが、あんまりありきたりなのもつまらねぇし、別に見せびらかしたいわけでもなかったからこういう絵柄で入れ方になった」
「……つまらんとか見せびらかしたくないとか、あんたのそういう思考回路、よく判らんな……」
「そうか? 組にいる頃は、誰も何も言わなかったぞ?」
「そりゃまぁそうだろ」
 この厳しい、触れれば切れるような雰囲気すら持った男に、本当は根っこからして相当な天然だなどと知らない組員たちが、どうしてそのツッコミの諸々を口にすることが出来ただろうか。
 組員たちが互いに顔を見合わせて、ものすごく突っ込みたい諸々を視線だけで確認しあっている様子を脳裏に思い浮かべると吹き出しそうだ。
「でも俺は、あんたのその刺青は嫌いじゃない。入れ方も絵も品があるし、何より精緻で綺麗だ。ヤクザというと竜だの虎だの般若だの入れたがるが、頭の悪い連中がそんなものを入れたらますます馬鹿に見えるとどうして判らないんだろうな、理解に苦しむ」
 飛鳥が言うように、金村の刺青は、ヤクザ者が入れる大抵の刺青がそうなるであろう背中や肩には及ばず、彼の引き締まった腰から尻の左側、そして左太腿へと続いていた。
 やや抽象化された白蓮に、やはりやや抽象化された孔雀蝶が二羽三羽と舞い飛び、そこを河の流れが彩るという、意匠性の高いものだ。どぎつくなりすぎない繊細なタッチの絵柄は、威勢の誇示という刺青の目的を超えた優美さをたたえて金村の肌を飾っている。
「そうか? 俺もこいつは結構気に入ってるんだ、そう言われると嬉しいもんだな。友人の彫り師が入れてくれたんだが、そいつも喜ぶだろうさ」
「ああ、いいんじゃないか? そういうのは自己主張しすぎない方が絶対に粋だと思うぞ、俺は。そういう点で、あんたのそれは理にかなってる」
「なるほど……名言だな」
 どうやら刺青を褒められたことが嬉しかったらしく、珍しくはっきりした笑みを浮かべた金村に釣られ、ついつい飛鳥まで一緒に笑ったとき、不意に脱衣所の方で物音がした。金村も圓東もそれに気づいたのだろう、動きを止めて扉を伺っている。
 この風呂には男湯や女湯という区切りがないため、人々はおおよその時間帯に分かれて風呂を共有しているのだが、この時間帯に湯を使う人間は男女ともに少なく――つまりそれは、飛鳥たちの暇人ぶりを物語るのだが――、いったい誰だろうと飛鳥は訝る。
 もっとも、特に悪い空気も感じられず、あまり緊張はしていない。
 何となく声を出すのも憚られる雰囲気の中、物音の主の動向を伺っていた飛鳥は、
「そこにいるのはどなたです?」
 高くもなく低くもない、男とも女とも取れないその声が響いた時点で眉をひそめた。それはとろりと蕩けるような甘い声で、誰もがいつまでも聞いていたいと願うに違いない美しさだった。が、隣の金村や湯船の圓東を見遣ると、ふたりともひどく不思議そうな顔をしていた。
「……若」
「どうした」
「今の声だが」
「ああ」
「……日本語じゃあ、なかったよな?」
「そうだな」
「だが、俺にも内容が理解できた」
「だな。俺も、この世界の言語として理解する必要がなかった」
「おれも判ったよ。……何で?」
「知るか」
 淡々と、ぼそぼそと話していると、またあの声がした。
「どなたがいらっしゃるんですか?」
 その声とともに、かすかに軋みながら籐の扉が開かれる。
 扉を押す手は、その指先は、細く白く、華奢だ。
 そして湯殿に足を踏み入れたその人物を目の当たりにするや、圓東が首まで真っ赤になって湯船に沈んだ。
「おおお、おね、お姐さんっ!? いやあの、ほらっ、ここって混浴じゃないからっ!」
 圓東が、通じないと痛いほど理解しているはずなのに日本語でまくし立てると、『お姐さん』と呼ばれた人物がかすかに首を傾げ、艶然と笑った。珍しい色の長い髪が、さらさらと音を立てて流れる。
 圓東が更に顔を紅くしてうつむく。
 現れたのは、傾城の美姫とでも表現するのが相応しいであろう、蠱惑的な美貌の人物だった。
 瞳は極上のラピスラズリ。
 見事な瑠璃色は、ノーヴァのコバルトブルーとも違う深さと鮮やかさだ。
 髪は光沢のある灰色。
 レーヴェリヒトの晴れやかな銀とは違う、どこか沈鬱さを宿した色だ。
 肌は白、唇は紅、爪は桜貝。
 身体は華奢で、ゆったりとした、薄絹を何枚も重ねた衣装の上からでも、その首や腕の細さが際立って見える。触れれば折れてしまいそうな、と、誰もが口をそろえるだろう。
 レーヴェリヒトを筆頭として、この世界に来てから驚くほどたくさんの美貌と行き逢ってきた飛鳥だが、この人物の美は、絡みつくような淫靡さと妖しさを伴っていた。レーヴェリヒトの美が陽ならば、この人物の美は陰だ。
「……見ねぇ顔だな。領主の係累の姫か何かか?」
「そんなの判んないっていうかどうでもいいから、早く出て行ってもらってよ、アニキっ。おれあんな綺麗なお姐さんに観られながら風呂に入れるほど強い心臓してないんだってば!」
 飛鳥は眉を撥ね上げた。
 彼がもっとも気にしたのは、その人物の姿かたちや性別に関する云々ではなかった。その人物を身近に感じた瞬間、世界が軋む音が聞こえたような、そんな錯覚に陥ったことだった。
 しかし、誤解を誤解のまま放っておいても圓東がうるさいので、
「馬鹿を言え」
 端的に言い切る。
「顔がどうであれあれは男だ、間違いなく」
「ええぇッ、男!? あれで!? ってかアニキはなんでそれが判るの!?」
「骨格を見ろ、骨格を。あんな骨組みの女がいてたまるか。なんでその程度も判らないんだ」
「いやあのっ、骨格なんてモノを見て性別が計れちゃうアニキの方がなんでって話だと思うんだけど、おれっ」
「己の不勉強を俺の所為にするな、鬱陶しい」
「えええぇ……ッ!?」
 飛鳥が言い捨てると、圓東が呻き声とも悲鳴ともつかぬ声を上げる。理不尽と自分でも思わなくもないが、相手が圓東ならそんなものだろうと非情な断じ方で自己完結する。
 混乱極まっている圓東とは裏腹にまったく動じていない金村はというと、小さく首を傾げていた。
「まぁ、あいつが男でも女でも俺は構わねぇんだが、で、なんでここにいるんだろうな?」
「さあ? 誰か、探しに来たんじゃないのか?」
 落ち着かぬ風情で湯船に沈んでいる圓東を置き去りに、淡々とした会話を続けていると、美貌の主がまた艶然と笑った。紅でも差したかのように色づいた唇が美しい弧を描く。
「私が男だとよくお判りになりましたね」
 彼が口にした静かなそれは、やはり異界語として認識する過程を素通りして直接思考へと届き、飛鳥は眉をひそめる。それによって何かしらの危険を感じることはなかったが、だからと言って得体の知れない感覚を喜ぶほど物好きでもない。
「――――誰だ?」
 共通語で問いかけると、彼は瑠璃の双眸をゆるりと笑みのかたちに細めた。
 それはたとえようもなく美しく、どこか淫靡だった。それなのに、その眼差しには憧憬のようにも見える切実な光があった。二律背反に思える双方が、彼の中に同居していた。
「名をお求めならばハイリヒトゥームと。肩書きならば、国王付き賢者と。――――そうですか、……そうなのですね。あなたが変質の鍵にして主、そして、エル・デ・ナ・ヴェルトたる方なのですね……」
 今度のそれもまた、直接思考へ届く類いだったが、理解しきれない単語の存在に飛鳥はまた眉をひそめた。エル・デ・ナ・ヴェルトという言葉を口にした彼、ハイリヒトゥームなどという神秘的な名を持つ青年が、安堵とも渇望とも、懇願とも違う複雑な目で飛鳥を観たからだ。
「……何だ、それ」
 怯むでもなくハイリヒトゥームを見据え、端的に切って捨てる。
 ハイリヒトゥームが微笑する。どこか儚げな、並の男なら一瞬にして絡め取られてしまいそうな笑みだった。
 面倒ごとの予感に、飛鳥は小さく溜め息をつく。
 ――――そういう予感を、飛鳥は生まれてこの方外したことがないのだ。