あと数分で八時といった辺りで食堂を訪れたアスカの隣に、その人物の華奢な姿を認め、つい先刻やってきて席についたばかりのレーヴェリヒトは首を傾げた。首を傾げると、身だしなみと称してリーノエンヴェ・カイエに結い上げられた髪、首筋の辺りが引き連れ、ちょっと顔をしかめる羽目になる。
その人物に関しては、レーヴェリヒト自身がゲミュートリヒに呼んだのだから、決してここにいておかしいということはないのだが、それでも何故アスカたちと一緒にいるのかが判らない。
ほっそりとしてたおやかでありながらひどく妖艶な、男女関係なく人々を惑わせる美貌は、初めて出会った九年前から一分の衰えもなく健在だ。アスカの背後を歩く眷族の片割れ、キョウスケの視線がそこへ釘付けになっている理由も気持ちもよく判る。
――それらは明らかに、レーヴェリヒトより四歳も年上の成人男性に使われてしかるべき表現ではなかったが、しかし間違いなく『彼』を言い表すに相応しいものだった。
レーヴェリヒトの遠い従兄であり、剛勇を誇る聖叡騎士団の団長でもあるリーノエンヴェも相当女性的な顔立ちだが、彼の場合は背が高く雰囲気や立居振る舞いが男性的なので、初対面の人間でもほとんどの場合は彼を男性と認識することが出来る。
が、『彼』――――リィンクローヴァを魔法的な面で守護し、世界中の魔導師たちの頂点であり憧れでもあるこの人物に関しては、初対面で男と見抜ける人間の方が少なかった。レーヴェリヒトも最初は戸惑ったクチだ。
「おはようアスカ、ハイル。何だ……お前ら実は知り合いか?」
侍従たちが忙しく立ち働いて人数分の皿や銀器を整える中、ふたりを手招きしながらレーヴェリヒトが言うと、前者は盛大に顔をしかめ、後者はゆったりと微笑んで恭しく一礼した。
「おはよう今日もいい天気だなとか今日はえらく装飾的な髪型だなとか言うそれ以前に、なんでそういう結論に達したのか脳味噌が液化して流れ出すまで揺さぶって確かめてもいいか?」
「……確かに今日はいい天気だし、髪はリーエに無理やり結われたんだが、その前に何でそこまで攻撃的な確認をされなきゃいけねぇんだ、俺は」
「心配するな、それほど痛くない。多分」
「痛ぇとか痛くねぇとかそういう問題じゃねぇだろ、それ。流れ出した時点で死んじまうっつの。……いや、うん、俺も変だなーと思いはしたんだが。じゃあなんで一緒に?」
「なんでも何も、風呂に入ってたらこいつが来たんだよ。お前を探してるとか言うから、食堂だろって教えてやったら一緒にってことになった。ん、そういやカノウとウルルはどうしたんだ、いつもはいるのに。まさか、愛想を尽かされたのか」
「何でそうなる……。どこまで甲斐性なしだ、俺は。そうじゃなく、ちょっと知り合いに遣いを頼んだんだ。すぐ戻ってくるっつの」
「何だ、そうか。面白くない」
「……面白くねぇとか言われてもすげぇ困るんだが……」
「気にするな、こっちの話だ」
顔をしかめるレーヴェリヒトの隣の席に腰掛けながら、アスカが淡々と言う。その更に隣へ、アスカの眷族ふたりが落ち着く。キョウスケの視線は、まだ賢者の青年に釘付けにされたままだ。
「それはさておき、そうか、探させちまったか。悪ィな、ハイル。ちっと思い立って灌漑施設を観に行ってたんだ」
「朝早くから熱心ですね、陛下は。もっとも、それでこそレヴィ陛下であらせられるのかもしれませんが。――――ともあれ国王付き賢者ハイリヒトゥーム・ディシェイラ、お召しにより罷り越しました。何なりとお申し付けくださいませ」
「ああ、判った、ありがとな。まぁ、とりあえず朝飯でも食ってけ。話はそれからだ」
「御意」
やわらかな微笑とともに再度敬意のこもった一礼をしたハイリヒトゥームが、侍従に案内されてレーヴェリヒトの斜向かいの席に着く。ゆったりとした、優雅で流れるような動作だった。
アスカが稀有な輝きを宿した漆黒の双眸でその動きを追い、決して大きくはないのによく通る声で問いかける。
「……そいつはお前の何なんだ、レイ? 賢者と聞いたが、賢者ってのは、いわゆる偉いさんに助言を与えるような類いの人間のことか?」
先刻の会話に続き、国王たる彼をレイなどという愛称で呼んだ所為か、それともその愛称が少々不吉な意味を持つ所為か、テーブルの斜め向こう側の席についていたリーノエンヴェが胡乱な目でアスカを見遣る。アスカはその視線に気づいているようだったが、同時に欠片ほども気にしていないようでもあった。訂正する様子もないアスカに、リーノエンヴェの視線が鋭さを増す。
レーヴェリヒトはあいつも変わらねぇなぁと胸中に苦笑した。
昔からリーノエンヴェはレーヴェリヒトに対して過保護で、今でこそ国を守る王として敬われかしずかれているものの、子ども時代は血筋の半端さのために貴族連中から白眼視されていたレーヴェリヒトをずっと庇ってくれたのもこの青年だった。
もっとも、リーノエンヴェを含む『家族』から十分すぎるほどの愛情を受けて育ったレーヴェリヒト本人は、常日頃から血筋云々など毛ほども気にしていないうえ、真っ向から友達になろうと断言した相手が口にするその名が何だかくすぐったくて、ちょっと笑ってしまったくらいのものなのだが。
我ながら子どもっぽいとは思うが、生まれて初めて『王』という立場など関係なしに出来た『友達』なのだ。それを喜ばないほうがどうかしている。
だとしたら、今の彼が、王としての自分ではなくただのレーヴェリヒトとしての自分を優先させたのも当然のことだった。
「まぁ、本来の意味合いはそうなんだが、実際にはちょっと違う。『賢者』は、魔法を極めた者だけが名乗れる称号だ。まぁ、魔導師の憧れっつーか、目標だな。もちろん、なりたいと思ってなれるものでもねぇしな」
「ということは、魔法を使う人間……ええと、『魔導師』、が、普通に職業従事者として存在するわけか」
「そりゃまぁそうだ、魔導師に今更いなくなられたら、かなりの数の人間が途方にくれるぞ。かくいう俺もそのひとりだ。――もっとも、実力のある魔導師なんざ、世界に百人もいねぇけどな。っつーか、お前の故郷には魔導師もいなかったのか。そんなんじゃ、どうやって言葉の通じない相手と意思疎通をしたり、遠くの相手と急ぎの会話をしたり、暑い日に氷を作ってもらったりするんだ? 恐ろしく不便じゃねぇのか、それ」
レーヴェリヒトの問いは、いつもどこかで何かしらの魔法の恩恵を受けている人間として当然のものだったが、問われた方はひどく珍妙な顔をした。何をどう説明すればいいのか、その糸口すらつかめないとでもう言うような、難しげな顔だった。
「俺たちの故郷では、言葉の問題は先人たちの努力によって賄われてきたし、遠くの相手とはデンワを使うし、氷ならレイトウコだ。お前が思ってるほど不便でもない」
「デンワとかレイトウコ……ああもう、言い辛ぇな……ってのは魔法じゃねぇのか。遠くの相手と話が出来て、氷も作れるんだろう」
「違う。似たようなものかもしれないが、根本が違う。魔法は魔導師がひとりいれば何でもこなせるのかもしれないが、デンワは遠くの相手と会話をすることしか出来ないし、レイトウコを使って氷を作る以外のことをすることも不可能だ。そもそも、魔法を発動させるためのエネルギーってのは何なんだ? そのエネルギーが俺たちの世界……もとい、故郷にはない」
レーヴェリヒトは、アスカの『世界』という言い間違いを訝しく思ったが、深く追求する気にもならず、そのまま話を続ける。
「お前のいた国は本当に変わってるんだなぁ……魔法が使えないなんて、今まで聴いたこともねぇや。いったい、どんな遠くにあるんだ? エネルギーも何も、魔法に必要なのは本人の素質と、精神力と、それから魔法を発動させるための手順だけだろ? 一番大きいのが素質だから、しかるべき手順を踏んだって使えねぇヤツには一生かかっても使えねぇけどな」
「なるほど。なんでも才能なんだな、やっぱり。で、ハイリヒトゥームはその才能ある魔導師たちの中でも随一の実力者ということか」
「そういうことさ。ハイルは精霊王に匹敵するとまで言われてる魔導師なんだ、精霊王っつったら神々の一員だぜ? すげぇよな」
「精霊王か……五色十柱の神々を補佐する役目にある存在だったな。それは確かに、人の身で言えば稀有なことだ」
「だろ?」
「……ご歓談中のところを申し訳ありませんが、あまり褒められると恥ずかしくて隠れてしまいたくなるので、その辺りにしておいてくださいませんか、おふたりとも。それにほら、領主様もおいでになられましたし」
ふたりきりで盛り上がっていたところへ、苦笑を含んだ中性的な美声がやんわりとかかる。
それで頭(こうべ)を巡らせてみれば、やわらかな薄紫のドレスに身を包んだメイデ・ルクスと、涼しげな薄青の長衣に灰茶の脚衣をまとったアルディア・ミュレとが、料理の載った盆を抱えた数人の侍従とともに食堂へ入ってきたところだった。
「おはようございます、皆さん。今日もとてもよいお天気ですわ、きっと素晴らしい一日になることでしょう。一日を勤め、楽しむためには美味しい食事をきちんと摂ることが必要不可欠です。うちの料理人たちが腕によりをかけました、しっかり召し上がってくださいな」
やわらかな声がそう言うと、侍従たちが銀の大盆を次々と広いテーブルに置いてゆく。その中にはアスカ直属の騎士、イスフェニア・ティトラとノートヴェンディヒカイトの姿がある。
かたちよく焼かれた薫り高いパンや、銀器にこんもりと盛られた白いバター、色とりどりの野菜や果物、ふんわり仕上がった金色の玉子料理、ゆらりと湯気を立てる香草のスープ、味わい深いチーズの大きな塊やこんがり焼かれた鶏、いい匂いのする分厚いベーコン、そしてまだ若くて軽いが爽やかな香気のある赤葡萄酒などを目にして、キョウスケが何やら歓声を上げた。小柄なくせに驚くほど大食いの彼だが、その食いっぷりは見ていて気持ちがいい。
「おはよう、アスカ。よく眠れましたか? 傷は大丈夫?」
「おはようアスカ、調子はどうかな? 君さえよければ、今日も読み書きを教えてあげるよ。もちろん、無理はしなくていいけれど」
ゆったりとした優雅な動作で、レーヴェリヒトの真前の席にメイデ、アスカの真前の席にアルディアが着く。
夫妻の問いにアスカはかすかに笑い、そして小さく頷いた。メイデとアルディアの前では、何故かこの強気で人でなしな少年はおとなしい。おとなしいというより、どこか子どもっぽい表情を見せる。
「おはようメイデ、アルディア。お陰様でもうすっかり元気だ。環境がいいからかもしれないな。マットレスの下に敷いてあるハーブはとてもいい匂いだ、心が安らぐ気がする。俺は好きだな、あれ」
「ああ……ツキノカケラ草ね、それは。気に入ったというのなら、今度綺麗な布を探して来て、匂い袋にしてあげましょう。心が安らぐと感じるということは、きっと貴方の心がその安らぎを求めているのだわ」
「……そういうものかな」
「ええ、そういうものよ」
「…………そうか、ありがとう」
にっこりと華やかに――慈母のごとくに笑って返したメイデへ、アスカがはにかんだような笑みを見せた。
「アルディア、時間があるのならまた教えてくれ。あなたの教え方はとても上手だから、学んでいて気持ちがいい。せっかくだから、ここの蔵書を全部読めるくらいになりたい」
「おや……それは嬉しいね。じゃあまた、あとで一緒に図書館へ行こうか」
「こっちも嬉しいけどな、でも、仕事に差し支えないか?」
「差し支えるも何も、国王陛下のご友人なら、何をおいてももてなすべき賓客だ。その大切な、大層出来のよいお客さまにものを教えて差し上げるなんて幸運、そうそうあるものでもないしね。せっかくだから、甘えてくれ」
「…………うん、じゃあ、そうさせてもらう。ありがとう」
「どういたしまして」
敬語も尊称も要らないと言ったのは領主夫妻だが、そんなものなどなしでも、アスカがふたりに敬意を払っていることは明らかだった。アスカの言葉の端々に、やわらかい親愛の情が見て取れる。
十日ちょっとのつきあいとはいえ、大人びて人でなしな言動ばかりを見ているレーヴェリヒトはびっくりする。いつもそんな風に笑っていれば年相応で可愛らしいのに、とは、口に出して本人に言ったら間違いなくその場で張り倒されるだろうレーヴェリヒトの胸中だった。
というよりもむしろ、『友達』で年長者のハズなのに敬意を払ってもらえないどころかいじめられてる俺って不幸? などという思考に行き着いてちょっと凹む。……凹んだのだが、あまりのんびりはしていられないことを思い出して気を取り直す。
「メイデ、アルディア、すまねぇが今日の午後にはここを発つつもりなんだ。視察もあらかた終わったし、何よりアスカを中央黒華神殿につれていってやりてぇからな」
「ああ……そうでしたわね。お名残惜しいですが、きちんと浄化しておかなくては、何が起きるか判りませんものね。では、昼食までには匂い袋をこしらえておきましょう。ねえ、アル? 他に何かいいお土産があったかしら?」
「そうだね、メイ。アスカが行ってしまうのはとても残念だけれど、きっとまた来てくれるだろうしね。あとで探しにいこうか。せっかくだから、素敵なものをたくさん持たせて差し上げよう」
「ええ、またここへ来たくなるように。そうね……一昨年仕込んだ赤葡萄酒はどうかしら?」
「ああ、それはいいね、一昨年の葡萄は本当にいい出来だったから。それから……シエーラ絹の外套はどうかな?」
「ゲミュートリヒの名産品ですものね、その提案はとても素敵だわ。なら、あとは星鋼を鍛えた業物を添えれば完璧ね」
「そうだね、完璧だ。じゃあ、朝食が終わったら手分けして手配しようか」
「……あの、申し訳ありませんが」
実に楽しげに、アスカに持たせる土産とやらの算段をする夫妻へ、呆れたような困ったような声をかけたのはリーノエンヴェだ。
「ここでのまつりごとに、急を要するような類いのものが存在しないことはよく存じ上げておりますが、それでも今すぐに決裁が必要な書類がいくつかありましたでしょう。そちらの始末はどうなさるおつもりですか?」
彼が非常にのんびりとした――というより我が道を行くことにかけては定評のあるこの領主夫妻に苦言を呈するのはよくあることで、立場上当然でもあるのだが、それへの返答も大抵は決まりきっていて、案の定にっこり笑った夫妻が同時に口を開く。
「じゃあリーエ、お願いね」
「印はいつものところに置いてあるから」
言われたリーノエンヴェは盛大に顔を引き攣らせた。普段はあまり表情を崩さない沈着冷静な彼も、このふたりの前ではかたなしだ。
――――それも仕方がない、親子なのだから。
子どもというのは基本的に親には弱いと決まっているが、夫妻のような我が道を行く親だと尚更だ。リーノエンヴェも昔からふたりのこの気風に苦労させられてきたのだ。
観ている分には面白いのだが。
「いえあの、私に言われましても」
「そんな冷たいことを言わずに、ね? 今度リーエの大好きな山桃のパイを焼いてあげるから」
「冷たいとかそういう問題ではありません!」
「扱いが難しくなったわね、本当に。昔は山桃のパイと聞いたらどんなお手伝いだってしてくれたのに」
「何を仰るんですか、とっくに成人した息子をお菓子で釣ろうとしないでください! だいたい、私も忙しいんですよ。その辺りはおふたりだって判っておられるでしょう!?」
我慢出来なくなったか、勢いよく――椅子を蹴り倒しそうな勢いで――立ち上がったリーノエンヴェが白い絹の被布に覆われたテーブルを叩く。彼のそんな取り乱した姿を初めて見るからだろう、キョウスケとノートヴェンディヒカイトが目を丸くした。
王宮での、常に穏やかで優美な所作を崩さない彼に憧れる乙女たちが観たらショックのあまり卒倒しそうな光景が目の前で展開される。レーヴェリヒトの視察に同行すると秘書官の役目も兼任するのだ、雑多な仕事がまだ山のように残っているだけに、リーノエンヴェも必死だ。
必死だが、両親たるゲミュートリヒ市領主と前ゾイレリッタァ市領主には堪えた様子もなく、
「じゃあよろしくお願いね、リーエ。決裁が済んだ書類はビノーに回してちょうだい」
「ありがとうリーエ、それが終わったら、ついでにルオーグの話も聞いてやってほしいな、色々と言いたいことがあるみたいだから」
「いえあの、ですから……」
「ああよかった、これで私たちはアスカのお土産選びに専念できるよ。ねえメイ、持つべきものは優秀な子どもたちだね。リーエがゾイレリッタァの領主を継いでくれたから私は君とずっと一緒にいられるようになったし、他もまたしかりだ」
「そうね、アル。私ももう少ししたら領主の座を譲って引退したいわ。アルと一緒に、お庭の手入れとお菓子作りをして暮らせたら楽しいでしょうね」
自分たちの都合を押し通してにっこり笑い合う。
レーヴェリヒトは遠い従兄のことがちょっと気の毒になってきたのだが、しもべの騎士の片割れに、彼専用の小皿へ、彼用にと焼かれた子どもの手の平より小さなパンや、一口大にカットされた色とりどりの果物を載せてもらっていた(というより一方的に世話を焼かれていた)アスカは、
「微笑ましい親子の対話だな」
などと、本気なのか冗談なのか判然としない言葉をこぼしてうんうんと頷いた。それを聞いたハイリヒトゥームがくすっと笑う。
リーノエンヴェの女性めいた美貌に怒りの朱が差す。普段は穏やかだが、理解や辛抱の埒外の出来事に対しては、案外短気な青年なのだ。先刻の件への鬱屈も加わっていたかもしれない。
「誰の所為だとお思いです!?」
「さあ、誰だろう? まだ言葉が堪能じゃなくてな、よく判らなかった。悪いな」
「『堪能じゃない』なんて難しい言い回しをしておいて何が『よく判らなかった』ですか!」
「ん、そうかな。それは知らなかった」
「この……!」
「およしなさいな、彼は私たちにとっても大切なお客さまなのよ、そのお客さまに何て口の利き方なのかしら。本当に……二十七歳にもなってみっともない。あんまりみっともないことばかりしていると、こんな恥ずかしい子とはもう縁を切りなさいってブルーに言うわよ?」
更に言葉を続けようとしたリーノエンヴェを、溜め息をついたメイデが押し止める。あまりといえばあまりの言われように、リーノエンヴェが立ち上がったままの姿勢で硬直した。
メイデが嘆かわしいと言わんばかりに頬に手を当てる。驚くほど絵になる動作だ。
「ブルーも可哀相よね、いくら親同士が言い交わした約束と言っても、こんな心の狭い人間と結婚させられちゃったんですもの。今更ながら心が痛むわ。ああ、こんなことじゃ、そのうち坊やを連れて実家に帰ってしまうかもしれない。孫の顔が見られなくなるのは辛いけど、ブルーと坊やにはその方がいいかもしれないわね……」
「私とブルーは心の底から愛し合っています! 不吉なことを言わないでください!」
「あらあら、その自信はどこから来るのかしらね。もっともブルーはとても優しいお嫁さんだから、夫の駄目な部分も許容してあげているのかもしれないわね。でも、今日のことを一言一句漏らさず教えてあげたら判らないわよね」
「母上!」
「だったらアスカと眷族のおふたりをもてなすお手伝いくらい快くしなさいな。一人前の男として、ひとりの女の夫として、心の広い懐の深いところを私にも見せてちょうだい」
「な……」
おっとりしているように見えて実は素晴らしく口達者な母親の猛攻に、二の句が次げずにいたリーノエンヴェが、ややあってがっくりと肩を落とす。こうなるともうどうあっても両親の意向が改まらないことを実感というか実害を伴って理解しているからだろう。
……もっとも、実は、ここに来るとよく観られる場面ではあるのだが。
リーノエンヴェのそれを肯定と解釈した――というより彼女の一存で決めたのか、すべての問題が解決したかのように晴れやかな表情を見せたメイデが、食卓に着いた一同をゆったりと見渡す。
そして、
「さあ、ではお召し上がりくださいな。お好みのものを、お好みの分だけどうぞ。あとで香草茶をお持ちしますからね」
若い頃、宮廷に――社交界に集う貴族の男子を一撃必殺で轟沈させ、そのことごとくを彼女の熱烈な信望者へと変えたという輝くような笑顔と、優雅で洗練された美しい所作とともに一同を促し、侍従たちに合図を送った。
合図を受けた侍従たちが恭しく一礼し、玉子料理や鶏やベーコンを求められるままに切り分け、皿へ置いてゆく。リィンクローヴァの著名な特産品のひとつでもある、真っ白で滑らかな、驚くほど薄いのに丈夫な皿の上で、鮮やかな野菜や果物たちが自己主張をする。
「いっただっきまーす!!」
食事の際必ず耳にする言葉とともに、キョウスケがパンに手を伸ばす。侍従の少年が切り分けたバターを銀の器に入れて手渡すと、屈託なく笑ってまた何か言った。どうやら礼のようだ。
言葉が通じなくともすっかり馴染んでいるらしく、侍従の少年も笑みを浮かべて一礼していた。よいことだ、と思う。
ここ数日ですっかり見慣れた光景、キョウスケがものすごい勢いで大量の食物と格闘してはそのすべてを腹に収め、ユージンがそれとは裏腹にゆったりと少しずつ食物を口にし、キョウスケを呆れたように見遣りながらアスカが驚くほど少ない量の食事をするというそれを目にしつつ、レーヴェリヒトもまたパンやチーズに手を伸ばした。香草スープを運んでくれた侍従に礼を言い、立ちのぼる芳しい香気に目を細める。
王である以前に、並でない運動量を誇る武人だけに、常日頃から食事はしっかり摂るレーヴェリヒトだが、こうして気心の知れた人々と一緒にする食事は、必要だから云々を抜きにしても心が華やぐものだ。食事は大人数でする方が心の健康によい、と常々思う。
「ああ、そうだ、ハイル」
ふと思い出したレーヴェリヒトが声をかけると、華奢で白い、少女のような指で赤葡萄酒のグラスを傾けていた賢者の青年が、鮮やかな瑠璃の双眸を彼に向ける。加護色ではないものの、強い力を感じさせる稀有な色彩だ。
「はい、陛下」
「飯が済んだら、ユージンとキョウスケに意思疎通の魔法をかけてやってくれ。このまま言葉が通じねぇと不便だしな。アスカはなんか自力でどうにかしちまったからいいんだけどさ」
「御意。そのあと王都まで皆さまをお運びすればよろしいのですか?」
「ん、ああ。早めにアスカを浄化に連れて行ってやりてぇんだ、今のとこ応急浄化しか出来てねぇから。悪ィな、モーントシュタインから帰ったばっかで疲れてんのに無理させて」
「いいえ、陛下の御為とあらば、喜んで」
「ああ、ありがとな」
レーヴェリヒトが言うと、ハイリヒトゥームは花が開くような――それはやはり、二十八歳の男性に対して使うべき表現ではないのだが――鮮やかで美しい笑みを見せた。喜色と友愛のこもった笑みだった。
このように、レーヴェリヒトの周囲に集う面々は、何故か誰も彼もがレーヴェリヒトに甘い。王としてというより人間として、これほど幸せなこともあるまいといつも思う。
何にせよ帰城の算段が整ったので、帰ったらすぐに神殿と連絡を取ろうなどと思いつつ、再び食事に意識を向ける。
隣ではアスカが、慌てて食べ過ぎて何かを喉に詰めたらしいキョウスケに呆れた視線を向けながらもその背をさすってやっている。ユージンがそれを表情の少ない、それでいて微笑ましげな様子で見守っている。リーノエンヴェは苦々しげながらも両親と今後の算段を話し合っているようで、時折大仰な溜め息を吐いていた。
――――ゆったりと流れる時間に、たとえようもない幸福感を味わう。
食事と食後の茶が終わったあと、引き払う準備のために仮の執務室へ向かおうとしたレーヴェリヒトを、そっと近づいてきたハイリヒトゥームが呼び止めた。
アスカはアルディアに短時間でも読み書きを教わるつもりらしく、眷族ふたりを置いてさっさと行ってしまった。情に厚いのか薄情なのかよく判らない人物だ。人を区別しているだけかもしれないが。
その背に、昼までには発つからなと声をかけ、同意の声が返るのを聞き届けてから、レーヴェリヒトはハイリヒトゥームに向き直った。
「どうした、ハイル?」
ハイリヒトゥームは百六十をちょっと超える程度という、平均的な男性からはほど遠い身長なので、長身の部類に入るレーヴェリヒトと並ぶと自然その顔は上向きになる。仕方のないことなのだが、時々申し訳ない気分になるレーヴェリヒトである。
瑠璃の双眸を見下ろしたレーヴェリヒトは、その目が静かだがひどく強い、確信めいた光を宿していることに気づいて首を傾げた。
「……どうした?」
再度問うと、ハイリヒトゥームはそっと目を伏せ、
「気づいておられますか、陛下」
問いに問いで返した。
何のことかまったく判らず、レーヴェリヒトは眉をひそめる。
魔導師の頂点に立つ者として、レーヴェリヒトたちとは違うものが見えているからなのか、この賢者は時折ひどく謎めいた物言いをする。
「何をだ?」
「アスカのことです」
「アスカ? アスカがどうした? 何か具合の悪ィことでもあったか?」
「いいえ……そうではありません」
「なら、なんだ」
いつにもまして回りくどい、歯切れの悪いハイリヒトゥームに、レーヴェリヒトはまた首を傾げた。何かを躊躇っているようなのだが、あまり人の心の機微に敏感ではないレーヴェリヒトにはその躊躇の原因が判らない。
どちらにせよ、どうあっても言うべきことならいずれ口にするだろう、という達観の元、しばらく沈黙していたレーヴェリヒトの耳を、
「彼はエル・デ・ナ・ヴェルトです、陛下」
ハイリヒトゥームの静かな声が打った。
なにを言われたか判らず、思わず問い返す。
「……何だって?」
「アスカは、黒き神々に遣わされた黒の御使い(みつかい)です」
二度目でようやくその言葉が脳に届く。レーヴェリヒトは一瞬沈黙した。
エル・デ・ナ・ヴェルト。黒の御使い。
神聖語にせよ共通語にせよ、それはこの世界では、重い重い意味を持つ言葉だった。
「ホントか、それ」
「私は世界の変質の音を聞きました、陛下。彼を核として、世界は変わってゆくでしょう。進む方向は、私には判りませんが、しかし、」
「しかし?」
「――――あなたのご気性を承知の上で、お怒りを覚悟の上で申し上げますが、あなたが彼を手放そうと思われない限り、彼はあなたの傍に在るでしょう。レヴィ陛下、私には世界の行く末など計り知れませんし、計ろうとも思いません。私にとって何より大切なのは、陛下、あなたの幸いと安寧なのですから。ですから陛下、それを第一に考える身として申し上げます。どうかアスカを手放されませんよう、どうか彼をお傍に置かれますよう。そうすれば、あなたの安寧と幸福は約束されます」
淡々と、しかし切々と語られるそれをレーヴェリヒトは黙って聴いていた。
――ハイリヒトゥームの不安と、そこから来る打算的な……すがるような思考はレーヴェリヒトにも理解できた。
異形の危険とともに、世界は不安定で、いつどこが激しく乱れ、崩れるかも判らず、規模は小さいものの豊かな国力を有したリィンクローヴァはあちこちから狙われている。リィンクローヴァを我が物とした国がこの乱世を制するなどというふざけた噂まで流れる始末だ。
レーヴェリヒトは王として武人として、国を狙う輩から自国を守って戦う最前線にいるのだ。彼が生粋の戦士であり、並ぶもののない手練れであるとしても、生身の人間である限り命には終わりがあり、いつどこで死ぬか判らないというハイリヒトゥームの不安は確かによく判る。
特にハイリヒトゥームは、レーヴェリヒトに仕えるためだけにリィンクローヴァにいると言って憚らない人物でもあるのだ。そんな彼がレーヴェリヒトの行く末を案じるのは当然でもあった。
しかし、それらすべてを理解しつつ、レーヴェリヒトは首を横に振った。
「ひとりの人間を、そんな風に俺の都合で縛ろうと思えるほど俺は傲慢にはなれねぇよ」
「しかし陛下、あなたは」
「俺は確かに王だし、国を背負って立たなきゃならねぇが、そんなもんはアスカにゃあ何の関係もねぇことだろ? 大体お前は――っつーか俺の周囲の奴らは過保護すぎだ。心配しなくたって、きっちり国を守りながら生き延びてやるよ」
「…………」
その言葉に偽りはなかった。
けれど、それと同等に、いつ死んだところで後悔はないと、それならそれは己が課された天命なのだと、常に心のどこかで思っているのも確かだった。自分を卑下するわけでも、死に急ぎたいわけでもなく、単純に事実としてそう認識していた。
そう思っているレーヴェリヒトに、ハイリヒトゥームが気づいていることも、だからこそ彼が不安でたまらないのだということも。
理由は色々ありすぎて断定しきれないし、今更この気性を――この諦観をどうにかできるとも思わない。
自分を唯一の王と奉じ、信じ、従ってくれるたくさんの人々に、申し訳なく思いはするけれど。
ただ、アスカに関しては、彼が黒の御使いだという事実や打算をすべて抜きにしても、このまま別れてしまうのは嫌だと思っているレーヴェリヒトだったが、それでも彼を縛りつけようとは思わなかった。
奇妙なほど強い確信、根拠も何もないのに揺るぎない自信がレーヴェリヒトの中にはあった。
「お前の心配は判るし、すまねぇとも思う。でも俺はこうだからこそ俺なんだ、保身のためにそれを曲げちまったら、もうそれは俺じゃなくなっちまう」
「それはもちろん存じ上げております。あなたはどこまで行っても、どんなことがあっても、決して根本を曲げてはくださらない。だから私は心配なのです、あなたはあまりにも、ご自分のお命や生き方に対して潔すぎる」
「そんな大層なもんじゃねぇよ、単にややこしいことが嫌いなだけだ。それにな、ハイル」
「――――はい」
「何でかな、すげぇ確信があるんだよ。保証なんかなーんにもねぇはずなのに、アスカはどんなことがあっても絶対、俺と一緒にいてくれるって。ホント、なんでだろな」
「そう、ですか……」
ぽつりと小さくハイリヒトゥームが返し、子どもみてぇなこと言って呆れられたかな、でもそうとしか思えねぇんだから仕方ねぇよな、などとレーヴェリヒトは少し照れる。
その確信、自信はひどくくすぐったく、弾むような喜びを伴い、同時に心の奥をじんわりと温めてくれた。
それもまた、レーヴェリヒトには生まれて初めてのことだった。これまでに出会ってきたたくさんの人々、和合も敵対も様々だった諸々の存在が彼に与えてくれた、数多くの経験や困難や成功にも増して、その温もりを貴く、何物にも替え難く大切に思う。
ややあって、ハイリヒトゥームがゆるりと微笑む。安堵の混じった笑みだった。
レーヴェリヒトの言葉が、多少なりと彼の不安を和らげたのだろう。
「あなたがそんなにも強くそう仰るのならば、私のそれはつまらぬ不安なのでしょうね。――あなたのお言葉を信じます。そしてきっとその確信が、レヴィ陛下のみならずリィンクローヴァをも守るのでしょう。そう信じ、奉じ、見守りましょう、賢者として」
「ああ……うん、そうだな、そうだといいな」
子どもっぽい、照れた笑みを浮かべてレーヴェリヒトは頷く。
そして、ハイリヒトゥームが言うような未来を現実のものにするために、ひいてはリィンクローヴァの幸いのために、自分が何をするべきなのか、何ができるのかを思う。
けれど――何よりもまず、ともに歩みたいという願望を大切にしたいと彼は思うのだ。
生まれて初めて得た願望ゆえに。