ラントシャフツマーレライ、すなわち緑と安息のそよぐ大地という長い名の広場で、ゲミュートリヒ市民が自らの意志で結成した私設軍の兵士たちや、この辺り一体の警邏と守護を司る騎士たちに労いの言葉をかけ、彼らの鍛錬風景を観察してから戦いについての助言をいくつか与えた辺りで昼となった。
何度か木刀を交えて話をしたが、事情あって正規の軍を持たないこの都市の私設軍の兵士たちは、自分がここを守るという強い意志のおかげか、誰もが優れた腕前の持ち主だった。それをとても頼もしく思う。
国王たるレーヴェリヒトが将軍や軍の長を差し置いてそういった手を出すことは非常に稀なのだが、本来それらをこなすべき騎士団長であるリーノエンヴェが、細々とした後片付けと両親から押し付けられた仕事に文字通り忙殺されていたため、彼が代わりに引き受けたのだ。しかしながら、血や名ではなく実力でもってリィンクローヴァを守るレーヴェリヒトを、誰もが歓声をもって出迎えてくれた。
ありがてぇ話だ、としみじみ思うレーヴェリヒトである。
ズィンゲンメーネの背中に揺られつつ領主宅へ戻りながら、レーヴェリヒトはそろそろ出立の準備をしねぇと、などと考えていたが、
「レイ」
不意にここ十日ですっかり聴き慣れた声が道端からかかったので、
「――アスカ。なんだ、こんなとこで。アルディアに字を習ってたんじゃなかったのかよ」
首を傾げて言うと、ズィンゲンメーネの背から降りた。
言われた方は親しげに鼻を鳴らす黒馬に近づき、その首筋を撫でながら肩をすくめた。正午のまぶしい陽光が、アスカの稀有な黒髪の上できらきらと踊り、光を舞い散らせる。
それをとても美しいと思う。
なんのてらいもなく。
ふたりと一頭で、領主宅を目指して歩きつつ、アスカが口を開く。
「彼は土産の準備とやらで忙しいんだそうだ。メイデと一緒に、あちこちを楽しそうにうろうろしていたから、強いるのも申し訳ない気がしてな。それで、町の方へ散歩に行って来た。見納めと思ったんだが……まぁ、ハイルがな、いつでも送り迎えをしてやると言ってくれたから、それに甘えようと思うんだ。せっかくの機会だ、この世界の言語を極めたいしな。それなら、やはり教わるのはアルディアがいい」
「そうか、ハイルがそんな風に言うのは珍しいな。それは、お前のことを特別扱いしてるってことだ、頼ってやると喜ぶぜ。ハイルは本当に特別な魔導師だから、ここと王都を往復する程度なら朝飯前だ」
「ふむ、特別扱い云々の真偽は俺には判らんが、お前がそう言うなら甘えさせてもらうとするか。しかし、魔法というのは本当に便利だな。カネムラやエンドウも感謝していたぞ、今頃は館の世話になった人たちに挨拶にいってるんじゃないかな」
「ああ……そりゃよかった。言葉が通じねぇと何かと不便だからな。これで、生活もしやすくなるだろう」
レーヴェリヒトが、ハイリヒトゥームの施した意思疎通の魔法と、あっという間に言葉が通じるようになったことを知ったときのふたりの驚きぶりを思い起こしながら言うと、アスカは軽く肩をすくめた。
「――――生活か。まぁ、どこで営むかにもよるけどな」
「お前はどうしたいんだよ?」
「さあ、あまり深く考えてない。少なくとも行く当てはないから、当面はどこかで働き口を探さないとな。いつまでもお前たちの好意に甘えて、迷惑ばかりかけてもいられないだろう」
淡々とアスカが言ったので、レーヴェリヒトはちょっと顔をしかめた。
もともとの性質がそうなのだろうが、この少年は意図的に自分を世界から切り離そうとでもするような、ひどく水臭いことを言う。レーヴェリヒトは、アスカたちの存在を迷惑と感じるどころか、彼らがいることが嬉しくてたまらないというのに。
「あのなぁ、なに言ってんだ、これだって縁だろうが。迷惑とか言うなよ、寂しくなるだろ。それともお前の言う友達ってのは、そんなよそよそしいものなのかよ」
「……いや、そういう意味で言ってるんじゃない。ただ俺は、自分の足でしっかりここに立ちたいだけだ。お前に世話になってるばかりじゃ、対等の友達じゃあないだろ」
「案外律儀だな、お前。別に客分でいてくれても構わねぇのに。まぁでも、その対等ってのは気持ちのいい響きだ。うん、そだな、じゃあ、アインマールに着いて落ち着いたら、何かいい仕事を見繕って紹介してやるよ。それならいいだろ?」
「ふむ……悪くない」
「ユージンやキョウスケはどうすんだ?」
「ん? そんなもの、決まってるだろう。あいつらも当然働かせるさ。働かざるもの食うべからず、だ。それに、俺が働いてるのに奴らは遊んでるとかありえんというかむかつくしな」
と、恐ろしく自分に正直なことを言ったアスカが、次にふっと真顔になる。漆黒の双眸に遠くを見るような光が揺れた。
「……まぁ、正直なところ、今後どんなことがあってバラバラになるかも判らないんだ、どこででも生きていけるように、手に職はあった方がいい。俺が助けてやれるところなら手を貸すが、ふたりとも成人した男なんだ、いつまでもそのままではいられないだろ。だから、適性を見て、都合のいい仕事を探してやってくれ」
レーヴェリヒトは、眷族の面倒まで見なきゃならねぇなんて大変だな、などと思いつつ頷いた。アスカのこういうところは、この少年が情に厚いのか薄情なのか判り辛くさせる要因のひとつだと思う。
「おう、その辺は任せろ、多少の無理は利く。ああ、ユージンなんか力もあるし腕も立ちそうだ、騎士団にでも入れたらどうだ?」
「似合いすぎて笑えるな、それは。だが確かに彼はそちら方面の仕事が相応しいように俺も思う。あれは戦場で鍛えれば鍛えるほど切れ味を増す類いだ。それに、イースとも気が合うみたいだし、悪くないかもな。騎士なら収入的にも安定するだろうし、一考に価する案だ」
「まぁ、その場合、イースやノーヴァと同じくお前の近衛になる可能性が高ぇぞ。加護持ちってのはある種の財産みてぇなもんだから、しっかりした守り手が必要だしな」
確証はともかく実感がないだけに御使いのことを口にする気にはなれず、また自分とアスカが友達であるという以上の何かがここに必要とも思えず、一般常識的なことだけを言うと、アスカはものすごく嫌そうな顔をした。それから、不揃いに切り散らされた短い髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、溜め息とともに言葉を吐き出す。
「……やめだやめ、一気に萎えた。深窓の姫君でなし、何でむさ苦しい連中に背後をぞろぞろついて来られて楽しいものか、ノーヴァとイースだけでも充分すぎるむさ苦しさなのに。うん、カネムラには違う職に就かせよう、もう少し視覚的暴力にならないような類いのを探して」
「萎えたとか言うなよ、騎士っつーたら花形職業だぞ。いいじゃねぇか、ちょっとくらい。従う連中がいりゃあ便利だろ?」
「使い走りに使えて便利は便利だが、それと同じくらい鬱陶しいぞ?」
「恐ろしいほど同性には冷淡だな、お前……」
「何を言う、男として当然のことだろうが。もっとも、女だからつってそれだけで優遇もしないけどな」
きっぱりしたアスカの物言いにレーヴェリヒトは苦笑する。
彼のこういう性質は嫌いではないが、常日頃からこうではものすごく敵を作りやすいのではないかとも思う。――もっとも、その程度の『敵』など、彼は歯牙にもかけないだろうが。
アスカの隣を歩くズィンゲンメーネが笑うように鼻を鳴らした。人語のほとんどを理解している風情のあるこの駿馬は、主人とその友人の会話を楽しむように、耳をぱたぱたと動かしている。
それを見上げていたアスカが、ズィンゲンメーネの首筋を撫でながら、
「レイ、馬に乗るって難しいか?」
などと訊いたので、レーヴェリヒトは首を傾げた。
彼にとっては――というか武人や旅人にとっては、乗馬はごくごく普通の、たしなみというより生活の一部なのだが、あれだけ手練れ然としていながらアスカには乗馬の経験がないらしい。
「慣れりゃあそんな難しくもねぇよ。お前くらい運動神経がよけりゃすぐにでも乗れるだろ。つーか馬に乗ったことねぇのか、お前」
「ない。というか俺の故郷では馬そのものが少ない」
「じゃあ、遠くに行くときの移動手段とかどうしてたんだ? 魔法もねぇんなら、他には徒歩しかねぇだろ。めちゃくちゃ不便じゃねぇか」
「いや……馬より速く走る、いろんな種類の鉄の塊がある。それを目にしたことのない人間には何とも説明しにくいけどな。まぁ、不便ではなかったが、そのどれもが馬ほど美しくはないな」
「ふぅん……お前の故郷ってとこはホントによく判んねぇなぁ」
レーヴェリヒトがしみじみ言うと、アスカは薄い唇に苦笑めいた色合いをにじませた。
「ああ、自分の生まれ育ったところながら、それは確かに思う。特に、ここの景色に慣れてくるとな。このまま行くと、たとえ向こうに戻っても二度と馴染めないような気がする。やはり人間は、鉄や石だけに囲まれていては生き難いんだな……」
「そういうもんか。俺にとってはこの景色が普通だから、何とも言えねぇや。つーかお前ら、国に帰る予定は決まってんのか? 事情もあるんだろうが、家族は心配しねぇのか」
そもそも加護持ちは国や地域の宝であるのと同時に一族の宝だ。彼らはそこに存在するだけで神々や精霊王、果ては雑多な精霊たちの加護を得ることが出来るため、彼らがそこにいればその地域は自然と豊かになる。異形の発生率が下がるという話もある。
だからこそ、加護持ちは人々から愛され、畏怖されるのだが、そんな貴い力を帯びたアスカが、本来根付くべき故郷を長く空けていて大丈夫なのかとレーヴェリヒトは思う。――――もちろん、今すぐに帰るなどといわれたら、嫌だと駄々でもこねるしかないのだが。
少々複雑な胸中で言ったレーヴェリヒトに、ズィンゲンメーネのたてがみを撫でていたアスカは何とも言えない表情をした。苦さとも悲哀とも達観とも取れぬ色彩を含んだ淡い笑みだった。
「家族はいない。俺も、あいつらも。俺がいなくても故郷に変わりはないだろう、だから別に、戻りたいとも戻ろうとも思わない」
稀有な漆黒の双眸、普段はあまり表情の変わらないそれにわずかばかりの痛みを載せて、しかし言葉だけは淡々とアスカが言ったので、レーヴェリヒトは思わず言葉に詰まった。
死のただ中に生きてきたといっても、それは彼の都合であり、他者にその事情を強いるつもりもないレーヴェリヒトには、自分以外の誰かが親しい人を失って悲嘆にくれる姿を思うことは苦しかった。
――彼のこういうところを、周囲の人々は心配するのだ。
王として為政者として、どうしても最後の一部分で冷徹になりきれない、自分の痛みより他人の痛みを恐れるその甘さが、百のために一を切り捨てることに苦悩するその弱さが、いずれレーヴェリヒトに取り返しのつかない危機を招くのではないかと。
もっとも、そう言われたところで、レーヴェリヒト自身には改めようがないこともまた事実なのだが。
「……悪ィ」
「そこで詫びるな、お人好しめ。生老病死は人のさだめだろう、その摂理を恨むつもりはない。亡くしたことは今でもまだ哀しく思うが、その結果ここにある今の俺は身軽でいい。どこでどう死のうと生きようと、誰を哀しませることもないからな」
「人間の生き死には確かに運命みてぇなもんだろうが、そんな嫌な言い方するなよ。少なくとも俺や、お前の眷属やら直属騎士連中もそうだし、メイデやアルディアだって、お前に目の前で死なれたりしたらものすげぇ哀しい、苦しい気持ちを味わうんだぞ」
慰めや建前や偽善でなく、本気でそう言ったレーヴェリヒトに、アスカがかすかな声を立てて笑った。真剣に心配して言ったのに笑われ、レーヴェリヒトはちょっとむっとしたが、アスカの双眸に浮かぶのが純粋な喜色だということに気づいて言葉を飲み込んだ。
「……ホントに変なヤツ。会ってまだ一ヶ月も経ってないのにな」
アスカは肩をすくめて言うと、レーヴェリヒトが更に何か返すよりも早く、
「ジーネ、乗せてくれるか?」
傍らの黒馬に声をかけた。
神馬とすら謳われるズィンゲンメーネは、心根は優しいが主人であるレーヴェリヒト以外に背を許したことがなく、彼は無理だろうと口にしかけたのだが、ちょっと立ち止まったズィンゲンメーネが、初心者のアスカが乗りやすいように身を屈めたのを目にして苦笑した。黒に属するズィンゲンメーネが、自分と同じ色を有したこの少年を好いていることは理解していたが、こうも判りやすい態度を取るとは思っていなかった。
それと同等に、レーヴェリヒトがアスカにならば、と、それを許していることを、ズィンゲンメーネ自身が理解しているのもあるだろう。
「ありがとう、ジーネ。……ん、案外バランスが取りにくいんだな……」
ひょい、と鐙(あぶみ)に足をかけたアスカが、まるで体重を感じていないような、羽根のように軽やかな身のこなしで黒馬の背に尻を乗せる。馬に乗るのが初めてとはとても思えなかったが、これはアスカの持って生まれた運動神経のゆえなのだろう。
「アスカ、乗り心地はどうだ?」
「……鞍がちょっと硬い。長時間乗ったら尻が痛くなりそうだ。でも、見晴らしはいいな。それに、背筋がピンと伸びるのは悪くない気分だ」
「そりゃよかった。んじゃついでにちっと走らせてみろよ、太腿で鞍を挟むようにしてバランスを取るんだ。手綱はしっかり持てよ」
アスカが手綱を手にするのを見計らってズィンゲンメーネを促すと、黒馬はアスカを気遣うようにゆっくりと歩き出した。
「なるほど……っと、と……結構……うわ、難しい、な……」
やはり初めての人間には難しいのだろう、アスカは時折上体を揺らしながら懸命にバランスを取っている風情だった。
何せ、騎士見習の少年が生涯の友として授かる仔馬ではなく、立派に成熟したおとなの馬なのだ。騎士見習のように小さな馬から少しずつ慣れてゆくのではなく、いきなりこのサイズに挑戦すれば大変に決まっている。
それでも落馬することも泣き言を口にすることもなく、輝くような黒馬の背で凛と背筋を伸ばすアスカの様子は、姿かたち云々でなく美しかった。
「おお、なかなか巧いじゃねぇか。生まれて初めてでそれだけ出来るなら、すぐに乗りこなせるようになるぜ。――ああそうだ、王都に帰ったらお前のための馬を用意してやる、いい馬の心当たりがあるんだ。なあ、ジーネ」
そう声をかけると、アスカを試すように大股で歩いたり軽く駆け足をしたりしていたズィンゲンメーネが、楽しげにたてがみを揺らしていななく。
その背のアスカはズィンゲンメーネの歩調に合わせてバランスを取るのに一生懸命という風情だったが、表情に硬さはなく、ただ純粋に楽しそうだった。ほんの少し乗っただけでずいぶん様になっているのを見れば判るように、身体を動かすことが性に合っているのだろう。
「馬か。まさか、自分の馬を持てるようになるとは思いもよらなかったな。それは楽しみだ」
笑ったアスカがそう言ってズィンゲンメーネの背から降りた辺りで、ゲミュートリヒ領主宅が見えてきた。
決して豪奢ではないがすっきりとして見目のいいそこは、ゲミュートリヒ市民にとっての象徴であるのと同時に、レーヴェリヒトにとっては自分を我が子同然に可愛がってくれた夫妻の住まう温かい場所だ。
それだけに、何度目にしてもホッとする。
「さて、じゃあ、昼飯を食ったらアインマールに向かおうぜ。お前も色々と行かなきゃならねぇところや、やらなきゃならねぇことがあるしな」
「ああ、中央黒華神殿で浄化をするとかいうヤツか」
「そうだ」
「……別に、身体におかしなところがあるわけじゃないんだけどな」
「まぁ、俺もおまえを観てるとそう思うけどな、《死片》てのはあとから厄介な毒素を出したりするんだ、今は大丈夫そうでも念のために受けておいた方がいい。毒素に冒された身体から毒を抜く治療をするのは本人に負担もかかるし、面倒だからな」
「ふむ、そういうものか。なら、おとなしく浄化とやらを受けに行った方が賢明だな」
「そういうこった。それと、しばらく国に戻るつもりがねぇならリィンクローヴァ国民として戸籍の登録もしておいた方がいいし、住まいだの生活雑貨だのの準備も必要だろ。あと、身内に紹介もしてぇし、アインマールも案内してやりてぇしな」
「前のふたつはその通りだと思うしよろしく頼むが、あとのふたつはお前の都合で希望だろ」
「なんか悪ィか?」
「……いや、別に。相変わらず王様らしくないヤツ」
「ほっとけ」
などと、他愛ないやり取りをしながらゲミュートリヒ領主宅へと戻る。
太陽は中天に座し、明るい光を燦々と降り注がせている。