別れに涙はなかった。
 領主夫妻をはじめとして、ふたりに仕えるたくさんの侍従や奴隷たち、レーヴェリヒトにもとてもよくしてくれる面々が見送りに来てはいたが、彼らとの別れを哀しむ必要も、惜しむ理由もなかった。
 稀代の賢者がいつでも送迎をすると約束をしているのだ、会いたいと思えばいつでも来ればいい。そこに哀しみの踏み込む隙はなく、ただ次に会う楽しみだけがある。
「またいつでもおいでなさいね、アスカ」
「君が来る日は時間を空けておくよ、一緒に勉強しよう」
 にこにこと笑う領主夫妻は、あのアスカが思わず絶句したほどの『土産』を準備していた。異形を前に怯まなかったアスカの度肝を抜いたのだから、領主夫妻の裁量はある意味大したものだ。
 キョウスケなど、顎が外れるんじゃないかと思うほどに口を開け、『土産』の山を見上げている。
「……いや、うん、ああ。ありがとう、ふたりとも。ただその、そこの山をいったいどうしろと……?」
「ああ、これ? どうせアインマールにお家を構えるのでしょう、アスカは。物があんまり少なくても寂しいでしょうから、家具を少しお裾分けよ。レッヒェルン玉樹は国樹だから、これを使った家具はゲミュートリヒだけじゃなく、どこの地域でもとても貴重なの。でも、いい匂いがして、手触りも素敵よ。これで、あなたのお部屋を綺麗に飾ってちょうだいね」
「それからこっちの木箱には一昨年仕込んだ葡萄酒が入っているからね。赤と白と二十本ずつ入れたけど、足りなければまた言ってくれればいいよ。一昨年の葡萄は本当に素敵な出来だったんだ、この葡萄酒も素晴らしい味わいだよ。皆で楽しく飲んでくれ」
「それとね、この箱にはこの辺りの名産品の絹が入っているわ。シエーラ絹といって、とても丈夫なのに色合いも手触りも着心地も最高の品よ。生地のままで入れておいたから、王都の仕立て屋にお願いしてちょうどいい服をあつらえてもらうといいわ」
「あとはこっちの箱だね。ここには星鋼の剣が入っているよ。星鋼はこの辺りでしか採れない貴重な金属で、レヴィ陛下の剣もこの鋼から出来てるんだ。レヴィ陛下の剣ほど素晴らしいものを打つ鍛冶師はなかなかいないけどね。アスカは剣の心得はないようだけど、いずれ使う日が来るかもしれないから、この国でも一番の鍛冶師が打った業物を入れておいた。それと一緒に、星鋼の原鉱も入れてあるから、いずれもっとアスカに合った剣が必要になったら、それを使って打ってもらうといい」
 と、領主夫妻が滔々と説明するとおり、夫妻の背後には滑らかな木目を見せる瀟洒な家具の群れ(と表現するしかない量なのだ)と、子どもが二人ほど入れそうなサイズの木箱と、赤い滑らかなベルベットで装飾された中くらいのサイズの箱と、横長の大きな木箱とが鎮座していた。
 これらをここ、館の中庭まで運び出したのは外見に似合わぬ怪力を持つ双子異形だ。普通の人間がやれば一時間ではきかないだろうサイズのものばかりだけに、ちょっと圧倒されるほどの質感である。
 どうせすぐにまた訪れるのに、『土産』でここまでたくさんのものを持たされる人間もそうそういないだろう。
 それだけふたりがアスカを買っているということなのだろうが、さすが夫妻、限度や一般的と言った言葉からは徹底的に無縁である。
「ああ、うん、気持ちは本当に嬉しいんだが。……どうやって持って行くんだ、これ?」
「心配しなくても大丈夫よ、ハイルならこれくらい苦でもないわ。ねえ、賢者様?」
 途方に暮れた感のあるアスカに、にっこり笑ったメイデが言う。
 話を振られたハイリヒトゥームはというと、まったく動じることなく、メイデと同じくらい麗しい笑顔で頷いた。
「はい、領主様。せっかくのお土産ですから、きちんとお運びしましょう。どれも素晴らしいものばかりですしね」
「ありがとう、ハイル」
「いいえ、どういたしまして。頼っていただくのは悪くない気分ですから」
「ハイルは優しいわね。じゃあ、甘えついでにお願いしてもいい?」
「私に出来ることでしたら何なりと」
「私もアルもアスカのことが大好きになってしまったの、だからね、アスカをまたここに連れて来てくれる? レヴィ陛下がここへやるのは嫌だと仰っても、問答無用でさらって来てほしいのよ」
 にっこりとやわらかく微笑むメイデの美しさとは裏腹に、彼女が口にした言葉はなかなかに胡乱だった。名を挙げられたレーヴェリヒトは顔をしかめ、第二の母とでも言うべき女性を呼ぶ。
「ちょっと待てメイデ、さらうって何ださらうって。その言い方だと俺がものすげぇ心の狭い人間みてぇじゃねぇかよ。別にアスカが行きてぇってんなら止めやしねぇっつの」
「あら、いやですわ陛下。言葉の綾ですわよ、綾」
「言葉の綾で片付けるには不相応なほど本気っぽかったぞ……?」
「思い過ごしですわ。……ねえ、ハイル、そういうわけだから、お願いしてもいいかしら。もちろん、ちゃんとお礼はするわ。何がいいかしら?」
 レーヴェリヒトのぼやきをさらりと流したメイデがハイリヒトゥームに笑いかける。ハイリヒトゥームはくすくす笑い、優雅に頷いた。
「承知いたしました。明日でも明後日でも、お召しとあらばお連れいたしましょう。お礼は……そうですね、また書庫の本を貸していただければそれで結構ですよ。アルディア様の蔵書は類を見ない素晴らしいものばかりですから」
「おや、そう言ってもらえると嬉しいね。いつでも、好きなように持っていくといいよ」
「はい、ありがとうございます」
 夫妻と賢者が交わす言葉を複雑極まりない思いで聴いていたレーヴェリヒトだったが、会話に参加せず、片割れとともに地面にとがった石で線を引いていたカノウが、
「……ふむ、これで仕舞いじゃ。陛下、ハイリヒトゥーム、陣を引き終わったぞ」
 そう言って顔を上げたので小さく頷いた。
 陣は大きく、土に描かれたとは思えぬほど精緻で複雑だ。普通の人間が描こうと思えば、並々ならぬ苦労を強いられるだろう。双子は魔法こそ使えないものの、その辺りの知識に精通しているので、ハイリヒトゥームが下準備の必要な魔法を使うときには、ほとんどその手伝いをふたりだけで行っている。
 レーヴェリヒトは線を踏まぬようにしながらその陣の中へ進み、内部へまたしても軽々と『土産』を運び入れる双子へ労いの言葉をかけて、まだ何か夫妻と話をしていたハイリヒトゥームに目配せすると、今回一緒に王都へ戻る人々を陣の中へと手招く。
「さて、行こうぜ。ああ、線を消さないようにこっちに来いよ、陣に不備があるとどこに飛ばされるか判んねぇからな」
 それに応じて歩を進めるのは、余分な仕事を背負い込んだ所為で素晴らしく疲れた表情を見せている聖叡騎士団長リーノエンヴェ・カイエ、本日付で王都勤務へ代わり、アスカ付きの騎士として正式に認可されたイスフェニア・ティトラとノートヴェンディヒカイト、今から何が起こるのかいまいち判っていない風情のユージンとキョウスケ、騎士やレーヴェリヒトの馬が四頭と、そしてこれから王都の客人となる黒の少年・アスカだ。
 王都へ帰るのはこれだけである。
 来たときもハイリヒトゥームの移動魔法を使ったので、供はリーノエンヴェただひとりだ。一国を統べる王の視察としては、少々簡素に過ぎる体制だが、侍従だの奴隷だのをぞろぞろ連れて歩く趣味のないレーヴェリヒトにはちょうどよかった。
 長期の視察に城の人々を連れて行って、彼らに負担を強いるのもレーヴェリヒトの望むところではない。
 王家の威信とやらを大切にしたがる旧い貴族の面々は、あまりに身軽なレーヴェリヒトをいつも心配し不満を口にするが、まったく別の位置に大切なものを見出している彼がその言葉に耳を貸したことはなかった。
「それではレヴィ陛下、またいらしてくださいませね。私たちはここを、ずっと守っておりますから」
 ドレスの裾を優雅に持ち上げ、緩やかに一礼したメイデがにっこりと微笑む。それは素晴らしく麗しかったが、同時に強靭な力と意志に満ち溢れていて、レーヴェリヒトは晴れやかに笑って頷いた。
「ああ……よろしく頼むぜ。あんたたちがいてくれりゃ、俺は何も心配せずに済むからな」
「御意」
 ゲミュートリヒは隣接国ハルノエンとの友好関係上軍隊を持たない。
 二百年以上前の約定で、互いにそう決めたからだ。互いの友情を誇示するために、あえて互いに触れ合う場所に軍をおかないのだ。
 ハルノエンとリィンクローヴァは、そうやって長い長い時間を親しき隣人として過ごしてきたのだ。レーヴェリヒトは、これからもその関係が続くことを切に祈る。
「ああ……それと、ツァールトハイトにもよろしく言っておいてくれ。結局ちゃんとした時間が取れなくてすまねぇってな」
「承知いたしました。そのようにお伝えしますわ」
「……誰だ、そのツァールトハイトってのは」
「ん、アスカは会わなかったか。ゲミュートリヒの隣領ザーデバルクの領主だ」
「……ああ、何となく覚えているような気が。確か、空色の目に真珠色の髪の……?」
「そうそう、そいつだ。まぁ、またここに来るなら会う機会もあるだろうさ、ツァールトハイトはメイデの茶飲み友達だしな。アイツも相当腕が立つから、何なら稽古でもつけてもらえよ」
「……そうか」
 何か気にかかることでもあったのか、ふたりの会話に口を挟んだアスカだったが、レーヴェリヒトの答えに小さく頷くと、あとは口を閉ざした。
「では皆さま、よろしいですか?」
 陣の中央に立ったハイリヒトゥームが問うと、幾つもの肯定の声といななきが上がる。
 ハイリヒトゥームはそれらににっこり笑い、白い繊手をツと宙に掲げた。
 ふわりと唐突に風が吹き、賢者の指先が白い光を孕んだ。
「アニキ、見てよ、線が光ってる。魔法って面白いな」
「確かに。仕組みを解明してみたいものだ」
 アスカが、光をこぼす線をまじまじと見つめるキョウスケにそう返すと、陣の一番外側に位置する円が、更に強い光を立ちのぼらせた。光の強さに隔てられ、見送りの人々の顔がぼやける。
 そんな中、メイデとアルディアをまっすぐに見つめるアスカへ、夫妻はふわりとやわらかく微笑んで手を振った。
「またおいでなさいな、アスカ。待っているわ」
「いつでも、好きなときにね。君が来るのを楽しみにしているよ、レヴィ陛下のお出でと同じくらいに」
 アスカの、あまり表情の変わらない双眸に、邪気のない喜色がゆるりと揺れ、少年ははにかんだように笑って小さく頷いた。
「ああ……じゃあ、また。色々ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「どういたしまして。それでは、またね」
 夫妻が、光に隔てられていてもそれと判るほど深い笑みを浮かべた瞬間、陣がこれまでにないほど強い光を放ったかと思うと、次にはもう、光に遮られて周囲は何も見えなくなった。
 強い浮遊感があって、身体が少し揺れた。驚いたのか、キョウスケが悲鳴じみた声をあげたが、それもすぐに収まる。
「――――お疲れ様でした、皆さま。到着ですよ」
 ハイリヒトゥームの静かな声とともに光が薄れ、浮遊感も嘘のように消えてなくなる。
 イスフェニアとノーヴァが息を吐き、四頭の馬を率いてそこから出て行った。レーヴェリヒトに恭しく一礼したリーノエンヴェがそれに続く。レーヴェリヒトの到着を官僚諸氏に伝えにいったのだろう。
 三人の何でもない様子を見ていれば判るように、移動魔法というのはそれほど特殊なものではない。
 ハイリヒトゥームのように長距離を、しかも大人数を運ぶことの出来る魔導師はそう多くもないが、リィンクローヴァ人のみならずソル=ダートに住まう人間の半分以上が、一生に一度は経験するような類いの魔法なのだ。特に騎士階級の人間は、任ぜられた地によっては何度もこの魔法のお世話になっている。
「……へ? なに、もう終わり? もうその王都とかいうとこに着いたの?」
 自分の踏みしめる地面が、土から、漆黒の線で陣の描かれた白い大理石の床へと変わっていることにも気づかぬ様子で、キョウスケが周囲をきょろきょろと見渡す。ユージンも首を傾げて周囲を見回していた。
 魔法のないところから来たのなら、彼らが困惑するのも当然だろう。馬で行けば半月かかる場所へ、今の一瞬で辿り着いたなどと言われても理解できまい。レーヴェリヒトが、魔法のない場所での生活が理解できないのと同じように、だ。
 アスカは、と思って彼を振り返り、声をかけようとして、レーヴェリヒトは思わず言葉を飲み込んだ。
 アスカの目は、移動魔法用の陣のあるこの部屋の先、窓の向こう側に釘付けになっていた。漆黒に輝く双眸は大きく見開かれ、驚きと感嘆とをたたえて揺らめいている。
 声をかけ損ねた彼にも、訝しげな眷族ふたりの様子にも気づかぬ風情で歩を進め、大きく開かれた窓から外を眺めやったアスカが、ぽつりとこぼしたのをレーヴェリヒトは聞き逃さなかった。
 もともと、ゆえあって普通の人々より優れた体機能を有している彼だ。――アスカほどではないが。
「こんな……」
 小さくつぶやくアスカの隣に歩み寄り、同じように窓の外を見晴るかす。見慣れた、鮮やかな光景がレーヴェリヒトの目に飛び込んでくる。
「こんな景色が、本当にあるのか……」
 こぼれ落ちた声は揺れていた。
 レーヴェリヒトが初めて聴く揺らぎだった。
「――――アスカ?」
 レーヴェリヒトは首を傾げた。アスカの見ているものと同じ景色を目にしながら。
 彼の眼前にあるのは、高く高くそびえる、純白の城だ。美しく壮麗で、どこまでも穢れなく清らかなそれは、当然のことながらこの部屋ともつながっている。
 そして視線を上に変えれば、そこに映るのは目を痛めるほどに青い、高い高い空だ。一点の曇りもない、純粋な。
 窓の下に広がるのは、ひとつひとつが宝石のように輝く家や、緑や、泉だ。賑やかにひしめくそれらは、一定の法則を持って設けられていて、この高い場所から見下ろすと、細かな切片を精緻に組み上げて描いた、一枚の風景画のように見える。
 窓から見えるひとつひとつが、くっきりと鮮やかに美しい。
 人と、緑と、水とが見事に調和したこの場所こそが、リィンクローヴァの宝石とも、王国の花とも呼ばれる王都アインマールだ。初めて訪れた人間の、その心をつかんで二度と離さないとすら言われる、リィンクローヴァでもっとも美しい場所なのだ。
 隣のアスカがその例に漏れず、この風景に心を奪われたことは、レーヴェリヒトをひどく誇らしい気持ちにさせた。アスカに感嘆を抱かせたこの風景が、自分の守るべき国なのだという矜持に心が騒ぐのを感じる。
 自分の大切なものを、そんな目でみてもらえることが嬉しくて、もっともっとたくさんの美しいものを見せてやろう、経験させてやろうと胸中に思うレーヴェリヒトの隣で、またアスカが小さな言葉をこぼした。思いのほか武骨な手で、口元を覆っている。
 それは、下手をすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。
「ああ、そうだ。もう……悔いることはない。たとえ……この先、速やかな死が俺を襲うのだとしても、これなら……悔いは、ない……」
 その指先はかすかに震えていた。
 その声はかすかに揺れていた。
 漆黒の双眸はたくさんの光を含んできらきらと輝いていた。
 レーヴェリヒトの心で、熱を持った何かがざわめく。
 レーヴェリヒトは……リィンクローヴァは、アスカを決して裏切らないだろう。この先何があったとしても、いかなる艱難辛苦が全土を覆ったとしても、この言葉に報いるだろう。
 そんな奇妙な確信があった。
 これから彼がもたらしてくれるであろう、数々の恩寵へ思いを馳せるよりも強く。