まるで心臓を打ち抜かれるようだった。
こんなに美しい風景を――『世界』と『人』との調和を、飛鳥は今まで観たことがなかった。
美しい景色を目にした人間が涙する――涙せずにはいられない、その理由と胸の内が、今なら真実理解出来る。そして、何故人が美しい場所を訪れずにはいられないのかも。
ゲミュートリヒは美しかった。
飛鳥が目にしたことも触れたこともなかったような、瑞々しい緑と光に満ちたあの場所の鮮やかな色と匂いとを、たとえ二度と訪れることがなかったとしても、飛鳥は生涯忘れないだろう。
王都アインマールは、その美しさとは少し異なっていた。
アインマール。
その名を聴くだけで、飛鳥の胸には運命めいた感覚が去来する。――どこか子どもの空想じみたそれ、誰もが一笑に付すであろうその感覚は、歓喜にも安堵にも似たなにものかを飛鳥にもたらした。
――――それはドイツ語で「いつか」を意味する言葉だ。
何故ドイツ語ばかりなのかは判らない。
確かにここの言語は、発音や文の構成がインド・ヨーロッパ語族に属する言語を彷彿とさせる。イタリック語派やギリシア語派というよりは、ゲルマン語派を思わせるつくりとなっている。ちなみにゲルマン語派というのは、英語やドイツ語の属する言語の一派だ。
言葉の構成が似ているのなら、単語にも似たものがあっておかしくはないのかもしれない。が、アルディアによると固有名詞のほとんどは神聖語と呼ばれる特殊な言語を使っているとかで、飛鳥の知っているドイツ語とはまったくちがう意味合いを持っているらしい。
だからそれは、飛鳥だけが知っている他愛ない言葉遊びにしか過ぎないのかもしれない。この世界の人間に話したところで、偶然だと一蹴されてしまう類いの重なりなのかもしれない。
――それでも、だ。
アインマールという言葉、ドイツ語としてのそれが持つ意味は、飛鳥の心にじわりとにじむような感慨をもたらした。
いつかは出会い、いつかは訪れ、いつかは見つけ、いつかは辿り着く。
それは、たくさんの不自由さに囲まれて生きてきた飛鳥が、それだけは自由だった心の中、何度も繰り返しつぶやき、祈り、願った言葉の体現だった。それを、この場所で聴くことになろうとは……聴くことが出来るとは、思ってもみなかった。
そのことに、飛鳥は更なる『運命』を観る。馬鹿馬鹿しいと苦笑しながらも、その思いを捨てきれずにいる。
いつか出会う相手がレーヴェリヒトであり、いつか訪れる場所がリィンクローヴァだったというのなら、きっとそう遠くなく『何か』が見つかり、『どこか』へ辿り着くことが出来るのだろう。
そう信じたいという渇望もあったし、そうあればいいという願いもあった。事実、この国は確かに、飛鳥に優しかった。
ここが、この場所がまたたくさんの「いつか」の結露を飛鳥に与えてくれるというのなら、飛鳥は決してここを――このリィンクローヴァという国を裏切らないだろう。招き手が何を思って飛鳥を呼んだのかはさておくとしても、誰とも知れぬ招き手が彼を再びどこかへ駆り立てるまでは、この国とこの国を守るレーヴェリヒトのために力を尽くすだろう。
そう、堅く堅く誓わずにはいられないほどに、美しく鮮やかな光景が眼前、眼下には広がっていた。
飛鳥たちがいるここ、大理石のような質感の床に複雑な陣が描かれたこの部屋は、城の天辺(てっぺん)近くのようだった。お陰で王都の遠く遠くまでが見晴るかせた。
窓からのぞくと、城は王都の中心にあった。
ぐるりと周囲を見渡せば、三百六十度、どこにも素晴らしい景色がある。どこの窓からも美しい景色が見える。
陽光を反射して晧々と輝く白亜の城は、剛健にして荘厳な、惚(ほう)けずにはいられない偉容を見せつける。
上下をざっと見渡しただけでも、少なくとも十階建てのビル程度のサイズがあることが見て取れた。
建物の大きさから想定される視界よりも遠くを見晴るかせるのは、この城がなだらかな丘の上に座しているためだ。やわらかな緑の生い茂る、丘の起伏は緩やかだったが、その規模は小さくなく、城がひときわ高い場所から王都を見つめることに一役買っていた。
王都の町並から城へ、花崗岩を切り出して作ったと思しき石で舗装された広い通路が四本、東西南北からすらりと伸びている様もまた、整然としていて美しかった。
その道を、一般人らしき人々や兵士らしき人々が忙しなく――ひっきりなしに行き交っている。緑の丘にもまた、楽しげに遊ぶ子どもたちやゆっくりと散歩を楽しむ人々の姿がある。
観ただけで頑健と判る城壁から建物への間隔が広く取ってあり、中庭(というには規模が大きすぎるかもしれないが)がひどく広いのを見るに、この城はいざというときにはたくさんの人間を内部に抱き込んで篭城できる類いの造りになっているのだろう。だとすると、地下や倉庫などの設備も充実しているかもしれない。
そう、ここは見せるための城ではなかった。
守り戦うためにある建物だった。
つまるところ、ここには、王城にありがちな――無意味極まりない、己が力の誇示のためだけの華美さ豪奢さはなかった。純白の王城は、無駄な装飾を持たない代わりに、ただ国と民の守り手として昂然と立つ、潔い矜持と自負とを含んで揺るぎなく佇んでいた。
その城とは対照的に、蒼穹はどこまでもどこまでも青々と続き、痛いほどの鮮やかさで飛鳥の目を射す。城と空とのコントラストは、小賢しく言葉で表現することなど馬鹿馬鹿しくなるほどに美しかった。
そして丘から下を見下ろせば、その麓(ふもと)には賑やかで鮮やかな町並がある。
たくさんの、目に優しいやわらかい緑と、きらきらと光を反射して輝く清廉な泉と、そして色とりどりの屋根を有した煉瓦造りの建物が、一定の法則を持ってひしめいている。
この高い位置から見下ろすと、それらは精緻に描き上げられた一枚の絵画のようだ。活き活きとした営みの匂いと、守護者為政者としての矜持の見えるこの場所にその言葉を使うことは、設計者を憤慨させるかもしれないが、それはもう至高の芸術品と呼ぶべきものだった。
この王都を設計した人物は、よほどの匠だったに違いない。
城から麓の町並までは、半径にしておよそ五百メートルの間隔があったが、丘にも通路にもたくさんの人がたむろしているためか、その開きが人と王との隔たりに思えることはなかった。
むしろ、ここからほんの少し観ただけで、この王城が人々に愛されていることがよく判る。王城が人々の生活に密着したものであることがよく判る。
ゲミュートリヒ、これもまたドイツ語で『快適な』という意味を持つあの都市が自然を強調した美なら、このアインマールは調和の美だった。人が――人々の営みが、緑と水、風と光と世界とともにあることを、アインマールは高らかに謳っていた。
この国で――この町で暮らせる人々は幸いだと飛鳥は思う。苦しいほどの渇望を持って。
知らず知らず手が口元を覆っていた。
指先が震えるのを自覚する。
気を抜けば嗚咽すらこぼしそうだった。
彼が生まれ、育ち、生きてきたあの世界を――あの町を、がらくたやごみくずのような汚らわしいだけの場所だとは思わない。あの故郷には、確かに愛しい存在や大切なものがあったし、そして同じく、彼を今このようにかたち作った貴い場所だった。
けれど、それ以外の場所を知らなかった飛鳥にとって、リィンクローヴァという国の風景は、夢物語にも似た彼の憧憬を、あっという間にすべて叶えてくれた奇跡そのものだった。真実美しいものとは何なのか、飛鳥はこの場所を観たことでようやく知ったのだった。
悔いはない、と、自分がつぶやいていたことに飛鳥は気づかなかった。
胸の内だけにこぼしたつもりでいた。
だから、隣からかかった闊達な美声、
「――アスカ?」
己の名を呼ぶそれに反応するまでに少し時間がかかった。
「アスカ」
再度、調子の違う声がかかって、飛鳥はようやく隣を見遣る。レーヴェリヒトは自分より十センチ以上高く、そのままだと視線が合わせにくいので、見上げたといった方がいい。
稀有な輝きを宿した紫水晶の双眸が、不思議そうに自分を見つめている。
「どうかしたのか。なんか、具合の悪ィことでもあったか?」
「ん、ああ……いや。何でもない、あまりにも町並が見事だったから、ちょっと驚いただけだ。これほどのものを造るのはさぞかし大変だっただろうな。その労を思うと頭が下がる」
「ああ、なるほど、そういうことか。うん、そう言ってもらえると嬉しいな、ここはリィンクローヴァ国民の誇りであるのと同時に、俺ら代々の国王の自負でもある場所だからな」
飛鳥の言に、レーヴェリヒトが晴れやかで誇らしげな笑みを浮かべた。それから、かすかに胸を張る。
てらいのない言動に、飛鳥は胸中に微苦笑する。
レーヴェリヒトもまたホッとしたように笑った。
「もしかしてお前が泣き出すんじゃねぇかと思ってどきどきしてたんだ」
「ああ、実際ちょっと泣きそうだったな。こんな景色を見るのは生まれて初めてだ」
「そりゃあますます光栄だな。でもやっぱ、泣かれるとどうしたらいいか判んねぇからそれは勘弁してくれ。何つーかこう、あまりにもらしくなくて右往左往しちまいそうだ」
「……俺が泣くのはそんな一大事か」
「え、いや、やっぱ人間、分とか相応とかいうものには従わねぇと。――ってなんだ、ナニ出そうとしてんだお前っ!」
「ん、見れば判る通り携帯電話だが」
「確かに見れば判るがなんで今出す必要があるっ! やめろ、こっち向けんなって!」
「いやほら、ちょっとむかついたから」
「俺は別にそんな間違ったことは言ってねぇっ! ぎゃーっ、やめろ近づけんな、寿命が縮むっ!」
レーヴェリヒトの間違った認識を改めさせるべく、胡散臭い笑みを浮かべた飛鳥が彼に携帯電話を向けると、電源も入っていないのに、すでに条件反射なのかレーヴェリヒトは顔を引き攣らせてあとずさった。携帯電話を向けた飛鳥が胡散臭い笑顔のまま近づくと、そのまま脱兎の勢いで逃げ出す構えを見せたが、ふと泳いだ視線が何かに行き着き、唐突にそちらへ歩み寄る。
飛鳥は拍子抜けして携帯電話を仕舞った。
半べそで逃げてくれないと張り合いもないし何より面白くない、などと素晴らしく人でなしなことを思う。どうも飛鳥に妙な対抗意識を燃やしているらしいリーノエンヴェ辺りが聞いたら、真顔で剣を引き抜きそうだ。
「どうした、レイ。お前の顔以上に面白いものでもあったか」
「ううっ、すげぇ嫌な言われようだ、俺の顔っ! ……ま、まぁそれはさておき、だ。アスカ、とりあえずこいつだけ持っておけよ、あとのもんはカノウとウルルに頼んでお前らの住居に運ばせるから」
「ん? ああ、剣か。星鋼製とかいう」
レーヴェリヒトがビロードを貼り付けた箱から出して飛鳥に手渡したのは、長さにしておよそ一メートルちょっと、重さにしておよそ三キロの剣だ。
鞘や束の造りは精緻で美しく、束の中央には水晶とも、月長石やダイアモンドとも取れぬ小さな宝石がいくつも埋め込まれていて、芸術品という点でも申し分のないものだったが、同時に非常に握りやすく、扱いやすい代物でもあった。金属で出来ているのだから、剣が重いのは当然だが、飛鳥の膂力にはそれほど辛いものでもない。
「おう。これ一本でちょっとした家と家財道具一式が買えるぞ。なくさねぇようにしろよ」
「想像もつかない高価さだ、夫妻も大したものをくれたんだな。まぁ、大切にさせてもらうさ。さすがにその大きさのものをなくすほど粗忽でもない」
「それもそうだ。剣は生き物だからな、大事にしてやりゃぁきちんと答えてくれるぜ。それと、こっちの原鉱は俺が預かっておいてもいいか? そのうち、国で一番の鍛冶師にお前用の剣をあつらえさせてもいい」
「ああ、任せる。もっとも、まずは剣の扱いになれるところから始めなきゃならないけどな」
「そうか、なら、俺が稽古をつけてやろうか?」
「……お前王様だろ」
「まぁ、そうだな」
「なら、まずその王様としての仕事をしろ。俺のことは手が空いてからでいい」
どこまでも親身で人の好いレーヴェリヒトの言に肩をすくめて返すと、彼はちょっと残念そうな顔をした。
「なんだよ、いいじゃねぇかそのくらい。せっかくなんだし」
「なにがどう『せっかく』なのか非常に気になるところだしありがたいとも思うけどな、お前が俺のためにこの国やこの国の人間に迷惑をかけるようなことはしてほしくない。ま、お前が暇になるのを気長に待つさ」
「……そっか。残念だけど、お前がそう言うなら仕方ねぇかなぁ」
「俺に言われなくても仕方ないと思え」
と、飛鳥がきっぱり切って捨てたところで、たくさんの足音が近づいてきた。中には、直属の騎士ふたりと彼らを手伝っていたらしい『眷族』たちのものも混じっている。
首を傾げた飛鳥が、廊下へと続く、扉のない入口を見ていると、リーノエンヴェとリーノエンヴェによく似た顔立ちの女性を先頭に、色とりどりの髪や目をした人々が部屋に入ってきた。
男女入り混じったその一団は、ざっと数えて二十人はいる。
動きやすいが非常によい布を使っていると思しき衣装の様子からして、戦いを司る職務にある、特にその中でも高い地位にいる人間たちのようだ。
何とも驚くべきことに、一団の誰もが水際立った美男子であり、美青年であり、美女たちだった。もちろん、その中で特別に抜きん出て麗しい顔立ちをしているのがレーヴェリヒトなのだが、それにしても集まりすぎだろうと突っ込みたくなる。
もっとも、恐らく相当な上流階級と想定されるこの連中の一族が、古くから見目のよい相手との婚姻を繰り返してきたのなら、誰もが美しい顔立ちをしているという理由にはなる。
狭い土地に慣れた日本人の観念で言えば、非常に広い部類に入るこの部屋だが、二十数人が一気に入るとさすがにぎゅうぎゅう詰めの感がある。
誰だ、とレーヴェリヒトに問うよりも早く、作業中の飛鳥の身内四人を除いた全員がレーヴェリヒトの前で頭を垂れてひざまずいた。素晴らしく統制立った、流れるように優雅な動きだった。
どこまでも為政者、支配者らしくないことに、どうやらかしずかれたりひれ伏されたりするのが好きではないらしいレーヴェリヒトは、一団のそんな様子にはあまり嬉しそうではなく、むしろ困ったように彼らを見下ろしていたが、彼ら彼女らはそれには気づいていない様子だった。
そんな中、リーノエンヴェの隣でひざまずいていた女性がゆったりと顔を上げ、やわらかな微笑とともに口を開く。
「お帰りなさいませ、レヴィ陛下。お疲れ様でした、視察の方はいかがでしたか。ゲミュートリヒは変わりなく?」
「ただいま、エーレ。さておき堅苦しいのはなしだ、皆も立ってくれ」
レーヴェリヒトの言葉を受けて、一団がやはり流れるように優美で統制立った動きで立ち上がる。
こうして見ると、女性はともかく、男性陣は皆背が高い。飛鳥より背の低い男はいないだろう。飛鳥が成長期だからというよりも、人種的な体格の差と言うべきかも知れない。
一団の、隙のない立ち姿を観察し、相当な手練ればかりだと感心していた飛鳥の横で、レーヴェリヒトが口を開く。
「まぁまぁ有意義だったな、雑多な書類仕事さえなけりゃあ。ゲミュートリヒはいつも通り平和だったぜ、メイデとアルディアも息災だった。リーエはまた仕事を押し付けられてたけどな」
「あの両親には誰も敵いませんからね……リーエ一人で被害が済んだならよしとしましょう。次回もこれをお連れくださいね、お役に立つでしょうから」
「……姉上、その場合私の都合はどうなりますか……」
「末っ子の義務です、甘受なさい」
明るい新緑色の目と蜂蜜色の髪をした、繊細で優美なのに凛とした雰囲気を漂わせた女は、どうやらリーノエンヴェの姉であるらしい。エーレにはドイツ語で栄誉などという意味があるのだが、背筋をピンと伸ばして佇む姿に、その名はとてもよく似合っていた。
恨めしげな言を一刀両断にされた美貌の騎士団長がかすかな溜め息をつく。あくまで言い募らない辺り、日常茶飯事のようだ。……男というものは、どうやら姉だの母だのには勝てないように出来ているらしい。
ゲミュートリヒでの、リーノエンヴェとメイデのやり取りを思い出して笑いを堪えていた飛鳥だったが、新緑の双眸を彼に向けたエーレが、
「こちらは、レヴィ陛下? 見事な加護色ですが……」
そう言ったので、それに反応して自分に視線を寄越した一団をぐるりと見渡した。
飛鳥には、事情や彼ら彼女らの地位や役目が判らないというのもあり、一団に含むところはなかったが、彼ら彼女らから飛鳥へ向けられる視線は、決して友好的なものばかりではなかった。中にはあからさまな警戒の色、敵意すらこもった目を見せている男もいる。
もっとも、飛鳥はそれで怯んでいられるほど可愛げのある人間ではなく、表情ひとつ変えずに一団を見ているだけだった。喧嘩のひとつやふたつ吹っかけられたところで切り抜ける自信もある。
などと、少々不穏なことを考えていた飛鳥だったが、隣のレーヴェリヒトが晴れやかに――ひどく嬉しそうに笑い、飛鳥の肩をぽんぽんと叩いて、
「名はアスカという。稀代の加護持ちにして俺の友達だ、皆、見知り置いてくれな」
そう、なんの躊躇いもなく言ったのでは苦笑するしかなかった。
その紹介にいくつかの視線が鋭さを増したが、そんなものは飛鳥に何の恐れも感慨ももたらさない。
レーヴェリヒトは次に一団をひとりひとり指し示し、飛鳥にそこにいる面々を紹介していった。
「アスカにも紹介しておくな、これからも色々世話になるだろうし。まずは、リーエの隣にいるのがエーレ・シェイラ・ゾイレリッタァ、リィンクローヴァ随一の政治手腕を誇る宰相だ」
「まぁ、お上手ですねレヴィ陛下は。――初めまして、アスカ。どうぞよろしく。とても強い、よい色ですね」
「……ああ」
「で、そっちにいるのがヴァールハイト・クロウ・ロベルタだ。五つある国軍の、第一天軍を率いてる将軍だ。ついでに言うと俺の幼馴染みでもある」
言った彼に指し示され、小さな目礼を寄越したのは、銀の目に赤茶の髪をした、厳しく鋭い雰囲気を宿した長身痩躯の男だ。女たちが放っておかないような見事な男ぶりで、その所作は洗練されているのと同時に、戦士として磨きぬかれたもののするそれだった。
ロベルタ家と言えば、確か、リィンクローヴァの政(まつりごと)の中枢を担う十大公家の一員で、ゾイレリッタァ家に次ぐ名門と聴くから、貴族中の貴族というヤツだろう。
しかしヴァールハイトと呼ばれた彼から、旧い貴い血を持つ者特有の傲慢さは感じられず、そこには己の責務を全うしようとする潔さだけがあった。
「で、その横にいるのがベテルザクト・セレス・コンスタースとアディオライト・ユーイ・クオレント。ヴィル……ああ、ヴァールハイトのことな、彼を補佐する副将軍たちだ」
次に目礼を返したのは、藍の目と焦げ茶の髪、翡翠の目と茶色の髪をしたふたりの男だ。ベテルザクトの方が、アディオライトより年上で地位も高いように思える。
「そっちはカチェラ・ロロク・メスサ。女だけで構成される第二天軍の将軍で、これまた俺の幼馴染みだ。優しそうに見えて言うこときついぞ、気をつけろよ」
レーヴェリヒトの紹介にくすっと笑ったのは、オレンジの鮮やかな眼にややくすんだ金色の髪をした女だ。たおやかな美貌で、物腰や表情はやわらかいが、目の奥には、メイデと同じく手練れの気配を隠しているのが判る。
「あら……お言葉ですね、陛下。いたいけな加護持ちの少年に無体を強いるほど悪人ではありませんよ」
「あー、うーん、いたいけじゃねぇから心配してるんだが……」
「いたいけじゃなくて悪かったな」
「いや、悪かねぇけどよ。……まぁいいや、続けるぞ」
白銀の髪をかき混ぜたレーヴェリヒトが、カチェラの隣に佇むふたりの女を指し示す。深緑の目と薄茶の髪をした若い娘と、淡青と金茶の髪をした中年の女だ。どちらもがピンと背筋を伸ばし、女性らしいと言うよりは軍人らしい仕草で飛鳥に一礼した。
「そのふたりはカチェラの補佐をする副将軍だ。緑の目をしてる方がルシェイーラ・シアン・バテクト、青い目の方がセラフィアレス・マール・アットゥーガな。それから、そっちにいるのがシュバルツヴィント・フーリー・アイオスフレド、第三天軍の将軍だ。基本的に将軍連中は俺の幼馴染みなんだ、シェルとも長ぇつきあいなんだぜ」
濃紺の目に濃茶の髪をした青年、直立不動のままじっと飛鳥を睨みつけている彼は、明らかに飛鳥に敵愾心を抱いている様子だったが、レーヴェリヒトはそれに気づいていないようだった。
その隣にいるふたりの男、青年と少年が、シュバルツヴィントのそんな状態にハラハラしているのが見て取れる。青緑の目と灰色の髪をした青年と、鳶色の目と赤茶の髪をした少年だ。ふたりとも少々線の細い印象を受ける。
「で、シェルの補佐をしてるのがオルメネク・ジェイ・パロスとカーナシエーラ・エルダ・ザイフェな。カニアはアスカと年も近ぇし、話し相手にいいかもな。なあ、カニア」
「あ、え、は……はい。どうぞよろしく、お客人」
「ああ、うん、こちらこそよろしく頼む」
レーヴェリヒトの言を受けたカーナシエーラがものすごく微妙な笑顔とともに一礼し、飛鳥は苦笑とともに目礼を返す。ちょっとした板挟みと言うところだろう。
「えーと、次はそっちだな。トゥーセ・レイア・シシン、第四天軍将軍で、例に漏れず幼馴染みだ」
「……どうぞお見知りおきを、お客人」
紹介に応えて優雅に一礼するのは、冷ややかなアイス・ブルーの目に金髪をしたこれまた長躯の青年だ。言葉は丁寧で、唇には笑みを浮かべていたが、目がまったく笑っておらず、恐ろしく冷たい気配を漂わせていた。どうやら彼も飛鳥の存在が気に食わないクチらしい。
飛鳥はかすかに笑った。
生々しい憎悪や怒り、敵意の念は、飛鳥の心と意志を厳しく研ぎ澄まし鮮烈にする。これはこれで悪くない、というのが正直な気持ちだった。
「で、トゥーセを補佐する副将軍がそのふたりだ。そっちがサーラシーラ・メネス・ユーティソードでその隣のがフィーアフラース・ディタ・バクス」
しかし、次に一礼した副将軍ふたりの視線や表情が友好的で拍子抜けする。シュバルツヴィントの副将軍たちと同じく、考え方という点では、一枚岩というわけではないらしい。
サーラシーラは群青の目に茶色の髪、フィーアフラースは黄緑の目と亜麻色の髪をしている。サーラシーラは貴族というより遊び人といった軽い雰囲気を漂わせる色男で、フィーアフラースの方は長身痩躯の人間が多い中、長身だが決してスマートではなく、むしろ巨漢といって過言ではないごつい体格の持ち主だった。
フィーアフラースと言えばドイツ語で大食漢を意味するのだが、体格を見る限り、その通りの人物なのかもしれない。もっとも、外見はごついが目の光は陽気で優しく、飛鳥を見る目にも険はまったくなかった。
軍人にも色々いるんだななどと思っていた飛鳥は、優美なのに武骨な手をすっと動かしたレーヴェリヒトが、
「次に」
と言ったところで視線をまた動かした。
そして思わず居住まいを正す。
「こっちのでっかいのがグローエンデ・バイト・シュトゥルム。幼馴染の中では一番世話になったヤツなんだ。第五天軍を率いる将軍なんだけどな、まつりごとの手並みも見事でよく手を貸してもらってる」
「……でっかいのとは失礼だぞレヴィ陛下。身長で言えばフィルと同じだろうが」
「いやでも雰囲気的にお前の方が絶対でかい。態度とか」
「むしろ今その一点のみで言っただろう。私の態度が大きいのは昔からだ」
「うわ、自慢にもならねぇ……」
確かに他の将軍たちとは違う、主従としてよりも幼馴染みとしての関係を強く感じさせる話し方をするその男は、飛鳥が思わず自分が戦って勝てるかどうかを算段したほどの、特に秀でた手練れの気を覗かせていた。
南国の海を思わせる青碧の目と、打ちのべられた刃のような鉄色の髪をした、ヴァールハイトよりも鋭い気配と、それでいて何故か親しみを覚えさせる雰囲気とをまとっていた。
シュトゥルム家は十大公家の一員だったと記憶しているが、大公家というのはどこも他の貴族とは一線を画した容色の持ち主ばかりなのだろうか。グローエンデもまた特に抜きん出た美貌の持ち主だったが、レーヴェリヒトと違うところは、その美貌が男性的な美に集約されるものであり、繊細さを含んでいない部分だろう。
「ともあれよろしく頼む、アスカ」
言って目を細めたグローエンデが手を差し出し、飛鳥は微苦笑して頷くとその手を握った。手は大きく、ゴツゴツしていたが温かかった。
「グロウは色んなことを知ってるから、判らないことがあったら教えてもらえ、アスカ。まぁ、つっても今はあちこち飛び回ってるから、そうそう城にいるわけでもねぇけどな。……で、最後にグロウの補佐だな。そっちがフィーラス・カティン・クレアネス、こっちがフライハイト・ネスカ・グレイアーだ」
レーヴェリヒトの言葉に、トパーズ色の目に銅色――新しい十円玉の色などと言ったら失礼に当たるだろうか――髪をした神経質そうな男と、茜色の目に落ち葉色の髪をした人のよさそうな少年とが一礼した。前者がフィーラス、後者がフライハイトだ。
またしてもドイツ語が出てきて、この現象はいったいなにを指し示しているのかと飛鳥は首を傾げたが、嫌な意味ではなかったので気にしないことにする。もっとたくさんの単語が出てきて、それらをひとつひとつ観察していけば、きっとそのうち答えも出るだろう。
紹介を終えたレーヴェリヒトがひとつ息を吐いて飛鳥を振り返った。
「ま、こんだけがリィンクローヴァの守護を司ってる面々だ。何かあったら頼るといいぜ」
「ふむ、そうしようか」
好奇と羨望と警戒、敵意と好意にさらされながら飛鳥は悠然と笑う。
――面白くなってきた、と正直に思う。