6.極悪少年、含み笑いをする。
目覚めようとする意識の中で、肌が冷ややかな殺意を感じていた。
ピリピリと肌を刺す、凍りつくような視線を感じていた。
それでもまだどこかまどろんでいた飛鳥の意識は、胡乱なことだ、とうっすら開いた目が、まったく見覚えのない褐色の指先が自分に向けて伸ばされているのを捉えた瞬間、速やかに――鮮やかに覚醒した。
『敵』の思うままにされてやれるほど彼は寛容ではないし、彼らの自分勝手な思惑を汲んでやれるほど大らかでもない。
善意には善意を、敵意には敵意を、殺意には殺意を。それこそが飛鳥の絶対にして単純明快な行動理念なのだから。
飛鳥は非常識に発達した運動神経を駆使し、上半身のブランケットをはねのけるや伸ばされたその指を――その手首を掴んで強く引っ張り、予備動作一切なしで素早く上半身を起こすと同時に、手首の主をベッドの上、つまり自分の下半身の辺りに引きずり倒す。
手首の主の身体は大した抵抗もなく、飛鳥の膝の辺りに崩れ落ちた。
なんだ手応えのない、とはそのときの飛鳥の胸中だが、引きずり倒された方はそれどころではなかったかもしれない。
「ぅわ、あ……ッ!?」
驚愕を含んでかすれた悲鳴と同時に、滑らかな光沢を持った、濃茶の長い髪がふわりと宙を舞った。
飛鳥が視線を落とすと、そこには、褐色の肌の青年がいた。背は飛鳥より高いようだが、線の細い身体つきは頼りないほどだ。
殺気の所為で、刺客かそれに準ずる存在かと思っていた飛鳥だが、手首を掴まれたままブランケットに顔を埋めて身動きできずにいる様子から、何か違うと首を傾げた。
あの時の一件で自分を疫病神認定したシュバルツヴィント辺りが、せっかちにも自分を抹殺しようとしたのかと思ったのだが、それはさすがに早とちりだったらしい。
――肉付きの薄い背中が震えているのは怯えているからだろうか。
「……誰だ、お前」
だからといってそれで警戒を解くわけもなく、褐色の首筋を鷲掴みにし、ぐっと力をこめて問うと、細い身体がびくりと震えた。
その首を掴んで持ち上げ、邪険な手つきで身体を起こさせる。
男にのしかかられて何が楽しい、という飛鳥的には当然の意識によるものだったが、はねのけられたに均しい扱いを受けた青年は、よろめきながら立ち上がったあと首筋を押さえて咳き込んだ。
飛鳥の怪力で首筋など掴まれてはたまったものではなかっただろう、非常に苦しそうだ。
「わ、私、は……」
青年は苦しげに言って、涙のにじんだ目で飛鳥を見る。アルト寄りのテノールといった風情の、男にしてはやや高い声だった。
――――飛鳥を見つめた目は、南国の海を思わせる鮮やかな紺碧。
それは、褐色の滑らかな肌と彫りの深い顔立ちにとてもよく似合っていた。
年齢は二十歳前後、身長は百七十五cmから百八十cmの中間といったところだろうか。
上背こそあるものの、下手をすれば華奢なと表現されてしまいそうなほっそりした身体つきの彼は、エキゾティックで妖艶な美貌の持ち主だった。
飛鳥の故郷の人種で表現するならペルシア系といったところだろう。
男でも女でもあるような、両性的で蠱惑的な顔立ちで、飛鳥のように、骨格で性別を見る人間でなければ困惑するだろう。
苦痛の所為か細い眉の根が寄っている様子など、下手な女より美しい。
ちなみに、見目麗しいのは結構なことだが、こんなに美形ばかりではいい加減値崩れが起こりそうだ、とはそのとき飛鳥が感じたまったくもってどうでもいいことだった。
「私はアルヴェスティオン、アルヴェスティオン・バーゼラと申します。我が主君グローエンデ・バイト・シュトゥルム様より、アスカ様のお世話をするよう言い付かって参りました。どうぞ、お好きにお使いくださいませ」
何とか体勢を立て直し、咳を治めた青年が、しかしまだどこか苦しげな表情でそう言ったので、飛鳥は盛大に顔をしかめた。
一言、
「要らん、帰れ」
きっぱりと言い捨てる。
その言に、アルヴェスティオンと名乗った彼が悲痛なとしか言えない顔をした。
大層麗しい、そういう嗜好を持つ連中の嗜虐心をかき立てるような表情だったが、基本的に色々な意味で男に興味のない飛鳥にはどうでもいい。というか、いじめて楽しいナンバー1ならこの国の王に決まっている。
「眷族だ下僕だで手一杯だ、お前の面倒まで見る余裕はない」
言ってベッドから降り、衣装入れへ向かおうとした飛鳥にアルヴェスティオンが追い縋る。薄い布地で作られた、裾の長い動きにくそうな衣装から、彼が武官ではないことが伺える。
「ご迷惑はおかけしません。お傍においていただくだけで結構ですから」
「要らん。存在そのものが迷惑だ」
「そんな……それは何故ですか」
「鬱陶しい」
きっぱりと躊躇なく断じると、アルヴェスティオンが絶句した。気持ちは判らなくもないが、飛鳥としては鬱陶しい以外のなにものでもないのだから仕方がない。
飛鳥は沈黙し立ち尽くす彼にはまったく構わず、アルヴェスティオンに背を向けた状態で、飛鳥は衣装入れから収納ボックスめいた木箱を引っ張り出す。そこに収められた上衣だのシャツだの脚衣だのを無造作に選ぶとさっさと着替えを始めた。
そこらでようやく、自分が熱を出して寝込んでいたことを思い出し、シャツの袖に腕を通しながら額に手を当てる。そもそも体温の低い飛鳥だ、額はひんやりといつも通りの温度を保っていた。
身体のだるさや、もろもろの苦痛もすっかり消えているし、むしろ今まで以上に力が湧いてくるような気すらする。身体は軽く、意識はクリアで、感覚は冴えていた。
――異形に傷を負わされたあと、三日間寝込んだあとの、あの目覚めにも増して爽快な気分だった。
窓の外を見遣れば、太陽の位置からして午前十時前後といったところだろうか。飛鳥にしてみればものすごい寝坊だ。
部屋は仮にと貸し与えられた王城内の客室で、ゲミュートリヒ領主宅と同じように阿呆らしいほど広い。場所の無駄遣いもいいところだ。調度も装丁も、何もかもが美しく一糸の乱れなく整っていた。
しかし、寝込んだのが昨日の夜にしては身体の回復が深いような気がして、今日が何日なのか尋ねようとアルヴェスティオンを振り返り、飛鳥は思わず沈黙した。
――いや、むしろぎょっとしたと言っていい。
鉄面皮と名高い彼だけに、表情はまったく変わらなかったが。
「……なんで泣く」
そう、飛鳥が振り向いた先では、その場にへたり込んだアルヴェスティオンが打ちひしがれた人妻よろしくさめざめと泣いていたのだ。紺碧の双眸から真珠のような涙がこぼれ落ちる様は陳腐ながら大層美しかったが、泣かれても困るとしか飛鳥には言いようがない。
だいたい、義務教育も済んだような(とは飛鳥の世界の感覚だが)男が、何故その程度のことで泣かなくてはならないのか。飛鳥は人前で泣くことを恥じるし、泣き顔を見られるのも嫌だが、この国及びこの世界の文化的感覚ではそうではないのだろうか。
アルヴェスティオンの涙は止まらなかったし、彼がその涙を隠そうとする様子もなかった。……むしろ、それを飛鳥に見せつけようとでもしているかのようだった。
「このまま帰ったところでグロウ様に叱責を受けるだけです」
「だったら俺から丁重にお断りしてやる、侍従だ使役だは不要だし迷惑だとな。対象者が言うんだ、問題はないだろう? それで叱責するような主君ならさっさと見限れ」
「私はグロウ様に、アスカ様のお世話をするようにと命ぜられたのです。その命は絶対で、簡単に撤回されるものではありません。そして主君にお仕えすることが、あなたの仰るような気軽な仕事なら、どうして泣く必要がありますか……?」
「まぁ、宮仕えも大変だなと言ってやるしかないが」
「……あなたは冷たい方ですね」
「は、褒め言葉だな」
「グロウ様は公正でお優しいですが、己のなすべきことには厳しいお方です。責務を果たせば高く評価していただけますが、果たせなければ罰せられます。あなたは、あなたのために私が罰せられることに同情してはくださらないのですか」
「同情はするが、それで鬱陶しさが消えるわけでもない。なんで俺が、何の関係もないお前のために俺の立場を曲げなきゃならないんだ?」
「そのお気持ちはもちろん判ります。ですが、そこを少し譲ってくださろうとは思われないのですか……」
「悪いな、薄情で」
飛鳥はアルヴェスティオンの責めるような視線にも恨めしげな声にもまったく動じることなく、あっさり肩をすくめて返し、ベッド脇の小箱から携帯電話を取り出して懐に入れる。電源を入れなくても十分遊べるので、とりあえず入れておく習慣がついた。
「だいたい、何で大貴族の将軍閣下が俺ごときにお前を寄越すんだ。お前にも失礼だろうが」
「……私は奴隷上がりの仕え人です。その私に『失礼』だと思う方はおられませんでしょう」
「ふむ、その辺りの判断基準は俺には判らんが、少なくともお前が実直に責務を果たそうとする類いの人間なら、それは敬意を払ってしかるべきとも思うんだがな」
飛鳥が言うと、アルヴェスティオンの紺碧の双眸に驚きが差した。それとともに儚げな微笑がその口元をかすめる。
「そんな風に言ってくださったのはアスカ様が初めてです。――命だからというだけでなくお仕えしたくなってきました」
「……それは不味いことを言ったな。そう言われても困る、聞き流せ。第一、俺と将軍はほぼ無関係に均しいんだぞ? そんな相手から仕え人を寄越される理由もない」
「グロウ様はアスカ様を買っておいでなのです」
そう答えた辺りで、ようやくアルヴェスティオンは涙を拭ってゆっくりと立ち上がった。涙を拭うその仕草さえ様になっている。美男美女とは得な生き物だ、とは飛鳥の客観的な胸中だが、顔で物事を判断することのない彼にとって、美しさとはもっともどうでもいい価値基準でもあった。
「……何故だ」
「さあ、詳しくは存じません。ただ、あなたのような立場の方、考え方を持った方が今の王城には……レヴィ陛下には必要なのだと仰って、そのためにもあなたのお手伝いをするようにと。レヴィ陛下のお健やかな日々のためにも、私の力をお貸しするようにと仰いました」
「……俺がお前を傍に置いたら、レイの役に立つのか」
レーヴェリヒトの名に思わず反応した飛鳥に、アルヴェスティオンが微笑を浮かべる。
その微笑は、上辺は確かに儚げで弱々しかったが、ふと見つめた紺碧の目に不可解なほど強い――したたかとでも言うべき光を見た気がして、飛鳥は思わず眉をひそめた。
魂の根っこ、本能に近い部分が、この青年を甘く見てはならないと警告する。
この本能の部分に助けられたことも多いだけに、飛鳥の心にはアルヴェスティオンへの警戒心が根差した。稀代の悪人とはとても思えないが、少なくとも無条件で信頼は出来ないということだろう。
無論、しばらくは様子を見るしかないことも事実なのだが。
「レイ……ああ、レヴィ陛下ですね。はい、アスカ様。私は文官です、文官の中では特に有能と自負してもおります。私なら、アスカ様、国王陛下があなたのためにお使いになる労力をお引き受けすることが出来ます」
「……ふむ」
「あの方はお忙しいのに、何でもご自分でこなそうとなさいます。恐らく、あなたがこの国で暮らされるための手続きも。ですが、」
「本当はすべき仕事がもっと他にたくさんある、か」
「……はい」
飛鳥には、グローエンデの思惑もアルヴェスティオンの立場もどうでもよかった。異世界人の自分に国や世界の都合を押し付けられても迷惑だと思っていたし、押し付けられたところで従うつもりもなかった。
しかしアルヴェスティオンの言葉、レーヴェリヒトに関わるそれだけは無視できなかった。
飛鳥はレーヴェリヒトが自分のために要らない労力を割いていることを知っている。彼が飛鳥のために、本来必要のない雑事まで背負い込んでいることを知っている。
飛鳥は純粋に、何の偽りもなくそれを嬉しいと思うけれど、それを当然だと思うことは出来ない。
むしろ、ほんの少し様子を伺うだけでも忙しいことが判る国王陛下が、自分のために割くその時間や労力を惜しむ。彼が自分のために、貴重な休息の時間を喪うことを惜しむ。
何より、世話になってばかりでは、とても対等とは言えない。
飛鳥のレーヴェリヒトへの借りは増えるばかりだ。
――それは周囲から見れば、結局のところレーヴェリヒトの心中を知らぬがゆえの、彼の喜びを知らぬがゆえの、どこか子どもじみた駄々とでも言うべき類いの感情だったが、他者に頼ることなく生きてきた飛鳥にとっては、当然守るべき立ち位置だったのだ。
だから、アルヴェスティオンのその言葉は、飛鳥の耳に心地よく響いた。
アルヴェスティオンもまた、他の『下僕』同等に何度断っても口汚い物言いで斬って捨てても挫けないだろう、という諦観の上に成り立つ面倒臭さが根ざしていたことも事実だったが。
アルヴェスティオンを傍に置くことそのものが、グローエンデの掌の上を容易く転がされるようで決して面白くはなかったが、少なくともそれならレーヴェリヒトに迷惑をかけずに済む。
「それは……悪くない。お前が本当にそれだけ有能なら、の話だが」
「少しお時間をいただければ、証明してご覧に入れます」
「準備期間というわけだな。……いいだろう、三日ばかり様子を見よう。お前が本当に口にしたような類いを実践できるなら、傍にいるも付き従うもお前の自由だ、好きにしろ。ただし……俺は人使いが荒いぞ?」
「覚悟のうえです」
「――……ああ、それと」
「はい?」
「アスカ様、は鬱陶しい。呼び捨てにしろ」
「しかし、」
「ここで俺の機嫌を損ねたいか?」
「――――いえ。承知しました、アスカ」
控え目に首を横に振ったアルヴェスティオンが、どこまでも傲然とした飛鳥に小さく一礼する。飛鳥は軽く肩をすくめると夜着を丸め、ベッドの上に放り投げた。
「レイは……まぁ、まず間違いなく仕事をしているとして、眷属だの下僕だのはどうしてる?」
「仰るとおりレヴィ陛下は公務に携わっておられます。眷族のおふたりは隣のお部屋で待機を、直属騎士のおふたりはアスカのお住まいの準備をしておられるようです」
「……そうか。なら、まずは隣の部屋に顔でも出すかな。ああそうだ、お前、俺がどのくらい寝てたか知ってるか? 今日は何月何日だ?」
「あなたが寝込まれたのが“黒の六”月の三十五日と聞いております。今日は“黒の六”月の三十七日です」
「そうか、丸一日と半分ほど寝ていたか。まぁそんなものだろうな。……それでこれだけ回復しているわけか、苦しい思いをせずに済んで何よりだ。ふむ、では俺は行くぞアルヴェスティオン。お前はお前の仕事をしろ。――俺がお前を手放したくなくなるほどの、見事な働きぶりを見せてみろ」
「お言葉の通りに。ああ……それと、もしもよろしければ私のことはヴェスタとお呼びください、アスカ。本名は呼びにくいかと思いますので」
「ん、そうか。なら……そうしようか」
言った飛鳥が踵を返すのと同時に、アルヴェスティオンがゆったりと一礼する。飛鳥はそれにはもう気を留めず、さっさと部屋を後にした。
アルヴェスティオンが遣わされた意味……グローエンデの思惑や、目覚める前に感じた殺意など、気にかかることは少なくなかったが、物事など所詮は流れのままにしかならないのだ。何かが起これば、そのときに全力で対処するだけだ。
今大切なのは、益体のない心配にぐちぐちと悩むことなどではなく、今の自分が何をすべきなのかきちんと理解すべきことだ。そして今の彼がすべきことは、少しずつではあれその『理解』を深めてゆくことだった。
――ゆっくりと部屋を後にした彼は知らない。
飛鳥の背を見送ったアルヴェスティオンが、その美しい唇に、何かが成就したことを安堵するような――それでいてどこか醒めた、冷ややかな笑みを浮かべたことを。
その紺碧の双眸に、先ほどの涙など嘘のような――それを演技だったのだと裏付けるような、乾いた殺意の光が輝いていたことも。
飛鳥がそれを知るのはずいぶんあとになってから、そしてアルヴェスティオンの殺意の意味がはっきりと証明されるのは、飛鳥の身に逃れようのない危険が迫ってからのことだ。
それまではまだ、穏やかな関係が続く。少なくとも、表面上は。