激しく冷たい雨の中、飛鳥は己に降りかかる大粒の水滴など気にも留めずに走り続けていた。
多量の水を吸ったやわらかで流麗な服地が、重さを増して身体にまとわりついたが、今の彼にとってそれは些細な、まったくもってどうでもいいことに過ぎなかった。その程度のことで行動を妨げられ、意志を削がれる飛鳥ではなかった。
――ふざけた真似をしてくれたものだ。
飛鳥の脳裏を、激烈な怒りを伴って渦巻くのは、その一言に尽きた。
彼の命を狙ったことも、無関係なアルヴェスティオンに怪我をさせたこともそうだったが、飛鳥の怒りに火をつけ、激しく燃え立たせたのは、刺客たちがレーヴェリヒトの命をも狙っていることが判ったからだった。
飛鳥は、飛鳥自身が心を砕くものに危険をもたらす存在を決して許さない。
懐に入ることを許せるものがあまりにも少ないゆえに、その怒りは壮絶で、反撃もしくは害虫駆除への意志は強固だった。
「……どこだ、恥知らずのくそったれが」
オージと呼ばれた刺客は、特殊な訓練を受けてきた者なのだろう、非常識な城の降り方をしたあと(と、自分のことは棚に上げる飛鳥である)、巨石を切り出して積み上げたと思しき城壁を、鉄製の爪のような道具を助けに使ったとはいえ、石と石のわずかな隙間を足がかりにするりと乗り越えてしまった。少なくとも十メートルはある城壁を、である。
あの時、規格外ではあってもそこまで非常識ではない(と自分では思っている)飛鳥は、ここからどう追えというのか、と真剣に世を儚みたくなったが、幸いにも近くの通用門の番をしていた衛兵が顔見知りだったので、簡単に事情を説明して通してもらった。
というよりむしろ、普段無表情な飛鳥の、すさまじい怒りの形相と壮絶な殺気に驚いた衛兵が大慌てで通用門を開けた、というのが実際のところだったが、それは本人の預かり知らぬところである。
飛鳥はそこから二十分ばかり、オージの姿を求めて暗い丘陵をくだり、ここ数日ですっかり脳裏に焼きついた王城と城下町との位置関係を照らし合わせながら目指す場所へと走りぬいた。
目指す場所とはすなわち、王城をぐるりと取り囲む城下町の中、色とりどりの屋根をいただいた家々が立ち並ぶ中で、唯一森の存在する一角だ。
飛鳥がそこを刺客の行き先と定めたのは、未知なる声に導かれたとか第六感が囁いたとかいう胡散臭い理由からではない。
単なる一般論、つまり常識の問題であり、自分が刺客ならこうするだろうという程度の予測だが、飛鳥はそれがありきたりだと理解するのと同時に最善だとも認識していた。
アインマールについて訊いた話によると、その森は国樹であるレッヒェルン玉樹が点在しているらしく、王都の整備の際もそこだけは伐採の手が入らなかったのだという。その結果、建国から五百年が経った今では、東京都の四分の一程度がすっぽり隠れるほどの大森林に育ったとのことだった。
高い位置にある王城から観ても、その途切れる部分が見極められないほどなのだから相当な広さだ。
森を奥深く分け入れば中には大きな川もあり、その流れは王都アインマールから隣の神領エーポス市を経由してドロッセル市及びシャーベフルツ市を貫き、海へと注いでいるらしい。
これほど隠れやすく、逃れやすい場所もないだろう。
飛鳥たちを撹乱する目的ならばアインマールの城下町へ潜入する手もありだが、恐らく今ごろは騎士団や衛兵たちに刺客の報が行き届いているだろうし、その後彼らが大挙して押し寄せることを考えれば、町へ入ることは得策ではない。
ミストと呼ばれた刺客が逃げて態勢を立て直せと言い、オージがそれを受け入れた以上、まず優先されるのは刺客自身が危険から遠ざかるということだろう。
「……だが、逃がさん」
地の底から響くような低いつぶやきとともに、飛鳥は眼前に迫った森へ目を向けた。
夜遅くに観る森は、驚くほど黒々とわだかまり、その威容を見せつけていたが、ある種の畏怖すら抱かせるほどのそれも、怒りのためにかえって意識をクリアにしている飛鳥には、わずかな恐れも抱かせることはできなかった。
そのまま飛鳥は、躊躇なく森へと踏み込む。
途中、ふとしたところに、たった今折れたと思しき若木の枝を見出し、飛鳥はうっすらと笑った。
無論、恐ろしいほど夜目が利き、戦闘に特化した飛鳥の注意力だからこそ見つけられたようなものだったが、そのぽきりと折れて雨に打たれている枝の存在は、飛鳥をひどく満足させた。
「予想通り、か」
森を行き来する獣ならば、住まいであり心優しい隣人である森に対してこんな無礼は犯すまい。
普通の、一般人なら、こんな夜のこんな暗い森を、松明(たいまつ)もランプもなしには歩けまい。
森の奥に向かって不自由なく走りながら、飛鳥は、耳を澄まして周囲を探った。
もともと、こういうことのために生まれたも同然の彼だ。ありとあらゆる状況に応じて周囲を観察し、適切な情報を得る力の突出した高さは、常人の及ぶところではない。
刺客は夜目が利くようだったし、自分の痕跡を残さないよう極力心がけてもいたようだったが、激しい雨のお陰で視界が悪くなり、動きを制限されたことが災いしたのだろう、森のあちこちに小さな疵をこしらえ、また地面にちょっとした跡を残していた。
だとすれば、森の中に入っても降りかかるような、強い激しいこの雨は飛鳥にとって僥倖だった。そうでなければ、刺客の進路を完全には把握できず、逃してしまったかもしれない。
「そう、遠くない、な」
地面に残されたわずかな足跡が、まだ雨にかき消されずにいるのを見遣って飛鳥はつぶやく。
恐らく、刺客にとっても予想外の雨だったのだろう。彼はひどく慎重に道を進んでいる。
飛鳥はそれを追って、更に走った。
道なき道を、ひたすらに。
夜は、森は、驚くほど彼を妨げなかった。
むしろ、彼を助けようとしているかのようだった。
闇はまるでソル=ダートの『部屋』で観たあの黒水晶の空間のように透き通っていたし、森の木々は――枝や葉は、まるで飛鳥に道を譲るかのように、彼の身体に触れもしなかった。ぬかるんでいるはずの土は、水分の存在など嘘だとでもいうように、飛鳥の足をやわらかく――優しく受け止めた。
不可思議な助けを借りて、飛鳥はなおも走る。
走るうちに、飛鳥の意識は研ぎ澄まされ、クリアになっていった。
精神が、ただひとつの目的のために鋭く尖ってゆく。
身体は疲労をなにひとつとして訴えない。足や手や、心臓や肺や、細胞の一片一片が、自分が力に満ちていることを主張する。
こんなことはいまだかつてなかった。
今まで、たくさんの争い、深刻なものにも命に関わるものにも、つまらない諍いにも取るに足りない欲ボケ同士の小競り合いにも、自分と自分の大切な領域を侵そうとする連中を完膚なきまでに叩きのめすという理由で足を踏み入れてきた飛鳥だったが、こんなにも身体中に力があふれ、自分が強いことを魂の底から認識させられたことはなかった。
飛鳥は、今の自分が揺るぎなく強靭であることを当然のように理解していた。今なら、お前は鋼だと言われても頷いただろう。
胸の奥を、不可解な感情が満たしていた。
――さあ、決断を。受け入れてしまえ。
自分の中で、よく判らないモノがそう囁くのを、飛鳥は意識の外で聞いていた。
そして実際、飛鳥の一部に、それを受け入れてもいいと、受け入れるべきだと囁く部分があったのも事実だった。
しかし、飛鳥が、胸の奥にある感情が『解放』への期待と歓喜なのだと気づき、解放とは何なのかとやはり意識の外で思ったのと同時に、よく判らない別のモノが、
――飲み込まれては、いけない。
そう、静かにつぶやいた。
それらは飛鳥の主の意識、今は刺客を追うことのために費やされているそこに至ることはなかったが、それでも彼は、漠然と、自分の身体に何かの変化が起きていることを感じていた。
意識外の静かなやり取りを魂の奥底で認識しながら、意識という手綱を取り、肉体を律して、飛鳥は森の奥へと進む。
雨ではない水の匂いがした、そう思ったとき、オージと呼ばれた刺客の姿が飛鳥の視界に入った。百メートルほど先だったが、天然暗視装置とでも言うべき飛鳥の眼は、彼の一挙手一投足までをしっかり捉えている。
男の姿を見出した位置から唐突に森が途切れ、その向こう側に、川幅にして五十メートルはくだらないであろう広い流れが姿を現す。刺客の男は、その川の淵に佇んでいた。
川の流れは早く、水は濁っていた。
先ほどの豪雨のためだろうか。それにしては、水量の増加が早すぎる気もしたが、飛鳥にとって重要なのはそこではなかった。
オージは、手に小さな棒のようなものを持っていた。口に咥え、息を吹き込んだことから、それが笛だと知れる。
だが、音は出なかった。
否、それは単に、聞こえないだけだった。人間には。
(……普通の人間の可聴領域を超えている……?)
飛鳥には、人間には聞こえない音が空気を震わせていることが判った。
人間の可聴音は16〜20ヘルツから16〜20キロヘルツだが、『笛』が発する音は上限の20キロヘルツをはるかに超えている。この『音』は、人間の耳では捉えられない。
――しかし、彼は、規格外なのだ。
聴覚以外の感覚で、漠然とではあるが、それを捉えることができた。
だから、それへの警戒を抱くこともできた。
『音』を発する道具を用いた以上、何かへの合図と考えるのが妥当だろう。犬笛のように、人間以外のなにものかを呼んだのかもしれない。
油断は出来ないと胸中で己を戒めながらも、このままうかがっていても埒があかないことも事実なので、気配を殺し足音を消して男へと近づく。雨はまだ降り続き、飛鳥の存在を更に隠してくれた。
だが、男は腐っても闇に生きる者だった。
飛鳥が、オージまであと五メートルというところまで近づいたとき、このままぶん殴るなり締めるなりして気絶でもさせ、無傷で捕えようという彼の目論見は、川の向こう側を眺めていた男が、まるで飛鳥の意志を読んだかのようにぱっと振り向き、樹の影の、非常に判り難い場所にいたはずの飛鳥とばっちり目を合わせてしまった辺りで氷解した。
「……貴様は」
オージの目が、みるみる驚愕に歪む。
穏便に迅速にという当初の目論見を破られ、内心で嘆息しつつも、飛鳥は樹の影から踏み出し、男の前に姿を現した。
更に一歩近づくと、オージが背に負った段平を引き抜く。
「……追って来たのか、王城から」
「当然だ。頭の悪い振る舞いをした報いは受けてもらうと言ったはずだぞ」
「どうやって、俺を見つけた。探すべき場所は他にもあったはず」
「後ろ暗い連中が逃れそうな場所は決まっている。町は騎士団が探し、守るだろう、だったら俺はそれ以外を探せばいい」
「……この激しい雨の中、ゲマインデの一員たる俺に追いつくか。それが、加護をいただくということなのか」
「生憎だが、加護云々は俺には判らんな。ゲマインデがどうしたとかいうのも、別に、どうでもいい。こうして追いついた以上、俺は単に、お前を捕え、城に連れ帰れればそれでいいんだ」
「は、大口を叩いてくれる。だが、貴様の言を借りるならば、俺もまた単に、貴様を殺せればそれでいいのだ。先刻の、ふざけた振る舞いの返礼もさせてもらいたいからな……これはまさしく僥倖。ここまで追いついたことは褒めてやるが、ひとりで、武器も持たずに追って来るとは、少々早計に過ぎたな。あのまま城に留まれば、今少しは長生きできたものを」
優越感もあらわに言った刺客が段平を構えた。
黒い服地の上からでも相当に鍛え上げられたと判る身体から、陽炎のように殺意が立ち昇り、細められた茶色の目が、獲物を狩る直前の肉食動物さながらの喜悦を含む。
飛鳥は軽く肩をすくめた。
「武器だけで自分の優位を確信するような頭の悪い真似はしない方がいい。足元をすくわれる見本のようなものだぞ」
「――――ほざけ!」
飛鳥の憎まれ口に、茶色の目をぎらつかせて吼えた男が地を蹴った。
怒涛のごときという陳腐な表現がもっともぴったりくるであろう、風を髣髴とさせる速さで飛鳥へ肉薄する。
自分の半分も生きていないような子どもの挑発に乗ってどうする、とはそのときの飛鳥の内心だったが、瞬間沸騰型単純人間の方が扱いやすいというのも事実だった。
空気を震わせながら薙ぎ払われた段平をひょいと避け、身を低くして男の懐に入り込むと、更に踏み込んであっという間に彼の背後に回る。流れるようなと表現するのが相応しい、よどみのない動きだった。
「暗殺者がこの程度のことで怒りをあらわにしているようでどうする。まったく……まだまだだな、お前」
背後から、いかにも嘆かわしいという風に囁くと、
「――……ッ!!」
あまりにも容易く背後に回りこまれた驚愕と、言葉にならない怒りの唸り、どちらもが半々に含まれた声を上げた男が、振り向き様に段平で飛鳥の立ち位置を薙いだ。斬撃の鋭さはさすがと言ったところで、素直に喰らえば、上半身と下半身が綺麗に断ち割られていただろう。
しかしその程度の一撃は飛鳥にかすることもできなかった。飛鳥は刃が自分を真っ二つにする前に、その場から予備動作なしで地を蹴ると、男の肩へ向かって飛び上がり、その肩へ足が着くと同時に己の後方へと蹴った。
「う、お……っ!?」
突然のことで対処できず、踏みとどまることも出来ずによろめいた男の、くぐもって上ずった驚愕の声を聞きつつ、反動を利用して更に跳躍し、これみよがしにくるりと空中で回転してから危なげなく着地する。このときで、オージからは五メートルばかり離れていた。金メダルクラスの体操選手も真っ青の跳躍力であり、バランス感覚だった。
何とか態勢を立て直し、目を剣呑に細めた刺客がこちらを伺っている。飛鳥はかすかに笑った。
「貴様……一体何者だ。加護を持つというだけの理由で、そこまでの動きができるものなのか」
「知るか、そんなもの。俺は俺だ。それ以外ではあり得ない」
吐き捨て、今度は飛鳥の方から攻撃を仕掛ける。
あの、刃の分厚い段平とその操り手は警戒に価するが、その剣技もレーヴェリヒトほどのキレはない。レーヴェリヒトの、剣の切っ先がかすんで見えるほどの速さはない。
ないのならば、飛鳥に勝てない相手ではないということだ。
「剣を素手で相手にする気か! 勇敢だが……愚かだぞ、それは!」
「はっ、好きに吼えてろ!」
男の言を鼻で笑い飛ばし、飛鳥は彼に向かって駆け出した。
オージが段平を構える。
飛鳥が肉薄した瞬間に薙ぎ払う心積もりのようだ。
まともに突っ込めば、真っ二つにされるだけだったが、しかし、もちろんのこと飛鳥に、『まともに』突っ込むつもりなどなかった。馬鹿正直に真っ二つにされるつもりも、もちろんない。
奇策を用いなければ勝てないのは二流だとよく言うが、規格外の……非常識な肉体機能を駆使した突拍子もない戦い方は飛鳥の得意とするところだ。別に欲しくて手に入れた身体ではないし、そうと望んでこう生まれたわけでもないが、せっかく持っている力を使わないのももったいなさすぎる。
飛鳥は殺意十分のオージへ向かって走り、
「……ッ!」
鋭い呼気とともに揮われた段平を、大縄跳びの要領で飛び越えた。
飛鳥の首を狙っていた剣を。
しかも飛鳥は、剣の方向と停止位置を予測し、また巧く力を加減して跳び、振り切られて一瞬止まったオージの剣の切っ先にひょいと乗ったのだ。
小鳥が木の枝に止まるような軽やかさで。
「なっ……」
オージが驚愕の声を上げる。
もちろん、彼が刃の上に乗っていたのはほんの数瞬のことだった。
重さに耐え切れなくなったオージに剣を取り落とされでもしたら、何の意味もなくなってしまう。
それでもそれは、飛鳥が金メダル級の跳躍力と素晴らしい感覚を持ち、刃の幅が広い段平だったからこそ出来た芸当だったし、少なくともサーカスの曲芸並のバランス感覚と身の軽さが必要とされたことは確かだ。
――だが、その程度で驚いてもらっちゃ、困る。
胸中につぶやき、一瞬の驚愕のあとで立ち直ったオージが剣の上の不調法者を振り落とそうとするよりも速く、飛鳥は自ら剣の腹を蹴った。
刃の位置が不動であること、非常に脚に力が入れやすかったことに対して、オージが腕力のある、腕の立つ刺客でよかった、と、どうにも本末転倒気味な感想を胸中に抱く。
それから飛鳥は、空中で、身体に微妙な回転を加えながら、今まさに飛び退って避けようとしていたオージの後頭部を、激烈な勢いで蹴り飛ばした。
がつん、という手応えならぬ脚応えと、
「っぐ、が……ッ!?」
苦痛と驚愕の双方が入り混じった呻き声が上がり、オージの身体は勢いよく吹き飛ばされて、数メートル後方の巨木に激突した。
持ち主と一緒に弾き飛ばされた大きな段平が、ぬかるんだ地面にどすんと倒れ、ばしゃりと音を立てた。
「う……」
よほど凄まじい衝撃だったのだろう、ずるずると木の幹を滑って地面に崩れ落ちたオージは、後頭部を押さえて呻くばかりだ。ふわりと着地した飛鳥が近づいても、身動きできずにいる。
「……勝負あったか?」
咳き込んでいるオージを見下ろした飛鳥がそう言うと、刺客の男はどこか焦点の定まらない目で彼を見上げた。
「貴様……何、者だっ……! ゲマインデの、貴き混沌の君の元に集いし、聖戦の徒たる俺に、こんな……あ、あり得ない……!」
衝撃の所為で混乱もしくは錯乱しているのか、少々呂律がまわっていなかったが、その中にゲマインデという言葉が再度出て、飛鳥はかすかに眉をひそめた。
ドイツ語では狂信者を意味する単語だ。
言葉が世界の啓示なら、到底無視はできない。
それと、貴き混沌の君などという胡散臭い名称に、聖戦がどうしたとかいう痛々しい自称。
まさしく典型的な狂信者、飛鳥の故郷でも世界のあちこちに出没していた、何か間違った信念のために命を捧げ、また他人の命を十把ひとからげに不要物扱いしてしまうような連中と同じ類いだ。
この刺客たちのことを、金で雇われてレーヴェリヒトや自分の命を狙っただけの暗殺者集団かと思っていた飛鳥だったが、どうも根は深そうだと判断し、まだ動けずにいるオージの元に歩み寄ると、その黒い頭巾を躊躇いなく――容赦なく剥いだ。
頭巾の下から現れたのは、三十代半ばから後半の、茶色がかった灰色の髪の男。
ずいぶん勢いを弱め、霧のようになった雨がその額や頬にかかるたび、瞼がぴくぴくと動いていた。
その顔が、金村と対峙したミストのものとよく似ていることは、飛鳥の預かり知らぬところではあったが、男の顔立ちは理知的に整っていた。文官の恰好でもさせてまつりごとのただ中に放り込んでも違和感はないだろう。
「何故俺を狙った。――何故、レイを狙う」
彼の傍にしゃがみ込んだ飛鳥が、前髪をきつく掴んでその顔を無理やり上向かせながら問うと、オージはかすかに咳き込みながらも唇の端をわずかに引き上げてみせた。せめてもの意地といったところだろうか。
「尋ねられたからといって、容易く答えると思うのか?」
「違いない」
肩をすくめ、飛鳥は髪から手を離して立ち上がった。
そして、巨木にもたれたままのオージの脇腹を蹴りつけ、
「ぐっ……」
呻き声を完全に無視して、その身体をぬかるんだ地面へと転がす。
その後更にオージのこめかみを爪先で小突き、意識を失うほどではないが身動きを出来るほど軽くもない脳震盪を起こさせてから、ぐったりとした彼の、右手の小指に靴の先を載せた。
幸いにもというか不幸にもというか、オージの手は地面から盛り上がった硬い木の根の上にあった。飛鳥としてはやりやすくていい。
「仮にも暗殺なんてものを生業にしてるんだ、拷問への耐性くらいはあるよな? すぐに泣き喚いて答えを言うなんてみっともないことはしてくれるなよ、面白くないからな。まぁ、いい年こいた男の悲鳴なんて、むさすぎて聴きたくもないけどな」
邪悪な――満面の笑みとともにそう告げると、一気に爪先に力を入れ、捩る。
ごりり、という、独特の感触があって、顔を引き攣らせたオージの身体がびくりと跳ね上がる。
無様な悲鳴が上がらなかったのはさすがと言うべきだろう。
「次は薬指、その次は中指。手の指だけで足りないのなら、足の指も。それでも足りないのなら……その次は、何をしようか?」
こんな場面には相応しくない、莞爾とした笑みが漏れる。
むしろ彼は、こんな場面だからこそ笑うのだった。
オージからの答えがないので、飛鳥は右手の薬指に足を載せ、躊躇なく踏みにじった。呆気なく何かが砕ける感触が、靴底越しに伝わってくる。
また、オージの身体が跳ねた。
目尻を生理的な涙が伝う。
それを見下ろして、飛鳥は寒々しいほど優しい声をかけた。
「なあ、お前。俺だって本当はこんなことしたくはないんだ。お前の命を取りたいわけでもない。俺……いや、レイを狙った理由と、黒幕がいるのならそいつを教えてくれるだけでいい。そうしたら、レイの配下のもっと穏便な連中にお前の身柄を預けてやれるんだがな」
そう、飛鳥が知りたいのはたったひとつなのだ。
自分のことなどどうでもいい。
彼が彼の日常的な言動を改めない限り、あの王城での敵は増えてゆくだろう。命を狙われる回数も増えるに違いない。今回のこの襲撃を、第三天軍将軍シュバルツヴィントの差し金かと疑ったのも確かだ。
確かだが、彼にそんな自分を変えるつもりはさらさらない。真実を偽ってまで、人々に好かれようとも思わない。だから別に、敵が増えようと命を狙われようと、自分自身に関して言うのなら気にするつもりもなかった。
しかし、シュバルツヴィントがレーヴェリヒトをも亡き者にしようとするはずがないのだ。その点に関しては、飛鳥は確信を持っていた。あの嫉妬の眼差しと、レーヴェリヒトへ向ける忠誠と愛情の入り混じった表情は忘れようとしても忘れられない。
ならば、一体誰が飛鳥を、否、レーヴェリヒトを狙うのか。
――それと同時に、飛鳥の脳裏をよぎるのは、
おまえがまもるなら、おまえがあのこをうしなうことはないだろう。
何日か前、ソル=ダートから聞いたあの言葉。
レーヴェリヒトがそう簡単に亡き者にされるはずがないと思いつつも、完全には消し去ることが出来ずにいる言葉だった。
飛鳥はもう、二度も三度も、大切な人間を喪いたくはないのだ。
ならば彼は、その大切なものを脅かそうとする何者かを、持てる力のすべてで持って排除するしかない。どんな残酷なことでも、常識ある善人たちから眉をひそめられそうなことでも、果てはレーヴェリヒト自身に顔をしかめられそうなことでも、だ。
「答えないのなら次々に行くぞ? 指の骨の次は腕の骨か? それとも、皮でも剥ぐか、耳を落とそうか。瞼を切り取るのも面白そうだな、これから先の瞬きが大変だが。ああ、それとも、このまま木に縛り付けて、鴉にでも突つかせてもいい」
到底善人とは名乗れないような、とてもではないが一般人とは言えないような、残酷で情け容赦のないリンチ紛いの拷問コースを実に楽しげに口にしながら、飛鳥はオージを見下ろした。
目尻に涙を貼りつけて宙を見据えたまま、ちょっと待っても答えがないので、更に中指を踏み折ってみせる。プレッツェルでも砕いたかのような、小気味のいい音がした。
さすがに獣じみた呻き声が漏れた。
ゲマインデとやらが、暗殺者集団であるよりも狂信者集団である色合いが濃いのなら、拷問の訓練などはあまり受けていないかもしれない。ならば、彼の口を噤ませているものは、今の彼を支えているものは、彼が熱狂的な盲愛を捧げる『何者か』なのだ。
それは、かえって厄介だとも言えた。
懐柔の余地はなきに均しい。
案の定、ゆるゆると口を開いたオージは、痛みのためかゼェゼェと喉を鳴らすような息を吐きながら、
「貴様の、意のままには、ならん。……殺せ」
やや上ずった、しかし断固とした声でそう言った。
飛鳥は胸中に息を吐く。
こうなるだろうとは思っていたが、正直面倒臭い。
必要にかられたからこそこんな非道な真似をしているが、拷問なぞ別にしたくもないし、情報も引き出せぬままに彼を殺せるわけもない。そもそも飛鳥は人殺しに慣れてはいないし、慣れたくもないのだ。
ならばどうしようかと、億劫な気持ちで思案していた飛鳥の耳を、何かの羽ばたきの音が打った。
鳥にしては大きい、大型猛禽どころの話じゃない、そう思った瞬間、背後で壮絶な敵意と殺意が膨れ上がる。
本能が激しい警鐘を鳴らし、オージの傍らから前方へ跳んだ瞬間、たった今飛鳥の頭部があった辺りを、ゴウという空気を震わせる音とともに、黒々とした颶風が駆け抜けて行った。
「……!?」
瞬時に体勢を立て直し、颶風の主へ目を向けた飛鳥はさすがに絶句した。
ぐるる、と、それが鳴く。
怒りと、敵意とをこめて。
「……やっと、来たか、シザム」
かすれた、オージの声が聞こえた。
彼が、ゆっくりと、顔をしかめながら身体を起こしているのが見える。
飛鳥は身動きも、目を離すこともできず、颶風の主と睨み合っていた。
ぐおう、と、またそれが鳴く。
空気を震わせる、恐ろしい咆哮だった。
「形勢、逆転か、加護持ち」
立ち上がったオージの隣に、細い木を薙ぎ倒しながら舞い降り、彼の頬を大きな舌で舐めたのは、
「……どこまでファンタジーな世界だ、ここは……」
飛鳥の呆れたような声が示すとおり、――――濃灰色の鱗と翼、血の色の双眸と凶悪な鉤爪とを持った、四トントラックサイズの竜だった。
ぐおう。
また、そいつが咆哮する。
飛鳥は小さく嘆息してから、竜との睨み合いを続行した。
何が出てきたとしても、ここで退くわけにはいかないのだ。