竜というヤツはびっくりするほどでかかった。
そして、素晴らしく硬質的な――敵対者を褒めるのも悔しいが――、非常に美しい生き物だった。
ぴんと張った巨大な翼も、ひとつひとつがつやつやとした鱗も、長くて太い尻尾も、ナイフというよりちょっとした剣を思わせる爪も、確かに肉食の爬虫類と判るのだが事典で観る肉食恐竜より理知的に思える顔立ちや、真っ白にぴかぴか光っている牙や、怒りと敵意に爛々と輝く血色の双眸でさえ、生き物としての躍動感と力とにあふれ、その存在の強大さを高らかに謳っている。
自身が獰猛で凶悪な存在であることを声高に主張しながら、竜とはどこからどう見ても美しい生き物なのだった。
まったくもってそれどころではないはずなのに、飛鳥は一瞬その生き物に見惚れ、ここに来てよかったと思えることがひとつ増えたな、竜を実物で見られるなんて思いもしなかった、などと胸中に思っていた。
「……どうした。恐ろしさのあまり、声も出ないか」
指の折れていないほうの手で竜の首筋を撫でながら、からかいを含んだ声でオージが問うたが、飛鳥はかすかに肩をすくめただけだった。
普段の彼なら――特に怒り狂っている時なら、その場で、そんなふざけた物言いをしたことどころか生まれてきたことさえ魂の底から後悔させるような行為に走るところだが、こちらを見据える竜の鮮やかな血色の目がとても透き通っていて、『目をそらしたら襲いかかって来るかも』という物理的心理的な問題以前に目を離すことが出来なかった。
「びっくりしたのは、確かだ。でも……うん、そいつは、何ていうか、すごく綺麗だな。それで、びっくりした」
竜の美しさを目にした驚きで少しばかり毒気を抜かれ、オージの揶揄に悪口雑言で返す気にもなれず、思わず飛鳥は素直な、毒を含まない感想を漏らした。己が敵対者と認識した相手への返答としては稀有な言である。
オージが茶色の目を丸くして、それから、苦笑する。
人語や主人の精神状態が判るのか、翼をたたんだ竜が小さく首をかしげてオージを見下ろしていた。ああいう仕草をすると可愛いな、などと胸中に微笑みかけ、それどころじゃないだろお前と自分自身に突っ込む。
オージとの一対一の戦いのときより分は悪いはずなのに、緊張感がまるで足りない。
相手は明らかに飛鳥を殺す気で、何ひとつとして飛鳥に有利な流れにはなく、このまま行けば頭から齧られるか爪で一突きされるか、どちらにせよ碌でもない運命ばかりが待っているはずなのに、そして飛鳥自身ここから退くわけにも負けるわけにも行かないはずなのに、彼は思い切り和んでしまっていた。
その原因があの竜にあることは間違いがない。
――――そう、正直な話、飛鳥は動物が好きだ。
陳腐な話だが、彼らは人間のように欲得で動かない。一度親しくなれば、こちらが愛情を注ぐ限り、何があっても裏切らない。
飛鳥は、その朴訥さ、不器用さが好きだ。
犬とか猫とか、鳥とか蜥蜴とか。
大型の肉食獣や、すらりと優美な草食動物もいい。
無論、幼い頃に家族で動物園に行った思い出すらない飛鳥にとって、身近に存在している以外の動物は、テレビや本で観たことがあるだけなのだが。
レーヴェリヒトが馬をくれると言ったのだって、実はものすごく嬉しかったのだ。顔にはあまり出なかったようだが。
「俺の可愛い竜を褒めてくれてありがとうと言いたいところだが、先ほど俺の指を何の躊躇いもなく踏み折った者の言葉とは思えんな、それは。だが……飛竜を目にして恐れ気もなく綺麗だと口にするお前の胆力、敵ながら賞賛に値するぞ」
妙なところで和んでしまったのはオージの方も同じようで、少しやわらかさを含んだ声が素直に飛鳥を褒める。飛鳥はまた肩をすくめた。
「お褒めにあずかり恐悦至極、と言っておくべきなのかな、これは。竜を観るのは生まれて初めてなんだ、怖がりようがない」
「何度観ても胆力のない輩は恐れるものだが……生まれて初めて、だと? 竜など、どこの空にでも、よく飛んでいるだろうが」
「そんなに飛ぶものなのか、竜は。その巨体がどうやって浮かぶんだろうな」
「……殺せという命ばかり先走って仕留めるべき対象の調査がまだ済んでいないのは我らの不徳だが、お前、いったいどこの出身だ? 竜の飛ばぬ空など、この世界のどこにある?」
「なに、どうしようもないほどの田舎でな。あまりにひなびていて、竜も飛ぶ気になれなかったんだろうさ。田舎者ですまん」
「……その田舎者が、ゲマインデの数持ちたる俺を凌駕するのか」
「ああ、物心ついたときから山野を駆けまわっていたからだろう。実は野生児なんだ」
「……野生児、なぁ……?」
真実など口にするつもりも、口にしたところで信じてもらえるとも思っていない飛鳥の嘘八百に、オージが茶色の双眸をわずかに歪めた。
何かを思案する風情だった。
飛鳥は、絶対的に自分が不利だと理解しながらも、何故かそこから逃げ出そうとも思えず、オージの出方を伺っていた。もっとも、ここで逃げたところで、あの巨体から簡単に逃げ果せるものではないことも理解してはいるが。
何にせよ、竜という、飛鳥の故郷ではお目にかかれないような生き物を目にした衝撃、嘆息を伴ったそれが行き過ぎると、飛鳥の胸には、この世界の不思議さと豊かさ、そして美しさへの感嘆が訪れる。
もしも竜が地球に存在したとして、人間に散々食い荒らされたあの世界は、きっとこんな巨大な生き物を養うことは出来なかっただろう。
そしてそれと同時に、心の奥底に根差した願望、
――あの生き物と戦ってみたい。
その囁きに、飛鳥は眉をひそめた。
(……俺はいつから狂戦士の仲間入りをした?)
彼は確かに荒事が好きだが、
――あの、強大な、美しい生き物と、
それらは子どもが過激な遊びを好むのと同義だった。
そこに自分の大切なものの安全や幸福が関わらない限り、彼は決して凶暴な人間ではなかった。誰とも争わなくとも済むのなら、一日中屋根の上で日向ぼっこでもしていればいいのだ。
それが叶わなかったからこそ、拳を振るってきただけなのだ。
――命をかけた戦いがしてみたい。
それなのに、この、囁きは。
(これは、誰の思考だ。誰の願望だ。――――これは、誰だ)
背筋をうそ寒いものが滑り落ちた。
自分の中で、何か押し留めようのない変化が起きていることを飛鳥は理解していた。理解し、認めざるを得なかった。
誰だと問いつつも、そう望んでいるのは間違いなく飛鳥自身だった。
どうしてそうなってしまったのか、何が理由で心がそう囁くのか、彼には自分自身の変化が判らない。
精神の在り方など、変えようと思って変わるものでもないはずなのに。
生まれて十七年間、何者にも変えようのない、何者にも挫きようのない、強靭にすぎる身体と心とを、時に利用し時に持て余しながら、どうしようもないところで足掻いていたはずなのに。
――胸のすくような興奮を。背筋の凍るような戦慄を。
オージがこちらをじっと見ていた。
得体の知れないものを観るような――それでいて、興味深いものを見つけたと喜ぶような、なんとも様々な色彩の含まれた表情で。
竜は、あの凶悪で綺麗な生き物は、オージを守るように、主人を傷つけたものへの敵愾心と、いくばくかの好奇心とを含んだ眼で飛鳥を見ている。雨に濡れた鱗が、時折ほんのわずかなきらめきを放った。
――血の熱さと、匂いと、肉と骨の感触と、狩りの歓喜と、喪失の慟哭と、痛みと、嘆きと、悦びを。
『それ』の主張は声高だった。
飛鳥の眉根がぐっと寄る。
自分の意識の一部だろうが何だろうが、現在主導権を握っている『己』の望まぬことをさせられるのが、飛鳥には一番耐え難い。
――早く、速く。戦いと死と破壊と、戦場の歓喜をここに!
(やかましい!)
『声』がうるさくてあんまりむかついたので、胸中に怒鳴りつける。
滑稽だと理解しながらも。
(今はそれどころじゃないだろうが! 周囲の状況を見てからものを言え、どこのボンクラだお前は!)
怒鳴ったそれが日本語だったのか異世界語だったのか、脳内ではすでにもう同義となっている言葉で罵り、なおも不満げな『声』が上げるざわめきを意志の力だけで抑えつける。
彼の脳味噌に、意識に何が巣食っていようとも、それが彼を徐々に狂わせて行くのだとしても、今の飛鳥がするべきことはそれに怯えパニックを起こすことではなかった。
己の中に巣食う何者かの言葉に従って、闇雲に、一直線に突っ込んでいくことでもなかった。
飛鳥にとって『自分』は計算に入れるべきものではないのだ。
飛鳥が果たすべき今の一番は、あの美しい、お人好しで間の抜けた青年を、唯一絶対であろうと決めたあの国王陛下を、彼の持てるすべての力でもって助け、守ることだ。
それ以外に砕くべき心を、今の飛鳥は持ち合わせていない。
「――――決めた」
『それ』がようやく静かになり、相手をするのも面倒だからこの先一生黙ってろ、などと胸中に毒づいていた飛鳥をまっすぐに見据え、オージが不意につぶやいた。
飛鳥はわずかに身構える。
オージからは敵意殺意は消えていたが、戦意が強くなっていたのだ。
そして、彼の眼に含まれた押さえ難い好奇心の色彩が、飛鳥に警戒心を起こさせた。
「お前は面白い」
「……そりゃ、どうも」
「だから俺は、お前を連れて行こうと思う」
「……は?」
「この竜はシザムという名なんだが、優秀な狩人であるのと同時にとても優秀な運び手だ。お前ひとり追加で乗せるくらいのことはまったく問題ない。竜に乗るのはとても気持ちがいいぞ、世界が小さく見える」
「乗れると聞いてちょっと誘惑されそうになった自分がものすごく嫌なんだが、そもそも、どこへ行くつもりだ」
「決まっている。ゲマインデの中枢へだ」
「何のために」
「こちら側に引き込めれば一番面白そうだがな」
「本気で思ってるか、それ」
「……今までの流れの中で真剣にそう思えるほど頭は緩くないつもりだが」
「だろうな、よかった。希望的観測でしかものを言えない、脳味噌の腐った刺客なんぞ、クソに湧く蛆以下の無能者だろうからな」
「ああ、まったくだ、気が合うな。だが、連れては帰るぞ、当然。引きずってでも、だ。もう決めた」
「……だから、何のためにだ」
「白状すると、俺の単純な興味で、勘だ。お前は、俺たちにとっても何かとても重要なものを握っているような気がする」
「私情に屁の役にも立たない直感が理由かよ、タチ悪いな。そもそもあんた、俺を殺すように言われてここに来たんじゃないのか。雇い主だか主人だかに怒られるぞ」
「確かに、受けた命は抹殺だが、俺はあいつらを主とは思っていないからな。ゲマインデが仕える相手は混沌の君ただお一方だ、それ以外の命はついでにすぎない。殺したことにしておいて隠しておけば、まぁ問題はないだろう」
「隠すってな……犬猫の仔じゃないんだぞ……」
「ああ、犬や猫の仔ほど扱い易くはなさそうだな」
「俺が言及して欲しいのはそこじゃないんだが」
「まぁ、そんな細かいところは気にするな、俺も気にしない。――さて、どうしようか、加護持ち。名はアスカと言ったかな。俺はゼルト、ゲマインデの“六”、ゼルトザームロスト・ディアス。お前をこのまま殺すのも、帰すのも惜しい。仲間にとは言わんが、ひとまず俺と来い」
「いや、だからな……」
「お前が素直について来るというのなら、俺も過去の遺恨はすべて忘れてやれるし、荒っぽい真似をせずに済むんだが」
一体何がお気に召したのか、先刻までの敵意殺意はどこか遠くへ消え去って、今度は彼を(恐らくは自身の本拠地へ)連れて帰るなどと言い出した刺客の上機嫌な様子に、飛鳥は胸中に嘆息せずにはいられなかった。
おまけに名前まで名乗られてしまった。
密やかさが身上の暗殺者に。
ゼルトザームロストという名前にしても、ゼルトザームは奇妙なとか珍妙なとかいう意味だし、ロストは錆を意味するドイツ語だが、……イメージ的にそのまんますぎて笑えない。
つい先ほどまで、確か殺す殺さないのやり取りをしていたはずだったのだが、この差は一体何なのだろう。
俺の周りには自分の都合一辺倒の変人しかいないのか、と、問うのも虚しいような疑問をつぶやいてみるものの、それで何が解決するわけでもない。余計に虚しくなるだけだ。
爆発的な、激烈な怒りは収まった――収まってしまったが、レーヴェリヒトに剣を向けた報いは受けてもらわねばならないし、襲撃の首謀者、レーヴェリヒトを狙う者の名も吐かせなくてはならない。
ゲマインデとやらが一体どういう集団なのか、オージのあとをおとなしくついて行って内部に入り、自分の眼で確かめてみるのもひとつの手ではあるのだが、オージの口調から言って、一度訪れたらそこから出られなくなりそうな予感がする飛鳥である。
――出来れば、それは勘弁して欲しい。
彼がいたいのはリィンクローヴァという国であり、レーヴェリヒトという人間の隣なのだ。
ならば、交渉ですらない交渉は、決裂するしかないのだった。
「……生憎だが」
構えを解かぬまま飛鳥が口を開くと、オージ……ゼルトザームロストは、唇を笑みのかたちにして先を促した。次に何が起きるのか、飛鳥がなにを言うのかを楽しんでいる風情だった。
もっと猪突猛進の脳味噌筋肉系かと思っていたが、案外愉快犯的精神構造も持っているのかもしれない。……迷惑な話ではあるが。
竜に警戒しつつ、飛鳥は言を継ぐ。
「俺はそちら側には行けない。たったひとつのものを奉じて生きているなら、お前にも判るだろう。俺の全うすべきすべてはリィンクローヴァの、あの国王陛下の傍にあるんだ」
「そのために命を狙われ、醜く小賢しい争いに巻き込まれようともか」
「それが何の障害だ? ――いや、違うな。そういう小賢しいくちばしがあるからこそ、俺は俺の責務と本分を忘れずに済む」
「なるほど。それでは、交渉の余地はなさそうだな。客を招くんだ、出来る限り穏便にと思ったが」
「そいつの背に乗るのは、悪くなさそうだけどな。残念ながら、俺にはやるべきことがある。遠慮しておこう」
「そうか……残念だ。なら、仕方ない」
ゼルトザームロストが楽しげに笑った。
竜がぐるると喉を鳴らし、血色の双眸を細める。
「シザム。あれを捕まえてから家に帰るぞ。なるべく無傷で済ませたいが、まぁ、腕や脚の一本二本は仕方がない。あまりひどく壊れたら、ツァオに治してもらえばいい、ひとまず捕獲だ、捕獲」
「……なんかもう色々とどうでもいい気もするんだが、それ明らかに人間を捕える時の表現じゃないだろ……」
あまりな言いようではあったが、突っ込むのも疲れてきて、ぼそりとこぼすに留まった。
それどころではなかった、というのもあるが。
飛竜シザムの背に、指を三本骨折しているとは思えない軽やかさでゼルトザームロストが飛び乗り、硬そうな首筋を叩いた瞬間、翼を広げた竜は一声吼え、太い脚で地を蹴るや、飛鳥に向かって突進してきたのだ。
加速一切なしの初速からおよそ時速80キロメートル。
ここから加速された時の飛行速度を想像するのも恐ろしい。
「ッ!」
お前それ捕まえるっていうか一息に圧し潰す気だろ、という命のかかったツッコミを飲み込み、飛鳥は慌ててその場から逃げる。脱兎のごとくというのが相応しいだろう勢いで。
森の奥、木が多い方が入りにくいだろうという常識的な観測の元、太い木のある方向へと駆け込むと、背後でめきめきめきっ、という音がして、少なくとも樹齢五十年はありそうなサイズの木々が、こちら側へ無理に近づこうとするシザムによって次々とへし折られてゆくのが見えた。
こちらを目指して森林破壊を行うシザムがなんだか楽しそうなのはどうしてだろう。竜というのは破壊を楽しむ生き物なのだろうか。あれでは怪獣もいいところである。
自分の所為でもあるので申し訳なく思いもするが、今の飛鳥にそこまで気を遣う余裕はなかった。
ここへ来たときの飛鳥は追撃者だったはずなのに、今では反対に追われる身だ。しかも、碌でもない私情で。
「なんつー迷惑な連中だ……」
つぶやくものの、このままひょいとさらわれてしまうわけにも行かない飛鳥は策を練る。が、らしくなく、実は結構混乱しているらしく、なかなかいい案が思い浮かばない。
どんなに規格外であろうとも、飛鳥だってまだ十七歳のひよっこだ、経験にも知識にも技術にも、至らない部分はたくさんあるのだ。
こんなことなら怪獣映画でも観て倒し方もしくは撃退方法を研究しておけばよかった、などと少しずれた後悔をしながら、ひとまず様子を見ようと――何か弱点でもないかと接近を試みる。――そのまんまぱくりと咥えられて連れ去られないように気を配りつつ。
めきめきとかばきばきとかいう破砕音とともに背後へ迫る気配をひしひしと感じる。
飛鳥は極力心の動きを鎮め、気配を殺すと、そっと藪の中を通り抜けてひとりと一匹の追撃者から姿を隠した。それから、傍らの、樹齢百年は軽く超えているだろう木を見上げると、その幹のわずかな凹凸に足をかけてひょいひょいと樹上へのぼった。
多少のとっかかりさえあればビルの壁でロッククライミングもどきも出来る飛鳥にとって、この程度のことは朝飯前だ。それに何より、木は悪態をつかないし、さらって帰るとも言い出さないし、齧りに来ないし、時速80キロメートルで突進しても来ない。
(なんか……一年前だったか? あの時の、面倒臭い仕事を思い出すな、このシチュエーション……)
故郷の、友人というよりはどうも利用されているような気がする連中に無理やり引っ張り込まれた『仕事』のことを思い出しながらも、地上十メートルの枝に足をかけ、周囲をうかがう。
竜の、かすかな足音が聞こえる。翼や尻尾が触れるのだろうか、わずかに木々が揺れる音がする。
それらの音も飛鳥だから聞こえたようなもので、あんな巨体なのに、地面を踏みしめる音はほとんどないのだ。そもそもが狩りのために存在する生き物なのだろう。
それが、飛鳥の残した匂いを追って、徐々に近づいてくるのを感じる。
竜のものなのかそれともその背に乗った人間のものなのか、飛鳥には判然とはしなかったが、ひどく楽しげな気配が伝わってくる。
五分ほど枝葉に隠れて息を殺した辺りで、飛鳥のいる木の下に、シザムとゼルトザームロストの姿が現れた。竜の体高は後ろ足で立った状態でも六メートル前後、飛鳥のいる枝は少し上にありすぎて、彼らはまだ、飛鳥の存在には気づいていない。
どこからどう見ても、あれと正面きって戦って勝てる気はしなかった。
先刻、自分の中の何かが囁いていた戯言を実践したところで、返り討ちに遭うのは間違いなく飛鳥だ。
(堅そうな鱗だな。さっきの剣でも傷つけるのは難しそうだ。……いや、出来ればあんまり怪我はさせたくないが)
この期に及んで和んだままの飛鳥が、故郷にいたころの飛鳥自身が聞いたら目を剥くような甘いことを考えていると、思考するという心の動きそのものに気づいたかのように、地面の匂いをかいでいた竜が急に顔を上げた。血色の眼が、精密機械のような正確さで飛鳥を捉え、きょろりと輝く。
「なんだ、そんなところにいたのか」
シザムに遅れること数拍で上を見上げたゼルトザームロストが、唇の端を吊り上げるようにして笑った。
いつの間にか、指三本が骨折した右手には、布がきつく巻かれている。
飛鳥は小さな溜め息をついて、枝を強く蹴った。
シザムの堅そうな尻、もしくは尻尾の付け根に向かって枝から飛び降り、着地ならぬ着竜するや、
「女性の臀部に降りるとは破廉恥だぞ、お前」
竜の性別なんぞぱっと見で判るか! と怒鳴りたい気持ちをぐっと我慢して、硬い鱗に覆われた尻をまた蹴り、今度は地面に飛び降りると、そのまま木々の間を縫って彼らの目をくらませ、更に藪に突っ込んで身を隠す。
彼らが再び自分を探している様子を遠目に見ながら、飛鳥は疲労とも嘆息とも取れぬ息を吐いた。
(……というか、これってもしかして、ものすごく不毛なんじゃ……)
このままでは、ゼルトザームロストを捕えて連れ帰ることどころか、無事に逃げ切ることも出来そうにない。
彼がここにいることを誰も知らない以上、ゲマインデの本拠地とやらに連れて行かれて戻ってこられなくても、刺客に返り討ちにされてどこか人知れぬ場所で腐り果てたものと思われそうだ。
それは、かなり切ない。
ならばいっそのこと、このまま森の外まで逃げて、王城へ戻った方がいいんじゃないか、ということに思い至り、飛鳥は素早く思考をめぐらせた。
ゼルトザームロストがあくまでも飛鳥を自分たちの懐へ連れ帰ると主張するのなら、彼は飛鳥がどこへ逃げても追って来るだろう。近衛騎士や一般騎士、果ては魔法使いまでがいる王城付近へ彼らを引きつけられれば、そして騎士たちの協力が得られれば、刺客を捕えることも不可能ではないだろう。
そうすれば飛鳥の当初の目的は果たされる。
(……つーか、早く気づけよ、俺)
どれだけ毒気を抜かれてるんだ、と自分自身の駄目っぷりに呆れ、それから行動を起こそうとした飛鳥は、つい数瞬前まで自分を探していたはずの竜の姿があるべきところにないことに気づいて眉をひそめた。
――竜の、ゼルトザームロストの気配が、消えていた。
(どこに、行っ……)
胸中につぶやこうとしたとき、いつの間にか雨の上がっていた空から唐突に聞こえたのは羽音だった。
しかもそれは、明らかにわざと立てたと思しき音だった。
飛鳥に気づかせるため、飛鳥を驚かせるための。
しまったと思うよりも早く、弾かれたように空を見上げた飛鳥の目に飛び込んできたのは、森の上空十メートルの位置に滞空し、爛々と輝く眼で――狩り手の傲慢さで自分を見下ろす、飛竜シザムの姿。
蝙蝠のそれを何十倍も丈夫に、美しくしたような翼が風を生み、森の木々を震わせる。
「忘れたか? 竜は、飛ぶものだ」
言って、刺客が笑った。
飛鳥は言葉を失って、竜が自分に狙いを定めるのを、身動きも出来ずに見上げていた。
――――それでも、絶体絶命と言うには到底緊張感が足りないのは何故なのか、ほんの少し奇妙に思いながら。