シザムが空を斬るかのごとくに羽ばたいた。
 獰猛なのに優美なその動きに、ゴウと音を立てて風が巻き起こる。突風に薙ぎ倒されそうになり、半ば自失していた飛鳥は、はっと我に返って傍にそびえる樹木の幹にしがみついた。
 木々が、葉や枝がざわざわと唸り、大きく揺れる。
 いかに飛鳥が規格外といっても、彼の体重はどれだけ重く見積もったところで百キロもない。普通の人間となんの違いもないのだ。風速数十メートルの風にあおられて何の被害も受けない、というわけにはいかない。ハリケーン級の嵐に見舞われればなすすべもなく吹き飛ばされるだけだ。
 かといって、それで取り乱すほど、取り乱していられるほど容易い道を歩んできたわけでもなく、飛鳥は目をすがめて竜とゼルトザームロストの様子を伺う。
 彼らが何をどうするつもりなのか、それを見極めなくてはならない。
 ――竜の目が、飛鳥をまっすぐに見下ろした。
 そう思った瞬間、シザムが急降下する。
 唐突に、強弓から放たれた矢のような、残像すら見えるほどの速度で。
 それは飛鳥を捕えるために急接近したというよりは、彼を押し潰し惨殺するための速さだった。イメージで言えば、ごくごく至近距離から新幹線が最高速度で突進してくるのと似ているだろうか。
 巨大な黒い塊が、叩きつけるような風とともに押し寄せる。
 飛鳥は眼差しを厳しくして身構えた。
 どう避けるか算段したのはほんの一瞬で、シザムの進行方向と速度を読んだ飛鳥は、その怒涛のような突撃の及ばぬ位置まで跳んで回避する。特急電車が通り過ぎていったような強い風が、雨に濡れて張りついた飛鳥の髪の中にまで、新鮮で冷たい空気を吹き込んだ。
 ばきばきばきっ、と、素晴らしく不吉な音を立ててシザムが――翼や脚、口や尾が――木々を次々と薙ぎ倒し、噛み砕く。
 百年生きた木も、竜の巨体と強力(ごうりき)の前には、さくさくとした、口当たりのよいスナック菓子のようなものでしかないらしかった。
 あそこにレッヒェルン玉樹が交じってたらレイたちに申し訳ないな、などと思っている暇はなかった。
 ――シザムの背から、ゼルトザームロストの姿が消えていた。
 飛鳥は眉をひそめて周囲の気配を探りかけ、――次の瞬間には舌打ちとともにその場を飛び退いていた。
「ゴキブリ並にどこにでも現れるヤツだな、お前は!」
「はっ、ゴキブリほど悪食でもないがな!」
 一体いつの間にシザムの背から移動したのか、まるで空気のような密やかさで飛鳥の背後にまわっていたゼルトザームロストが、飛鳥の悪態に唇の端を吊り上げる。
 ひゅっ、と、褐色のブーツに覆われた脚が空を切り、飛鳥を狙うが、
「だが、まだ甘い」
 それは一瞬前まで彼の立っていた位置を薙いだだけで、さっと退いた飛鳥自身にダメージを与えることは出来なかった。
 ゼルトザームロストが楽しげに笑う。
「やはり、お前は面白い」
「そりゃ、どうも」
「何がそうまでお前を強くした?」
「…………過去と、意志だ」
「竜も飛ばぬ辺鄙な地に住まう、どうしようもない田舎者とやらの過去に、一体何がある」
「……さあ?」
 飛鳥はゼルトザームロストから十分に距離を取り、背後の気配を油断なく計り、身構えながらも軽く肩をすくめてみせた。
 飛鳥が、背負ったものの重さや苦しみをぺらぺらと気軽に喋ってしまえるような性分だったら、きっと彼は、こんなにもたくさんの記憶や痛みをたったひとりで抱えずにすんでいたことだろう。
 しかしそれは、誰を責めるべきことでもなかった。
 飛鳥は、すべてひっくるめた己の性質を、それでよしとしているのだから。
「それがお前に何か関係あるのか?」
「いや……ないな。興味があるのは確かだが。どんな生き方をしてきて今のお前が出来たんだ?」
「尋ねられて容易く答えられるような類いを、俺は過去とは呼ばない」
「なるほど。では、その辺りのことも向こうで聞かせてもらおう。なに、心配するな、向こうには優秀な読心術者もいる、お前に負担はかけん」
「何の心配だ、何の」
 飛鳥のボソリとしたツッコミに、再度笑ったゼルトザームロストが地を蹴った。
 ――雲が晴れたらしく、唐突に月光が差し込んでくる。
 飛鳥は用心しつつ刺客を迎え撃つ。
 背後には竜の気配がある。今は少し離れた位置で待機しているようだが、何せ初速から時速80kmだ。その存在を無視することは出来そうもない。
 あっという間に肉薄したゼルトザームロストが拳を繰り出す。
 飛鳥はわずかに身を捻ってそれをかわし、彼の腕をつかんで放り投げてやろうと手を伸ばしたが、その手もまたあっさりとかわされてしまった。
「もう油断はしない。お前はどうやら、侮っていい相手ではないようだ」
「……出来れば、もう少し侮っていて欲しかったが」
「それは残念だったな」
 仮にも暗殺稼業を営んでいるだけあって、素手であってもゼルトザームロストの攻撃は侮れなかった。否、むしろ、剣を手にしている時よりも、彼の攻撃には生彩があった。
 いきいきしているといった方がいいかもしれない。
 上段から首を狙って振り落とされた脚、大振りなのにやたら速度のある蹴撃を二の腕で止め、腕力のみで弾き飛ばしてから追い縋る。蹴り飛ばしてやろうと思ったのだが、刺客はあっさりと体勢を立て直してしまい、飛鳥はたたらを踏んで立ち止まった。
 思い切り踏みにじってやった指の痛みも感じていない風で、ひどく楽しげに身構えている。
 どうやらこの男、本来は剣より拳を用いた戦闘の方が得意なようだ。無論剣の腕も相当なものだったが、肉体を駆使した接近戦時のキレは、段平を揮っていた先ほどと比べると段違いだった。
 本来は、暗殺などという後ろ暗い稼業より、拳と拳で語り合う単純な喧嘩の方が性に合っているのだろう。
 それなら、剣を持って飛鳥に遅れを取るのも頷ける。
 飛鳥もまた、刃物や飛び道具を持った人間を、素手で相手にすることに長けているからだ。いかなるものでも、状況に応じて的確に使い、反撃することを得意としているからだ。
 そう生み出され、そう育てられたのだから、当然といえば当然なのだが。
 剣を凌駕する飛鳥の存在は、彼には寝耳に水だったに違いない。
 しかし、今のゼルトザームロストにはもう、飛鳥を無力で無謀なだけの子どもと見る意識はないだろう。無論、あれだけひどい目に遭ってまだただの子どもと見るようでも困るが。
 少しでも有利な状況を作りたい飛鳥としては、もう少し油断していて欲しかったのだが、仕方がない。
「お前、年は幾つだ。成人はしていないだろう」
「この国の成人年齢が何歳なのか知らん」
「リィンクローヴァのような豊かな国であれば、十八歳から二十歳といったところだろうな。子どもも労働力に数えられるような貧しい国や地域なら十五、六歳か」
「貧しい地域だったらとっくに成人だな。十七歳だ。それがどうした」
「俺は三十八歳だ」
「……お前の年を聞いても嬉しくも何ともないんだが」
「三十年以上の時間を鍛錬に費やしてきた俺に、半分も生きていないお前が容易く並ぶか。世界、運命とは平等ではないのだな」
「そりゃ、すまん。天才で悪かったな」
「いや、なに……そういうのも面白くて、いい。それに俺は、幸いにも、ひとりではないからな」
 含みのある言葉と表情に、飛鳥は眉をひそめた。
 ゼルトザームロストが、いたずらっぽく笑う。そういう様子を鑑みるに、どこにでもいる普通のおっさんにしか見えない。公園のベンチで日向ぼっこをしていても違和感はないだろう。
 しかし油断出来ないことに変わりはなく、ゼルトザームロストを凝視していた飛鳥の目の前で、不意に彼が口を開いた。
 そして一言、
「シザム」
 刺客がそう呼んだ瞬間……飛鳥が何のことだと訝しむよりも早く、身体を凄まじい衝撃が襲い、飛鳥はなすすべもなく吹き飛ばされていた。
「っな……ッ!?」
 音にしてみれば「がつん」、だろうか。
 咄嗟に衝撃の方向に向かって飛び、更にほぼ無意識に腕でガードしたものの、そのガードも及ばぬほどの力で右半身を強打され、五メートル十メートルを軽々と吹き飛ばされて、大木の幹に激突する。
 受身を取る暇もなかった。
 背中と堅い太い木の幹で嬉しくもない逢瀬を交わし、ずるずると地面に滑り落ちて飛鳥は呻いた。衝撃を与えられて枝を揺らした木が、大粒の水滴を飛鳥へと注ぐ。
 情けない気分だったが、その冷たさのお陰ですぐに我に返れたのだから感謝すべきだろう。
「……くそ、今のは、効いた……」
 衝撃の正体にはすぐ見当がついた。
 飛竜シザムのしっぽだ。
 少しずつ……飛鳥が感づけないほどゆっくりと彼に近づいていたシザムが、鞭のようにしならせた太い尾で飛鳥を一撃したのだ。竜という生き物の尾がすべてそうなのかどうかは知らないが、シザムの尾はそれだけで七、八メートルの長さがあり、それが自在に――木々の間をぬって襲ってくるとなると、ちょっとした飛び道具以上の脅威だった。
 今の一撃も、飛鳥が頑丈でなかったら、そして辛うじてではあるがガードしていなかったら、骨の二本や三本どころか、身体そのものが軽く砕けていただろう。
 眩暈を起こしそうな衝撃と、行き過ぎた打撲を思わせる痛みの中、それでも、肉体的な苦痛には慣れてしまっている飛鳥は、そこで挫けることも屈することもなく立ち上がり、ゼルトザームロストの出方を伺う。
 刺客の男は、飛鳥が立ち上がるのを待っていたようだった。
 彼から攻撃を仕掛けてはこなかった。
 どういうつもりだと眉をひそめた飛鳥は、己の視界の端、ゼルトザームロストの右後方に濃い灰色の巨大な塊がわだかまっていることに気づいて唇を引き結んだ。
 ――――知らぬ間に、シザムが姿を現していた。
 白く光る牙がのぞく口が、笑みをかたちづくった。
 ……ような、気がした。
 次の瞬間、ゼルトザームロストの脇をかするようにして地を蹴り、初速で時速80キロメートルの巨体が、身を低くした姿勢で飛鳥目指して突進してくる。あれを素直に喰らえば、間違いなく、原型を留めぬ姿で木の幹に張り付くことになるだろう。
 だが、もうすでにその速度に慣れつつあったうえ、この竜が自分を殺そうとはしていないことにも気づいていた飛鳥は、シザムの巨体が目前に迫るに任せ、飛鳥など一飲みに出来そうな巨大な口が自分のおよそ二メートル付近に近づくに至って、竜の頭部に向かって思い切り跳躍した。
 シザムは、まるで計ったかのように正確に飛鳥の一メートル手前で急停車ならぬ急停竜し、その口を檻代わりとばかりに大きく開くと、たった今まで飛鳥が立っていた場所に喰らいつこうとしたが、
「……さすがに、その牙で噛まれたら痛そうだ」
 飛鳥はシザムの鼻面を踏んづけ、蹴飛ばすようにして頭に上ると、さっとその背へ飛び降り、平坦とは言い難い背中を一直線に走って、こちらの様子を観察しているゼルトザームロストめがけて跳躍した。跳んだ瞬間、脇腹の辺りが引き攣れて激しく痛んだが、それどころではないと無視する。
 牙と牙が打ち合わされる硬質的な音を背後に聞きつつ、刺客の傍に着地し、間髪を入れずに彼へ打ちかかる。
 ゼルトザームロストは、楽しげにそれに応じた。
 骨折していない左拳と、左右の脚を自在に使って、飛鳥の攻撃を避けつつ反撃してくる。が、避けて仕掛けるばかりでどうにも当たらない。
 お互い、攻撃はすれども当たらず、の状況を一分ばかり続けたところで、飛鳥の背後をシザムの尾が襲う。引いてゆく尾に足を引っ掛けられそうになり、その場から飛び退いたところで、更にゼルトザームロストの、空気を裂くような蹴撃が来る。
「油断大敵だぞ」
「……判ってるさ」
 その蹴撃を後方に飛んで避けたところで、ゼルトザームロストが動きを止め、シザムを手招きした。そして、身軽に歩み寄った竜が身をかがめると、その広くて堅い背に飛び乗り、首の辺りに腰を落ち着ける。
 飛鳥は眉をひそめて彼を見上げた。
 なかなか勝負がつかないので、そろそろ面倒臭くなり、撤収する気になったのだろうか、などと、期待半分で思う。
 ここで彼を逃がしては飛鳥の面目丸潰れではあるのだが、正直な話、このまま不毛な戦いを続けていても仕方がない、という意識が大きくなっているのも確かだ。それに、このまま時間が経てば経つほど、飛鳥はどんどん不利になってゆく。
 飛鳥とて、無尽蔵の体力を持つわけではない。
 先刻シザムの尾に一撃された身体の痛みが、飛鳥から少しずつ力を奪っているのもまた事実だった。特に、右脇腹と、右腕の関節が強く痛む。
「どうした、終わりか」
 飛鳥の問いに、ゼルトザームロストはかすかに笑い、それから飛鳥の背後を指し示す仕草をして、
「お前がな。……やっと追い詰めた」
 そう、楽しげに言った。
 何がだと問い返しかけ、背後の水音に気づいて、飛鳥は自分が誘い込まれた、もしくは追い込まれたことを理解する。彼の背後、わずかに一メートル後方では、幅にして五十メートルの濁った流れがゴウゴウと音を立てていた。
 両隣を見れば、ひどく隠れにくい、樹齢三十年以下の細い木ばかりがひしめく場所に誘い込まれたことが判る。これでは、飛んで追い縋ってくる竜をかわすことは難しい。
 濁流の立てる音も聞こえないほど、追い詰められている、追い込まれていることにすら気づけないほど必死だったのか、と、おかしいような気分にさせられる。
 故郷において、飛鳥と真実競い得る者は驚くほど少なく、こんな危機を経験するのも久しぶりだ。きっとこの世界には、飛鳥では倒すどころか並ぶことすら難しいような手練れや、優秀な者たちがひしめいているのだろう。
 なんて厄介で豊かな世界だ、と胸中につぶやき、飛鳥はひとつ、大きな――複雑な溜め息をついた。
 案外呆気ない幕切れだったな、と、自嘲気味に思う。
 逃げ場なしの状況に追い込まれてもなお、未だに緊迫感が足りないのも敗因のひとつかもしれない。
「俺とシザムを相手にそこまで戦ったことは感嘆に価するぞ。心配せずとも、向こうでは客人としてもてなしてやる」
「そりゃ、どうも」
「さて、では行くとするか。逃げられては困るから、シザム、お前の脚で運んでもらうことにしよう。なるべく優しく頼むぞ、まぁ、小骨の二本や三本は仕方ないが」
「……小骨の二三本折れてる時点で『優しく』じゃないだろ、それ……」
 自分の負けなのだから勝者に対して文句の言いようもないのだが、突っ込まずにはいられず、飛鳥はぼそりとした声でこぼす。ゲマインデがどこにある何なのか知らないが、こんな大雑把な連中ばかりがひしめいているとしたら、ちょっと先行き不安かもしれない。
 そんな飛鳥の胸中も知らぬげに、ゼルトザームロストを背に乗せたシザムがふわりと空へ舞い上がった。あの巨体がこれほど軽やかに、まるで重さなど存在しないかのように飛べるのはどうしてなのか、それどころではないのに不思議に思う。
 そして、こんな時ではあるのだが、月光に輝く竜の姿は美しかった。
 深い濃い灰色の鱗が、月光を反射してきらきらと煌いている。
 飛鳥は思わずそれに見惚れ、わずかに羽ばたいたシザムが徐々に自分に近づいてくるのを見上げていた。
 ――――身体の痛みが強くなってゆくのが判る。骨にひびが入っている可能性が高い。ひびですんだ自分を褒めてやりたいところだが。
 それとともに、また、心の奥で、飛鳥自身の一部が囁く。

 ――今、この時こそ、目覚めに相応しい。

 ざわざわざわっ、と、風が木々の枝を吹き散らかした。

 ――さあ、決断を。運命の甘受を。

 痛みと、疲労ともだるさとも取れぬものが、飛鳥の意識を侵食する。
 囁く声に主導権を持って行かれそうになる。
 先刻、この森へ踏み込んだときとはうって変わって、俺はこんなに弱かっただろうか、と、自分自身のちぐはぐさに飛鳥が眉をひそめたとき、それは聞こえた。
 静かで流麗な、歌ならぬ謳は、流れるようによどみなく、美しく紡がれていた。

【かく生まれよ、かく充ちよ、舞のごとくに。其は天意、其は神威、怒れる紅、華なる咆哮なり。王なる火、神なる緋、降りて謳え、赤の饗宴】

 声には聞き覚えがあった。
 あった、どころの話ではなかった。
 しかし、それらを別にして、言葉の意味を理解するより先に飛鳥が感じたのは、不思議な……不可解で神聖な、そして強大な『力』の波動と、その揺らめきだった。
 ――何かが、現れる。
 何の根拠もなく、しかし確信めいた予感が飛鳥の脳裏をかすめた瞬間、暗い森の一角で、鮮やかな真紅が弾けた。
 音もなく、まるで舞うように。
 それがゆらりと舞うたびに、真紅の中には白やオレンジや紫が混じり、夜空を幻想的に彩った。
 不思議なことに炎は森を焦がすことなく、優美に――どことなくなまめかしくその鮮やかなカラダをくねらせると、鳥か魚を髣髴とさせる姿となったのち、一気に空中の竜と刺客へと襲いかかった。
 ゼルトザームロストが舌打ちをする音が聞こえた。
「まったく、せっかくのいいところで。しかも神霊魔法とは、たちの悪い」
 こぼしたゼルトザームロストがシザムを促す。
 飛竜は一声咆哮し、炎を回避しようと羽ばたいたが、それの到達のほうがいくらか速かった。
 真紅の、華とも鳥とも魚とも取れぬ『何か』は、夜空を明るくしながらシザムに迫ると、竜のしっぽや脚を舐めるようにして撫で、きらきらとした強靭な鱗にいくつもの焦げ跡を残した。
 さすがに熱かったか、痛かったのだろう、シザムの、忌々しげな咆哮が空気を震わせる。
「……邪魔が入ったな」
 ゼルトザームロストは、残念そうに……そして炎に畏敬の視線を向けながらも竜の首筋をあやすように叩くと、その意識と動きとを巧みにコントロールし、竜を更に高くへと羽ばたかせた。
 炎はしばらく竜のしっぽに喰らいつこうとでも言うように、どこか無念そうに揺らめいていたが、やがてゆっくりと夜空に解けて消えて行った。あまり長い時間顕現してはいられないのだろう。
 完全に炎が消えたのを確認したのち、ゼルトザームロストが飛鳥を見下ろす。
「残念だが、今日はここまでのようだ。だが、また、そう遠くない日に参上するだろう。それまでに準備をしておけ」
「……いいから、とっとと帰れ。出来ればもう来るな」
「なんとも薄情な返答だな。だが、まぁ、いい。面白いものを見つけたことに変わりはない。また、来よう」
 そう、飛鳥の都合や気持ちなどまったく無視して言い、
「ああ、可哀相にシザム、早く帰って手当てをしよう。そして、また、来よう。お前も、楽しかっただろう?」
 更に言うと、笑って、シザムの首筋を撫でた。
 竜が一声吼える。
 それが肯定だったのか否定だったのかは、飛鳥には判らない。
 だが、勇壮にして優美な翼を力強くはためかせ、身を翻そうとしたシザムが、ほんの一瞬飛鳥を見下ろし、楽しげに目を細めて見せたような気がしたのは、確かだ。
「ではな、アスカ・ユキシロ。その名、忘れんぞ」
 スペアでも持っているのか、懐から黒い頭巾を出して被ったゼルトザームロストが捨て台詞さながらに言うと、もう一声鳴いたシザムが更に強く羽ばたき、撃ち放たれた弾丸のように夜空を駆けて行った。
 流れ星が地上目指して落下していくかのようなスピードだった。
「……可能なら、速やかに忘れてくれ。何で俺はこんなに疲れなきゃいけないんだ……?」
 星の光を反射した鱗がきらりと輝いたのを見送って、飛鳥はぼそりとつぶやいた。
 当初の目的は果たせなかったうえ、ひどいダメージまで与えられて、踏んだり蹴ったりというヤツだったが、竜という生き物を観た所為か、それほど悔しくもないし、がっかりもしなかった。
 あれが相手では仕方ない、という、故郷にいたときはあり得ないような諦観かもしれない。
「う、なんか急に痛みが……」
 慣れてはいても、誰だって望んで怪我などしたいはずもなく、徐々にひどくなる痛みに愚痴った飛鳥は、そこであの不思議な炎の紡ぎ手を思い出し、森の一角に向かって声をかけた。
 ――あの、奇妙に力強い、畏怖の念すら覚える言葉を紡いだ声が誰なのか、問われるまでもなく判っている。
 それは、この十数日で嫌というほど聞いた声。
 嫌というほど聞きながら、誰のものより心地よく、そして慕わしいと思える声だ。
 弾むように闊達で、それでいて今までに聞いたこともないほどに美しい、姿かたちをそのまま音にしたようなその声の主の名を、口にする。
「――――レイ。そこにいるんだろ? 出て来いよ」
 聞きたいこと、疑問に思うことは多々あったが、まずは、声の主が姿を現すのを待つ。
 ――すぐに、草むらをかき分ける音が、した。
 月光を弾くように輝く、白銀の髪が目に入る。