「……楽しかったな。なあ、シザム」
 黒覆面の男が言うと、濃灰色の鱗を月光に煌かせた飛竜がグゥと鳴く。
 血の色をした鮮やかな双眸を、人間臭く細めて。
 飛竜は、大きさからして三百歳前後といったところだろうか。成体となってまだ間のない、若い個体のようだった。
 身体の一部に黒い痕があるのは、先ほど空を舞ったあの神なる火に焦がされた所為だろうか。ただし、竜自身は、その焦げ痕を気にしている様子もなかったが。
 何せ竜とは、人間など及びもつかぬ長命さ、頑健さを持つ、世界最大規模の生物なのだ。恐らく、その焦げ痕も、じきに治ってしまうだろう。
 竜族の中では中位に属する飛竜で、千年もの寿命と、武装した人間が百人以上でいちどきに襲いかかってもびくともしないという丈夫な身体を持つのだから、高位に属する竜族がどれだけの強大な力と長い命を持つのか自ずと知れようというものだ。
 飛竜の中でいえば、シザムと呼ばれた竜は比較的細身で、鋭角的に整った姿をしていた。恐らくは雌体だろう。
 それが、蝙蝠の翼と鳥の翼、そして魚のひれを混ぜ合わせて創ったかのような、幻想的で巨大な翼をゆったりとはためかせ、鱗を煌かせながら夜空に舞う様は、先刻までの騒ぎなど嘘だったかのように静かで、美しかった。
 再度甘えるような声で飛竜が鳴くと、黒覆面の男がかすかに笑った。
「ああ……また来よう。アズの手前、嫌々受けた仕事だったが……今にして思えば受けておいてよかった。こんな面白い出会いも、世の中にはあるんだな。ああ、まったく今日はいい日だ」
 そう、楽しげに言って、男は飛竜の首筋を叩いた。
 その合図に、グゥとまた鳴いた飛竜が翼を大きくはためかせ、更に上空へと舞い上がる。翼が夜空をかき混ぜると、ゴウと音を立てて風が鳴き、木々の先端を激しく躍らせた。
 相当な勢いでの上昇だったが、飛竜の背の男はわずかにもよろめくことはなかった。まったくの自然体で、なんの気負いもなく、軽々と竜の背に腰かけている。
 手綱も鞍もなしに竜を乗りこなせる人間など、そうそう世の中にはいない。ましてや男が親しげに声をかける竜は飛竜、本来なら簡単にヒトに慣れる種族ではないのだ。
 黒覆面の男の飛び抜けたバランス感覚と、長い時間をかけて積み上げられてきた修練を思わせる一場面だった。間違いなく、大きな力を持った一団に属する名のある者だろう。
「…………」
 竜と男とが夜空の向こう側に消えてゆくのを見送って、彼はひとつ息を吐いた。殺意も敵意も放たぬままに、ただ条件反射のようにかけていた剣の柄から手を離す。
 ――決して斃せない相手ではなかった。
 手練れの名をほしいままにする彼にとっては。
 むしろ、普段の彼を知るものが今の彼を観れば、何故黙って見送るのかと訝しく思ったことだろう。
 しかし、彼には目論見があったのだ。
 このリィンクローヴァという国と、彼が愛する――守るべき、唯一絶対の存在の、幸いと命運がかかっているとすら言える計画が。
 無論男と男の属する一団は、目論見のひとつ、計画の一端に関わるものでしかなかったが、それでも、立ち去ったあの男とその仲間たちは、そうとは気づかぬままに、彼にとっての便利な駒となってくれることだろう。
 ここで男を斃し、一件落着としてしまっては、何も意味がない。
 だからこそ彼は、先刻の騒ぎを見守りつつ、男を見送るに留めたのだが、武の道に生きる者として、わずかなりと剣を交えてみたい、己の力量を試してみたいという意識があったのもまた事実だった。
 もう一度小さく息を吐いた彼が、男と竜の姿が空の彼方に消えたのを見計らい、帰城するべく身を翻そうとしたとき、
「――――追われないのですね」
 男声とも女声とも取れぬ、いつまでも聞いていたいような美しい声が、彼の耳を静かに打った。
「……あなたか」
 彼は苦笑して、いつの間にか隣に立った、小柄で華奢な人物を見下ろす。
 気配がなかったことには驚かない。
「はい、閣下」
「いつもながらの神出鬼没ぶりだな」
 彼が苦笑して言うと、静かな笑みが返った。
 心に構えのないものなら魂まで蕩かされるような、男女の別なく虜にしてしまうだろう笑みだった。
 きつく抱き締めれば折れてしまいそうな華奢な身体と、繊細で蠱惑的な美貌を持った、性別を間違えられそうなこの人物を、初対面でれっきとした男性だと見抜ける人間は多くない。
 かくいう彼も、最初は驚いた口だ。
 このように華奢で美しい人物が、連綿と受け継がれてきた、偉大な……そしてひどい重圧を伴うあの称号を、背負いまた守ってゆくことが出来るのかと、始めの頃は疑いもした。
 ――しかし今では、この協力者とも共犯者とも言うべき青年の、男とか女という概念を通り越した強さと覚悟とを、実感を持って理解していた。
 そう、青年もまた彼と同じく、唯一絶対の存在のために、自分自身の持てるすべてを差し出し、自分の命の最後のひとかけらまで削って悔いることはないのだ。
「何か……企みが、おありのようですね?」
 青年の言に、彼は微苦笑した。
「さて、どうだろう。だが……そういうあなたとて、何故、あれを討たなかった? あなたの力を持ってすれば、決して不可能では、ないだろう?」
「手を下そうと思いつく前に、かの神炎を観てしまいましたから」
「……ああ、それは、そうだ」
「あの方たちならば、心配は要らないでしょう。――それに」
「それに?」
 問いに問いで返した彼に、青年は鮮やかな色の目を細め、莞爾とした笑みを薔薇の花びらのような唇に咲かせた。
「それに、あの程度の場面を、わたしの助力なしに切り抜けられないようで、これから先、いったいどうします。彼の行く道は、これからどんどん厳しく、険しくなってゆきますのに。……そうは思われませんか、閣下」
「ふむ……ああ、そうだな。この程度の試練を乗り越えられぬ輩に、すべての……あの方の命運を預けるわけには行かん」
「ええ、そうですね。もっとも、彼もまた貴き者、そうそう容易く我らの期待を裏切ることはないでしょうが。けれど万が一、もしも彼の力量が足りないようなら、彼に、我らの願う通りの道が描けぬようなら、そのときはどうしましょう?」
 どこか楽しげな青年の言葉に、彼はわずかに苦笑した。
 むしろそれを望んですらいるような、まるで混乱と喧騒を楽しむような青年の姿勢は、何も今に始まったことではないが、しかし、この、表面上は華奢で儚げな――それでいて理知的で自律的な青年が、実は危険や混沌を愛する要注意人物だということを知っているのは彼くらいのものだろう。
 何にせよ、青年のその懸念は、彼が捨て切れずにいるものと同じだった。
 現在ふたりが共通して興味を傾ける人物が、彼が唯一絶対の守るべきものとして位置づける存在の救い主たり得る者なのかを、彼らはこれから見極めなくてはならないのだ。
 そして、なり得ぬとの判断がくだされてしまえば、今は興味という名をしている感情はきっと、あっさり無関心へと変わってしまうだろう。殺意などという生々しい――重い感情を含まない、ただ不要物を始末するという軽い結論とともに。
「無論、そのときはこの手で始末をつけよう」
 彼がきっぱりと言うと、青年は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。
「ああ、閣下ならば、そう仰ると思いました。やはり、わたしが見込んだお方です」
「……そう買い被ってもらっても困るが、な」
「そうご謙遜なさらずに」
 青年が、まるで少女のような軽やかさでくすくすと笑う。
 彼は肩をすくめて見せ、それから、
「どちらにしても、今日のこれは突発的だったな」
 青年に聞かせるためというよりは、自分に確認するためにつぶやく。
 青年が小さく首をかしげた。
「では、閣下は関知しておられない?」
「当然だ。無関係の人間を巻き込むような不粋をやらかすところから見て、間違いなく連中の仕業だな」
「それは、確かに。もう少し美しいやり方があったでしょうに」
「あまりに安直で無意味だろう、あの状況下で襲撃事件を起こすなど。まったく……人の仕事を安易に増やしてくれる。大体にして、そもそも、連中が馬鹿げた考えを起こさなければ、こんな苦労はせずにすんだものを」
 彼が、もう十年ばかり前から何度も繰り返してつぶやいている気がする愚痴をこぼすと、青年はやんわりと笑った。
「仕方ありませんよ。願いの位置が違えば、足並みをそろえて、とは参りますまい。それに、彼らが彼らの欲望に忠実だからこそ、そしてその欲望に目先を眩ませられていてくれるからこそ、我らにも付け入る隙があるのですしね。それに、もうひとつ」
「もうひとつ?」
 そこで切られた青年の声に、いたずらっぽい色彩を認めて、彼は首をかしげる。半ばその答えを予想しながらも。
「あまりに簡単にことが運んでは、ちっとも面白くありませんでしょう?」
「…………違いない」
 案の定と言うべき、青年の自分に正直な言葉に、青年ほど享楽的にはなれていない彼はまた苦笑する。
 ――これを、裏切りだろうとは思うのだ、彼も。
 彼の大切な……彼自身の命よりも大切なあの人は、彼が今していることを知ったら、きっと、その鮮やかな色をした美しい目に驚愕の色を載せ、そして、どうしてこんなことを、と、憎しみをこめて叫ぶだろう。
 きっと彼は許されないだろう。あの人にも、民にも、世界にも。
 いずれは、リィンクローヴァを守護する黒き双ツなる神々によって、恐るべき罰が下されるのだろう。
 それでも、今更、立ち止まれるわけがなかった。
 彼の命は、彼のためにあるわけではなかった。彼の命の意味は、ただひとつの、喪いがたい存在のために生きることだけにあった。
 無論、彼自身、どうしてこんなことに、と何度も自問自答していることもまた、事実なのだが。
「……閣下?」
「いや、なんでもない。恐らく今頃は、連中も足りない頭をつき合わせて策でも練っていることだろう。少し、顔を出してくる」
「そうですか。ではわたしは戻ります。……話を聞きたいですから」
「判った。それではな」
「はい、閣下。お気をつけて」
「……ああ、判っている」
 短く別れの言葉を交わし、彼は踵を返した。
 青年が何事か、謳のような言葉を口にするのが背中越しに聞こえたが、振り返りはしなかった。いつものことでもあるからだ。
「……」
 王国よりも旧い歴史を持つ森を、迷うでもなくまっすぐ出口へ向けて歩きながら、彼は、自問自答と、それにも増して強い決意とを、心の奥深くに繰り返していた。
「……構わない。これが、どうしようもない裏切りであろうとも」
 独語が低くこぼれ落ちる。
「あなたが生きるのならば、それで」
 憎まれることも、罵られることも、今更恐れはしない。
 連中さえもっと真っ当な考え方をしていてくれたらとか、何のたくらみも腹に抱かず屈託なく生きられたらとか、平凡な幸いを望んでみたかったとか、ただあの人の傍らでその背中を守っていたかったとか、根本的な部分で色々な願いを抱くことを、彼はとうにやめていた。
 連中の考えが変わらなかったからこそ、彼はこの道を行くことを決めたのだし、行くべき道が決まったのなら、平穏無事な生活や幸いなど、願うことすらおこがましいというものだ。
 もはや、彼は決意してしまっているのだ。
 最愛の存在の未来のために、最愛の存在を裏切ることを。
 その結果彼を訪れるものが死だったとしても、反逆者の名を着せられ、表舞台から抹消されようとも。なすすべもなく喪う恐怖に比べたら、それが一体何だと言うのか。
「――――そのために、利用させてもらうぞ、黒の申し子」
 ぽつり、と、言葉が漏れる。
 万感の思いを込めて。
 怨嗟のようですらあるその呟きを、旧い古い森の木々と、白々と輝く月だけが聞いていた。