7.まちの色彩、セカイの鼓動

 薄暗い部屋だった。
 ――薄暗いが、しかし、明らかに金がかかっていると判る数々の調度品で満たされた広い部屋だった。
 完璧な細工と彩色とを施された美しい調度のひとつひとつが、市井に生きる平凡な民の何年、何十年分の営みを賄える程度の金額を思わせる、風格と豪奢さとを備えている。
 部屋そのものが、重ねてきた歴史の重さを如実に物語る、重厚で荘厳な部屋だった。
 ようよう他者の顔が判別できる暗さに調節されたそこには、十数余の人影がある。人影のどれもが、高い地位を示す衣装を身にまとい、己が存在の貴さ偉大さを誇示している。
 部屋は彼らの交わす囁きで満たされていた。
 彼らの傍らには、彼らの気に入りの――そして彼らの秘密とたくらみとを共有するに足ると判断された忠実で優秀な侍従たちが、まるで彫像のような静謐さで控えている。
 そう、この場において彼らは同志だった。
 心は……その向かう先は、望みの行く先は多少違えども、最終的に目指す場所は同じだった。だからこそ彼らはここに集い、決して平坦ではないだろう『これから』を話し合うのだ。
 確実な答えなど出ないと理解しつつも。
 さわさわと、さざなみを髣髴とさせるざわめきが寄せては返す部屋の中で、際立つのは壮年の男の声だ。低く厳しいが、他者の心臓を鷲掴みにして離さないような、蠱惑的な声だった。
「――混沌の徒は退けられたようだな」
 彼の言に、いくつかの同意の声が上がる。
 男は小さく頷いた。
 同意の声に自尊心が満足したというよりは、当然の事柄を確認したような仕草だった。
 男は、見事に均整の取れた長身と、厳しさと同等の高貴さと、丹念に練られた武人の気配とを持っていた。事実、この座の中では、――そして、この国の中では、一二を争う貴い血筋の持ち主だった。
「やはりあれは、黒の申し子か」
 赤葡萄酒に満たされた銀杯を手に、男が独白めいた言葉をこぼすと、別の影が声を発した。
 同意を伴って。
「疑う余地はないでしょう、《眼》によると飛竜と対等に戦ったそうですから。しかし、見事に失敗しましたね。弟君におかれましては、ずいぶんと性急にことを運ばれたのですね」
 軽く肩をすくめる仕草をする。こちらもまた長身だったが、彼はまだ若く、その声はどこか甘い。
 青年の言葉に、壮年の男が苦々しげな顔をした。
 苦い吐息とともに、疲労すら混じった声を押し出す。
「……あの痴れ者のことは言うな。私とて今日のことは予想外の出来事だ。まったく、あの愚か者め……己が私怨のためにあのような愚行、すべてのはかりごとをことごとく無に帰すつもりか」
「兄君も大変ですね」
「皮肉か、それは」
「いいえ、とんでもない。僕はただ、卿の苦労を慮っただけですよ」
「……それを皮肉と言うのだ」
 どこまでも飄々とした青年の台詞に、男がまた顔をゆがめる。
 男は大層優秀な人間であり、彼は間違いなくこの国の中枢を担う重要な一員だったが、男の身内にはそうでないものもいる。己が優秀であればあるほど、身内の愚行は苦く感じるものだ。
 男の眉間に厳しい皺が寄ったのも当然と言えた。
 青年が苦笑とともに男を見る。
 しかし、そこへかかった静かな声、
「話が弾んでおるようだな」
 四十代半ばの男よりも更に年を経た、老境へ差しかかりつつある男性の声に、男と青年は表情を改め、背筋を伸ばす。
「……忠央(ちゅうおう)家の。来ておられたか」
 そこに、鈍色の髪をした老人の姿を認め、男はわずかに唇をほころばせた。安堵のようにも取れる緩い微苦笑だった。
 そろそろ七十代に手も届こうかという老人、しかし若い頃は相当な美男であり手練れでもあったであろうことを今でも如実に物語る男は、彼と同じくこの集い内で一二を争う血筋の持ち主であり、貴く重い責務を今なお負い続ける人物でもあった。
 男にとって老人は、尊敬する先達であるのと同時に、もっとも――問題ばかり引き起こして彼の苦労を倍増させる愚かな身内よりもなお――信のおける同胞だった。
 もしもひとりであったなら、そして老人と運命的な邂逅を果たしていなかったら、彼はこのように、大それたはかりごとを実行に移そうなどという気持ちにはなれなかったかもしれない。
 男は、老人が隣の肘掛け椅子に腰かけるのを待って、侍従に赤葡萄酒を持って来させる。
「何やら騒がしいようだったのでな」
「ああ……ご足労、かたじけない」
「一体何があった? 屋敷に引っ込んでおると、どうも世の動きに疎くなってしまうようでな」
「重ね重ね申し訳ない。どうも、愚弟が先走ったようなのだ。混沌の徒をふたり動かし、襲撃させたらしい」
「なにゆえ?」
「忠央の、卿は黒の申し子のことはお聞き及びか」
「おお、聞いた聞いた。百年に一度の椿事よな、これでアインマールも少しは穏やかになろう、我らの邪魔をせぬ限りは。……もっとも、観に行くのも億劫で、《眼》の報告を聞いただけだなのが」
「それに一泡吹かされたらしいのだ」
「ほう」
「もともと、ゲミュートリヒに放っていた《眼》の報告を聞く限り、このまま生かし続けることは不可能だと思ってはいたが、あまり性急に動くこともまた危険だろう」
「うむ、それはその通りだ」
「それをあの馬鹿が! ……失礼、愚弟がだ。帰るなり何やら騒いでいると思えば、ゲマインデの連中を呼びつけて、私の許可もないまま命を下したらしい。それで成功していればまだしも、あの方とも鉢合わせた挙げ句ふたりとも無事と来た。あの方にせよ黒の申し子にせよ、油断していい相手ではないのだ、余計な情報を与えてしまった可能性が高い」
「なるほど。卿の怒りも判る」
「……忠央の。私が動きやすいようにとあれに当主を任せたは軽率だったやも知れぬ」
「言うな、璽預(じよ)の。卿にはここを取りまとめてもらわねば困るのだ、彼とて何も出来ぬ無能者ではなし、巧く折り合いをつけてゆくしかなかろう。それで、あまりにも目に余るようならば、」
「ならば、どうと?」
「ゲマインデの“1”にでも相談すればよかろう」
「ツァオベリン・ヴァララウか。……そうだな、頭に“銀効の針”でも入れてもらうか」
「は、“銀効の針”とはまた、厳しい。実の弟君でもか?」
「実の弟なればこそ、だ。我らの基盤を揺るがす愚か者は璽預家には要らぬ。“針”に品行方正の呪(まじな)いでもかけてもらえば、みすみす我らを窮地に追いやるような真似はすまい。その結果あれの心が壊れてなくなろうとも、そんな瑣事は私の知ったことではない」
 きっぱりと言い捨て、男は銀杯に口をつけた。
 くくくと笑った老人が男にならう。
 斜向かいに腰かけた青年が、ふたりを興味深げに眺めていた。
 それに気づいた老人が、青年に紺碧の目を向ける。
「杖賜(じょうし)の跡取り殿はどう思われる」
「どう、とは?」
「あの、黒の申し子だ。卿はお会いになったのであろう」
「……ああ」
 老人の声に、青年がはしばみ色の目を細めた。白く長い、文官らしい指先を、整った細いおとがいに添え、かすかに首を傾げてみせる。
「あれは、危険ですね」
「ふむ?」
「この様子だと、そう遠くなく敵に回るでしょう。それを考えれば、璽預の弟君の行動も理解できなくもない」
「……知らぬ間に威圧されていたか」
「ええ、多分、忠央の。僕や彼のような、武人でない人間には、あの申し子の魂は強烈過ぎる。あの方と同じくね。己がかき消されそうな恐怖を覚えるのですよ、あの類いの光には。それを無意識に自己防衛しようとした結果だったのかもしれませんよ、くだんの暴走も」
「……ならば、まだ、多少同情の余地はあるのだがな」
「兄君としてはそうでしょうね。それに卿は優秀な戦人であらせられる。剣を扱えぬ者の葛藤はお判りにはなりますまい」
 青年が言うと、男は複雑な溜め息を吐いた。
「愚行の報いは受けねばならぬ。だが……まだ、それと同じく、あれには働いてもらわねばならぬ、か」
「はい、璽預の。我らの目的はまだまだ果たされそうにもないのです、それまで、無駄な浪費は避けねばなりません。そして弟君にはまだたくさんの出来ることがおありです」
「……そうだな」
 男は深々と息を吐き、そして銀杯に口をつけた。
「――――あの方には退位していただかねばならぬ」
「はい」
「我らには戴くべき純血の王があらせられる」
「ええ。穏便な譲位が不可能ならば、いかなる手も打ちましょう」
 男が言葉を紡ぐと、青年が歌うように言葉を重ねた。
 それは、彼らが彼らのたくらみを罪と理解しつつも、それでもそうするしかないのだと、己の正しさを確かめるように、これまで何度も何度も繰り返されてきた言葉だ。
「あの方は賢明だ。よき王だ。人並はずれて優秀で、勇猛で、懸命で、何よりも、誰よりも国を愛しておられる。……それは、判る。あの方を憎むことは、私には出来ぬ」
「そうですね、僕もですよ。あの方ほど美しく、お強く、優秀な王は、もしかしたらこの先二度と現れないかもしれません」
「……そうだな、その通りだ。だが、リィンクローヴァは、純血の王によって統べられるべきだ。否、そうでなくてはならぬ」
「ええ、黒き双ツなる神の加護篤きリィンクローヴァの未来のためにも、血は保たれなくてはなりません」
「――――あの方はもう気づいておられような、お命を狙う者がいることと、王位を脅かす者の存在とを」
「はい」
「それでも、自ら退位はなさるまい」
「ええ」
「ならば……弑し奉るしか、なかろう」
「……はい」
 静かだが揺るぎない断定だった。
 そのために彼らはここへ集い、こうして言葉とはかりごととを重ね、実行に移すべき日をうかがっているのだ。慎重に、しかし迅速に、いかなる手段を用いてでも。
 それが、誰からも愛される王、懸命に責務を果たそうと努める彼への裏切りと知りつつ、彼らは彼らの真実のために、己の道を行くしかないのだ。
「……あの申し子は邪魔だな、やはり」
 老人がつぶやいた。
「あれは恐らく、あの方を守るために遣わされたものだろう」
「いずこから?」
「……天やもしれぬな」
「では僕たちはやはり大罪人だ。天の選んだ王を弑そうというのですから。しかし、それは、厄介ですね」
「そう思うて、ひとつ駒を用意したぞ」
「……駒、ですか?」
「ああ、魔導師を拾うて来た。かの賢者殿とまでは行かぬが、そうそうお目にかからぬ程度には優秀だ。彼ならば、巧みにあの申し子を始末してくれるだろう」
「へえ、卿がそんなに褒められるなんて、珍しいですね。それは期待できそうです。ねえ、璽預の」
「そうだな」
「申し子を始末したあとは、あの方の『退位』を手伝うてもらうもよかろう。何はともあれ、まずはお披露目をしようか。……驚くぞ」
 かすかに笑った老人が、皺深くはあるが力強い両手を軽く打ち合わせる。
「魔導師殿をお呼びしろ。無礼のないよう、丁重にな」
 深く礼をした侍従がその場を辞して数十秒、荘厳な扉を押し開き、華奢なと表現するのが相応しいだろう少年が部屋へ入ってくるや、男は双眸を大きく見開き、青年は感嘆の吐息を漏らして少年を見遣った。
 周囲の人々、同志たちからもその侍従たちからもざわめきが起こる。
 男は苦笑して頷いた。
「……なるほど、椿事だな、こちらもまた」
「本当に。こんなことも、あるものなのですね」
 薄紅色の唇をやわらかな微笑のかたちにした少年が恭しく、そして優雅に一礼する。花がほころぶように優美な仕草だった。
 老人が少年へ老いを思わせぬ鋭く力強い笑みを向け、
「……では頼むぞ、魔導師殿」
 そう言うと、少年もまた笑みを深くして会釈をする。
「お望みのままに」
 その唇から紡がれた声は、姿かたちと同等に甘く美しくはあったが、それと同時に不可解な力と危険とをはらんでいた。
 老人と青年と交互に顔を見合わせて、男は満足げに頷く。
 ――――無論、これからこの国を舞台に繰り広げられる、様々な混沌と混乱とに、心が痛まないわけではなかったけれど。