時間は流れて午後八時を半分ほど過ぎた辺り。
 藍色がかった滑らかな漆黒の空に、金色の月と銀色の星が輝き始めてしばらく経った頃。
 飛鳥は、凄まじい不機嫌オーラを撒き散らしながらホールの片隅に佇んでいた。
 給仕役の侍従たちが怯えるほどの、通りかかって不審げな視線を向けた貴族たちが不自然に目をそらしてそそくさと逃げてゆくほどの、誰かが何かひとつでも不味いことを言えば、一瞬にして激烈な殺意に変わってしまいそうな不機嫌ぶりだった。
「……若」
 しかし、彼の隣で、同じようにホールの壁に寄りかかる姿勢で佇んでいる元ヤクザは、まったく気負うことなく飛鳥に声をかけてくる。図太いのか鈍いのか判然としない。
「なんだ」
 仏頂面で返した飛鳥に、
「何を拗ねてるんだ、若は」
 常日頃とまったく変わりのない調子で金村が問う。
 彼の手には赤葡萄酒が入った銀杯がある。
 ふわりと立ちこめる芳醇な香りは、これが相当な年代ものであり、よい品であることを告げている。
 黒の加護持ちの眷族だからと、黒に近い濃灰色に青を基調としたサーコートとチュニカを身にまとい、腰に儀礼用の細剣を佩いて、赤茶色の髪を小奇麗に整えた金村の姿は何とも言えぬよい男ぶりで、ちょっと日本人には見えないほどこの場所に溶け込んでいる。騎士か武人以外のなにものでもない。
 飛鳥は顔をしかめた。
「拗ねてない」
「だったらその怖い顔をやめて、もう少し殺気を収めてやってくれ、侍従たちどころか圓東まで怖がってる」
「別に、圓東なんざ怖がらせておけばいいだろう。顔が怖いのは生まれつきだ、悪かったな」
「やっぱり拗ねてるんじゃねぇか。もしかしてアレか、着替えさせられたのを怒ってんのか」
「……」
 金村の一言に飛鳥は眉根を寄せた。
 少し離れた場所で、こちらを伺うようにしている圓東の情けない顔が目に入る。こちらは黒に近い濃灰色に茶色を基調としたチュニカを身につけているが、身体つきが貧相な所為で侍従か小姓にしか見えない。
 ……もっとも、似たようなものなのだが。
 朝方の報復行動をまだ根に持っているのか――それともまだ怖がっているのか――、飛鳥と目が合うと素早く目をそらしたり物陰に隠れたりしている。あの挙動不審ぶりでは、柴犬というよりハムスターもしくはハツカネズミだ。
「黙るってことは図星なのか? いいじゃねぇか、そのくらい」
「……俺は自分の意志に反することをさせられるのが一番嫌いだ」
「でも、着なかったらレヴィ陛下が笑われるかもしれねぇってんで着替えたんだろ? 別にいいじゃねぇか、レヴィ陛下のためだって思っておけば」
 ものすごく的確に心境を言い当てられ、飛鳥はますます眉根を寄せたが、金村に言われるとあまり腹はたたない。
「……いや、まぁ、そうなんだが」
 そう、飛鳥の不機嫌の理由は着替えによるものだった。
 一時間ほど前、そろそろ夜会とやらの準備をするかと思っていたところへリーノエンヴェが遣わしたという侍女と侍従の群れに襲われ、ちょっとアジアっぽいいつもの衣装を脱がされて……というかひん剥かれて、明らかに正装もしくは盛装と思しき服を強引に着せられたのだ。
 暴れて逃げることも出来なかったのは、着替え中のほとんどを侍女たちに囲まれていたからだ。
 飛鳥は女権拡張論者でも女性崇拝者でもないし、いざとなれば男も女も関係なく平気で足蹴にするが、ただ純粋に命じられて仕事をしに来た女たちに無体な仕打ちが出来るほど冷酷でもなかった。
 ましてや飛鳥は、このリィンクローヴァという国の人々には、どうも悪感情が抱けずにいるのだ。
 おかげで、恐ろしく金のかかっていそうな衣装、漆黒の絹で造られた、袖と裾の長い、ラインとシルエットの優美な長衣と脚衣とを着せられ、黒貴水晶と呼ばれる漆黒の宝玉を使った佩玉を腰に巻きつけられてしまった。色彩のお陰で派手派手しくならなかったことだけが救いだが、袖がひらひらした頼りない手触りのものだったり、靴がやたら華奢なデザインだったりするのはどうにもいただけない。
 しかし、そこまでならまだこんなにも機嫌を損ねることはなかったのだが、美形ぞろいの上流階級の中へ平均的に過ぎる容姿をさらしては失礼だという配慮なのか、顔になにやら粉をはたかれ、髪を椿油で整えられてしまった辺りから飛鳥の不機嫌ゲージは上向きっ放しだ。
 しかも若い侍女たちは、何が面白いのか知らないが、飛鳥の髪や肌に触れながら、「お肌綺麗」だの「髪サラサラ」だの言ってきゃあきゃあ騒ぐのだ。男の肌や髪が綺麗で何が楽しい、と言っても笑うばかりで答えない。
 そんなこんなで、すっかり機嫌を下降させた状態で夜会へと送り込まれたわけだが、気難しいと自分でも理解している彼が、そうそう簡単に不機嫌モードから回復するわけもなく、侍従や圓東や通りすがりの貴族を怯えさせつつ壁際に張り付いて今に至るわけだ。
 もっとも、同じような目に遭ったであろう金村は、まったく気にしていない様子で飛鳥の隣にいるのだが。
「だいたい、レイはどうしたんだ。来いと言っておいて自分は姿を見せないとか、ありえないだろ」
 ぶつぶつこぼしながら周囲を見渡す。
 そこには、レーヴェリヒトの姿も、その取り巻きというかファンクラブ名誉会員(仮称)たる将軍たちの姿もない。
 黒いすべすべした大理石状のタイルが敷き詰められた、民家が軽く十軒は入りそうな広さのホールでは、百人を超える人々が酒杯を手に談笑していた。しかしそこには、雰囲気や出で立ちから言って下級から中級、もしくは上級の中でも末席と思われる雑多な貴族たちと、そして忙しく立ち働く侍従たちしかいなかった。
 高い高い天井には、シャンデリアとランプの中間のような、内部に蝋燭をともして使う、非常に美しい照明器具がたくさん下がっていて、おかげでホール内はかなり明るい。昼間のようにとまでは行かないものの、常人離れした飛鳥の視力でなくとも端から端までをしっかり見渡せるであろう明るさなのだが、飛鳥の視界の中に目指す人物の姿は入らない。
 飛鳥の言葉に金村がそうだな、と返し、
「まぁアレだ、王様だからきっと着替えに手間取ってるんだろう」
「レイのくせに着替えごときに手間取るとは……というかこの俺を待たせるとは、神をも恐れぬ所業だな。……あとでその着替え後の姿とやらを携帯電話で撮影してやる」
「そうか、それで若の機嫌が直るならいいんじゃねぇか? ああそうだ、俺の携帯電話も貸してやろうか。二台あれば楽しさも倍増だろう」
「ふむ、それは面白そうだ。気が利くじゃないか」
「ん、なに、俺は若のしもべだからな」
「……あー、その、なんだ。正直な話、それはあんまり大々的に口にはしないで欲しいんだが……」
 あまりに晴れやかに言われた所為でちょっぴりいたたまれなくなった飛鳥がぽつりと呟いたとき、不意にホールがざわめいた。歓喜を伴ったざわめきの向こう側に、ひどく感じ慣れた気配がある。
 飛鳥は大仰に溜め息をついた。
「――やっと来たか」
 実は、ほんの少しホッとしているのだが、そんなことをあっけらかんと口に出来るほど彼は素直ではない。
 ホールの入口付近へ目をやると、無駄に整った顔立ちの面々が、夜会会場へと到着したところだった。
 先頭には、陽光に煌く雪原を思わせる白銀の髪を美しく結い上げ、白と青を基調にした優美な長衣を身にまとった国王陛下がいて、はにかんだような笑みを浮かべながら人々の声に応えている。
 その背後には、リーノエンヴェやエーレ、グローエンデを始めとした将軍職改めレーヴェリヒトファンクラブ(仮称)の面々とその連れ合い、それから彼らの親世代と思しきよく似た顔立ちの、壮年の男女が続いている。衣装などから察するに、恐らく、彼らが現大公なのだろう。
 年経てもなお美しいとしか言いようのない、日本では到底お目にかかれないような、彫りの深い優美な顔立ちには驚くばかりだ。
「……何というか」
 そんな中、彼らをじっと見ていた金村が、ぽつりと小さくこぼしたので、
「ん、どうした、金村」
 飛鳥は首をかしげて一回りほど年上の眷族を見上げた。
 見上げられた方はほんのわずかに苦笑し、肩をすくめる。
「いや、こうして見ると、本当に違う世界に来たんだなぁと思う」
「……ああ、確かに。モンゴロイドだネグロイドだコーカソイドだの区分が馬鹿馬鹿しくなる。アジア系とかヨーロッパ系とかで表現出来ないもんな。ここの人種ってのはどうなってるんだろうな?」
「日本的ともアジア的ともヨーロッパ的とも言い得ねぇな、確かに。まァ何にせよ、日本にいたらお目にかかれなかったような美男美女ばっかりだな。何を喰ったらあんな顔になるんだ?」
「いや、食い物だけではならんと思うが……もともとのつくりと、あとは水と土地柄かもな。それと、貴族同士で結婚を繰り返してきた結果なのかもしれん。まあ、心配しなくても金村、あんたも充分男前だ」
「世辞は要らねぇぞ、若」
「別に世辞じゃない」
「……ふむ、そういうもんなのか? 自分の顔なんざ、今まで気にしたこともなかったが」
「ちょっとは気にしろよ」
「なら、これからはそうしよう」
「……そう言ってる時点で全然駄目だな」
 金村は首をかしげていたが、現に、貴族の娘や夫人の視線が、この厳しく鋭い雰囲気を宿した男に注がれていることを飛鳥は理解していた。が、金村本人は欠片ほども気づいていないようだった。
 こうしてみると、金村に特定の女性がいなかったのは、朴念仁というより鈍感に過ぎる所為なのだろう。思いを寄せられていることに気づかなければ、それ以上の関係に発展しようがない。
「アスカ、悪ぃ、遅くなった。身体はもう大丈夫みてぇだな、よかったよかった」
 と、闊達に弾む声が響き、ざわざわとさんざめく人波を掻き分けるようにして、ランプの灯りで銀髪を輝かせたレーヴェリヒトがやってくる。
 飛鳥は肩をすくめてそれに応えた。
 レーヴェリヒトの身体の線に沿って作られたと思しき白と青の長衣は、彼の肉体のすらりとした美しさを際立たせ、またその陽光を思わせる晴れやかな美貌によく似合っていた。裾や袖口の精緻な刺繍や胸元の絹紐飾り、耳朶を飾る銀と黒貴水晶の細工物、腰から下がった紫貴水晶の佩玉などが、一片の隙もちぐはぐさもなく様になっている。
 それもある種のファッションなのか、腰には佩剣していたが、その剣は飛鳥が彼に初めて出会った日、命を救われたそれではなく、装飾性の高い華奢で儀礼的なものだった。文化的時代的に言って模造剣ではなかろうと思うが、それでも頼りない印象を受ける。
 そんなことを考えつつ、飛鳥は仏頂面で口を開く。
「遅いぞ。茸が生えたらどうしてくれる。収穫して無理やり食わせるぞ」
「生やすなよ頼むから。つーか絶対に喰いたくねぇそんな恐ろしいもん。いや、その、なんだ。すまねぇ、ぎりぎりまで軍議が終わらなくてな」
「……だったら無理をして夜会なぞ開かなければいいだろうに」
「あー、俺もそれは思うけどなぁ。夜会は別に俺が主催してるってわけでもねぇし、俺がいなくても問題ねぇんだ。夜会は、基本的には大公家を筆頭とした上級貴族が開催してる社交場だからな」
「そうなのか。じゃあ、国王不在の夜会とかあるのか」
「むしろ、ほとんどがそうだな。こうしてここに足を運んだのもずいぶん久しぶりだ。俺はこういう華やかな場所とかあんまり好きじゃねぇし。なんか、いたたまれねぇっつーか、居心地が悪いっつーか」
「ますます王様らしくないヤツ」
「ほっといてくれ、自覚はしてるよ」
 ざわめくホールの片隅で、向けられる好奇の視線に頓着することなく言葉を交わしていたふたりだったが、侍従か小姓か知らないが、中世的に整った顔立ちの少年が、なみなみと赤葡萄酒の注がれた水晶杯をふたりに差し出し、
「どうぞ、宴の中央へ」
 そう言ってホールの真ん中を指し示した辺りで顔を見合わせた。
 金村がスッと退き、まだこちらを警戒している圓東の元へ引っ込む。邪魔にならないようにとの配慮なのか、巻き込まれてはたまらないという思いからなのかは如何とも判断し難い。
 水晶杯を反射的に受け取って、少年に指し示されるままに中央へ座して歩きながら、飛鳥は恨めしげな声でこぼす。
「よくも俺を見世物に仕立て上げてくれたな。高くつくと思えよ」
 言われたレーヴェリヒトの方も困り顔だ。
「あー、俺だって夜会なんぞ出たかなかったんだけどなー。言っとくけど俺も見世物なんだぞ、ここでは。でも、大公たちが、黒の加護持ちなら是非皆に紹介してくれっつって聴かねぇんだ」
「力の限り突っぱねろよ、そんなもん。お前この国で一番偉いんだろ?」
「突っぱねられたら苦労しねぇっつの。大公家の力は王族だって無視できねぇんだ、こんなことで変に波風立てたくねぇ。それに、」
 そこまで言いかけて、レーヴェリヒトが決まり悪げに口を噤む。
 飛鳥は眉をひそめて続きを促した。
「それに、なんだ? そこで止めるな、気色悪いだろ」
「いや……だから、その」
「だから、何だ。十数えるうちに言わないと、たった今から携帯電話による国王陛下いじめが始まるぞ」
「ううっ、毎回律儀に反応しちまう俺もどうかとは思うがその脅しはやめてくれっ。――いや、だから、せっかく出来た友達だし、皆にも紹介したいなーとか思ったのは事実なんだけどな」
「……子どもか、お前」
「言われると思った……」
 杯を手に、ぼそぼそ喋りながらホールの中央へ進むと、色とりどりの衣装に身を包んだ貴族たちが、ふたりの姿を認めてゆっくりと道を譲ってゆく。徐々に人々はホールの中央を明け渡すように壁際へと移動していった。
 彼らの色とりどりの目には、国王への友愛と珍妙な客人への好奇とが揺れていた。
「レヴィ陛下、視察お疲れ様でした。陛下がここにお出でになるのは久しぶりですわね。何年ぶりかしら?」
 ほどなくホールの中央へ辿り着き、飛鳥はあちこちから寄せられる視線にやさぐれ気分満載で見世物状態を甘受していたが、その隣のレーヴェリヒトの傍には十数人の男女が歩み寄っていた。
 彼らはレーヴェリヒトとともにやって来たか、もしくは道を譲ることなく留まった者たちで、衣装の豪奢さ、顔立ちの美しさ、そして身にまとう雰囲気――よく言えば気高く、悪くいえば倣岸な――から、十大公家のメンバーとそれに近しい家の人々であるらしいと飛鳥は当たりをつける。
 レーヴェリヒトに最初に声をかけたのは、淡い金の巻き毛を結い上げた、情熱的な美貌と肉感的な肢体の持ち主だった。年の頃は三十前後だろうか、顔立ちがはっきりしていて派手なら、出で立ちも真紅のドレスという派手さだったが、エメラルドを髣髴とさせる彼女の目には、思いのほか理知的で穏やかな光が揺れている。
 女の言葉に、レーヴェリヒトが苦笑する。
「何年ぶりまでいかねぇぞ、シャリィ。半年ぶりくらいだ」
「あら、そうでしたかしら。ああそうだわ、半年前は顔をお出しになったと思ったらすぐに帰ってしまわれたのでしたわね。あの時は皆残念がったものですわ。何にせよ、今宵の出席者は幸いですわね、陛下と、貴い黒の加護持ちの双方を目にすることが出来るのですもの。陛下も、加護持ちのあなたも、どうぞゆっくりしていってくださいませね。今宵の宴は我がロヤリテート家が特別に贅を凝らしておりますから」
「どう幸運なのかは判んねぇけど、まぁ、適当に楽しませてもらうさ。ありがとな」
「ではレヴィ陛下、そろそろそちらの少年を我々にもご紹介ください。先ほどから彼が何者なのか知りたくてうずうずしているんですよ」
 次に声をかけたのは、小洒落た口髭を蓄えたこげ茶色の髪の男だ。髭と同色の髪と、浅葱色の目の持ち主で、レーヴェリヒトの衣装と系統の似たデザインの出で立ちは、決して派手ではないが絶妙な色と形式の組み合わせで、伊達者、洒落者といった雰囲気の持ち主だった。ただし、立居振舞から見て、あまり喧嘩は強そうではない。
「ああ……そうだな」
 男の言葉に、レーヴェリヒトがまたはにかんだように笑った。
 照れているらしい。
 飛鳥は肩をすくめたが、胸の奥がくすぐったいような気持ちになっているのは彼も同じだ。
 レーヴェリヒトがホール内を見渡すと、囁くように言葉を交わしていた貴族たちがお喋りを止め、白銀の髪の国王へと視線を集中させた。
 レーヴェリヒトの、視線の中央にあって動じず、ぴんと背筋を伸ばしている様は、ああやはりひとつの国を統べる身なのだ、と思わせる荘厳さを伴っていた。
「皆、しばらくぶりだ。皆が息災なら、俺も嬉しい」
 闊達な美声が、しんと静まりかえったホールに響く。
「早速だが皆に紹介するぜ、彼はアスカ、アスカ・ユキシロ。貴い黒を身に負う稀代の加護持ちにして、異形を一撃で屠る強力の持ち主だ。ゲミュートリヒで出会った友達だ、これからこのアインマールで、リィンクローヴァ国民として生活することになる。色々と判んねぇこともあると思うから、助けてやってくれな」
 言ったレーヴェリヒトが飛鳥の肩を叩き、にっこり笑うと、周囲からまたざわざわという声が上がった。
 肯定半分、否定半分といったところだろうか。
 あからさまに胡散臭い目を向ける者もいれば、飛鳥の漆黒の視線と行き逢って、畏怖のこもった表情をする者もいる。
 飛鳥はうっすら笑って小さく一礼した。
 あちこちから、好意的な視線に紛れるように寄せられる鋭い視線に、異端者はどこでもこんなものだろうと胸中に笑う。
 しかし、敵意や殺意は飛鳥の親しい隣人だ、今更それで怖気づくほどうぶでもないのだ。むしろ、そんなものは彼を楽しませる娯楽的要素のひとつでしかない。
 結局のところ、飛鳥にとって大切なのは、彼自身の決意と選択なのだ。この国で生きると、この青年王の傍で生きると決めた彼が、自分と自分の懐の中にいる存在以外からのくちばしごときに揺らぐはずがなかった。
「そんなわけだ、皆よろしくしてやってくれな」
 再度、念を押すようにレーヴェリヒトが言い、水晶杯を掲げると、釈然としない表情のものも多かったが、誰もが彼に従って同じ動作をした。
「さて、俺の話は仕舞いだ、今宵も楽しんでくれ。平和とリィンクローヴァの繁栄を祈って」
 乾杯、と十大公家のひとりが口ずさみ、参加者たちがそれに唱和する。飛鳥も、一応それに倣った。
 乾杯、の復唱のあと、皆が杯に口をつけて一気に中身を乾す。残念ながら厳しい栄養制限のある飛鳥にはそんな無謀なことは出来なかったが、場の雰囲気そのものはやわらかくなった。
 レーヴェリヒトを取り囲んでいた最上流階級の面々が、ちらほらとあちこちへ抜けてゆく。馴染みのものへ挨拶にでも行ったのだろう。