視線を周囲へ流すと、貴婦人たちのまとう色とりどりの美しい衣装が、花びらのようにふわふわと踊るのがあちこちに見える。鈴を転がすような軽やかな笑い声があちこちから聞こえてくる。
 美しい娘たち、女たちの白い細い指先が、小さくカットされた果物や、甘い菓子や、華奢なグラスをそっとつまんで口元へ運ぶ。
 女性よりは色調の控え目な、けれど明らかに普段着ではないと判る衣装を身にまとった若者たち、紳士と呼ぶにはまだ若すぎる彼らが、同年代の青年同士で固まって談笑している。
 年配の人々は、青年や娘たちを微笑ましく見遣りながら、静かにグラスを傾けている。
 飛鳥はそれらの、おとぎ話じみた光景を見るともなしに見つめつつ、レーヴェリヒトが挨拶にと寄ってきた貴族たちとなにやら談笑しているのを観察していた。
「アスカ」
 そこへ声をかけてきたのは、第五天軍将軍グローエンデ・バイト・シュトゥルムだった。
 濃い青を基調とした長衣、どうやら男性の盛装としてはスタンダードであるらしいデザインのそれに、流麗な絹紐の飾りをつけ、オパールを思わせる宝石を使った佩玉を腰から下げた姿は、ありとあらゆる女を虜にしそうな風情があった。
 装飾用儀礼用の剣がレーヴェリヒトのものより大ぶりなのは、グローエンデが将軍という武属の人間だからだろう。鞘の上からではよく判らないが、少なくとも、この場で戦闘が行える程度には丈夫そうだ。
 レーヴェリヒトが性の生々しさを思わせない、宝石や美しい風景画のような、夢のようなと表現するのが相応しい現実味を超越した顔立ちの分、グローエンデの『雄』としての魅力は際立って見えた。
 色々な意味で男に興味のない飛鳥が言うのだから間違いない。
 飛鳥の故郷たる地球で、世界一美しい男や女を探すと言ってもどんぐりの背比べとやらでなかなか決められなかっただろうが、ここでは美にも等級があった。その等級が、どんな条件によってつけられたものなのかは、飛鳥には判りかねるが。
 抜きん出て美しい人間、絶対的な美の持ち主というのは、いるところにはいるのだと妙な感心をする。
「グローエンデ将軍閣下か。有能な秘書官をありがとう……と言いたいところだが、少々早とちりが過ぎるぞ。俺はこれから一般市民になるんだ、世話役も秘書も必要ない」
 飛鳥が言うと、グローエンデは愉快そうに声を立てて笑った。
 周囲で様子を伺う、最上流階級を含めた面々は、飛鳥の『物怖じしない』では済まされない不遜な口調にざわめくやら色をなすやら様々だったが、飛鳥が気にしないのと同等にグローエンデもまったく気にしていなかった。
 そういう磊落さ、瑣事にこだわらない豪放さは手間が省けて助かるし、飛鳥としても嫌いではない。
「ああ、ヴェスタからもそう報告を受けた。猶予期間をもらったとな。今は多分、アスカと眷属のための、登録書類を作っている頃だろう」
「一度は断ったんだが、目の前で泣かれてな。どうしてもと言うから、役に立つなら使ってもいいと言ったんだ。使えないようなら突っ返すが、だからといってあいつを責めてやるなよ。適材適所の鉄則を間違えたあんたが悪いんだからな」
「私はこれほど相応しい人物はいるまいと思って遣わしたんだがな。私の目は確かなんだ、間違いない」
「なら、生まれて初めての間違いということになるか」
「さあ……判らないぞ。私はそういう人選を間違ったことがないんだからな。心配せずともヴェスタは有能だ、きっとアスカの役に立つ。すぐに手放したくなくなるだろうよ」
「そう願いたいものだ」
「ん、なんだアスカ、ヴェスタが下についたのかよ?」
 淡々と交わされていた会話に、大公家の面々との挨拶を終えたらしいレーヴェリヒトが割り込んでくる。
 手には、侍従から手渡されたのか、木の実やチーズといった、つまみのようなものが入った白い小さな皿を持っていた。白くて長い、優美で武骨な指先で、茶色の木の実をつまんで口に入れている。
 何をしても驚くほど絵になる人物だ。
 飛鳥は肩をすくめた。
 カロリーを気にしつつ、赤葡萄酒に口をつける。
 こういうところへ来て何が一番困るかと言ったら、うっかり雰囲気に流されて規定の栄養量を超えてしまいそうになることだ。あとで苦しいのは自分なのだから、気をつけなくてはと思いはするのだが、飛鳥とて心が鉄で出来ているでもなし、たまには羽目を外したくもなる。
 そういう、細かいことを抜きにした『楽しい』という感情は、飛鳥にとって貴重で、そして珍しいものだった。
 ここに来てからは、その『楽しい』という気持ちがずいぶん増えたのも確かなのだが。
「こちらの将軍閣下がな、なにやらよく判らんが小間使いにと寄越してくれた。色々と手伝ってくれるらしい。今ごろ、お前の仕事のいくつかを肩代わりして、俺たちがリィンクローヴァで暮らしていくのに必要な書類だの手続きを済ませていることだろうさ」
「あー、そういや執務室に置いてあった書類をいくつか持っていったな、誰かが。そっか、ヴェスタだったか。そりゃいいや、あいつは文官の中でも特に優秀なんだ、誰もが自分のとこにほしいって思ってたくらいなんだぜ。ヴェスタが引き受けてくれるなら、おれは他の仕事に専念できる、よかったよかった。……しかし、グロウはよっぽどアスカを買ってるんだな、ヴェスタはグロウのお気に入りだろ?」
「ん? ああ、そうだな。期待をこめて貸し出したというところだ」
「……そう言われても、俺は別に要らないんだが。なんだったらお前にやるぞ、レイ」
「そうつれないことを言ってくれるな、せっかく遣わしたのに哀しくなるじゃないか。あれは地位も財力も何もない元奴隷だが、頭脳の明晰さは学校で十年学んだものにも引けを取らない。優秀さは拾い主の私が保証する、三日使えば手放したくなくなるよ」
「なら自分で使え、もうじき一般人になる人間が、何で秘書なんてものを必要とすると思うんだ?」
「ふむ、自分で五年ばかり使ったから言うんだがね。身内贔屓と言われるかもしれないが、あれの物覚えのよさと気配りの細かさには私も助けられてきた。……しかし、アスカは本気で自分が一般人などというものになれると思っているのか?」
「――――なんだって?」
「アスカはどうしても自分を一般市民にしたいようだが、レヴィ陛下、どうもアスカの認識は私たちのそれと著しくずれているようだぞ。レヴィ陛下の友人という貴い存在が、何で『一般人』などという希薄な位置に居座れるものか。たとえ本人がそう望んだとしても、だ」
「へ? いや、アスカがそうしてぇならいいんじゃねぇの?」
「……ああ、そう言われるとは思ったが、陛下の認識の甘さも時々どうかと思うぞ、私は。ときどき自分の地位も忘れるくらいだから、仕方ないと言えば仕方ないんだが」
「こいつの認識の甘さ云々はよく判るしその点に関しては否定もしないが、国王の友人だから貴いということはないだろう。それは、王様の隣の家に住んでいるから貴いと言われるのと同じくらい妙な気分だぞ。大体にして、俺は他に何の力も持たないひよっこだ、一般人以外何になれるというんだ?」
「うう、よく判るって……」
 飛鳥がきっぱり言うと、呻くレーヴェリヒトを意図的に無視した風情でグローエンデが笑う。
「アスカは自分を過小評価しすぎだな。故郷ではよほど冷遇されてきたに違いない、嘆かわしいことだ」
「……冷遇されてきた覚えはないが、特に過小評価しているつもりもないぞ。客観的な意見だ」
「そうか、アスカの故郷には異形がいないからだな? 色無しとは言え、《大禍物(おおまがもの)》級の異形を一撃で屠ったんだろう、アスカは?」
「あの大きいのを大禍物というのか? だとしたら確かにそうだが……それはそんな大騒ぎするようなことなのか?」
「騒ぐに決まっているだろう。もっとも規模の小さい《禍芽(まがめ)》でも、大の大人が十人まとめてかかって勝てるかどうかなんだ、その十倍以上の規模を誇る《大禍物》をたった一人で仕留めておいて一般人面してくれるなよ。それに、たかだか七日でここの言葉を話せるようになったとも聞くし、そんな優秀な人員を『一般人』にしてしまうのは惜しすぎる」
「は、その辺は当然だ、俺は天才だからな」
 再度きっぱり言うと、レーヴェリヒトが目を丸くし、グローエンデが笑みを深くした。
 耳をそばだてていたのだろう、周囲の面々がざわめく。
 好意的な響きもあるが、その少なくとも半分は不遜な異端者への否定的なざわめきだった。もっとも、得体の知れない不審者に自分の慣れ親しんだ国でやりたい放題されたら誰でも不愉快だろうとは飛鳥も思う。
 ――それを理解しつつも言動が改まらないのが、飛鳥の飛鳥たる由縁なのだが。
 レーヴェリヒトの手にした皿から、アーモンドに似た木の実をつまんでいたグローエンデが楽しげに笑う。
「それは頼もしいな。なあ、レヴィ陛下。これなら、あなたの提案は喜ばれそうじゃないか?」
「ん、ああ、そうだなぁ。アスカは勉強も好きみてぇだし、いいと思うんだけどな俺は」
「――――何のことだ?」
 急に話を進められ、飛鳥は眉をひそめた。
 ああ、と頷いたレーヴェリヒトが、チーズのかけらを口にしながら言を継ぐ。
「ほら、お前仕事してぇって言ってたろ」
「ん、そうだな、働かざるもの食うべからずだからな」
「眷族ふたりのはまだ調整中だが、お前に関しては王城内の仕事を頼もうかと思ってな、どこに行ってもらおうかと思案してたんだが、エーレの仕事の軽減を兼ねて俺の補助役についてもらおうってことで、一年ばかりみっちり勉強してもらってから俺の補佐官か何かに任命しようかと思うんだ」
「ほう」
 レーヴェリヒトの言に飛鳥はうなずいた。
 城下での仕事も悪くないと思ってはいたが、飛鳥の目的というか目標のひとつはレーヴェリヒトに恩を返すことだ。多忙な国王陛下の補佐としてその配下につくのなら、彼の忙しさを多少なりとやわらげてやることも出来るかもしれない。
 それは、悪くない提案だった。
「別に職種は何でもいいんだろ?」
「ああ、別にこだわりはない。自分で自分の糧が得られるなら何でもいいんだ。そうか、ならお前が居眠りしてたら水でもぶちまけてやるよ」
「いや、それは出来れば遠慮してぇんだが……っていうか、書類が水浸しになっちまうじゃねぇかよ」
「心配するな、ちゃんと配慮する。書類にはかからないようにするから」
「心配でも配慮でもねぇだろ、それっ。……いやまぁ、そんなわけで、お前が嫌じゃねぇならその方向で行くぞ。しばらくは国王補佐官候補生としてあちこちで勉強してきてもらうことになると思うけどな」
「あちこちというのは、どの辺りだ?」
「そうだなぁ、まずはアルディアかな。幸いハイルはしばらく王都にいるから送り迎えも簡単だ。お前も慣れてるだろうし、ちょうどいいだろ。アルディアには俺も色々習ったけど、あいつ教えるの上手だしな。あとは大公家の隠居してる連中とかに頼んでみるか。なあ、グロウ?」
「ああ、暇人が多いから喜んで引き受けてくれるだろう。アスカのような新しい風は、彼らにとってもいい刺激だろうからな。あとは博士や司書官にも声をかけてみようか」
「そだな、王城の書庫にはものすげぇ量の本が詰まってるから、それを読むだけでもいい勉強になるぞ。博士たちも物知りで何でも知ってるしな」
「そうか……悪くない」
 ようやく先行きが固まってきたという、安堵と期待感の半ばにあって、飛鳥はうっすら笑みを浮かべて頷いた。着替えの一件で下降しっぱなしだった機嫌が、現金にもあっさり回復してゆくのが自分でも判る。
 苦難だらけのこれまでにおいて、こんなにうまく、自分の願ったように、クリアで好意的な未来が指し示されたことはいまだかつてなかった。それへの喜びも大きかった。
「で、どうするアスカ。いつ頃から始める? 明日は中央黒華神殿に浄化をしてもらいに行くから除くとしても、ちっとは休んだらいいんだぜ。熱出した昨日の今日なんだ、無理はしなくていい。それに、城下の方へも行ってみてほしいしな」
 だから飛鳥は、レーヴェリヒトがそう声をかけてきたのへ、
「なら、明後日からだな」
 当然のごとくにそう答えた。
「城下町に興味はあるが、それはいずれ暇が出来たときでいい。というか、いつでも行けるだろう、向こうなら」
 ――飛鳥は学ぶことが好きだった。
 自分の中に、新しい知識や技術が増えてゆくのが好きだった。自分の中に、たくさんの新しいものが蓄えられ、今か今かと出番を待ち受けているその状態が好きだった。
 学ぶことは、『仕事』というよりも『楽しみ』だ。
 それゆえに飛鳥は物覚えがいい。得た知識を、技術をこぼすことを惜しいと思うし、しっかりと溜め込んで行くことが楽しみなのだ。
 その楽しみが仕事となり、レーヴェリヒトの役に立つというのなら、こんなに素晴らしいことはない。
「せっかちだなぁお前。まぁ、いいけど。なら、明後日からな。アルディアにはそう連絡しとく。ふたりも喜ぶだろ」
 呆れたように――それでいて楽しそうに言ったレーヴェリヒトが、自分の手にした水晶杯をちょっと掲げてから飛鳥のそれに触れさせたので、
「せっかちなのは生まれつきだ、諦めてくれ。ああそうだ、メイデたちに土産の礼も言っておかないと」
 肩をすくめて飛鳥は笑い、同じようにちょっと掲げた杯を、同じようにレーヴェリヒトの杯に触れさせた。
 それから、顔を見合わせてかすかに笑いあう。
 それを、グローエンデが深い笑みで見つめていた。
「……楽しみだな」
「何がだよ?」
「色んな勉強ができることが、だ。わくわくする」
「えー、そうか? 勉強はあんまり好きじゃなかったな、俺は。外で身体を動かしてる方が好きだ。しかし……変わってんな、お前。いや、かなり前から判ってたけど」
「お前に言われたくない」
「――むしろ私はふたりとも変だと思うが」
「そういうあんたも大概だ、将軍閣下」
「グロウでいい、アスカ。……褒め言葉と受け取っておくさ」
「そういうところが変なんだ……って、自分たちのおかしさ加減を自慢げに指摘しあうほど痛々しいことはないな。今後は変わっていると言われないように気をつけよう……」
「ええっ、そんなアスカ、アスカじゃねぇだろ!?」
「……お前……あとで覚えてろ……?」
「う、しまった、つい本音がっ。いや、えーと……」
「観ていて飽きないな、ふたりとも」
 そんな他愛のない言葉を交わし、めまいがするほど濃厚で、絹のように滑らかな赤葡萄酒に口をつける。
 ――かぐわしさに胸の奥が満たされる。