そこから二時間ほど経ったころ、ほどよく酒のまわった面々がほどよい節度を保ちつつ談笑しているのを観察しながら、飛鳥はホール内を物珍しげに歩き回っていた。
 レーヴェリヒトが、軍族を始めとした大公家の人々と、何やら真面目で深刻な話を始めてしまい、退屈になったのだ。彼も一応十七歳の子どもなので、興味の持てないことにつきあって平気な顔をしていられるほど人間が出来てはいない。
 それで、ちょっかいをかけられることを承知でホール内の散策に出かけたわけだが、貴族連中が一枚岩ではないのは軍族と同じことで、敵意のこもった視線や聞こえよがしに嫉妬の言葉を口にするものがいるかと思えば、歓声とともに迎え入れられ、握手責めにあったりもした。
 飛鳥にはよく判らないし実感もないが、髪と眼の色が五色のどれか一色で統一されているという特徴を持った『加護持ち』は、神々が地上に与え賜うた恩恵の体現らしく、特に最上位の黒を宿した加護持ちは、百年にひとり出ればいい奇跡そのものなのだという。
 そうは言われても、故郷たる日本というかアジア圏内では黒目黒髪が基本だし、金村や圓東だって染めているからあんな色をしているのであって、純粋な黒云々を抜きにすれば、本来は黒目黒髪のはずなのだ。
 ますますどう判断すればいいのか判らない。
 ――判らないが、この色のお陰で敵対者が減るのはいいことだ。
 飛鳥を好意的な言葉と歓声でもって迎えた面々は、加護持ちである飛鳥が国に害なすわけもなし、何故否定的な発言をする者たちがいるのか理解に苦しむ、きっと自分にないものを羨んで逆恨みをしているのだろう、といった内容をやんわりと――しかし、きっぱりと口にして笑った。
 そういう考え方の貴族連中が少しでもいるのなら、飛鳥としても敵対する人々が生まれてきたことを後悔するような悪巧みや罠を仕掛ける必要性は低くなる。低くない地位を持った理解者がいれば、くちばしを挟みたがる人々も表立った派手な攻撃は出来ないだろうからだ。
 飛鳥はこのリィンクローヴァという国で生きていくと決めたのだ、あまり波風は立てたくない。何せ彼の立てる波風は、並でなく大きくて強い、激烈な代物である場合が多いので、きっと敵対者以外の人々も巻き込んで、甚大な被害を及ぼしてしまう。
 出来れば、それは避けたかった。
 罪のない、善良なる人々を傷つけることは、飛鳥の信念にもプライドにも反する。
 ――無論、罪ある連中から売られた喧嘩はいくらでも買うし、危害を加えられれば百倍にして返すのが飛鳥の主義なのだが。
「……飽きた」
 親しげに離しかけてきた中級貴族の壮年夫妻と、ゲミュートリヒの庭園グーテドゥフトの美しさについてひととおり話したあと、夜会の雰囲気も一応堪能したしそろそろ帰りたい、などと思い始めた飛鳥だったが、どう抜ければいいのか判らないうえ、多少なりと言葉を交わしてから帰りたいと思っていたレーヴェリヒトがまだ話し込んでいて、もうしばらく我慢するしかないと諦めざるを得なかった。
 ここの平和な雰囲気にはついうっかり騙されそうになるが、ゲミュートリヒの人々が話していたように、今の世界が乱世だというのは確かなようで、フェアリィアル、ダルフェ、クエズなどという隣接国からの防備云々を深刻な顔で話している面々を見ていると、地球の、日本の平和さとそのありがたさがしみじみと感じられる。
 ともあれ待たされていることは確かで、レイのくせに俺を待たせるとはいい度胸だと思いもしたが、恐らく仕事の延長上であろう難しい会話のただ中にある彼に対して、それはあまりに理不尽だと考え直す。
 いくら飛鳥が理不尽を地で行く人間だといっても、さすがにそれを責めてやっては可哀相だとも思う。
 かといって、あちこちのテーブルに並べられた豪華極まりない料理を口にして退屈を紛らわせるわけにも行かず、仕方なくもう少しうろうろするか、とホールの隅で胸中に溜め息をついた飛鳥だったが、
「アニキ!」
 不意に、背後から柴犬改めハムスターの声がしたので、飛鳥はいい退屈しのぎが来たとばかりに振り返った。
 が、圓東の姿を目にするや、顔をしかめて額を押さえる。
「ここのメシ、アニキが言ったとおりすっごい豪華だね! もう、あれもこれも美味そうで迷っちゃうよ、おれ。来てよかったー」
 にこにこと上機嫌で笑う圓東は、手にした直径四十cmばかりありそうな大皿に、肉だの魚だのパンだの果物だので小山を作成していた。ある意味芸術的といっていいてんこもりぶりだ。
 丸ごとこんがりローストされた山鳥と、ウサギの挽肉を詰めて焼いたパイと、豪快に串を刺して丸ごと一匹焼いたマスと、チーズの塊と蜂蜜をかけたパン、トマトと茄子のマリネ、緑が鮮やかなハーブサラダ、真紅のすももと緑色の葡萄など、色とりどりの食べ物が載ったその姿は、一度にたくさんの食物を接種出来ない飛鳥にとってはある種の視覚的暴力と言ってもいい。
 思わず気持ち悪くなった飛鳥だが、ツッコミも忘れない。
「……それはいったい誰が食うんだ。というか、何人分だそれは」
「え、おれひとり分だけど」
 答えつつ、蜂蜜がたっぷりかかったパンを幸せそうに咀嚼している。
 この様子だと、金村の二倍、飛鳥の十倍以上は食っているだろう。
「お前の摂取した栄養って、いったいどこに行ってるんだろうな? 脳ではないし、かといって身体でもないし。……もしかして、喰うだけ喰って全部流れ出してるのか? ものすごく不経済だな、それ」
「な、流れ出してないよっ。どこかで血とか肉になってるって! ……た、多分」
「なってるなら、なんでお前そんな貧相な身体なんだ。そんなんじゃいざというとき身を守ることも出来ないんじゃないのか? 喰ったら喰っただけ筋肉になるような身体になれ。もういっそ、脳味噌までな」
「いやあのっ、なれって言われてなれるもんなの、それ?」
「そうだ。人間、気の持ちようでなんとでもなる。金村を見習え、金村を」
「あー……うん、確かに。金村のアニキは筋金入りの体育会系だしなぁ……頭いいのに、なんでだろ」
「それに関しては一片の疑問もなく首を縦に振るが、そういえば、当の金村はどうした?」
「ん、あっちで綺麗なお姉さんたちに囲まれてたよ。ここの女の人って結構積極的だよね」
「ああ、そういうことか。まぁ、ほどよく酒がまわって積極的になったんだろ。なら、邪魔しちゃ悪いな」
「金村のアニキは無表情のままだったけどねー。もてるのに、気づかないんだから面白いよな。おれもアニキや金村のアニキみたく強くなったら、可愛い恋人とか出来るのかなぁ」
「さぁな」
 力がすべての世界でなし、強さだけではどうしようもないだろうと思いはするのだが、もてるもてないで熱い議論を戦わせるのも馬鹿馬鹿しく、飛鳥は軽く肩をすくめて素っ気なく返した。
 美味な料理のお陰で飛鳥への警戒もすっかり忘れている圓東が――というか、そもそもあまり同じ感情が長続きしない人間なのだろう――、ウサギ肉のパイにかぶりつきながら飛鳥を見る。
 口いっぱいにパイを頬張っている様子は、まるっきり子どもそのもので、とてもではないがこの人物が飛鳥より三つ年上だなどとは思えない。もちろん、飛鳥とて自分を完全な大人だと思っているわけではないが。
「そういや、アニキはもうメシ喰ったの?」
「規定量はな。酒を飲むと固形物の量が減るからあっという間だ」
「あー、お酒って結構カロリーあるっていうもんなぁ。でも、アニキはホントびっくりするくらいちょっとしか喰わないよな。そんなんでハラ減ったりしない?」
「しない。胃の中のものがなくなればもちろん腹は減るが、基本の量を口にすればすぐに収まるし、いざとなれば一日一食でもなんとかなるくらいだ。俺の身体は燃費がいいんだ、お前と違って」
「仕方ないじゃん、ハラ減るんだから。職人はしっかりメシ食っていつでも働けるようにしてなきゃいけないんだって。てかそれ、便利は便利だけど寂しくない? メシって楽しみのひとつだと思うんだけど……」
「そういうものか?」
「え、アニキは違ったの?」
「どちらかというと身体を動かすためにどうしても必要な儀式というか義務のようなものだったが」
「……アニキが今までどこでどう生活してたのか、ものすごく気になるんだけど、おれ」
「……まぁ、気が向いたら話してやる」
 圓東が何とも言えない表情でこぼし、飛鳥は肩をすくめて返した。
 飛鳥はもう、レーヴェリヒトや金村や圓東になら、自分の生まれに関することや自分の辿った運命、自分の喪って来た人たちのことを知られてもいいと思っていたが、それらは何でもないように話すにはあまりにも重く、少なくとも心の準備なしに口にすることは不可能だった。
 それらは飛鳥の強靭さを司る根本であるのと同時に、飛鳥のトラウマそのものでもあるからだ。そのトラウマをあっけらかんと口に出来るほど飛鳥は強くはなかったし、達観できてもいない。
 だからこそ、そんな曖昧な返し方になったのだが、学はなくとも馬鹿ではないらしい圓東は、果汁たっぷりのすももを齧りながら笑って頷いた。
「うん、いいよ。じゃ、アニキが話したくなったときに教えてよ。きっとすごい武勇伝があるんだろうなー。そのときはおれも、天才職人圓東鏡介のカガヤカシイ歴史についてみっちり語ってやるよ」
「……それは別に要らん」
「ええー、いいじゃん、そんなハクジョーなこと言わずにさー。せっかくだから聴いてよー」
「要らん、うざい」
「ひ、ひどい……ッ」
 圓東があくまで聴きたがるような無遠慮な人間でなくてよかった、とわずかながら安堵しつつも、飛鳥の答えは容赦なく冷たい。それとこれとは話が別である。
 大皿を抱えたまま泣き崩れるジェスチャーをしようとする圓東に、器用なヤツだと飛鳥がある意味感心していると、見慣れない一団がふたりに近づいてきた。先頭の、でっぷりと肥満した男にも見覚えがなく、飛鳥は小さく首をかしげて一団を見返す。
 十二人いるが、全員が男で、全員が武属ではない。腰に佩剣していないからだ。
 ひょろっとした細長いのからその二倍以上あると思しき横長のまで、大小様々なサイズの人々だが、全員が全員、とても喧嘩が出来るとは思えない物腰だった。貴族は貴族でも、文官系統の貴族なのだろう。
 やがて一団はホールの隅、飛鳥たちふたりの前で立ち止まった。飛鳥は胡乱な目で彼らを一瞥する。
「これはこれは、加護持ち殿。国王陛下とご一緒ではないのですか。ご機嫌はいかがですかな?」
 明らかな嘲りの色を含んで紡がれた言葉に、こいつもくちばしの類いかと妙に納得した飛鳥は、ひとまず彼らの観察に努めた。
 敵となる者の観察を欠かして勝利することは難しい、というかなり攻撃的な思考回路によるものだが、そこですぐに『勝つ』ことへ意識が向く己への貪欲さ、ある種の視野狭窄さに飛鳥は頓着しない。
 最初に口を開いた先頭の男、衣装の豪奢さからもっとも高い地位にいると推測される彼は、年の頃で言えば三十代半ばから後半と言ったところだろうか。黄味の強い茶色の髪と、オリーブの実を髣髴とさせる緑の目の、横幅の広い男だった。
 目鼻立ちは悪くないのに、垂れ下がった脂肪でだらしなく肥大した顔や身体、不健康な顔色、そして何よりも他者を見下したその目の色が、彼をどうしようもなく醜く見せていた。百八十を超えた長身なのに、肉がたくさんついている所為で巨大もしくは巨漢としか表現出来ない。
 巨漢と言えば、第四天軍副将軍のフィーアフラースもかなりの巨漢だったが、決して鈍重には見えなかった彼とは違い、この男は立居振舞そのものが重々しかった。内面的にではなく、外面的に、である。
 ――飛鳥は、肥ってはいても心根のよい、綺麗な人たちを何人も知っている。痩せていれば美しいかと問われれば首を横に振るだろう。
 ダイエットとやらで鶏がらのようになった女性の脚を見て、さぞかしいいスープが出るだろうさなどと呟く程度には女性の痩身への執着に疎いし、ひょろひょろの痩せた男、薄い胸板やか細い腕をさらした連中が街を闊歩しているのを見ていると、あれならひとり十秒だななどと胸中に呟かずにいられないほど頼りない気持ちにさせられる。
 細いことがイコール美しさではありえないことを、飛鳥は知っている。
 だから、この男の醜さが、肥満のみの所為ではないことを飛鳥は理解していた。肥ってはいても、彼の目が穏やかに凪いでいれば、その口元の笑みがやわらかければ、飛鳥は彼を美しいと認識しただろう。
 これは、間違いなく、この男の心の歪みから来る醜さだ。
「……誰だった?」
「ええと、おれに訊かれても。アニキが知らないのに、おれが知るわけないじゃん」
「やっぱりな」
 一度観れば忘れられない類いの顔だが記憶の中にはなく、誰かから紹介された覚えもなく、飛鳥が首をかしげて圓東に問うと、山鳥のローストを豪快に丸かじりしていた彼はあっさりそう返した。まったくもって予想通りと言うしかない答えだ。
 飛鳥としても、面と向かって問うのが面倒臭かったのでとりあえず尋ねてみたにすぎない。
 すると、案の定というか単純にもというか、男の背後にいた別の貴族、圓東よりも貧相な身体つきの男が、そんなことも知らないのかと言わんばかりの口調で、
「僭越ながら、ご挨拶を兼ねてわたくしめがご紹介いたしましょう、加護持ち殿。こちらへはお出でになったばかりで、まだ不慣れでいっらしゃるでしょうから」
 そう言って最初の男の隣に立った。
 年齢で言えば四十歳に手が届くか届かないかといったところだろうか。
 色味の薄い茶色の髪と緑がかった茶色の目の、細いというよりひょろっとした男で、腐っても貴族ということなのか、整った顔立ちではあったが、どこか卑屈な、強者におもねるような色彩が全身から滲み出しており、威厳や貫禄などという言葉からはほど遠かった。
 事実、出で立ちからは中級前後の貴族であることが伺える。
 上下はあれ、貴族というのは一般市民とは違った位置にあるのだろうか、彼の言葉の端々には、どこの馬の骨とも知れない下賎の田舎者めという感情がちらつく。隠そうともしていないのだろう。
 最初の男、恐らく相当な上流階級と思われる、他の貴族たちとは一線を画した印象の彼が無意味に踏ん反り返る。オリーブ色の目に、飛鳥への――もしくは持たざるもの、一般人などと呼ばれる人々への――優越感と嘲笑とが揺れている。
 ――ああ、馬鹿なんだなコイツ、この年で脳味噌が温かいなんて可哀相なヤツだ、救いようがないな、とは、無表情に彼らを観察する飛鳥の、一片の偽りもない胸中だった。
 馬鹿に蔑まれようが侮られようが、飛鳥は痛くも痒くもない。何を口にしようが、所詮は馬鹿なのだから。馬鹿の口にする言葉に真実や人の心を動かす何かがあるはずもない。
 そして、馬鹿の言葉を素直に受け取ってあれこれ悩んでやれるほど飛鳥はお人好しではないし、寛大でもないのだ。
「ああ、申し遅れました。わたくしシュマイヒェライ家に属しますベネト・トレックというものです。王宮事務官長補佐を務めさせていただいております。どうぞよしなに」
「そりゃどうもご丁寧に」
 男のわざとらしい挨拶に軽く頭を下げて応じつつも、シュマイヒェライという単語に、飛鳥の視線は生温くなる。
 ――『ごますり』。
 そういう意味だ。
 ドイツ語では、だが。
 しかし、そのまんまにもほどがあるその家名に、
(もしかして、人間や事物の真実というか本質を表してるのか、これ)
 そんな考えが浮かぶ。
 レーヴェリヒトを筆頭として、ノートヴェンディヒカイト、ゾンネ、シックザール、ゲミュートリヒ、エルンテ、ゾイレリッタァ、ラントシャフツマーレライ、ハイリヒトゥーム、ツァールトハイト、エーレ、ヴァールハイト、シュバルツヴィント、シュトゥルムなどなど、飛鳥はこの十数日間でたくさんの単語を見つけたが、それらを照らし合わせてみるに、その単語はその言葉に相応しい人やものに、もしくはその人やものを表すようにつけられている。
 気がする、程度の曖昧な感覚ではあるが。
(世界が与える、啓示か)
 ふむ、と、胸中に飛鳥はつぶやく。
 なぜドイツ語なのかは判らない。けれど、その疑問は、今追及するべきことではないだろう。
 それはただ……単純に、判りやすくていい。
「……加護持ち殿? どうかなされましたかな?」
 沈黙した飛鳥に、訝しげな声がかかる。
 ごますり家のベネトだ。
 飛鳥はうっすら笑みを浮かべて首を横に振った。まさか、お前を信頼しない方針がたった今固まったとも言えない。