他の貴族たちが、いったい何事かと目を丸くして――もしくは、マナー知らずの田舎ものめといった表情で――彼らを見遣る。
 泣き喚きながら水と氷を求めてあちこちへ転げてゆく貴族たちに、脳味噌の温かい馬鹿ごときが俺に対抗しようと思うのが間違いだ、などと冷ややかに呟くと、飛鳥はテーブルの傍にへたり込んでちょっと燃え尽きている圓東へ視線を向けた。
 幸いにも痛みは治まってきたらしく、圓東は氷で唇を冷やしていた。口が腫れ上がっているのが痛々しいといえば痛々しいが、正直、笑える。
「大丈夫か、圓東」
「……うう、ひぬはとほもったひょ……」
「あー、うん、見てるだけでよく判る。まぁ、もう少しすればマシになるから、氷に蜂蜜でも塗って舐めておけ」
「うー、そぅひゅる……。れも、なんれアニキはヘーキなんら?」
「んー、体質だな、体質。タバスコ一ビン飲んでも平気だぞ。一気に燃焼してくれるからカロリー過多にもならないしな。まぁ、基本的に野菜は多少摂取しすぎても大丈夫なんだが」
「……アニキっれ……ほんひょに、にんへん?」
「まぁ、一応」
 かすれて呂律の回らない、情けない声に、飛鳥は肩をすくめてみせた。
 『一応』という曖昧な答えに飛鳥の存在のすべてが集約されているのだが、圓東がそれに気づいたかどうかは微妙なところだ。むしろ、それどころではないだろう。
「ふむ、レイの話はそろそろ終わったかな。金村を呼んで、帰ろう」
「……てゆーひゃ」
「ん、なんだ」
「アニキ、もしかしれ」
「ああ」
「アレがからいっれひっれら?」
「あ?」
「うー、あーあー、アレが辛いって、知ってた?」
「ん、ああ。何せ名前がヒッツェだからな」
「?」
「ドイツ語で『熱』だ。どうもこの共通した単語、何かしらのイメージというか意味を含んでいるらしいからな」
「……なんれ教えれくれなかっ……」
「知りたいか?」
「え」
「本当に知りたいんだな?」
「え、いや、あの……」
「なら仕方ない、特別に教えてやろう。――――そんなもの、面白そうだったからに決まっている」
「ううう……」
 人でなし全開の飛鳥の言に、圓東が「判ってたけど」的ニュアンスを含んだ呻き声を漏らす。
「まぁ、それは置いといて、だ」
「ううっ、お、おいろかれら……」
「お前いい加減鬱陶しいぞ、その呂律の回らなさ。しゃきっとしろ、しゃきっと。唐辛子の辛さなんか気合で耐えろっつの」
「き、気合いれなんろかなるの、これっれ……」
「なる。まったく、未熟者め」
「ううう……」
 あくまで断固とした、非情極まりない彼の言葉に、圓東が氷を唇に当てたまままた呻いたとき、飛鳥は背後に聞き慣れた足音とよく知った気配とを感じて振り返った。
 待ち人の気配であるから、余計に敏感だ。
 そして振り返った先に予想通り、間違いのない相手がそこにいることを確かめてから口を開く。
「話は終わったのか、レイ」
「ん、悪ィな、客人をほったらかしにしちまって。キョウスケも。……って、どうしたんだ? 口が赤いぞ」
「あー……まぁ、ちょっと、刺激的過ぎる菓子を口にしたらしくてな。まぁ、じきに治る。放っておいてやれ」
「そういうものか?」
「そういうものだ。それより、長くかかったな。王様というのは、どうやら大変な職業らしい。それに、そっちは、確か……」
「まぁ、仕方ねぇや。何分堂々巡りなもんでな、何度繰り返しても結論は出ねぇんだ、躊躇いなく下せるものでもねぇしな。ああ、こいつについては、アスカにももう一度きちんと紹介しとくぜ」
 肩をすくめるレーヴェリヒトの隣には、青年王より十ほど年上に見える女の姿があった。女性にしては背が高く、飛鳥より少なくとも拳ひとつ分は長身だ。そもそも飛鳥はあまり長身というわけではないが、レーヴェリヒトと並んでもあまり遜色がない。
 真珠色の不思議な光沢のある髪と、夏空のように鮮やかな青の目をした美しい女だ。初対面ではなく、ゲミュートリヒに滞在していたとき、ほんの少しだけ目にしたことがある。
 もっとも、言葉を交わしたことはないが。
「ゲミュートリヒの近領ザーデバルク市の領主、ツァールトハイト・フィアラだ。夜会どころか色気のある会なんざほとんど顔を見せねぇくせに、今日ばかりは黒の加護持ちを観に来たらしい。ツァールトハイト、さっきも言ったがこいつはアスカ、アスカ・ユキシロだ」
 レーヴェリヒトの紹介を聞きながら、飛鳥は女を観察する。
 出で立ちからして、中級以上上級以下の貴族といったところだろう。衣装は派手ではなく、豪奢でもなかったが、シンプルでいて趣味のよい装いは清潔で好ましかった。
 真珠色の髪をやわらかく結い上げ、薄い化粧を施した様は、メイデほどではないものの信望者たちが列を作りそうな程度には美しい。
 美に等級があるとして、先ほどの馬鹿貴族たちのものが下級以下なら、彼女のそれは間違いなく上位に属するものだった。
 まだ少し赤く腫れたままの口をぽかんと開けた圓東が、間抜けそのものの表情で彼女を見上げているのが判る。
 ――――無理もない、とは思う。
 少なくとも、外見だけを目にしたのなら。
 しかし、彼女の姿を目にした飛鳥の肚の奥に落ちたのは、重々しく冷ややかな威圧感と喜悦を含んだ戦意だった。斬りつけるような……値踏みをするような目が、飛鳥を見ているのが判る。
 油断がすなわち死に直結することを思わせる目だった。
 女性の礼儀として、ここではドレスに身を包み、髪を美しく飾り、紅や白粉を刷いてはいるものの、その機敏な身のこなしは戦士としてのそれだ。しかも、並の男には手も足も出ないであろう、熟練のものだった。
 一切隙のないその立居振舞から、恐らく彼女も軍族の一員なのだろうと思われた。
「どうぞよろしく、アスカ。ツァールトハイトが言いにくければ、ツィーとでも呼んでくれて構わない」
「ああ……こちらこそよろしく、ザーデバルク卿」
 女性にしてはやや低い、落ち着いた声とともにすっと差し出された手を握り返しながら飛鳥が言うと、空色の目を細めたツァールトハイトは、紅い唇を楽しげに歪めてぐっと手に力をこめてきた。飛鳥が眉をひそめると、更に楽しげな笑みが返る。
(……こいつ)
 飛鳥は素手でりんごや胡桃どころかビール瓶やワインボトルまで割り砕く非常識な膂力の持ち主だが、ツァールトハイトの腕力は、その非常識な飛鳥を驚かせるほど、女とは思えないほど強かった。思わず本気で対抗しそうになったくらいだ。
 ツァールトハイト、すなわち『優しさ』などという意味の名がまったくそぐわない。その優しさはきっと戦場の優しさ、死の優しさなのだろう。
 それでも、そこで無様に痛みを訴えるほど飛鳥は素直ではないし、この程度のことで敗北を宣言してやるほどプライドは低くない。そして、ここでもう耐えられないと泣き言を漏らすほどやわでもない。
 一歩も退かずツァールトハイトと見つめ合う(というよりむしろ睨み合う)こと数分、唐突にふっと笑った女領主が手を離し、くすくすと声を立てて更に笑った。
 飛鳥は顔をしかめる。
 試されたか、遊ばれたのだということに遅ればせながら気づいたからだ。
 意地にならず、もっとさらっと返しておくべきだったか、という後悔が一瞬根差したものの、今更どうしようもない。
「……何やってんだ、お前ら。じっと見つめあったりして。まさか一目惚れしたとかいわねぇでくれよ」
 飛鳥とツァールトハイトを交互に見比べながらレーヴェリヒトが漏らした訝しげな言に、飛鳥は盛大に顔をしかめる。
 冗談ではない、というのが飛鳥の正直な胸中だ。
 基本的に飛鳥はそのどうしようもない生い立ちゆえに色恋とは縁遠いが、それでも、彼にだって好みというものはある。
「やめてくれ、何で俺がこんな物騒なヤツに一目惚れしなきゃならないんだ。恋をするならもう少し心安らげる相手がいい」
 仮にもひとつの地域を統べる領主に向かって、失礼極まりないことを言った飛鳥だったが、ツァールトハイトはそれを咎めることもなく、それどころか実に楽しげに笑って、彼とレーヴェリヒトを交互に見遣った。
「ふふふ、物騒とは、なんとも心地よい褒め言葉だな。どうもありがとうと言っておこう。しかしわたしも、愛を囁くならばもう少し年上で背の高い、身体の大きい殿方がいいな。貴い黒の加護持ちと恋に落ちるのも別に悪くはないが、アスカとわたしでは、わたしが彼を玩具にしてもてあそんでいるように思われてしまう」
「あー、そうだな。そりゃ困るわ、王宮内に変な噂が立っちまう」
「正直心底どうでもいいことだが、もっとも突っ込むべきところってそこなのか……?」
「え、何のことだ?」
「……いや、いい……」
 珍しくツッコミに回らざるを得ず、多分何を言っても無駄だろうという諦観にも似た認識の元に飛鳥が返すと、ツァールトハイトは彼の脱力の理由が判るのだろう、くすくす笑いながら飛鳥を見て、それとは別のことを口にした。
「だが、レヴィ陛下の仰るとおりだ、末恐ろしい子どももいたものだ。異形との一戦、是非とも間近で観てみたかった」
「だろ。あの時はホントにすごかったんだぜ」
「誰が子どもだ、誰が。……いや、大人だとも言わないが」
 常日頃から、大人顔負けの行動力と能力でもって危険だらけの日々を渡り歩いてきた飛鳥にとって、『子ども』という言葉はあまりに聴き慣れない単語だった。実際には、まだまだ成長期の、大人になりきれていない『子ども』なのだが、言われ慣れていないだけに一瞬誰のことなのか判らなくなるし、言われて嬉しい言葉でもない。
「自分で子どもではないと主張するうちはまだまだ子どもだ。その『子ども』が、今からこんな力を持つとは、つくづく世界とは面白い。いずれ、命をかけて、全力で戦ってみたいものだな」
「やめてくれ、俺はこれから国王陛下の補佐官になるんだ、あんたと剣を交えるような機会はない」
「おや……それは残念だ、本当に。では、いつかどこかで敵に回る日が来るのを楽しみにしていよう」
 完璧に美しい笑みとともに紡がれる、素晴らしく危険な台詞に、飛鳥は顔をしかめずにはいられなかった。冗談めかしてはいるものの、それが明らかに本気と判るからだ。
「なんて物騒で自分勝手な女だ、俺の都合とか意志とか平穏とかそういうのは完全に無視か。……リィンクローヴァの女はこんなんばっかりとか言わないよな、レイ?」
「あー……うん、まぁ……どうだろうなぁ。軍族以外の女はそんな『ばっかり』に含まれねぇとは思うが、軍族に女傑は多いぞ。メイデなんかその筆頭だな。ツァールトハイトも、十年前までは凄腕の討伐士と領軍の将を兼任しててな、狂戦姫とか呼ばれて、隣接国のみならず国内の敵対勢力まで震え上がらせてたからな。でも、ツァールトハイトがそんな風に褒めるなんて、ものすごく珍しいことでもあるんだぜ。将来有望ってことだ、よかったじゃねぇか」
「……どうなんだ、それ。喜ぶべきことなのか……?」
「もちろん喜ぶべきことだぞ、アスカ。わたしは強い人間が好きなんだ、強い人間は本能のように判る。今までわたしがそう感じた者の中でも、アスカは特に強い力を感じる、きっといずれ、その強さでもって名を挙げることになるだろう」
「あのな、ちょっとは人の話を聞けよ、あんた。何で補佐官が、強さなんかで名を挙げなきゃいけないんだ。俺は、名も実も何も要らない。レイに恩返しが出来ればそれでいい」
 ツァールトハイトにペースを崩され、ついついぽろっと本音を漏らしてしまった飛鳥だったが、そのことに気づいて己を毒づくよりも早く、レーヴェリヒトがひどく嬉しげに笑ったので、溜め息をついて口を噤むしかなかった。
 この世界に来てからペースを乱されっ放しだ。
 それは、飛鳥が弱くなり不動ではなくなったのと同等に、彼に守るべき――愛すべき存在が増え、別の意味で力を得たのと同義だった。
 無論、当惑はするものの、決して嫌ではない。
 懐かしくすらある感覚だ。
「別に、恩なんか感じる必要、ねぇのに」
「たとえお前がそう思っているとしても、俺は、借りっ放しは嫌だ」
「……強情なヤツ」
「うるさい。あんまりうるさいことばかり言うと、また携帯電話で派手にいじめるぞ」
「なんかもうお前がそういうヤツだってことはよーっく判ってるが、その過激すぎる照れ隠しは勘弁してくれ……」
 レーヴェリヒトの言葉の通り、照れ臭さゆえの反応ではあるのだが、飛鳥の照れ隠しはやはりと言うべきか当然と言うべきか人でなしで、仏頂面で理不尽なことを言う飛鳥に、レーヴェリヒトが顔をしかめて首を振る。
 ふたりのやり取りがおかしかったのか、ツァールトハイトがまたくすくすと笑った。笑顔だけ見ていれば、ただの美しい女なのだが。
 飛鳥はひとつ溜め息をついた。
 これ以上変なぼろは出したくない、というのが正直なところだった。
「まぁ、いい。明日は神殿とやらにでかけるんだろう? もうそろそろ帰って、休みたいんだが」
「ん、ああ、そうだな。明日は俺も付き添うことになってるから、時間があれば城下町も案内してやるよ。ふむ、じゃあ帰ろう。キョウスケ……はそこにいるか。ユージンはどうした?」
「妙齢のご婦人方に囲まれていたらしいが」
「ああ、何となく判るな、それ。ああいう類いの男に弱いんだ、女ってのは。でも、本人は鈍そうだから、囲まれててもあんま判ってないような気がするけどな」
「お前に言われたら憤死しそうだな、金村も」
「なんでだよ」
「……言われて判らない辺りが全然駄目だ」
「ええー、何だよそれ。わけが判んねぇ」
「うるさい。だったら一生判らないままでいろ。――圓東、帰るぞ。金村を呼んで来い」
「んあ、判った。さっきのところにまだいるかな、金村のアニキ。……あ、ようやく普通に喋れるようになった……」
「よかったな、楽しめて。じゃあせっかくだから今度、もっと大量に入手してきてこっそり飯にでも混ぜておいてやろう。きっと、泣いて踊りまわれるほど楽しいぞ?」
「……ええと、満場一致で遠慮させてください」
「どこが何で満場なんだ、いいから行って来い。先に出てるから追いかけて来いよ」
「りょうかいー」
 へらり、と表現するしかなさそうな間の抜けた笑みを浮かべ、敬礼の姿勢を取った圓東が、間合いも足さばきもクソもない隙だらけの足取りで走ってゆくのを見送って、飛鳥はレーヴェリヒトを見上げた。
「お前はどうするんだ?」
 問われた方はほんの一瞬考える素振りを見せたが、すぐに気の抜けるような開けっ広げな笑顔を見せ、答えた。
 開けっ広げさという点で、レーヴェリヒトと圓東は同類だ。真に他者に愛されるのはまさしくこういうタイプだと飛鳥などは思うのだが、こういうタイプとひとくくりにされる連中は、何故か一概にその辺りのことに鈍い。
「んー、アスカたちの新居を観に行きてぇな。俺、場所は知ってるけど中身までは観てねぇんだ。ハイルが中を整えてくれたんだよな。どんな風になったんだ?」
「どんなもこんなも、やたら広い。三人であの広さは犯罪というか場所の無駄遣いのような気がする」
「へえー。んじゃ、観に行ってみようかな。あ、ちなみに俺の私室はアスカたちの部屋のすぐ上だ。何かあったらいつでも訪ねて来てくれな」
「……うわ、近っ。てことはあそこの場所に決まったのも半ば必然か。お前がそうさせたみたいなもんなんだな。というか、もしかしてその辺全体駄々こねたのか」
「駄々とか人聞きの悪ぃこと言うな、子どもじゃねぇんだから。国王として当然の権利を力の限り行使しただけだっつーの」
「どこからどう突っ込むべきか悩むところだが、普通の国王陛下は客を自分の傍に住まわせたいとか城下に行かせるのは嫌だとか城を改造しろとかは言わんだろ。なんて子どもじみた権利だ……」
「うるせぇな、いいだろそんくらい。俺だってたまにはわがままのひとつも言うんだよ」
「いやまぁ別にいいけどな、嫌ってわけでもないし。じゃあ俺は帰るぞ、一緒に来たいなら来いよ、特別に許可してやるから」
「……特別にって何だ、特別にって。許可がなかったら俺はついていけないのか」
「当然だ」
「ええぇ……っ」
 人でなしな飛鳥の言にレーヴェリヒトががっくり肩を落とす。
 正直、このリアクションは面白い。
 顔だけは無表情のまま、胸中では笑いをこらえつつ飛鳥が歩き出すと、大仰な溜め息をつきながらレーヴェリヒトがその隣に並ぶ。その更に隣にはツァールトハイトがいた。
「そこまでご一緒しよう、アスカ、レヴィ陛下。わたしの用事はもう終わってしまった、用もないのに、いつまでもこんな、実のない虚しいところにいても仕方がない」
 きっぱりとした彼女の言にレーヴェリヒトが苦笑する。
「仮にも十大公家が主催する夜会だぞ。あんまりでけぇ声で言うと取り巻きの連中にまたギャアギャア言われるぞ」
「はは、だがわたしにとってはそれが事実だ、名ばかり姿かたちばかりの集いは寒々しくて仕方がない。わたしとはこういう人間だとレヴィ陛下もご存知だろう、今更取り繕っても仕方があるまい? だが、うるさく騒ぎ立てる輩がいるならば、そいつらを斬って捨てて、大公家の面々と全力でぶつかり合うのも悪くはないな。きっと、素晴らしく楽しいことだろう」
「やめてくれ、お前が言うと冗談に聞こえねぇ。ただでさえ近隣諸国から狙われて不安定な状態なのに、外から中から騒ぎを起こされちゃマジでリィンクローヴァが沈んじまうよ」
 冗談めかした、しかし決して本当に戯れのみではないツァールトハイトの言葉に、レーヴェリヒトがまた深々と溜め息をつく。
「おや、それは、失礼。今はまだ楽しそうなことがたくさんあるから、そんなことはしない」
 女領主が言うと、レーヴェリヒトはその紫水晶の双眸に、苦笑と不可解に強い光を乗せて肩をすくめた。
「そうしてくれ。俺としても、お前を手にかけるのは勘弁願いてぇ」
「お前とは戦えぬとは仰らないんだな、陛下は」
「――当然だ、俺はリィンクローヴァを統べる王だからな。国の安寧と民の幸いを守る義務がある。たとえお前がメイデの旧い友人だろうが何だろうが、国と民に弓引くなら容赦はしねぇさ」
「ふふふ、それは心強いことだ。甘いかと思えば存外厳しい、陛下のそのご気性、わたしは好きだぞ」
「やめてくれ、褒めても何も出ねぇよ」
 淡々とした口調でディープな会話を交わしながら進むふたりに一生懸命歩幅をあわせて追い縋りつつ(何せ脚の長さが違う)、飛鳥はレーヴェリヒトの横顔を見上げる。
 携帯電話にびびって半べそになろうとしょうもないネタで駄々をこねようと、二十四歳とは思えない子どもっぽさを有していようと、今のこのときの彼は確かに一国の王であり、為政者である者の厳しく美しい顔をしていた。その横顔に、矜持と信念とが見て取れた。
 どんなに甘い、国王という位置にそぐわないようにすら思える言動ばかりが目立っても、きっと彼の根本は紛れもなく王なのだろう。国と人とを守るために生きるものなのだろう。
 それは、隣にいた飛鳥が思わずくすぐったくなったほど、心地のよい覚悟と信念だった。
「今一瞬王様っぽかったぞ、お前」
 一応、そこそこ褒めるつもりで言った飛鳥だったが、言われた方は珍妙な顔をして、
「って、一瞬だけかよ……」
 呻くようにつぶやいた。
 飛鳥は肩をすくめる。
 早足で進む三人に――といっても本当に早足なのは飛鳥だけだが――、周囲から様々な視線が寄せられているのが判る。
 だが、羨望も嫉妬も畏怖も不審も、他者から向けられるいかなる感情も、今の飛鳥にはどうでもいいことだった。そこに、今の飛鳥を揺らがせることのできるものは存在しなかった。
「常に王様っぽいとは自分でも思ってはいないだろう。思ってるとしたら盗人猛々しいってヤツだ」
「うわーなんかえれぇ言われようだ、俺……」
 遠い目をしたレーヴェリヒトがそうこぼすのへ、かすかに笑った飛鳥は、ふと、何の気なしに見上げたホールの壁、天井に近い位置に、何十枚もの大きな絵が飾ってあることに気づいて思わず立ち止まり、それらを凝視した。
「……レイ」
「なんだよ。王様らしくなくて悪かったな」
 飛鳥が呼ぶと、レーヴェリヒトはものすごくひがみっぽく応えたが、飛鳥が立ち止まっていることに気づいたらしく、訝しげながらも律儀に飛鳥の傍まで戻ってくる。
 飛鳥はそうじゃない、と前置きして壁を指し示した。
「そこで拗ねるなよ、そんなだから尚更らしくないと言われるんじゃないか。学ばないヤツだなお前。……それはまぁいいとして、俺が言いたかったのはそのことじゃない、あの絵だ」
「絵?」
「ほら、あそこの、天井の近くに飾ってあるやたらでかい絵。なんかあの絵の中の奴ら、お前に似てないか?」
「……ああ」
 飛鳥が指差す先を観たレーヴェリヒトが苦笑して頷く。
「そりゃそうだろ、あそこに並んでるのは、俺の親父殿(おやじどの)と祖父様(じいさま)を筆頭に、連綿と続いてきたリィンクローヴァの歴代国王の肖像画だからな」
「ああ……それでか。何でこんなとこに置いてあるんだ?」
「ん、ここはもともと王族所有の館だったんだ。王族が主要な貴族を集めて私的な会合を開くときなんかに使ってたんだけどな、王族の数が減ってからはそれもなかなか行われなくなって、親父殿の代のとき、十大公家に請われて譲り渡したんだが、そしたらまぁこういう会場になったわけだ」
「あー、なるほどな。それなら肖像画がそのまんまなのも頷けるな。へえ、しかし本当に皆よく似ているんだな、血が濃いってことなのかな。お前は祖父(じい)さんと一番似てる気がする」
「ああ、それはよく言われるよ。性格的にもよく似てたらしい」
「……臣下はさぞかし苦労したんだろうな」
「どういう意味だ、そりゃ」
「逐一事細かに説明してやろうか?」
「……すっげぇ碌でもねぇ予感がするから遠慮する」
「なんだ、慎み深いヤツだな」
「それを慎みと言い切るお前が判んねぇ……」
 そこには、レーヴェリヒトの容貌に時間という名の積み重ねと知性とを付け加えたとでも表現するべきいくつもの顔が、数十に渡って描かれていた。リィンクローヴァは五百年ほどの歴史を持つというから、歴代国王の肖像画ともなると相当な数だ。
 もっとも、たとえ似てはいても、レーヴェリヒトの抜きん出て美しい、ある種の神々しささえ感じさせるほどの、繊細優美にして勇猛な美貌に真実並ぶものはいなかったが、それでも少なくとも、そのどれもが貴族たちには到底及びもつかぬほど美しかった。
 巧みな絵師ばかりが描いたのだろう、絵はどれもがいきいきとして、表情豊かだった。王だけでなく、女王の姿もあるが、彼にせよ彼女にせよ、遠い子孫であるレーヴェリヒトと同じように、民と民の幸いに近い為政者であっただろうことが伺える絵だった。
 代々の王が、民に愛されていたことを髣髴とさせる。
 飛鳥はそれらの絵を、ひとり分ひとり分鑑賞するというより観察する心境で眺めていたが、彼が気になったのは、絵の中の人々とレーヴェリヒトの、たったひとつの違いだった。
 トラウマや疵を持つ者として、あまり他者の深いところへ踏み込もうとはしない飛鳥だが、今回ばかりは問わずにはいられなかった。
 レーヴェリヒトのことだから知りたい、という、彼にしては珍しい欲求が根差していたのだ。
「……だが」
「ん?」
「なんで、お前の髪は銀色なんだ?」
「……ああ、うん、」
 レーヴェリヒトが、なんともいえない表情を浮かべる。
 怒りや哀しみではない、苦笑めいた――諦観にも似た表情だった。
「変かな、俺だけ銀って」
「いや、俺は好きだけどな、その色。でも、他の奴らはあんな黒だし」
 ――そう、レーヴェリヒトの父親も、祖父も曽祖父も、王も女王も、数十代に渡る彼らの髪は、濡れて輝くような美しい漆黒だった。飛鳥の髪、加護色と呼ばれたそれと同じような。
 目の色は、色合いの濃さこそ違うものの、全員が紫水晶なのだが、何故かレーヴェリヒトの髪だけは、代々の王や女王とはまったく違っていた。
 飛鳥はレーヴェリヒトの、まぶしい白銀の髪を凝視する。
 これで御髪が黒なら。
 ジオールダの口にした言葉が、今更のように耳に甦る。
 無論、その心根と眼差しをこそ貴く思う飛鳥にとって、髪の色が違うからといって、何が変わるというわけでもないのだが。