月の綺麗な夜だった。
 白々と輝く半円の月と、雲ひとつなく晴れ渡った黒貴水晶のような漆黒と、白銀の欠片を一面に撒き散らしたかのような星々が美しく天空を彩る、とても静かな夜だった。
 アスカとその眷族ふたりと連れ立って、王城から少し離れた位置にあるホールより、王城内の居住区へと戻りながら、レーヴェリヒトは、あまりにも今が穏やかであることに、そして彼自身の心があまりに静かで満ち足りていることに違和感すら覚えていた。
 しかし、それはとても幸せな違和感だった。
 ――つい半月前まで、レーヴェリヒトは、リィンクローヴァを狙う国々、特に隣接した三つの国、フェアリィアル・クエズ・ダルフェとの戦いに身を投じていたはずだった。
 優秀に過ぎる五人の将軍、レーヴェリヒトにとっては兄とも姉とも呼ぶべき彼らの見事な采配と、国を守るという自負に奮い立った兵士たちのめざましい働きのお陰で、さしたる被害もなく戦いはひとまず終結していたが、まだ隣接国はリィンクローヴァを諦めてはおらず、リィンクローヴァの人々は勝っても負けてもいない。
 大陸の――世界の覇権を求める連中に囲まれ、中でも、アルバトロウムすなわち支配者を意味する偉大な名を冠する大国シェトランが背後に控える現状で、楽観視など何も出来ない状況下において、しかし何故かレーヴェリヒトの胸中に恐れや不安はなかった。それらの影がきざすことすらなかった。
 ただ、来れば来るだけ戦って勝つのだという、当然のような強い決意だけがある。国の未来を背負って立つという意志に関しては、誰よりも強いと自負してもいる。
 しかし、レーヴェリヒトの心が、今こうして穏やかに凪いでいるのは、それらの意志や自負の所為ではなかった。
「ああ、そうだ」
 不意に、横を歩くアスカが、前を行くふたりの眷族の背中を見つめたまま声を上げたので、彼は首をかしげて続きを促した。
 彼よりも拳ひとつ分小柄な少年の、小綺麗に整えられた髪が目に入る。
 ――リーノエンヴェが侍女や侍従を派遣して、出で立ちを整えたという話だったが、洒落っ気や見栄えへの配慮のまるでないこの少年に華美な衣装をまとわせるのは、なかなか大変な作業だったのではないか、などと、自分のことを完全に棚に上げて思う。
 実際のところ、レーヴェリヒトもまた盛装だの正装をさせられるときには派手にごねるので、はっきり言ってどっちもどっちなのだが。
「おう、どした?」
「礼を言おうと思っていたんだ」
「何のだ?」
「あの部屋の、だ」
「別に要らねぇよ、そんなの。俺がそうしたくてしたんだから」
「違う」
「……へ?」
「部屋の配置は確かにお前のわがままなんだろうけどな」
「悪かったな、わがままで」
「そこで拗ねるなよ、仮にも二十四歳の成人男子」
「仮にもだけ余計だ。……じゃあ、なんなんだよ?」
「あの場所だ」
「場所?」
「住まいを決めるとき、風景がよく見える場所を選ぶように言ってくれたんだろう。あの、絵みたいに綺麗な景色を、毎日自分のもののように見られるのは悪くない。……ありがとう」
「……そっか。うん、そう言ってもらえると俺も嬉しい、あの場所を使うように言ってよかった」
 あまり表情の動かないまま、アスカが、ぽつりぽつりと雨垂れのようにこぼす礼の言葉に、レーヴェリヒトははにかんだ笑みを見せた。
 生まれて初めての友達が、しかもあれだけ我の強い、口の悪い少年が、自分が身体を張って――命をかけて守っている国と風景とを、率直に好きだと言ってくれたのが嬉しくて選んだ部屋だった。
 大公家の一部を含む、上級貴族を筆頭とした口うるさい年寄りたちは、王家の威信云々とアスカの出自の不確かさについてのあれこれを声高に言い募ったが、自分のことに関してはあまり我を通そうとしないレーヴェリヒトも、今回ばかりは頑として譲らず、結局自分の主張を貫き通した。
 王として――国の頂点にあって国のために尽くすものとして、己を殺してでも国のために働いてきた彼が、ひとりの人間に関することでここまでむきになることは珍しく、それに半ば驚き、半ば喜んだエーレやグローエンデが助け舟を出してくれたほどだ。
 ――そう、レーヴェリヒトが今、決して楽観視出来ないこの状況下においてこんなにも満ち足りている理由がアスカという少年にあることは、疑いようのない事実だった。
 彼とその眷族がレーヴェリヒトの身近に滞在して十数日、たかがそれだけの日数で、レーヴェリヒトはもう一生分の喜びを経験したような気すらしている。これが一生分の幸いだったのだとある日唐突に言われても納得してしまうような気すらしている。
 そのくらい、アスカの存在は、レーヴェリヒトの、恵まれてはいても決して望み通りではなかった日々に鮮やかな彩りを与えていた。
「俺の故郷は本当に緑の少ない、汚れたところだったからな。もちろん、懐かしいことに変わりはないが、それでも、あの風景は衝撃だった。せっかくだから、今度ケイタイデンワのマチウケにでもしておこう」
「なんかまた不吉な単語を聞いたような気がするが、それはいい意味なんだよな……?」
「いい意味に決まっている。ああ、もちろんお前の顔もちゃんと保存してあるから心配するな。隙をついてまたコレクションを増やさないとな」
「何の心配なのかさっぱり判んねぇ……」
 聞くだけで飛び上がって逃げ出したくなるほど恐ろしいものの名称に、レーヴェリヒトは思わず呻いたが、アスカは表情の少ない顔にこんな時ばかり意地悪で楽しげな色を載せ、
「光栄に思えよ、この俺の眼鏡に叶ったんだからな」
 素晴らしく偉そうに言い切った。
 レーヴェリヒトは深々と溜め息をつく。
 無論、こんな他愛のないやり取りですら、かけがえのないと言うに相応しいものなのだが、何となく釈然としないのも確かである。
「お前がそういうヤツだってことはもう思い知ってるけどな……」
「思い知ってるなら、諦めて甘受しろよ。残念ながら、俺はこうでしか生きられないからな」
「そういう揺るぎなさっつーか強靭さを持ってるのは、確かにスゲェことだし大事だとも思うんだけどなぁ……」
「王様、人間諦めが肝心だってよく言うよ? アニキはああだからアニキなんだって、すぱっと納得した方が楽じゃない?」
「キョウスケ、お前もなんかスゲェ達観してんなぁ。実感こもってるっつーかなんつーか」
「うーん、そのほうが身のためだと思うしさー」
「えらい言われようだな、俺」
「若、こういうときは褒め言葉ということにしておくのが一番だぞ」
「……お前のその思考回路もよく判らん……」
 などと、言葉遊びのような益体もない言を交わしつつ、四人はやがて王城へ到着する。
 レーヴェリヒトが、王である己が身をまったく顧みず、単独で行動することにすっかり慣れている顔見知りの衛兵に声をかけ、居住区に至る門を開けてもらって、彼らのどこか親しげな敬礼に苦笑しつつ城内へと入る。基本的にレーヴェリヒトは、兵士を含めた一般人に受けがいい。
 ランプによって明るく照らされた階段を延々と上がり、外見の通り武人ではないらしいキョウスケがぐったりし始めた頃に、ようやくアスカたちの住まいのある階層へ辿り着いた。
 三人の部屋まではまだ少し距離があり、一般人の住まいがひとつ丸々入りそうなほどに広い廊下を歩きながら、レーヴェリヒトは部屋に至るまでの道程を思ってか悲壮な顔をしているキョウスケを見遣る。
「……ちょっと上の方に設定しすぎたか?」
「何の話だ?」
「部屋だよ、部屋。キョウスケが死にそうになってる」
「ああ……これは軟弱なだけだ。じきに鍛えるから構わん」
「そうなのか。まぁ、これから働こうってんなら、体力はあるに越したこたぁねぇしな。頑張れよ、キョウスケ」
「ええっ、いやあのっ、おれ別にそんな鍛えてほしいとか言ってな……」
「どんな方法が一番いいだろうな。軍に入れてもらうのが一番手っ取り早そうだが、戦時中にこんなヘタレの鍛錬を頼んでは迷惑がかかりそうだ。なら……森の真ん中にナイフだけ持たせて放り込むか、狼や虎がいるような山の天辺(てっぺん)に置き去りにするか、ああ、それとも無人島に一月ばかり置いておくのがいいかな」
「ちょっ……待っ、あのっ、お……おれの意志とか身の安全とかそういう……ッ!?」
「カネムラ、どれがいいと思う?」
「そうだな……その三つの案だと多分間違いなく死ぬぞ、若。エンドウの体力のなさは組でも話のタネになるほどだったからな」
「ううっ、フォローありがとうカネムラのアニキっ……て、喜んでいいのかよく判んないけどっ」
「……そうか、さすがにきつすぎるか。なら……飢えた雄牛の群れの中に、干し草を背負わせて突っ込ませるのはどうだ? 雄牛は犬、干し草は肉に変えてもいい」
「そ、それも充分死んじゃうって! カネムラのアニキ、アニキになんか言ってやってよ! アニキがやっぱりやめとこうって思うようなフォローをガツンと!」
「ん、そうだな、せめて最初は飢えた羊の群れくらいにしてやってくれ」
「それ全然フォローじゃないしっっ!」
 悲鳴のように叫んだキョウスケが頭を抱える。
 レーヴェリヒトは思わず吹き出した。
 真顔で人でなし全開のアスカと、アスカの提案を真剣に算段している風情のあるユージン、そしてちょっぴり泣きが入りそうなキョウスケ。
 傍から見ている分には素晴らしく面白い。
「いやー、なんつーか、お前ら観てると飽きねぇなぁ」
「……王様に言われるとものすごく複雑な気分なんだけど、おれ」
「心配しなくても、レヴィ陛下も充分面白いぞ」
「……アスカの人でなしぶりに目先をくらませられがちだが、お前らも結構失礼だよな……」
「人でなしでない俺は俺じゃないぞ、レイ」
「それ、胸張って言うべきことじゃねぇだろ……」
 ものすごく脱力して、ぐったり返すレーヴェリヒトに、アスカが晴れやかに意地の悪い……それでいて楽しげな顔で笑い、ユージンが真顔のまま首をかしげ、キョウスケがそうかなーなどとつぶやいた辺りで、一行は部屋へと到着した。
 扉のすぐ横にあるランプが、辺りを明るく照らしている。
 盗まれるようなものもなく、人が頻繁に出入りする区域でもないという理由から鍵をかけていないらしく、鍵穴には目もくれず、ユージンと並んだキョウスケが無造作に取っ手へと手を伸ばす。
 それを観るともなしに観ていたレーヴェリヒトは、ふと思い出したことがあって、やはり同じように一歩下がった位置からキョウスケたちの様子を観ていたアスカに声をかけた。
「そだ、アスカ」
「ん」
「ヴェスタのことだけどな」
「ああ」
「出来れば、よろしくしてやってくれな」
「……何故お前がそれを言う」
「グロウの側近だからな、俺も付き合いが長ぇんだ」
「ほう。それで?」
「ん、あいつ、肌の色を観れば判ると思うんだが、第二大陸民との混血でな。母親が向こうの人間で、こっちには奴隷として売られてきたらしいんだが、父親が誰かは判らねぇらしいんだ。母親も早くに死んで、小さい頃から苦労してきたんだそうだ」
「ああ……そう言えば、奴隷出身だと言っていたな。本人も、将軍閣下も」
「それで、ヴェスタが十二歳かそこらのころ、縁あってグロウが引き取ったんだと。世話をしたのもグロウだし、あいつにとっちゃ弟みてぇなもんなんだ。グロウはひとり息子だしな」
「……それを何故俺に寄越す?」
「判んね。もちろんお前を買ってるってのもあるんだろうが、他にもなんか考えがあってのことだと思うぜ。グロウは俺なんかよりずーっと賢いし、思慮深ぇからな」
「ふむ」
「ヴェスタは本当に優秀なんだ、心配りが細やかだし、骨身を惜しまずよく働く。きっと、お前の勉強の手伝いもしてくれるだろう。だからまぁ、ちっとでいいから気にかけてやってくれ」
「……そうか。お前が言うならそうしようか」
「おう、ありがとな」
「礼を言われるほどのことじゃない」
 淡々と返したアスカが肩をすくめ、レーヴェリヒトが人でなしなくせに決して冷酷無比な悪人ではない少年の様子にちょっと笑ったのと同時に、キョウスケが扉をゆっくり開く。
 ――――不意に、血の匂いが鼻をついた。
 闇の中から……部屋の中から、漂ってくる。
 アスカが眉をひそめた。
 肌が、ぴりりとした殺意を感じ取る。
「退がれ、エンドウ!」
 ――それらはすべて同時だった。
 眉根を寄せたアスカが厳しい――鋭い声を発するとともに動き、きょとんとしているエンドウの襟首を掴んで、外見に似合わぬ怪力でもってその身体を素早く引きずり倒したのと。
 無表情のまま、非常にこなれた動きで躊躇いなく剣を抜いたユージンが、アスカとキョウスケの前に一歩踏み出したのと。
 そして、半ば本能のように殺気に反応し、反射的に剣を抜いたレーヴェリヒトが、部屋に差し込む月光によって煌き、浮かび上がった刃に向かって突っ込んだのは。
「えっ、う、うわわ……ッ!?」
 問答無用でアスカに引きずり倒されたキョウスケの困惑した悲鳴が響く。

 ぢっ、ぎっ、がちっ!

 ユージンの剣と、レーヴェリヒトの剣がほぼ同時に鋭い金属音を立て、中から飛び出してきた何者かの凶刃を受け止める。広々とした廊下に、白銀の煌きが散った。
 凶刃の主がふたりいて、ふたりともが目だけ残して全身を黒で覆っていることを確認し、レーヴェリヒトは眦を厳しくする。
「ここをリィンクローヴァの王城と知っての愚行か、賊!」
 厳しく呼ばうと、剣を合わせた賊の目、茶色のそれが困惑を含んだ。――ような、気がした。
「――――国王か!」
 低く吐き捨てられた声は壮年の男のものだ。
 聞き覚えは、ない。
 レーヴェリヒトは銀の眉を吊り上げる。
「確かに俺はリィンクローヴァの王だが、貴様らに軽々しく吐き捨てられるような覚えはねぇ! 退くか縛されるか好きに選べ、命が惜しいならな!」
 轟と吠えて一歩踏み込み、男が手にした段平を弾き返す。男はわずかによろめき、茶色の双眸に忌々しげな光を載せて体勢を立て直し、それからまた剣を構えた。
「何とも、間の悪い……!」
 自嘲気味に独白する男は、レーヴェリヒトの腕力に力負けした様子だったが、彼の腕そのものは決して悪くない。むしろ、手練れと呼ぶに相応しい足さばき、剣さばきだ。
 男は何かを迷う風だったが、ユージンと剣を交えたまま身動きできずにいるもうひとり、緑色の目をした賊が、
「オージ、この際だ、もろともに斃せ!」
 そう、オージと呼ばれた男よりもいくらか低い声で叫ぶに至って、意を決したように剣をきつく握り締めた。
 殺意が彼の全身に満ちる。
 近くの空気に触れただけで切れそうだ。
「あなたに恨みはない。が……加護持ちともども、死んでいただかねばならん。それが、我々の受けた命なのでな」
 命、という言葉にレーヴェリヒトは眉をひそめる。
 まだアインマールに来て数日のアスカの命を、一体誰が奪えと命じたのだろうか。心当たりは……ないとは口が裂けても言わないが、それにしては反応が早すぎる。
 レーヴェリヒト自身は、外からも――ここだけの話だが内からも、命を狙ってくるような連中をあちこちに抱えているので、自分が狙われていると聞いたところで動じはしないが。
 ちらり、と、視線の片隅で部屋の中を見遣れば、開かれたままの扉の向こう側に、線の細い青年が倒れ伏しているのが判る。頭に――額に、決して少なくない血がにじみ、床に血溜まりを作っていた。
 命があるのかないのか、窓から部屋に差し込む月光だけでは判然としない。
 何か生きている証しを示してみせろと念じても、青年の身体はぴくりとも動かず、その目は閉じられたままだ。繊細な美貌に刻まれた苦痛の色が、彼の受けた衝撃を生々しく物語る。
 レーヴェリヒトの奥歯がぎりりと鳴った。
「――――誰に、頼まれた」
 怒気を含んで言うと、茶色の目が笑みのかたちに細められる。
「問われて応ずるとお思いか」
「違いねぇ。なら……身体に訊くとしようか」
「それが、お出来になるのなら」
「――――甘く、見るなよ!」
 低い声とともに、身を低くして一歩踏み込む。
 神速のと時に称されるレーヴェリヒトの動きに、あまりに軽々と懐へ入り込まれた男から驚愕と焦りの気配が伝わってくる。
 レーヴェリヒトは斟酌せず、そのまま華奢な剣を叩き込んだ。慣れたヴァイスゲベートではないが、いかなる武器であっても手足と同等に扱えるのが真の武人というものだ。レーヴェリヒトの動きに不自由はない。
 殺すつもりはなかったが、いかに手加減していたとはいえ、随一の武人と言われるレーヴェリヒトの一閃を、男は間一髪ではあったが何とか避けた。ただ、完全に無傷とは行かなかったようで、黒い衣装の腹の辺りが切り裂かれ、浅黒い肌が覗く。肌には一筋の赤い傷が刻まれていた。
「ちっ」
 男が小さく舌打ちをする。
 それから、忌々しげに茶色の目を歪め、段平を構え直す。
 ――にわかに、空が曇り始めた。
 濃い紺色の雲に、月や星や黒貴水晶の空が覆い隠されてゆく。
 風が、雨の匂いを含んだ。
 少し離れた場所では、ユージンと緑の目の刺客が剣を交えている。
 刺客は刃の分厚い段平、ユージンはレーヴェリヒトのものとよく似た儀礼用の細剣だったが、ユージンはまったく力負けせず、刺客の打ち込みを受け止め、力を巧みに殺しては弾き返し、反撃に転じていた。
 甲高い金属音のあと、互いに離れてから、刺客が感嘆の声を上げた。
「貴様……何者だ? 見ぬ顔だが、そのわりには、やる」
「何者と問われて堂々と名乗れるようなモンでもねぇが、敢えて言うなら若の下僕だ。多少できねぇで、傍にゃいられまい?」
 淡々と――飄々と、無表情のままでユージンが答える。
 立ち姿は無造作だが、そこに隙はなかった。
 ゲミュートリヒではイスフェニアやノートヴェンディヒカイトに混じって鍛錬していたと聞いたが、これを見ればなるほどと納得も出来る。
「……無関係の者を殺めたくはない、そこを退け。我らは命さえ果たせればそれでよいのだ」
「若とレヴィ陛下を殺すことが『命』か」
「無論」
「なら、あんたは俺の敵だな。主人の命を狙う敵を前にして、下僕が退くわけにゃ、いかねぇ」
「……堅いな。残念だ、いずれ名を残す猛者を殺めるのは」
「は、そういう大口は勝ってから言ってくれ」
「ふむ……違いない」
 緑の目をほんのわずか笑みのかたちにした刺客が、段平を構えて撃ちかかる。彼もまた非常に訓練のなされた手練れで、その一閃は鋭く――正確で、躊躇いがなかった。
 彼の一撃は、風のように素早くユージンの立っていた場所を薙いだが、赤い髪の眷族はというと、ほんのわずかに立ち位置を変え、その剣を軽々とかわしていた。空気が刃に斬り裂かれる音がする。
 細剣を巧みに操ったユージンが、最小限の動きで刺客に撃ちかかるのを目の端に見ながら、レーヴェリヒトはもうひとりの刺客、オージと対峙していた。オージは六を意味する神聖語だ、恐らく便宜上の名だろう。
 光のような速さで揮われたレーヴェリヒトの細剣が、ひゅっ、という鋭い音とともに、夜気を斬り裂いて刺客を襲う。
 刺客の威勢を削ぐ目的で揮ったそれは、レーヴェリヒトの意図の通り、黒布で覆われた刺客の頬を覆面ともども浅くなく――正確無比に斬り裂き、勢いよく血を流させた。
 覆面が斬り裂かれ、刺客の口から顎にかけてがあらわになる。
 それらのかたちから察するに、三十代後半から四十代前半の男だ。
「く……」
 刺客の口から焦りの声が漏れる。
 統べる国が小国ではあれ、そして若輩の王ではあれ、その武勇をもって大陸の隅々にまで名を知られるレーヴェリヒトだ。一対一の戦いで、そうそう遅れを取るはずもない。
 だが、刺客は諦める様子も、退こうとする様子もなかった。
 無論のこと、暗殺などという後ろ暗い仕事を生業とする連中が、相手が手練れだからといって簡単に退けるはずもないことは、その道に詳しくないレーヴェリヒトでも理解は出来る。
 理解できたところで、何を斟酌するわけもないのだが。
 早くアルヴェスティオンを医者に、という意識も強く、早々に勝負をつけようとしたレーヴェリヒトだったが、そこで不運だったのは、そのときの彼が夜会帰りだったというそれに尽きた。
 夜会にヴァイスゲベートのような大剣を持ち込むのは不粋だという、侍従や侍女やリーノエンヴェの言葉に従って、華奢で美しい細剣などを佩いていたことが不運だった。
 洒落っ気のない主人を、何とか見栄えのする姿に仕立てようと奮闘する彼らを責めるわけにも行かないが。
「こちらも、仕事なのでな……!」
 全身から闘気を噴き上げたオージが、鋭い呼気とともに段平を揮う。
 レーヴェリヒトはその斬撃を、当然のように美しい細剣で受けたが、しかし彼は、ヴァイスゲベートほど、それが丈夫ではないということをすっかり失念していた。
「……あ」
 段平の重い一撃に耐え切れず、刃が半ばから折れるに至って、
「しまった……」
 自分の迂闊さに愚痴めいた声をこぼす。
 からん、という、金属片が床に転がる音が、やけに寒々しく響いた。
 オージが、茶色の目に勝機を見出したもののする笑みを浮かべた。
「気の毒だが……容赦は、せぬ」
「は、してもらおうとも思ってねぇよ」
 返すレーヴェリヒトに焦りはない。
 恐怖も、負けるつもりもない。
 剣を失ったからといって、それが敗北とは限らないのだ。
「なるほど。さすがは、随一の武王」
「こんなときに褒めるなよ……照れるだろ」
「正直な気持ちだ」
「そりゃ、ありがとよ」
 ゴウ、と、風を引き裂くような音を立てて段平が襲いかかって来る。躊躇いのない、正確で重い一撃だったが、レーヴェリヒトの目にはその剣筋がつぶさに読めていた。
 軽く身を捻り、避ける。
「つまんねぇぞ、もうちっと楽しませろよ」
「ご期待に添えず、申し訳ない」
 危機的状況に陥れば陥るほど昂揚し研ぎ澄まされてゆく己の精神の在り方を、結局のところ戦場以外には生きられない欠陥品だと自嘲しつつも、次々に繰り出される段平を易々とかわし、反撃のチャンスを狙う。
 いつの間にか、夜空は分厚い雲で覆い尽くされていた。
 ぽつり、と、最初の一粒が降り注いだ、そう思った瞬間、ざあっという音とともに雨が降ってくる。一粒一粒が大きい、激しい雨だった。
 その雨に、レーヴェリヒトのみならず刺客までが、ほんの一瞬気を取られたとき、

 ぶんっ

 何か、ひどく重いものが空を切る鈍い音がした。
 そう思った瞬間、ものすごく嫌な予感がして、レーヴェリヒトは後方に飛んで逃げる。
 と、たった今彼が立っていた場所を、大きな塊が残像すら伴うほどの速度で通り過ぎ、
「ッッが……ッ!?」
 まったく予想していなかったらしいオージの脇腹辺りに激突し、刺客の身体を吹き飛ばして、廊下の手すりに激突させた。人間の身体が、何かとしたたかにぶつかる鈍い音がする。
 オージが、低い、くぐもった声で呻いた。
 そちらを見遣ると、見事な材質と細工のテーブルの下敷きになっている。
 ――あの光沢は、レッヒェルン玉樹だ。
 レッヒェルン玉樹は、見かけの優美さに反して大層重い。テーブルは小振りだったが、それでも、凶器としては充分すぎる重さを持っているし、何よりあの速度で激突されればただでは済むまい。
 むしろ、あの時彼が避けなかったらどうするつもりだったのか、小一時間ばかりみっちり議論したい気すらするレーヴェリヒトである。碌でもない返答が返って来るだけのような気もするが。
「お、おのれ、卑怯な……!」
 テーブルの下から何とか這い出したオージが、怒りと怨嗟に満ちた唸り声を上げる。
 その視線の先にいるのは、
「は、油断する方が悪い。そちらから闇討ちを仕掛けておいて、どの口が卑怯とかいう欺瞞を吐くか。俺を怒らせたいのなら、素直にそう言え」
 ――確認するまでもなかった。
 傲然と……小揺るぎもせずに立ち、黒貴水晶の双眸を静かで冷ややかな怒りに輝かせたアスカの姿と、彼のいる場所を目にして、レーヴェリヒトは安堵とも苦笑とも取れぬ息を吐く。
 アスカは、アルヴェスティオンの傍らに立っていた。
 同じく青年の傍らにしゃがみ込んだキョウスケとともに、彼の様子を確かめていたらしかった。
 アルヴェスティオンに対して冷淡だった少年を、ほんの少しでも動かしたのが、レーヴェリヒト自身の言葉なのだと考えることはくすぐったかったが、彼はそれを事実だと認識してもいた。
「レイ」
 まだ闘志を萎えさせてはいない刺客たちと、油断なく対峙するレーヴェリヒトへ、アスカの静かな声がかかる。
 レーヴェリヒトは何も口にせず、微動だにしなかったが、
「気を失ってるだけだ、問題ない」
 アスカのその一言に、わずかに唇をほころばせた。
「何の理由で俺を狙ったのかは知らないが、頭の悪い振る舞いと、無関係な他者を巻き込んだことの罰は受けてもらうぞ」
 淡々と、冷ややかに言ったアスカが一歩踏み出す。
 緑の目の刺客が小さく舌打ちをした。
 そして、
「……退け、オージ!」
 鋭く、片割れを呼ばわる。
 レーヴェリヒトと睨み合っていたオージが、眉をひそめたのが判った。
「ミスト、何を……!?」
 緑の目の刺客、ミストすなわち九を意味する名で呼ばれた男が、忌々しげな声を漏らす。
「予想外のことが重なりすぎた、三対二では我々の手には余る! 体勢を立て直して再度挑めと、皆に伝えろ!」
「待て、お前は……」
 オージは何かを言い募ろうとしたが、腐っても訓練を受けた猛者と言ったところか、ふっと表情を厳しくすると、
「判った、そうしよう」
 そう、つぶやくように言うや否や、素早い身のこなしで、唐突に廊下の手すりを飛び越えた。
 ――否、それは飛び越えたのではなく、
「馬鹿な、ここが何階だと思ってやがる……!?」
 階下へと、飛び降りたのだ。
 地面まで四十シェン・ロフという高さから。
 忽然と掻き消えた男の姿を追って、レーヴェリヒトは手すりの下を覗き込んだが、激しい雨に阻まれてという理由でではなく、優秀な視力を誇るレーヴェリヒトの視界の中に、無残に潰れた男の骸が入ることはなかった。
 ただ、外壁の突起に、落下しながらも巧く捕まり、それを繰り返して階下へと降りてゆく姿が見えただけだ。
「猿か、あいつは!」
 半ば呆れ、半ば驚いて呻いたレーヴェリヒトだったが、その傍らを、黒い風が吹き抜けるに至って、情けなくも悲鳴めいた声をあげる羽目になった。
「あ、あああ、アスカーっっ!?」
 非常識にも、夜会用の流麗な、決して動き易いとは言い難い衣装のまま、オージと同じように、軽々と――思い切り間違った方法で城を降りながら、ほんの一瞬上を向いたアスカが怒鳴る。
「情けない声上げてる場合か! ぼさっとしてる暇があったら医者のひとりも呼べ、ボケっ!」
「心配してるのにボケはねぇだろ、ボケはっ!」
 あまりの言い様に、思わず手すりの下に向かって怒鳴り返すと、
「俺のことは気にするな、いいからヴェスタを何とかしてやれ!」
 更に怒声が返り、それきり沈黙が訪れる。
 まったく危なげなく着地したアスカが、オージの走り去った方向に向かって走り出すのが見えた。ものすごい腕力、ものすごい脚力だ。
「なんつー常識外の連中だ……!」
 愚痴りつつも、もうひとりの刺客、ミストとユージンにひとまず視線を向けたレーヴェリヒトだったが、お互い剣を構えた姿勢のままで睨み合っていた眷族の男が、
「若を追ってくれ、レヴィ陛下」
 そう言ったので眉をひそめた。
 レーヴェリヒトが何かを言うよりも早く、ユージンが更に言葉を継ぐ。
 視線は、ミストに注いだままで。
「何だろうな、嫌な予感がするんだ……俺の予感なぞアテにならんと言われちまえばそれまでだが。ここは俺が何とかする、彼のことはエンドウにさせる。だから……若を頼む」
 淡々とした、しかしどこか切実な響きを伴った声に、レーヴェリヒトは一瞬逡巡し、ユージンとミストとを見比べたが、すぐに肚を決めて頷く。
「判った。頼むから、死なねぇでくれよ」
「そうだな、まだ死にたかぁねぇしな」
 かすかな笑みが返ったのを確かめてから、レーヴェリヒトは踵を返し、走り出した。
 残念ながらに彼は、アスカや刺客のような非常識な外出方法は使えないので、地道に階段を降るしかない。それに、折れてしまった武器の変わりも必要だ。
 飛ぶように降りながら、通りすがった侍従に医者を呼ぶよう命じ、やがて門に至ると、衛兵から剣を半ば奪うようにして借りて、ふたりの消えた方向へ走る。
 このまままっすぐに行けば、王城から城下町へつながる四つの門の中でも、大きな川と、森とが隣接したところへ出る。
 恐らく刺客は、そこで闇に紛れようというのだろう。
 大まかな当たりをつけ、気配を読んで、レーヴェリヒトは雨の中をひたすら走る。激しい、大粒の雨に、ずぶ濡れになりながら。
「……なんか俺、王様らしくねぇな、いつも以上に」
 ぽつりと愚痴めいた言葉が口をついて出るのは、焦りなのか――不安なのか。本人にも、判然とはしない。