それは確かに夢だった。
 夢でしかない風景だった。
 まぶしいほど明るい緑に満ちた草原と、胸が痛くなるほど深い蒼穹と、どこまでもどこまでも続く美しい世界。
 どこまでも純粋で、どこまでもただ『在る』だけの、ありのままの自然が眼前に広がっている。
 それは、飛鳥の故郷には――両親を失ってからの五年と、最愛の少女を失ってからの二年を過ごしたあの薄汚い路地裏には、どうあってもありえない、鮮やかで瑞々しい風景だった。
 飛鳥が、ならばリィンクローヴァのどこかなのだとはどうしても思えなかったのは、草原に佇む彼の目の前で、無垢で親しげな笑みを浮かべている少女の所為だった。
 風景は確かに、飛鳥が魂を撃ち抜かれ、鷲掴みにされたリィンクローヴァのそれとよく似ていたが、そこに彼女が現れる理由が判らなかったのだ。本来なら、現れるわけがなかったのだから。
「……レイ……?」
 白っぽい薄茶色の髪と強い赤味のある茶色の目、病的なまでに白い肌の、抱き締めれば折れてしまうのではないかと心配になるほど華奢なのに、しかし凛とした強さを内包した美しい少女は、飛鳥のどこか呆然とした、どこか訝しむような声に、はっきりと笑って頷いてみせた。
『うん。久しぶり。元気?』
 ――――これは夢だ、と、思う。
 少女とまったく同じ姿をしたソル=ダートではなかった。
 表情も口調も仕草も、何もかもが、二年と数ヶ月前に喪った、大切な大切な存在そのものだった。
 もしも生きていれば、今年で十四歳になったはずだった。
 懸命で優しい、幼いながらも聡い少女だった。
 ――大切な大切な、彼女を守るためなら何を犠牲にしてもいいとすら思ったほど大切な、飛鳥のたったひとりの妹だった。
「……ああ」
 だからいつものように『夢』だと思ったのだが、しかし、飛鳥がこれまで見ていたのは、コンピュータ並の正確さで幸福だった幼い日々を再生し続ける、飛鳥自身の記憶だった。
 こんな風に、飛鳥の予測のつかない反応をする少女が、彼の夢に出てきたことは未だかつてない。
『なんか、大変そうだね。こんなところまで来ちゃったんだ』
「……まぁな」
 短く返すと、裸足でやわらかな草原を踏みしめ、少女が飛鳥へ近づく。
 白い、華奢な指が伸ばされ、飛鳥の頬へ触れる。
 そこに確かな温かさを感じ取って、飛鳥は瞑目した。
 ゆるゆると脳髄を這い上がるのは、どうしようもない無力感と絶望すら伴った苦悩だったが、その苦い感情が、この数日、たった数日間でずいぶん和らいでしまったことに飛鳥は気づいていた。
「何故……」
『ん?』
「こんなところで、お前に」
『あのね』
「ああ」
『わたしが、会いたかったから』
「……そうか」
『うん、尋ねたいことと、伝えたいことがあったから。だから、頑張って来てみたよ』
「そうか」
『――――ねえ』
「ああ」
『今、幸せ?』
「…………どうだろう」
『飛鳥。アーシィ。――――おにーちゃん』
「うん」
『あの綺麗なお兄さんは、わたしじゃないよ』
「……ああ」
『だけど』
「だけど?」
『きっと、わたしと同じことを祈ってる。わたしには、判る』
「何がだ」
『ねえ』
「うん」
『――――わたしが死んだのは、おにーちゃんの所為じゃないよ』
「…………ああ」
『わたしはもともと、長くは生きられなかったって、知ってたよね?』
「――……知っていた」
『うん。お父さんお母さんが死んだのも、プロフェッサーたちが死んだのも、おじいちゃんおばあちゃんがああなったのも、おにーちゃんが悪かったんじゃないよ』
「……そうかな」
『おにーちゃん。わたしの大好きな、大事な、誰よりも強いおにーちゃん。忘れないで、ずっと覚えていて。わたしも、お父さんお母さんも、プロフェッサーたちも、おじいちゃんおばあちゃんも、みんな願ってる』
 ツ、と伸ばされた儚い指先が、飛鳥の鼻を、額を、まぶたをそっと撫でる。
 飛鳥はその白い小さな手を取り、自分の頬に押し当てた。
 ――――温かい。
 これが真実夢であれ、何かの啓示であれ、飛鳥はこの瞬間に、この采配を感謝していた。誰ともなく。
『ねえ』
「――――うん」
『おにーちゃんだって、幸せにならなきゃいけないんだよ?』
「……」
『わたしと、お父さんお母さんと、プロフェッサーたちの分も、おじいちゃんおばあちゃんがそう願った分も、きちんと幸せでいなきゃいけないんだよ?』
「……」
 飛鳥は黙った。
 夢に諭されて押し黙る己を滑稽だと思いはしたが、それよりも深い位置で黙らざるを得なかった。
「レイ」
『うん』
「――――…………麗日(れいか)」
『……うん』
「俺には、よく判らない」
『判ってる。そういう性格だもんね、おにーちゃん』
「……そうかな」
『でも、責任なんか、感じないで』
「だが、俺は」
『みんな、自分の意志でああしたんだから』
「……」
『おにーちゃんは赦されたいなんて思ってないんだろうけど。ずっと背負っていくつもりなんだろうけど。――それを止めようとは思わないけど。でも、だったら、せめて覚えていて』
 少女が、その額を飛鳥の胸へと押し当てた。
 飛鳥は、壊れ物でも扱うように、そっとその身体を抱き締める。
 手の平に伝わる温もり、もう二度と感じることはないだろうと思っていたそれに、無念と後悔同様の……それ以上の、激しさすら伴ったいとおしさがこみあげる。
 飛鳥は、この少女を生かすため、彼女の幸いのためだけに、五年の月日を戦い抜いたのだ。
「レイ。俺には、お前の言うことはよく判らない」
『――……うん』
「でも、この前、面白いヤツに出会ったんだ」
『うん……知ってる』
「俺が、そいつのために生きたいと思うことは、お前への裏切りか?」
『…………本気で言ってる、それ?』
「いや」
『だったら、いいけど』
「よくは判らないが、しばらく何とかやってみるさ」
『うん』
「それが本当に弔いになるのなら、ひとまず生きてみると決めたのは、俺だからな」
『――――うん。それにね』
「それに?」
『おにーちゃんのこと必要な人、ここにもたくさんいるよ、きっと。あのお兄さんもきっとそう。――――助けてあげて』
「……ああ」
 レーヴェリヒト・アウラ・エスト・リィンクローヴァ。
 最愛の妹の呼び名、愛称を託した、少女と同じ眼差しを持つ青年王。
 今の飛鳥の執着が向く、ただひとつの存在だ。
 その名を脳裏に、胸中に思い描くと、数年前から引きずったままの無力感と諦観と苦い苦い懊悩とが、不思議とやわらぐのだ。
 だから、彼を守るために生きるのは、多分悪くない。
 小さな身体を抱き締めたまま、そんなことを考えていた飛鳥を、少女がはっとするほど美しい顔を上げて見上げた。
『……もう起きる時間だよ、おにーちゃん』
「そのようだ」
 言われてみると、いつものように、身体の感覚が曖昧になっている。
『きっと、これからも色んなことが起きるよ』
「……だろうな」
『辛いことも苦しいことも、哀しいことも、たくさんあると思う』
「ああ」
『でも、きっと、楽しいことも嬉しいこともたくさんあるよ』
「ああ」
『だから、頑張ってね』
「……ああ」
『わたしは、ここから観てるから』
「そうなのか。無理はしなくていいんだぞ」
『ふふふ、相変わらず甘いんだから。やっぱりおにーちゃんだね』
「そうかな」
『そうだよ。――じゃあ、おにーちゃん、またね』
「ああ」
 腕をはずすと、少女が一歩離れて手を振った。
 飛鳥はわずかに笑って頷く。
 身体が、ふわふわとした感覚に包まれ、周囲が光で覆われてゆく。
『――――…………忘れないで』
 徐々に何も判らなくなる視界と意識の中、少女の声が脳裏に響く。
『いつだって、幸せを祈ってる。わたしも、お父さんお母さんも、プロフェッサーたちも。おじいちゃんおばあちゃんだって。――――いつだって、祈ってるから』
 飛鳥はもう一度瞑目し、そして、目覚めへと向かった。
 肉体が覚醒しようとしている、それを意識の根本が感じている。

* * * * *

 目を開けると、辺りは白い朝日に照らされていた。
 恐らく、朝の七時前後だろう。
 先刻まで観ていた夢を思い起こし、少女の言葉を反芻して、飛鳥は緩い苦笑を浮かべた。
 そこに強い、切実な祈りが含まれていたことは判る。
 それが彼らの、心の底からの願いであるということも。
 彼らは、飛鳥が愛した人たちは、いつだって――生きている時も、その死の直前ですら――、飛鳥の幸いを祈っていたから。
 だからこそ、飛鳥は今もこうして生きているのだ。
 彼らへの弔いと、虚しい誓いのために。
「……今更だとは思う、幸不幸なんてものは。どちらにせよ、俺に許された時間は決まっているんだから」
 つぶやいて、身を起こす。
 身体のあちこちが軋んだが、頓着はしなかった。
 ――残り時間を数えるのにももう飽きた。
 ただ、それが徐々に少なくなっていくものであることだけが判っていればいいのだ。
「それでも、なすべきことをなそう、その力があるうちに」
 言葉は揺るぎなく、静かだが――――強い。
 こうと決めたらてこでも動かない、その頑固さと意地の強さは、自他ともに認めるところだ。
 さて着替えようかとベッドから降りかけたところで、寝室のドアをノックする音がした。控え目な、小さな音だった。
 金村ならもっと大きな音がするし、圓東に至ってはノックすらしない。
 しかし、ドアの向こうにある気配から悪意や敵意は感じられず、また覚えもあったので、
「……開いている」
 短く言うと、穏やかな声がはいと返した。
 ノブがくるりと回り、扉が開く。
「ウルルか」
 その向こう側にいたのは、ラピスラズリやサファイアを思わせる純粋な青を身にまとう、美しい異形だった。額から突き出た角も、感情を表すごとくに揺れるしっぽも、故郷であればこれほど奇妙なことはあるまいと思わせるのに、この童女めいた雰囲気を宿す異形とともにあっては、その可愛らしさを助長するに過ぎない。
「はい、おはようございます、昨夜は大変でしたね、――……アス、カ……!?」
 穏やかな、無垢な笑みを浮かべて一礼したウルルが唐突に息を飲んだので、飛鳥はベッドから降りようとした姿勢のまま動きを止めたのだが、
「あの、何か、あったのですか……?」
 綺麗に爪の整えられた、優美な指先に顔を指し示されるに至って、
「……あぁ」
 ようやく飛鳥は、自分がいつの間にか泣いていたことに気づいた。
 指先で触れてみると、頬がしっとりと濡れているところを鑑みるに、長時間涙をこぼしていたものであるらしい。
 苦笑して、夜着の袖で目元を拭う。
 泣くほど哀しかったわけでは、なかったのだが。
「別に、なんでもない」
「本当に?」
「ああ」
「本当ですか?」
「……やけに絡むじゃないか」
「あ、も、申し訳ありません……」
「いや、構わないが。そんなに追求されるとは思わなかった」
「だって」
「ん?」
「アスカが苦しいのは、いやですもの」
「……は?」
「あ、いえ、何でもありません」
「そうか……まぁ、いい。他のヤツらには言うなよ、からかわれそうだ」
「秘密ですか?」
「秘密にしておいてくれ」
「……はい」
 人差し指を唇に押し当て、『内緒』の仕草をすると、このボディランゲージはこの世界でも有効だったらしく、ウルルがにっこり笑って頷いた。同じように、内緒の仕草をしてみせる。
 飛鳥はかすかに笑ってからベッドを降り、クロゼットを開いて衣装を引っ張り出しながら、部屋の片隅に佇むウルルへ声をかけた。
「それで、どうした? あんたがこんなところまで来るなんて」
「あ、はい。昨夜の騒ぎでお疲れでしょうが、今日は中央黒華神殿までおいでいただかなくてはなりません」
「ああ、レイから聞いてる。浄化とかなんとか」
「そうですね、異形の《死片》は侮れない毒なので、早めに看ていただく方がよろしいかと思います。レヴィ陛下は善後策の算段でお忙しいらしいので、わたくしとにいやとがご案内いたします。それをお伝えしに参りました」
「判った、ありがとう。――いつ出るんだ?」
「はい、アスカの準備が整い次第ということです。それと、神殿は街中にありますから、時間があれば帰りに市場など見学してくればいいとレヴィ陛下が仰っておられました」
「そうか、それはなかなかに面白そうだな。眷族どもも連れて行ってやるか、いい気晴らしになるだろう」
「ええ、特にフィアナ通りの市場は品揃えがよくて、お値段もお手ごろですし、何よりどれも新鮮で美味しいものばかりです。他にも、綺麗な布や装飾品、木の細工品も置いてあって、一日見ていても飽きません」
「……詳しいな」
「えっ、あ、その」
「そこでうろたえるなよ。よく利用してるのか?」
「は、はい。あの、お菓子を作るときは、いつもそこで材料を買います」
「そうか、あんたの御用達か」
「はい」
「……なら」
「え?」
「きっと、本当に楽しいところなんだろう。時間があったら是非行ってみよう。案内してくれるか?」
「はい、喜んで!」
 飛鳥の言葉に、五百年もの時間を生きているとは到底思えないような無邪気さでウルルが笑み崩れる。
 素直に、なんのてらいもなく、可愛いヤツだと胸中に思いつつ、手早く服を着替える。
 昨夜飛竜から受けた一撃のお陰であちこちに打撲が出来、身体をひねるたびに鈍く痛んだが、幸いにも骨折はしておらず、大仰な魔法や器具のお世話になる必要はなかった。全身がむち打ち症のようになっているようで、非常に痛いが行動を妨げられるほどのものでもない。
 ありがたいものでもないから早く治れ、などと命令口調で思いつつ漆黒の衣装に袖を通し、ごついブーツで足元を固め、内ポケットに携帯電話を滑り込ませると、もう準備は完了だ。
「……ああ、そういえば」
「はい」
「あの、襲撃者の連中」
「……はい」
「ゲマインデがどうしたとかいうヤツらのことは、何か判ったのか」
 昨夜(というより今日だが)遅く、レーヴェリヒトとともに帰城した飛鳥は、帰りつくなり城の警護を司る連中に捕まって、彼らから襲撃者について根掘り葉掘り尋ねられ、疲労を訴える身体に鞭打って詳細を説明したのだ。
 飛鳥のみならず金村も聞いていた『ゲマインデ』という単語に、警備の面々は首を傾げ、また不吉だと眉をひそめた。
 それは、無への回帰を意味する言葉であるらしい。
 詳しく調査すると担当の長が言ったのが数時間前だ、劇的に何かが判明しているとは思えず、飛鳥としては試しに尋ねてみただけだったが、困ったように首を傾げたウルルが、
「調査でというわけではありませんが」
 そう言ったので、瞬きをして異形を見遣った。
「どういうことだ」
「あまりに曖昧だったので、皆さまには申し上げられませんでしたが」
「ああ」
「ゲマインデという言葉を教義に掲げる神徒がございます」
「……そうなのか」
「にいやとも、どうすべきか話していたところです。アスカは、第一第二第三大陸で共通して信仰されている神々をご存知ですか?」
「詳しくはないな。神々の下に精霊王がいることと、リィンクローヴァが黒双神とかいう神さまを信仰してることだけは知ってる」
「はい、黒き男神と女神のお二方ですね。三つの大陸では、黒双神・白双神・黄双神・赤双神・青双神の、五色十柱の神々が信仰の基本となっています。それぞれの色におふたりずつ、男神と女神とがおられます」
「ふむ」
「その五色十柱の神々を生み出されたのが、創世神ソル=ダートと破壊神ルエン=サーラだと言われています」
「……ほう。ソル=ダート、な……?」
「ソル=ダートは秩序を、ルエン=サーラは混沌をもたらす神であったそうです」
「それで?」
「ゲマインデ、すなわち無への回帰とは、ルエン=サーラがもっともよしとする状態であると聞いたことがあります。それを至上の言葉として、ただその実現のためだけに存在する一派が存在することも」
「……そういえば、あの刺客も自分を混沌の徒と呼んでいたな……」
「では、やはりそうなのかもしれません。何故彼らがアスカや陛下のお命を狙ったのかは判りませんが、破壊神を信仰するものが関わっていることに間違いはなさそうです」
「なるほど。聞けば聞くほど厄介そうだな」
「……はい。混沌が悪であるとわたくしは思いません。生命はそもそも秩序そのものではいられぬもの、わたくしもまた混沌の一部ですから。破壊なくして創造もないと、心の底から思います。ですが彼らは、ゲマインデを名乗る人々は、秩序と混沌の、創造と破壊のバランスを覆すような、何かとてつもなく大きなことを目論んでいるような気がして仕方ないのです」
「そうか、判った。気をつけた方がいいかもしれないな。ウルル、それ、あとでレイに報告しておけよ」
「あ、はい」
「連中の口振りだと、目的を果たすまでは何度でも来てやろうって感じだったからな。出来るだけ情報を揃えておく方がいい」
「はい、判りました」
 ウルルが一礼するのを見計らって、飛鳥はドアへ向かって歩き出した。
 異形がその一歩後ろにつく。
 飛鳥は顔をしかめた。
「……後ろにぴったり張り付かれたら気持ち悪い、隣を歩け隣を」
「え、でも」
「何がだ。でももクソもない。……とりあえず神殿に行くぞ」
「はい、じゃあ、にいやを呼んで参ります……」
 何か恐ろしいことでもあるのか、そそくさと、飛鳥から逃げるように階下へ走ってゆくウルルを、なんか悪いことしたか俺、と首を傾げて見送り、飛鳥は長い前髪を鬱陶しげにかき上げた。
 ――――ソル=ダート。創世神。
 その名の一致。
 これは一体、どういうことなのだろうか。
「……なんか、ややこしくなってきた気がするな……」
 低くつぶやいて、窓の外に広がるまぶしいほどの青空を睨み据える。
 何がどうなってゆくのか、どうにも判然としない。