「ああ、まったく……信じられない。本当に、信じられない……!」
 エーヴァンジェリーン・ララナディア・エーポスは、その稀有な色彩を宿した絶世の美貌をわずかに歪ませ、頬を紅潮させて、苛立ちを隠そうともせずに、部屋の中をぐるぐると目的もなく歩き回っていた。
 朝のお茶を運んできた侍女、まだここに勤め始めて間もない少女が、主人の盛大な不機嫌ぶりに怯えているが、そんなことはエーヴァンジェリーンの知ったことではなかった。
「何よ……なんなの、あいつ。何故、あんなに……」
 そこから先、どう続けようと思ったのか判らなくなって黙る。
 王族に近しい上流貴族の直系の姫として、巫女姫という立場上多少不自由ではあるものの、いかなるわがままも聞き入れられるほど溺愛され、蝶よ花よと大切に育てられた彼女にとって、――周囲から愛情や羨望以外の視線を向けられたことのない彼女にとって、アスカ・ユキシロはあまりに不可解で規格外の少年だった。
 無論、その恵まれた色や立場や容姿に対しての妬みや嫉みを受けたことは少なくないが、それを向けてくる人々は、まずエーヴァンジェリーンの美しさや貴い血筋、貴い色彩をそうと認め、それゆえに嫉妬や羨望を抱くのだ。
 それはつまり、エーヴァンジェリーンが美しいことを、彼女が貴いことを、言外に立証する以外のなにものでもない。
 だが、アスカは違った。
 アスカは彼女をただのエーヴァンジェリーンとしてしか見なかった。
 彼女の美貌も、十大公家直系の血筋も、巫女姫という立場も、なにひとつとして彼を怯ませ畏まらせる盾にはなり得なかった。
 そして少年は、エーヴァンジェリーンを――他の貴族たちを、身勝手で怠惰、傲慢で醜悪かつ滑稽だと断じ、静かだが激しい怒りをあらわにするや、下衆に頼って生き延びるほど自分の誇りは穢れていないと言い切って、何の躊躇いもなく神殿深部を出て行ったのだ。
 受ければ大の大人でも意気地を削がれ、助けを求めて泣き喚く《死片》、その毒の恐ろしさを知らぬからというだけでは済まされない、抜き身の剣のように鋭く、潔い後ろ姿だった。
 これまで、何よりもエーヴァンジェリーンに近い、エーヴァンジェリーンの人生そのものを縛ってきた黒神晶は、彼のその行いを祝福するように輝き、喜ばしい力で辺りを響かせた。
 あのとき、確かに彼女は、あの、色以外何も持たない少年に圧倒され、魂を呪縛され、彼を恐れた。愛する者を奪われたという、怨嗟にも似た嫉妬を抱くのと同じくらいの深さで。
「わたくしが……この、わたくしが、あんな」
 美しいドレープを描くドレス、巫女姫として身にまとう漆黒のものではなく、現在、エーポス家直系の姫として着ている可憐な薄桃色のそれの、美麗なレースで彩られた裾をふわふわの絨毯に引きずって、エーヴァンジェリーンはイライラと爪を噛む。
 ――神衛騎士たちはこっぴどくやられはしたものの、身体にひどい、大きな傷を負うことはなかった。擦り傷や打撲はあちこちにこしらえていたが、動けないほどの重傷を負ったものはいなかった。
 あれから彼らは、アスカが神殿を出て行ってから三十分ほどで目を覚まし、己の不覚を詫びて、沈痛な面持ちのまま持ち場へ戻って行った。あまりにあっさり敗北したことが信じられない様子だった。
 神衛騎士は、もちろん実力も重要視されるが、基本的に貴族の血縁から採るため、加護持ちとはいえただの平民に昏倒させられたとあっては間違いなく矜持は傷つけられただろうが、彼らが怪我をしなかったことに、エーヴァンジェリーンは安堵していた。
 彼らは貴い巫女姫を守るという己の矜持と、幼い頃から時間をともにしたエーヴァンジェリーンへの友愛のために、出世からはほど遠い――というより無縁な――神衛騎士などという立場に甘んじているのだ。
 エーヴァンジェリーンのわがままによる命令でむざむざと死なせたいわけがなかったし、冷酷非道なことを口にしつつ、決して実践はしなかったアスカに感謝もしていた。
 その部分だけは。
 もちろんのこと、それで彼女の憤りや嫉妬、苛立ちが収まったわけではなく、侍女が運んできたお茶のカップを手に取り、行儀悪く立ったままで口をつけたエーヴァンジェリーンは、
「何なの、この不味いお茶は! こんな泥水をこのわたくしに飲ませる気なの!? 淹れ直しなさい、早く!」
 厳しく、居丈高に言って、まだ中身の入ったままだったカップを侍女に向けて投げつけた。
「えっ……あ、き……きゃあっ!」
 猫に壁際へ追い詰められたネズミさながらに、真っ青になって震えていた少女は、エーヴァンジェリーンの投げたそれ、大した速度もなかったカップを避けることも、手で防ぐことも出来ず、胸から腹にかけて、琥珀色の液体をかぶってしまう。
 エーヴァンジェリーンが飲みやすいように、火傷をしないようにと、お茶は常にちょうどいい温度にしてあるため、熱くはなかっただろうが、主人に茶器を投げつけられたことが相当なショックだったのは確かなようで、
「も、申し訳ございません、姫様っ。あの、すぐに淹れ直して参ります、申し訳ありませんっ」
 少女は、まだ幼さの残った可愛らしい顔を泣きそうにゆがめて、幸いにも割れずに済んだカップを拾い上げると、衣装の袖でこぼれたお茶を拭い、逃げるように部屋を出て行った。
 エーヴァンジェリーンは小さく鼻を鳴らしたあと、そんなことで溜飲を下げる自分への馬鹿馬鹿しさに溜め息をついて椅子に腰かける。
 繊細な細工のなされた白いそれは、彼女が十八歳になった祝いに父が贈ってくれた美麗な代物で、彼女自身は知らないが、これひとつで城下町の一家四人が一ヶ月楽に暮らせるほどの値がついている。
 もっとも、たとえその値を聞いたとしても、エーヴァンジェリーンの父グランドレル・エーメはリィンクローヴァの祭祀を司る祭務大臣だ、その程度のことは普通だと断じたのだろうが。
「……」
 奇妙な虚しさに、深い溜め息をついた彼女が、明るい光に彩られた窓の外へ、その貴い漆黒の双眸を向けたとき、
「姫様」
 背後から、静かで落ち着いた、やわらかな声がした。
「……イム」
 振り向くと、そこには、濃い金茶色の髪と、夏空のように鮮やかな青の目をした美しい女の姿がある。予想通りの人物の姿を目にして、エーヴァンジェリーンの口元が、知らず知らずやわらかくなる。
 イムと呼ばれた女、エーヴァンジェリーンの身辺の世話及び日々の予定一切を取り仕切る侍女長であるイマー・リムアネヴァが、涼やかな美貌にふんわりとした微笑を載せてうなずいた。
 その手には、エーヴァンジェリーンお気に入りの陶工の手になる美しい茶器があり、そこからは彼女の一番好きな銘柄、プラーティーン市産ダルク茶の香りが立ちのぼっている。
「サリナが怖がって泣いていましたよ、姫様。主人のわがままにお応えするのも侍従の務めではありますが、あの子は先日ここへ来たばかりなのですから、もう少し手加減なさってくださいな。でないと、姫様のお世話をする侍女の数が足りなくなってしまいます」
「サリナ? ああ、さっきのあの、鈍臭い子。だってあの子、このわたくしに、溝(ドブ)汁みたいな不味いお茶を飲ませようとしたんですもの。仕方ないわ。やっぱりお茶はイムの淹れたものでなくては駄目ね」
「あら、お上手ですこと。でも、誰が淹れても一緒ですよ、美味しいと感じられるのは、姫様が私を贔屓にしてくださっているからです」
「違うわよ、イムのお茶はやっぱりとびきり美味しいの! あんな、泥臭い娘とあなたを一緒にしないで!」
「ほんとうに……しようのない子ですね、エヴァは」
 イマーがエーヴァンジェリーンを深い深い愛情を込めて愛称で呼び、くすっと笑ってからお茶を彼女の前に置く。エーヴァンジェリーンはそれだけで、自分が不機嫌だったことも忘れてにっこり笑い、イマーを隣の椅子に座らせてカップを手に取った。
 柑橘を思わせる爽やかな香りが、ちょうどよい温度に保たれたカップからふわりと立ちのぼる。
 一口啜ると、えもいわれぬ爽やかさとわずかな渋味、甘い香りが口腔いっぱいに広がって、エーヴァンジェリーンの胸の奥までを満たした。
 エーヴァンジェリーンが飲みたかったのはこれだった。
 これ以外のお茶など、どんな高級茶葉を使ったものであろうが『お茶』などではなく、彼女にとっては貧困階層が住まう下町を流れる下水以下の、人間の飲み物ではない、ただの泥水でしかないのだった。
「イム、今までどこに行っていたの。わたくし、さっきとても怖い、嫌な思いをしたのよ。あなたが一緒にいてくれれば、こんな思いはせずに済んだかも知れないのに」
 エーヴァンジェリーンが七歳になる直前、つまり中央黒華神殿の頂点たる巫女姫に選ばれるずっと前からエーヴァンジェリーンの傍にいて彼女の面倒を見ているイマー・リムアネヴァは、出自こそ財も血筋もない平民だが、エーヴァンジェリーンにとっては姉であり親友でもある存在だった。
 エーヴァンジェリーンは、自分と十歳も年が離れているようには見えない、いつまで経っても若々しい、輝くような美貌と、優しいけれど芯の強い、筋の通った物言いが大好きだ。
 巫女姫たる彼女に、面と向かって――恐れ気もなく正論を吐けるのは、この神殿内においてはイマーしかいない。
 そして、わがままで意固地で人の好き嫌いの激しいエーヴァンジェリーンが、己の言動を改め、他者の言葉を聞き入れるのも、イマーの諫言によるものからでしかなかった。
 イマー・リムアネヴァは、この神殿内において、侍女長であるという以前に、それほど重要な役割を果たしていた。
 だから、そんなイマーが、黒の加護持ちを迎えるなどという大仰な事柄を前にしてエーヴァンジェリーンの傍を離れていたことこそがおかしいのだが、問われたイマーは困ったように微笑み、申し訳ありませんとだけ言った。
 ――それで、エーヴァンジェリーンはぴんときた。
「もしかして、次兄(つぎにい)さま?」
 問うと、イマーが苦笑する。
「答えは返さずにおきます」
「……そう。ごめんなさい、イム。あなたには兄妹そろって迷惑をかけるわ、いつも」
「いいえ、姫様。あなたの仰るわがままは、いつも私を楽しくさせます」
「ねえ、イム。あなたは優しいから言わずにいて差し上げているのかもしれないけど、本当に迷惑なら厳しく突き放してね? あの方はそういう意味では本当に鈍いから、女はすべて自分に恋をするものと思っておられるのよ」
「そうですね、確かに彼は自信家です。ただ、私は、」
「私は?」
「ゼーン様を本当に嫌いというわけではない、のだと思います。本当に、どうしても好きになれないのなら、ここの勤めを辞してでも離れればいい話ですから。姫様の傍を離れること自体、難しい選択ではありますけど」
「わたくしはあなたがその選択をせずにいてくれたことを今黒き双ツなる神々に感謝したところよ。そう、それなら、それが本当ならいいのだけど」
「本当ですよ。それよりエヴァ、どんな恐ろしい、いやなことがあったのですか?」
「ええ、黒の加護持ちがね……」
 実力はあるのにどうにも締まらない次兄からさらりと話題を変えたイマーは、エーヴァンジェリーンの説明を、およそ十分間、静かに――意識を凝らして聞いていたが、話が終わると彼女は、そうですか、とつぶやいて、白い繊手をそっと細い頤(おとがい)に添えた。
「……いかにあなたがレヴィ陛下を愛しておられ、また貴族の皆さまが同じようなことを考えておられるとしても、神衛騎士たちを使ってまで彼を仕置こうとした辺りはいただけませんし、平民のひとりとして血筋の貴さや王の威厳を云々するつもりもありませんが、奇妙ですね」
 まったくもって客観的に、エーヴァンジェリーンにおもねる言葉など一切なく、ことの次第の感想を端的に言ってのけたイマーが、心底不思議そうな表情で、窓の外へ――もう恐らく周囲にはいないだろう加護持ちを探すかのように――青の双眸を向ける。
「姫様、私はあなたのご気性をよく存じておりますから、失礼を承知で、確認のために申しますが、アスカに無礼を働かれたから浄化を行わなかったわけではありませんね」
 イマーの言葉は仕える主君への問いかけにしてはあまりに無礼な――というより一直線に過ぎる代物だったが、エーヴァンジェリーンは彼女のこの裏表のない、正しいものは正しいのだと言い切って後悔しない性質をこそ愛しているのだった。
 そして、実は、誰もが恐れ敬う自分に、面と向かって正論を吐いてくれる、そんな存在をもっともっとと切望してもいるのだった。
「当然よ」
「はい」
「アスカのことは腹立たしいし、今すぐにでも王宮から出て行ってほしいほど妬ましいけれど、彼が本当に《死片》の毒に冒されているのなら、それを放っておくことはわたくしには出来ないわ。だってそれが、わたくしが黒き双ツなる神々から命ぜられた貴い責務なのですもの」
「ええ、判っていますよ、エヴァ。あなたはわがままで身勝手な姫君だと思われているけれど、本当はとても優しい子ですものね。本当に苦しんでいる人を、放っておくことは出来ませんよね」
「……そんな風に言われると、わたくし、調子に乗ってまた悪さをしてしまうわよ、イム」
「あら、本当のことですよ? さておきエヴァ、あなたは、アスカには《死片》の毒を感じることが出来なかったのですね?」
「ええ、そう。彼が《死片》を受けたという部分を見せてもらったけれど、何も『視え』なかったわ。どこにも、毒など感じられなかった。――――それで、もしかしたら彼はレーヴェリヒトさまを謀(たばか)って取り入ったのじゃないかと思って、腹が立ったのよ。レーヴェリヒトさまはお優しいから」
「なるほど。しかし、レヴィ陛下は確かにお優しいですが、愚かな方ではありません。偽りやはかりごとや、歯の浮くような阿諛追従に乗せられはしないでしょう。そしてまた、あなたの言をお聞きするに、アスカがそのようなことで偽りを口にするとは私には思えません」
「…………ええ、悔しいけれどわたくしもそう思うわ。イム、なんとなく、判った気がしたのよ、わたくし」
「何をですか?」
「レーヴェリヒトさまが、アスカをお傍に置かれる理由。あんなに自由で偽らない、鋼のように鋭く、潔い人間は、初めて観るもの。確かに、レーヴェリヒトさまが惹かれても仕方がないのかもとは、思うの。……思うだけで、嫉妬のあまり気が狂いそうだけれど」
「そうですね、エヴァは昔から、レヴィ陛下が大好きでいらしたものね。……しかし、だとしたら、何故アスカから毒素がなくなっていたのでしょうね。自然に浄化される類いのものではなかったはず」
「そうよ、《死片》の毒はわたくしのような巫女や巫子の浄化術なしには消えないわ。それが何故消えてしまったのか、わたくしには判らない。こんなことは初めてだもの。でも、イム」
「何です?」
「ただの勘だけれどね、決して悪いことは起こらない気がするのよ」
「――――そうですか」
「黒神晶が『動いた』あのとき、わたくし判ったの。ああアスカは黒の名を継ぐヴェルトなんだって」
「……では、もしかしたら、それが理由なのかもしれませんね。御使いの光臨は加護持ちの光臨よりも椿事ですもの。加護の黒でなく使命の黒なら、確かに、毒素のひとつやふたつはかき消してしまうかもしれません」
「ええ、そうね。むしろ、そのくらいの力がなくては困るわ」
「そうですね、それは確かに。けれど、なら……リィンクローヴァはきっと、これから飛躍的な発展を遂げるのでしょうね」
「そうあってほしいわ。わたくし、世界の覇者になられたレーヴェリヒトさまのお姿を観てみたいもの」
「ああ、それはさぞかしお美しいことでしょうね」
「ええ、だからきっと、あれはあれでよかったのだと思うのよ」
「はい、私もそう思います」
「そうよね、イムがそう言ってくれるならそれでいいわ。――ああ、すっきりしたらおなかが空いた。今朝は面倒で何も食べなかったのよ、イム、食事を用意して」
「判りました、姫様。何がよろしいですか?」
「ええと、そうね、ぱりぱりの塩パンにチーズとハムを挟んだものと、黒琥珀茸のスープと、はちみつと赤ベリージャムの入ったヨーグルトがいいわ。パンはもちろんエーポス市産の小麦粉を使ったものでなくては嫌よ。はちみつとジャムは絶対にシシン市産でなくては嫌」
「はいはい、判りましたよ、エヴァ。では準備してきますから、それまでお茶を飲んでいてください」
「判ったわ。空腹で倒れそうな気分だから早くしてね」
 はい、と返したイマーがくすくす笑って部屋を出て行く。
 それを笑顔で見送って、エーヴァンジェリーンは窓の外へ目を向けた。
 許しがたい罪を犯し、それを悔いも改めようともしない少年アスカ。
 彼があの言動のままなら、きっとこれからも、エーヴァンジェリーンは彼を敵と見なし、ことあるごとに何か仕掛けるだろう。
 それほどのことを彼はしたのだ。
 彼がいくつもの苦難に直面し、何度も痛い目に遭えばいいと思う。
 ――だが、それと同時に、彼が黒の御使いとして立ち、レーヴェリヒトの隣にあって、かの美しき王を偉大な覇者へと導いてゆくというのなら、その未来がすぐ傍に来ているというのなら、彼女は黒き神殿の長として、助力を惜しみはしないだろう。
 そんな矛盾した、しかしエーヴァンジェリーン本人にとっては当然とも言える理(ことわり)を胸に、黒き巫女姫は、ゆるやかに流れる朝の時間に身を委ねる。