その時、カノウ・ゾンネは、神殿前広場エアフリーデにて、双子の片割れとともに黒の加護持ちたちを待っていた。
 時刻は午前十時前といったところだろう。
 三人がめいめいに出かけていってから、小一時間が経っている。
「……お三方とも遅いですね、にいや」
 小首を傾げた片割れが言うのへ、小さく頷いてみせる。
 巫女姫に浄化を施してもらいに行ったアスカのみならず、周囲の散策に出かけたユージンもキョウスケも戻ってこない。
 アスカに関しては、そんなに深刻な毒素だったのかと思いはするが、しかし、突出した能力を持つ『色持ち』の異形の中でも特に鋭いカノウの感覚を持ってしても、あの鋼のような少年の中にどろどろしたものを感じ取ることは出来なかったのだ。
 それゆえに遅いわけではない、と、勘というより確信で思う。
 ――気になっていることもあった。
「ウルル。先刻、神殿深部でなんぞ『動いた』のを感じたか?」
「はい、にいや。あの、黒擁石の力を何百倍にも濃縮したような感覚は、黒神晶のものですね。深く、静かで、神々しい力です」
「うむ。恐らく、アスカに関することで『動いた』のであろう」
「ええ。アスカは、これまで出会ったどの加護持ちとも違いますね、にいや」
「ああ……そうじゃな。あのような人間には初めて会う。否……あれはもしや、加護持ちではないのやも知れぬ」
「え?」
「そもそも加護持ちは数が少ないゆえ、並べて比べることは難しいがのう、じゃがこれまでの例から言うて、あそこまで強靭な肉体と武の腕前を持つ加護持ちなぞ、儂はこれまで見たことがない」
「……そうですね。レヴィ陛下のお母様も、お身体の弱い方でした」
「エーデルヴァイス嬢か。確かに、あれが早うに身罷られたのもお身体が弱かった所為じゃ。レヴィ坊やを残してのう。……もっとも、あの方の芯の強さは、坊やにしかと受け継がれておるようじゃがな」
「はい。でも、それを考えると、アスカは本当に強いですね。わたくしにはまぶしいくらい」
「そなたがそのように申すは珍しいな。いつも、妙に一歩退いておるくせに」
「……だって」
「だって、なんじゃ?」
「あんな綺麗な黒、本当に初めてでしたもの」
「――――そうか…………そうじゃな、あれはもしかしたら、加護の黒ではなく、使命の黒なのやもしれぬ」
「にいや、それは、」
「儂はの、ウルル。あれは恐らく、否、間違いなく黒のヴェルトであろうと思うのじゃ。レヴィ坊やにもハイリヒトゥームにも確認はしておらぬが、あれらも勘付いているように思う」
「では、この国は、レヴィ陛下は」
「世界の覇者となる、のやもしれぬ。それは、儂らにはあまり重要なことではないが。じゃが、それならば、飛鳥が黒の神の使命を負うヴェルトならば、可愛い坊やがむざと命を失うようなことはあるまいとも思うのじゃ」
「――――はい。アスカが本当にそうなら、わたくしたちのどんな心配事も消えてなくなりますね。レヴィ陛下は、あの可愛い方は、どうしてもご自分を軽んじられすぎる」
「うむ。仕様のないこととも、思うがな。それでも、儂らの喜びは、儂らの願いは、常にレヴィ坊やとともにある。この乱世において、アスカの存在が、彼を安んじまた幸福にするよう祈る」
「…………はい」
 五百年もの時間をこの国とともに生きてきたふたりにとって、命の恩人にして始祖たる主君の子孫であり、この美しく豊かな国の象徴でもあるレーヴェリヒトは、何よりも大切な――誰よりもその幸いを祈る存在なのだ。彼の幸いこそが、それだけが、双子異形の願いであり護るべき事柄だった。
 この命に変えてでも、などと、らしくなく感傷的になったカノウが、その真紅の双眸をふと神殿側へ向けたとき、ほとんど偶然に、黒擁石でできた神殿本体からまっすぐ歩いてくる『彼』の姿が目に入った。
 漆黒の衣装に濃灰青のターバン、健康的な肌色の、顔立ちだけなら特にどうということのない、しかしその眼光に射竦められれば身動きひとつかなわなくなり、生涯その顔を忘れられなくなるような、見るものによっては恐ろしくも頼もしくも思えるその少年は、目下のところ双子の興味と期待とを一身に背負った人物だ。
 用事を終えて戻ってきたものであるらしい。
 彼には先刻気配を消して入ってくるなといわれたばかりだが、そういう少年もまた気配ひとつなく、視線を向けなかったら気づかなかっただろう程度には、彼は人ごみになんの不自然さもなく溶け込んでいた。
 現に、神殿に背を向けるかたちで立っている片割れ、ウルル・シックザールはまったく彼に気づいていない。
 それどころか、彼が、観るだけでその非凡な武の才能が垣間見える、滑らかで隙のない歩みで、ウルルのごくごく背後まで近づいても、青の片割れはその存在に思い至りもしないようだった。
 そもそも口数が多いわけではないが、それでもまったく口を利かない少年を訝しんだカノウが眉をひそめると、ウルルが小さく首を傾げた。
 ほんのり薄紅に色づいた唇、カノウのそれと比べると格段に女性的なそれが疑問をかたちづくる。
「どうかしましたか、にい、」
 しかし、や、を口にする一瞬前、唐突にウルルが頬をさっと紅潮させ、それから硬直した。
 首を傾げたカノウが何か言うよりも早く、
「き……」
「き、どうした、ウルル?」
 真っ赤になってふるふる震えていたウルルが、
「き……きゃあああぁっ!?」
 可愛らしいと表現するしかないような悲鳴をあげたので、カノウは目を丸くした。
 穏やかで恥ずかしがりではあるものの、五百年近い時間ともに戦場にあったウルルの胆力の強さに疑う余地はなく、青の片割れがこんな、可憐な悲鳴を上げるところを見たのは正直なところ生まれて初めてだ。
 神殿を護る一般騎士や兵士たち、神官たちの中の、美しく可憐な異形に恋心にも似た憧憬を抱いている連中が、何事かとこちらを見ている。
 一体何が、とウルルを――そしてその後ろを見遣ったカノウは、
「……やっぱり本物なんだな。血が通っているのが確かに判る」
 標的の命を狙う暗殺者ばりの密やかさで片割れの背後に忍び寄った少年、アスカ・ユキシロが、ウルルの青い尻尾、猫を思わせるそれの先端辺りを掴んで握り締めているのを目にして、思わず真紅の角が突き出た額を押さえた。
 ようやく自分の背後にいるのが誰なのか理解したらしいウルルは、首まで真っ赤なまま、
「あっ、あのっ……アスッ……アスカ、て、手を、は……はなし……っ」
 途切れ途切れの消え入りそうな声で必死に懇願するのだが、当のアスカはと言うと、
「なんだ、もしかして弱点なのか。くすぐったいとか、そういうのか?」
 どんなときでもあまり調子の変わらない、少女めいた外見とは裏腹の、低い、どこかしわがれても聞こえる声に、紛れもない興味と楽しげな様子とを乗せてそんなことを返すばかりで、一向にウルルの尻尾を放そうとはしなかった。
「く、くすぐ……た、と、いうか、あの……ち、力、抜ける、……ですっ」
「そうか、そういうものなのか」
「……どこからどう指摘すればよいやも判らぬが、出来れば放してやってくれぬかの」
 腰が抜けそうになっているウルルにさすがに憐れを催し、カノウが助け舟を出すと、神々しい漆黒の双眸に、こんなときばかり少年らしい楽しげな表情を浮かべたアスカは、
「あんたのも触らせてくれるなら、放してやる」
 ものすごく偉そうにそう言った。
 しかし反発しようという気持ちにならないのは、ある種の人徳なのかもしれない。
 カノウは苦笑してうなずくと、真紅の、超大型の蜥蜴か竜を彷彿とさせる尻尾をひょいと動かし、アスカの前に掲げてみせた。
 五百年の時間をともに過ごしてきた仲といっても、リィンクローヴァ国民にすら、異形たる双子の身体に触ることを恐れる者は多いのに、アスカはそんなことにはまったく頓着せず、ウルルの尻尾を掴んでいた手を放すと、今度はカノウのそれをむんずと鷲掴みにした。
 尻尾から手が放れた瞬間、ウルルはへなへなとその場に座り込みそうになったが、なんとか体勢を立て直して踏みとどまる。力が抜けたのは事実なのだろう、ちょっとよろめいている辺りが珍しい。
 ウルルに思慕を抱く騎士や兵士たちが、なんともいえない複雑な視線をウルルとアスカの双方に向けていた。
「へえ」
 アスカが驚いたような感心したような声をあげる。
 この少年が、こうまで声に表情を含ませることは珍しく、カノウは少しおかしい気分になった。
「こっちは硬いな。鱗もついてるし、ごつごつしてる。でも、ちゃんとあったかいんだな」
「それはまァ、そうじゃ。儂の一部ゆえな」
「でも、てことは爬虫類の尻尾ってわけじゃないのか。蜥蜴なら温かいワケがないもんな」
「そんなもの、儂に訊くでないわ。これらは異形の異形たる証しであり所以じゃ、何故このようなかたちになったかは知らぬ」
「そういうものかな。やっぱ、叩かれたり踏まれたりしたら痛いのか? 斬られたら血は出るのか?」
「儂はそうでもないな、鱗があるゆえ。よほどの名剣に斬られぬ以外は傷もつかぬ。じゃが、ウルルは弱いの。弱いし、敏感じゃ。実際、儂らの尻尾を触ろうと思う者なぞそうそうおらぬゆえ気にもしておらなんだが、あまり嬉しいものでもない」
「む、そうか。そりゃすまん。興味が先走った」
「は、興味か」
「ああ、あんたたちの尻尾と角は何で出来てるんだろう? と思ってな。一度触ってみたいと思ってたんだ。だが、嫌ならもうしないことにしよう。一度触れて満足だしな」
「いや、まァ、どうしてもと言うなら構わぬぞ。触られて死ぬようなものでもないからの。のう、ウルル」
「え、あ、はい、あの、」
「なんだ、赤くなって。そんなに嫌だったか、そりゃすまん。次にどうしても触りたいときはちゃんと許可を取ろう」
「いえっ……あ、あのっ」
「――――ん?」
「い……」
「い?」
「あの、ですから、わ……わたくし、」
「落ち着け。あんたがどうしたって?」
「は、はい……その、」
 カノウには、そのときウルルが何を言おうとしているのか判らなかった。
 白い滑らかな頬を真っ赤にして、服の裾をぎゅっと掴んで、――まるで童女が大切なことを伝えようとでもするかのように、何かを必死に言おうとしていることしか判らなかった。
 五百年の時間を共有した片割れではあるが、その性質はあまりにも違いすぎ、完全に理解し合うことは難しかったのだ。
 おとなしく穏和で、恥ずかしがり屋で心優しい、他者を傷つけることを好まない思いやり深い片割れと、騒がしく暢気で、戦場に立てば暴走寸前まで昂揚し、敵対者を殺し尽くさずにはいられないカノウとでは、あまりにも立ち位置が違いすぎる。
 ただ、そんな中でも、カノウは、この控え目な片割れのアスカへの態度が、いままで接してきたたくさんの人間たちへのものとは少し違うことを、何とはなしに理解していた。
 だから、ウルルが、
「……アスカが触りたいと仰るなら、わたくし、ちっとも構いません」
 赤い顔のまま、恥ずかしげに、それでもきっぱりと言い切っても、特に驚きはしなかった。
 むしろ驚いたのはアスカのようで、少年は漆黒の双眸を瞬かせてウルルを見ていたが、ややあってからくすりと笑い、小さくうなずいた。
「そうか。なら、そうする」
 ウルルが無邪気に――嬉しげに微笑む。
 アスカはそれを観て更に笑った。苦笑と呆れの混ざった、しかし表情豊かな笑みだった。
「あんたって」
「え?」
「――――可愛いな」
「えっ」
 にやりと笑ったアスカのそんな言葉に、ウルルがまた真っ赤になる。
 まるで多感な乙女のように。
 だが……それは、ウルルのそんなちょっとした変化は、カノウを少し安堵させた。
 この五百年間、リィンクローヴァとその民とを深く深く愛しながらも、己が異形であるという理由から、常に人間たちから一歩退いていたウルルが、そんな風に自己主張するとは思ってもみなかったからだ。
「――お」
 アスカの方では、自分がそんなすごいことをしたともされたとも思っていないのか、少年は広場の向こう側からユージンとキョウスケがやってくるのを見つけてそちらを向いてしまったが、この規格外の人物が、ウルルに変化をもたらしたことに間違いはなかった。
「ふむ、どうやらみんなちょうどいい時間だったようだな。なら、飯でも食いに行くか」
 何でもない風情でつぶやいたアスカが、ふたりの眷属に向かって歩き出す。双子異形の胸の内には気づきもせずに。
「にいや……」
 まったくの自然体で進むアスカの、その背を見つめる片割れの、真夏の空のように鮮やかな双眸が、うっとりと細められていることに気づいてカノウは苦笑した。
 何となく、次の台詞が予測できたからだ。
「どうした、ウルル」
「わたくし」
「うむ」
「今朝辺りから、なんとなく思っていたのですけれど」
「ああ」
「――――アスカに、恋をしてしまったみたいです」
「……そうか」
「アスカみたいな方、本当に初めて。あんなに綺麗な黒も、あんなに強い眼も、心も、王族以外で何も恐れずわたくしに触れてくださったのも、初めて」
「ああ……そうじゃな」
「ねえ、にいや」
「うむ?」
「異形が貴い加護持ちに……ヴェルトに恋をするなんて、滑稽で許されないことでしょうか」
「いいや」
「性別のはっきりしない身体で恋をしても、無駄でしょうか」
「……いいや」
「想うことくらいなら、罪ではありませんよね?」
「無論じゃ」
「――よかった」
 実を言うと、カノウは嬉しかったのだ。
 予想通りに紡がれたその言葉を、本当に喜ばしく思ったのだ。レーヴェリヒトの幸いを何より望むのと同じくらい、この心優しい片割れが幸せでいられるように願っていたからだ。
 誰かを心から愛することは、ただ受動的に愛されることよりも強く、強大なエネルギーとなってヒトを強くし、満たすだろう。
 ウルルがそうあればいい、もっと人間に近くあればいい、と、祈りすら込めて思ったカノウの前で、
「ああ、でも、どうしましょう」
 唐突にウルルが哀しげな声を上げた。
「どうした」
 心の底から困り果てたような声に、カノウが首を傾げると、純真無垢な片割れは、
「わたくしの方が、アスカよりも背が高いの」
 どうしたらいいんでしょう、と、まるでそれがこの世の終わりでも招くかのような口調で嘆く。
「殿方は、ご自分より背の高い相手は好まれないのですよね」
 カノウは苦笑した。
「儂はどちらかというと無性に近いが、そなたはどちらかというと両性じゃ。本人が強く望めば身体は創られよう。アスカとともにありたいと、そう強く思うがよい。そうすれば、いずれ思いが身体にも及ぼう」
「…………はい」
 童女のような無邪気さで、本当に嬉しそうに微笑む片割れに、カノウは再度苦笑する。
 五百年の時間を共有してきた大切な片割れが恋をしたというのなら、相手が誰であろうとも、カノウは、ウルルがその幸せを享受出来るよう、影ながら手を貸すだけだ。
 ――たとえ、その想いが成就することはなくとも。
「だが、まァ、心配は要るまい」
「え?」
「儂の観る限り、あれも相当朴念仁じゃ」
「……?」
「つまり」
「はい」
「好きと言うた者が勝ちじゃ。精々励め」
「…………は、はい…………」
 ウルルが、格段に世慣れした片割れの少し意地悪な言にまた顔を赤くする。
 カノウはちょっと笑って、
「さて、儂らも行くか。彼奴(きゃつ)らだけであの市場を堪能させるは業腹じゃ、相伴に預かるとしよう」
 顔を付き合わせ、これからどうするかを算段しているらしい三人を指差す。
「はい、にいや。おいしいお店を教えて差し上げましょう」
 カノウが歩き出すと、にっこり笑ったウルルがその隣に並んだ。
 恋心を自覚しまたそれを口にした瞬間から、少し女性っぽさを増したようにも思うその横顔は、恋するものの特徴で、とても幸せそうだった。
 他者を愛することとは、すなわち無償であり見返りを求めないことなのだと、純粋に思いを保つことそのものが幸せなのだと、言葉なしに教えてくれる横顔だった。
「ゆっくりやるがよい、儂らには、時間は有り余っておるのじゃから」
「――――…………はい」
 素直にうなずくウルルの想いが叶えばいい、と、心から思う。