フィアナ大通りに設けられた市場は、ウルルの言うとおりとても賑やかで色鮮やかな、活気にあふれた場所だった。
 建物の中に構えた店もあるが、ほとんどは小規模な露店の集まりで、彼らは皆、十種類前後の品物を石畳のうえに広げて商売をしていた。
 初夏という季節のよさもあるのだろう、鮮やかな青空と爽やかな空気の中、色とりどりの野菜や果物、麦や大豆や玉蜀黍に似た穀物、独特の香りを放つ香辛料、ハムやベーコン、ソーセージなどの加工肉、自動車のタイヤくらいのサイズがあるチーズ、こんがり焼かれた大小様々なパン、彩りも形状も様々な菓子などの他に、串焼きにした肉や魚介や野菜、パンにチーズと苣(ちしゃ、レタスのこと)を挟んだもの、丸ごとの鶏と一緒に炊かれた麦の粥、鶏の足を油で揚げたもの、一体何のスパイスが入っているのか真っ赤になったスープ、油で揚げた小麦粉の菓子に蜂蜜をかけた類い等々、自宅での調理に使う大きなものからその場で行儀悪く齧ってしまえるようなものまで、とにかく多種多様な食料品が売られている。
 通りには美味そうな匂いが充満し、商人たちが人々を呼び込む声でやかましいほどだ。
 その他、美しい布や装飾品、小規模な家具、食器や茶器から果ては武器防具まで、このフィアナ大通りの市場には、およそ日常生活に必要と思われるものの大半がそろっていた。
 この国は他大陸民に対しても決して冷たくないので、移民も少なくないらしく、明らかにこの大陸出身ではない――飛鳥の感覚的に言えば、人種の相違が明らかな――顔立ちの、褐色の肌をした人々もあちこちで見かけられる。
 ソル=ダートには三つの大陸が存在し、リィンクローヴァを含んだここは第三大陸と呼ばれているらしいが、その、褐色の肌をした人々は、第二大陸からの移民であるらしい。確か、結局部下として扱うことになったアルヴェスティオン・バーゼラの出身地だ。
「うわーっ、うわーっ、すっっっげ――!! やばい、どうしよ、あれもこれもあっちのもそっちのも全部食いたい……! なあなあアニキアニキ、どれにしよう、どれがいい!?」
 その辺りの観察よりもまず、美味しそうな匂いと色々な食べ物に目が行ったらしく(彼ならば当然かもしれないが)、満面の笑みとともに子どもっぽい歓声を上げた圓東が、前後左右あちこちの露店を覗き込み、今にも涎を垂らしそうな顔をする。
 飛鳥は苦笑して、懐から小さな皮袋を取り出した。イスフェニアを通じてレーヴェリヒトから預かった金銭だ。
 何の仕事もせずに金を受け取るのは、飛鳥の感覚で言えば屈辱ですらあるが、すぐに百倍にして返してやる、という自負を伴った意気込みもある。まだ彼らがこの国の『客人』でしかない今、そこにこだわったところで意味がないのも事実だ。
 何より、それがレーヴェリヒトの純粋な厚意であることを飛鳥は理解していたから、無碍にするのも忍びないし、つれない話だと思う。
「あー判った判った。まったく子どもかお前は。ほら、これで好きなものを買え。無駄遣いはするなよ」
 苦笑まじりの飛鳥が、皮袋の中からコインを取り出し、手渡すと、圓東は手の平に転がったそれを見下ろしてかすかに首を傾げた。
 圓東の手の平に転がったコインの色は、光沢のある赤と青。赤いコインが二枚と、青いコインが五枚ある。
「……面白いお金だね。これ、どのくらいの価値があるんだろ」
「ああ、それはな」
 ちょうどいい機会だしこの際だ、と、飛鳥はこのソル=ダートにおける金銭の話をしておくことにした。
 なにせ、今後ここで暮らしていくのなら、日常生活の基本事項だ。
「俺も人から聞いただけで、実際に支払いをするのはこれが始めてだが」
 この世界の貨幣制度は非常に細かく整っている。
 貨幣は全世界共通で、価値もほぼ一定だ。
 物価の高い国、安い国というのはもちろんあるが、平均的な国家間で言えば、基本的なラインというのはあまり変わらない。
 貨幣には五種類あり、それらにもやはり五つの色が関係している。
 一番価値が高いのが、輝くような漆黒に佳麗な花の彫り込みがある黒銀貨、またの名をエルレイア銀貨。
 二番目が雪原のような白銀に星と輝きが彫り込んである白銀貨、またの名をヴァールライト銀貨。
 三番目がまぶしい黄金に美しい鳥が彫られた黄金貨、またの名をサーラソーエ金貨。
 四番目が鈍く光る赤銅に蝶のモチーフが彫られた赤銅貨、またの名をカトラシャイア銅貨。
 五番目が重厚な光を宿した青銅に川の流れが彫り込まれた青銅貨、またの名をサレアユーン銅貨。
 正式名称だと長いので、一般的には、エル、ヴァル、サラ、カトル、サレアと通称で呼ばれているようだ。
 大変ややこしいことに、飛鳥たちの故郷の感覚で言えば三番目が一番高価そうに思えるが、どうやらこの世界では、銀貨の方が金貨よりも高い価値を持つらしい。
 1エルレイア=10ヴァールライト=100サーラソーエ=1000カトラシャイア=10000サレアユーンである。
 日本人的感覚で言えば青が一円玉、赤が十円玉、黄金が百円玉で白銀が千円札、黒が一万円札ということになるが、実際には、どの国であっても一般庶民が使うのは最高でもサーラソーエ金貨までらしく、黒銀貨や白銀貨はほとんどが上流階級及び富豪の間でのみ流通するに留まっているようだ。
 とすると、青が百円、赤が千円、黄金が一万円といったところだろうか。
 しかしそうなると、白銀は十万円、黒銀は百万円ということになるが、一枚百万円のコインなど、飛鳥のような一般庶民(自称)の感覚からするともう雲上の話だ。想像もつかない。
 今回、飛鳥が預かったのは、金貨が十五枚と赤銅貨が十七枚、青銅貨が二十枚だ。イスフェニアに尋ねたところ、それだけあれば一般の四人家族が数ヶ月ばかりまったく働かず楽に生活できると言われた。
 それはつまり、この世界での物価が、今の日本のように高くはないことを示している。一般市民階級と上流階級、奴隷と呼ばれる人々を筆頭とした下層民のそれとではまた違ってくるだろうが、恐らく、高くても日本の十分の一程度だろう。
「ノーヴァの話だと、その青い銅貨一枚でも結構色んなものが買えるらしいぞ。恐らく日本で言うと青銅貨一枚が百円前後の感覚だが、木切れとかに書いてある値段を見れば判る通り、それ一枚でもあのジャガイモっぽいのが二〜三袋は買えるしな。物価は安いらしい」
「そんな、観れば判るとか言われても、おれここの字なんて読めな……って、あ、あれ? なんでだろ、読める。字の汚さとか巧さまで判っちゃうんだけど……」
「当然だ、ハイルの魔法をもらってるんだろうが」
「あ、そっか。魔法って便利だなぁ……気分はばいりんがる? だね」
「ものすごいカタコトっぽい言い方だったな、今の。だが、確かに魔法とやらは便利だ。そういえば、ハイルは意思疎通の魔法をいつなんどきでも自分にかけているらしいぞ」
「……ああ、それであの時、俺や圓東にも言葉が理解できたのか」
「そういうことだろうな。俺も異世界の言葉として認識する前に、一足飛びで意識に意味が届く感覚だった」
 魔法の便利さ、不可解さを思うにつけ、自分たちがまったく異なる世界に来たのだという奇妙な感慨に包まれる。
 その辺りもいずれ勉強していけたらいいな、面白そうだ、などと飛鳥が思っていると、露店のジャガイモ(もどき)を覗き込んだ圓東が、
「しかし、あんだけで百円か……安っ。あのサイズと量なら、日本だったら一番安い店でも千円は取られてるよね」
 驚きと呆れとを含んだ声で言うと、辺りを珍しげに見渡していた金村が小さくうなずいた。
「そうだな、この前店で観た時は、ひとつの袋に五つ六つ入って二百円くらいだったからな」
「金村のアニキ、あそこのスーパーは高いんだってば。金村のアニキだけじゃないけど、篠崎組の人たちって近いってだけであそこ使ってたもんな。もうちょっと店を選べば、あれくらいなら百円で買えたよ。地元の、小さいけど繁盛してるお店とかなら、もっと安くていいのが売ってるもん」
「……そうだったか」
「なんか、ものすごい生活密着型の会話を聞いた気がするな」
「ああ、うん。おれ、よく皆の昼飯作ってたから。でも、事務所の近くにあったスーパーはコーキューシコーでさ、品揃えはいいんだけどすっげぇ高かったんだよね。だから、お金を浮かすためによく遠出してた」
「……篠崎組の事務所の近くと言うと、バリューストアか。そりゃ、あそこは輸入食料品なんかも扱う店だしな」
「あ、そうそう。そこより、もーちょっと駅側に近いエビス屋の方が断然安かった。ちっちゃくて小汚いけど、品揃えと鮮度はバツグンだったな」
「なるほど。日常的なことに関しては、お前に任せるのが一番みたいだな。多分これからも同じような役目がお前に課されるだろうから、今のうちにリサーチしておけよ。まぁ、ここはウルルお薦めの市場らしいし、露店ならそれほど高くはないだろうけどな」
「そだね。料理もそろそろ再開しないと腕が鈍りそうだから、明日くらいから朝飯作ろうかな」
「じゃあ、その材料も買って帰れ。というか、この距離なら毎日ここまで食いに来てもいいけどな」
「あ、それも楽しそうだ。それならいっそ交互とかどう? まいーや、とりあえず何か食おう、腹減った。何がいいかなぁ……うーん、迷うっ」
 小遣いをもらった小学生さながらに、コインを握り締めた圓東が露店のあちこちを覗き込む。
 飛鳥はそれを苦笑とともに見遣りつつ、同じようにその背を見守る金村を見上げた。
「あんたはどうする? 何か、ほしいものはあるのか?」
 財布を預かる飛鳥としては、金村の朝食がまだだという事実を鑑み、食べ物に関して尋ねたのだが、問われた眷族はわずかに考え込み、
「……そうだな、強いて言うなら、手にしっくり来る剣がほしい、か」
 そう淡々と答えた。
 飛鳥は肩をすくめる。
 それを訊きたかったわけではないのだが、この寡黙な――飛鳥の傍にある限りあまり我を押し通そうとはしない――男から、こうしたい、という意志を聞くのは珍しいことなので、出来ればかなえてやりたいと思うものの、剣などという、飛鳥の意識で言うと非日常に属する代物が、手持ちの金貨十五枚前後で贖えるものなのかどうか判然としないのだ。
 はっきりとは答えにくい。
「朝飯からは遠くかけ離れた答えだったな。しかし、なんだ、王城で配給されたんじゃなかったのか。確か、申請してただろ」
「ああ……だが、どうも、これは、ってぇのがなくてな。やはり、ああいうのは、自分に一番ぴったり来るものを選びてぇ」
「そうか、まぁ、その気持ちは判らなくもない。じゃあ、その辺にいいのがあれば、見繕ってみろよ。手持ちの金で買えるかどうかは判らないが、そういう出会いは一期一会だと聞くからな、出来る限り何とかしよう」
「おお、そりゃありがてぇな」
「ま、朝食を仕入れながら物色してみろ。とりあえず飯だ飯。俺もさすがに腹が減った」
 などと言いつつ、金村に赤い銅貨を三つばかり手渡すと、飛鳥も圓東にならって露店を覗き込む。
 食べる絶対量は少ないものの、空腹は感じる身体だ。
 ここだけの話、彼はその特殊な生い立ち及び肉体構成上――必要上、とも言えるかも知れない――、身体に特殊なバクテリアを飼っているので、いざとなれば呼吸するだけでもエネルギーを摂取することが出来るのだが、それはほぼ最後の手段に均しく、やはり人間と名乗るからにはきちんと食事をしたい、と思っている。
 それに、仮にも成長期の十七歳が、空気を吸って栄養を摂るだなんて、あまりにも虚しいではないか。
 大きな鍋で蒸し上げられ、ほかほかと湯気を立てているジャガイモ(もどき)、大人の男の拳くらいの大きさがあるそれに、たっぷりのバターととろとろに溶けたチーズとを乗っけて食すらしいものを、こんなに食ったらカロリー過多で後々死ぬなぁなどと思いつつ見つめていると、
「どうだい兄ちゃん、三つで青銅貨一枚だ。オレんとこのイモは美味いぜ!」
 青みがかった灰髪の中年男が、気さくに声をかけてきた。
 飛鳥はかすかに苦笑して首を横に振る。
「……俺は少食なんだ。そんなに食えない」
「なんだなんだ、育ち盛りが寂しいこと言うじゃあねぇか。まぁいいや、じゃあひとまず味見しな味見。お代は要らねぇよ。ほれ、どうぞ」
 あっけらかんと言った男が、鍋のイモをひとつ手に取り、半分に割って、バターとチーズとをこんもりと乗せてから、竹の皮のようなものに包んで手渡してくれる。
 反射的に受け取ってしまって、そんな便宜を図ってもらう理由がないと一瞬返そうとした飛鳥だったが、しかし、こういうふれあいが市場の醍醐味なんだろうと思い直し、
「……ありがとう」
 礼の言葉とともにイモに口をつける。
「どうだ?」
 正直なところ、飛鳥に美味不味は判らない。
 測るよすがを持たないからだ。
 だが、なんの躊躇いもなく手渡されたそれ、親しみのこもった仕草が嬉しかったから、飛鳥は小さくうなずいた。
 イモの欠片を口に放り込み、端的に言う。
「ああ、悪くない」
「だろう!」
 男が嬉しそうに笑った。商売人の誇りというヤツだろうか。
「そうだな、じゃあ、ひとつくれ。持って帰りたいんだが、包めるか?」
「もちろん。ほらよ、1サレアだ」
「ああ」
「ありがとよ! 兄ちゃんに今日も黒き双ツなる神々の加護がありますように! ……ってあんた、まさにその加護色持ちか。ハッとするくらいいい色だな、大事にしろよ」
「……ああ、ありがとう」
 さっぱりとして気のいい男の、気さくな祝福の言葉に苦笑し、うなずいて、飛鳥は店を離れる。
 腕の中のイモ、湿らせた竹の皮に包まれたそれのズシリとした重みが、飛鳥に、彼自身にはあまりにも希薄だった日常の――普通の営みというものを、今更のように強く認識させた。
 せっかくだから金村や圓東にこのイモを食わせてやろう、と周囲を見渡すと、圓東は羊と思しき肉の長くて巨大な串焼きを頬張って、幸せ極まりない顔をしていた。彼の腕には、その他にも、フランスパンを思わせる硬い焼き上がりのパンに切れ込みを入れ、バターとからしとを塗って、太いソーセージと色鮮やかな苣を挟んだサンドウィッチ、チーズの塊、真っ赤なりんごなどが抱えられている。
 お前の食事は朝っぱらから濃すぎだ、と突っ込みたかったが、圓東としてはアレが普通なのだろう。
「……実際、あいつのハラの中がどういう仕組になってるのか、かっさばいてでも確かめたい程度には気になるよな……」
 物騒なことをつぶやきつつ周囲を見渡すと、もうひとりの眷族は、朝食よりも興味がそちらへ行ったのか、まさに剣を物色しているところだった。
 金村がいるのは露店ではなく、ちゃんとした建物の中で商いが行われている店で、新しい服を用立てるための美しい布や目にも鮮やかな絨毯、精緻なつくりの壷や水差しなどの、一目で高価と判るのに厭味ではない、品のよい商品ばかりが並ぶところだ。その片隅に、ほんのついでのように、何振りかの剣がひっそりと置かれている。
 金村は、それに興味が行ったらしかった。
「なにか、いいヤツがあったのか」
 イモを小脇に抱えたまま近づいた飛鳥がそっと声をかけると、金村は、一本の剣を手にして振り返った。
「ああ、こいつなんだが」
「ふむ」
 言った彼が示してみせた剣は、長さが一メートルちょっと、重さにして三キロ弱の、握りの部分がやや長めの代物で、金村がそっと鞘から引き抜いてみせると、剣身は疵も曇りもなく、白々と美しく輝いた。
「15〜16世紀のヨーロッパを彷彿とさせるな」
「ああ、バスタード・ソード辺りか」
「もしくはハンド・アンド・ハーフ・ソードな。斬れて突ける剣ってヤツだ。ああ……うん、確かに悪くないなこいつ。握りが手にしっくり来る。装飾も派手じゃないし、刃の状態もいい。何より、全体の姿かたちが、なんていうか、スマートで綺麗だ」
「俺もそう思う。ただ……問題は値段、だな」
「あー……確かに高そうだ。値札はない、な、やっぱり。中世前後の世界なら紙は貴重品だしな、気楽に値札なんかつけてられないだろ。リィンクローヴァは世界的な紙の産地らしいが」
「さすがに一般層までは普及してねぇみてぇだな。向こうの便利さが身に沁みる。しかしアレだ、ここで値を尋ねるのを躊躇しちまう、てめぇの小市民ぶりにゃちっと笑えるぞ」
「あんたが小市民だったら圓東なんか何だ。極小市民か零細市民か。まぁいい、値段を訊くくらいはタダだ、駄目でもともと、訊いてみよう」
 と、剣を手にしたまま店の奥へ入り込むと、多種多様な雑貨の棚と棚の間に、埋もれるようにして、小柄な老爺がいた。茶色の髪と薄緑の目の老爺は、身なりから言って、上流階層寄りの中流階層といった位置づけの人間だ。
 小さな椅子に腰かけ、本を読んでいた彼は、飛鳥に気づくと顔を上げ、品のよい笑みを浮かべてみせた。
「いらっしゃいまし。何か、御用でしょうか?」
「ああ、この剣の値段なんだが」
「おや……これは、お目がお高い。こちらは稀代の鍛冶師バーディア・クロムの鍛えた名剣でして、材質は星鋼とは申せませんが、質のよい白佳鋼を用いてありますので、刃こぼれも錆も心配ご無用の代物です。わたくしのところにおいてあります剣は、皆、事情あって元の持ち主を離れたものですので、元の値からはかなりお安くなっておりますが、やはりクロム氏の作品ですから、お買い上げとなると百サラばかりいただかなくてはなりません」
「金貨百枚か。もともとの値段がいくらだったのかものすごく気になる話だが、そりゃ無理だな。そんだけ高けりゃかえって諦めもつく」
「の、ようだ。残念だが諦めよう。……しかし若、バーディア・クロムってぇお人は、確か……」
「ん、ああ、そうだ、メイデとアルディアからもらった剣の作者が同じ名前だったな。そうか、バーディア・クロム作の星鋼の剣ってのは、そんなにすごいものなのか。大事にしないとな」
 二十サラとか三十サラなら、まだ交渉しようという気にもなるが、百と言い切られてしまうと無理だという意識の方が強く、飛鳥も金村もあっさり諦めかけたのだが、
「……つかぬことを伺いますが」
 ふたりの会話を黙って聞いていた老爺が、不意に声を上げたので、飛鳥は金村とほぼ同時に彼を見遣った。
「どうかしたか」
「お客様は、クロム氏作の星鋼の剣をお持ちなのですか」
「ん、ああ、もらいものだけどな」
「贈り主は……ゲミュートリヒ市領主ご夫妻?」
「知ってるのか」
「はい……いえ……」
 飛鳥がうなずくと、老爺は一瞬考え込み、それからゆっくりと口を開いた。
「お客さまのご予算はおいくらでしたか」
「予算というか、手持ちが金貨十五枚だ。その金もどっちかというと預かってる、と言った方が正しい」
「そう、ですか……」
 それがどうかしたか、と、飛鳥が彼を見遣ると、老爺はほんの少し何かを考えたあと、
「相判りました」
 きっぱりとした口調でそう言った。
「では、十サラでよろしゅうございます。お売りいたしましょう」
 老爺の言に、飛鳥は思わず金村と顔を見合わせた。
 もちろんのこと、値が安くなるのはありがたいし、金村がほしいといった剣が手に入るのも嬉しいことだが、そこでこの見知らぬ老爺に値引きしてもらう謂れが判らなかったからだ。
 あんな風にやわらかく笑う彼が何かを企む悪人だとは思えないし思いたくないが、それでも、ここで何の疑いもなくその話に乗って、あとあと面倒が起きるようでは困るのだ。
 ふたりの沈黙の意味に気づいてか、老爺が品のよい笑みを浮かべる。
「ああ……それだけでは何のことか、何故なのかお判りにはなりませんね。失礼致しました。お代なしで差し上げても構わないのですが、それではお客様も困惑なさいますでしょうから。――――わたくしはもともと、二十年ほど前までは、ゲミュートリヒ市領主ご夫妻にお仕えしておりました。身内の病を機に、職を辞してこちらへ移り住んだのですが、ご夫妻には新しい仕事の面倒から医師の手配まで、とてもよくしていただいたのです」
「……ああ、なるほど」
「あなたがご夫妻のお知り合いで、懇意にしておられるのなら、――ご夫妻にとってあなたが大切な方なら、わたくしにとっても敬意を払うべき相手です。ご夫妻は金銭のお礼を一切受け取ってくださいませんから、ここで、別のかたちでご恩が返せればと」
「そうか。でも……別に、あんたに損をさせたいわけでもないから、無理はしてもらわなくていいぞ」
「はは、その点はお気になさらず。こちらで始めました商いが巧くいっておりますのでな、この剣一本程度では、痛くも痒くもありません。こういうものとの出会いは縁とも聞きます、どうぞ、ご遠慮なさらず」
「……だ、そうだぞ、金村。なら、お言葉に甘えさせてもらうとするか」
「ああ、そうだな。すまねぇ、恩に着る」
「いえいえ、お気になさらず。喜んでいただければわたくしも嬉しゅうございます」
 言った老爺がまた品よく……やわらかく笑った。
 飛鳥はうなずき、皮袋から金貨を十枚取り出して、老爺に手渡す。
 老爺は確かに、と言ってから、近くの戸棚をごそごそやって、金村に革のベルトのようなものを差し出した。
「せっかくですから、佩剣用の革帯もおつけしましょう。その剣は、鍛えられて間もなく、主となった人間を戦で失いました。それ以降、剣に相応しい主は現れておりませんでしたが……あなたさまは、どうでしょうな。どうか、その美しい剣を哀しませることのない主とおなりください」
「……ああ、肝に銘じる」
 かすかに笑ってうなずいた金村が、剣帯を腰に回し、流麗で美しい長剣を腰に佩いた。
 それは、今まで彼が地球という世界でヤクザなどという稼業に精を出していたとは到底思えないほど、ある意味滑稽なほど彼に似合っていた。
 ぴんと背筋の延びた、厳しく鋭いその姿は、精悍でありながら静謐かつ清冽だった。その立ち姿は騎士以外のなにものでもなく、もう、こういう出で立ちをしている以外の金村が想像出来ない。
「……すごく似合ってるな」
「そうか」
「あんたが本当に日本の現代人だったのか、ちょっと疑問なくらいだ」
「そりゃ褒め言葉と取っていいもんか?」
「一応褒めてる。ああそうだ、店主さん、名を尋ねてもいいか? 今度、ふたりに会ったらその旨を伝えて礼を言いたい」
「はい……トロイエ・フォレンシアと申します」
「そっか。ありがとう、トロイエさん」
「いいえ、どういたしまして、黒の加護を持たれる方」
「……なんだ、知ってたのか」
「髪のお色が判りませんでしたから、半分は勘でしたが。領主ご夫妻がそうまでお心を砕かれる理由が、そのくらいしか思いつきませんでな」
「ふむ、なるほど」
 そういうものか、と、飛鳥がうなずいたときだった。
 店の外、フィアナ大通りの真ん中辺りから、賑わいゆえの騒がしさとは違う、異質なざわめきが聞こえた。
 恐怖と驚愕とひそひそ話が、高性能な飛鳥の耳に届く。
 誰かが、口汚く誰かを罵っている。
 ――それと同時に、幼い子どもの、消え入りそうな声が聞こえた。
 飛鳥は眉根を寄せる。
 金村が店の外へ視線を向けた。
「……邪魔をした。また、機会があれば」
 それだけ言って身を翻す。
 そのとなりで、金村が店主に一礼し、飛鳥にならった。
「はい……またのお出でをお待ちしております」
 背後にかかるやわらかな……穏やかな声を耳の端に聞きつつ、ざわめきの元へ向かう。
 ――放ってはおけない、と、意識がつぶやいている。