ブレーデ一家と名乗ったごろつきたち、勇仁の若の神経を逆撫でし愚かにも怒らせた連中が、滑稽なほどテンプレート通りの捨て台詞を吐いて逃げ去ると、フィアナ大通りには歓声と拍手、口笛が巻き起こった。
 それらのほとんどは、外見に似合わぬ凶悪さと怪力とでごろつきたちの度肝を抜いた、しなやかな細身の少年へ向けられたものだったが、彼がそれに頓着する様子はなかった。
 賛辞に愛想を振り撒くことなど一切なく、向けられる視線にも構わず、人々の囁き交わす畏怖や感嘆の声を気にすることもなく、ゆったりと――悠然と歩を進める飛鳥の姿は、静謐であるのと同時にどこか神秘的だった。
 弱冠十七歳にして、彼を彩るのは将の風格だった。
 あれだけ圧倒的な存在感を以て勇仁にごろつきたちの殲滅を命じ、自分もまた恐ろしい膂力で彼らを混乱の中に叩き込んだ人物は、しかし、今こうして観るかぎりでは、転んだ子どもに手を差し伸べる、何の変哲もないただの少年でしかなかった。
「怪我はないか」
 飛鳥がそう問うと、気後れがあるのだろうか、褐色の肌と彫りの深い顔立ちをした、十かそこらと思しき小柄な少年は、彼を見上げたまましばらく躊躇っていたが、手を差し伸べたままの飛鳥が微動だにせずにいると、ややあってからおずおずとその小さな手を伸ばし、飛鳥の、鋼を彷彿とさせるそれにつかまって立ち上がった。
 飛鳥が長いターバンの裾で、涙に濡れた頬を無造作に――やや乱暴にぐいぐい拭ってやると、ちょっとだけ笑う。
「あ、りがと、……」
「怪我は」
「ううん、ない。あ、う、ありませ、」
「敬語なんか要らん。普通に喋れ」
「でも、黒の、」
「黒の加護持ちには何が何でも敬語を使わなくてはならない、なんて法を誰かが作ったのか? なら俺はそいつをぶん殴って、鬱陶しいから今すぐ変えろと言いに行って来てやろう。お前たちの言うところの加護持ち本人が言ってるんだ、問題はないだろう?」
「……うん、わかった。兄ちゃん、変わってるね」
「違う、これが普通なんだ。何はともあれ、災難だったな。怪我がないなら、何よりだが」
「あ、うん。ほんとにありがと。でも……」
「でも?」
「たまご、どうしようかなって」
「……ああ、あの馬鹿どもの所為で割れたのか」
「うん。まあいいや、母さんには理由を説明して謝るから。黒の加護持ちに助けてもらったって聞いたら、きっとそっちの方をありがたがって許してくれると思う」
 危険が去り、落ち着いてみると、異大陸の少年は、表情豊かに笑う可愛らしい子どもだった。
「遣いか何かか?」
「うん。もうじきぼくの誕生日だから、ケーキを焼いてくれるって」
「……そうか。それは由々しき事態だな」
 無表情のままそう言った飛鳥が、市場の人々にまじって安堵の表情をしている圓東を手招きする。
 手招きされた当人は、確かつい先刻まで――勇仁が剣を見ようとトロイエ・フォレンシア老人の店に入るまでは――大量の食料品を抱えていたような気がするが、すでにそれらは綺麗になくなっていた。
 さすがは、篠崎組七不思議のひとつである。
 ひょこひょこと近づいてきた圓東が首をかしげて飛鳥を見遣る。
「どしたの、アニキ?」
「お前、あちこちうろうろしてたよな」
「え、あ、うん。色んなものが売ってるよね、ここ」
「ということは、場所の把握は出来ているな。なら、玉子を買って来い。肺が破れんばかりの全力疾走でな」
「……それってどんな速度で走れば破れるもんなのか、知りたいような知りたくないような」
「いいから行って来い。金はあるな?」
「うん、ある。あ、何個?」
「何個だ?」
「え、あの、六個だけど……」
「だ、そうだ」
「了解了解。じゃあ行ってきます。確か、あっちだったよなー」
 へらりと緊張感のない笑みを浮かべたのち、びしっと敬礼をしてみせた圓東が、隙だらけの足運びでバタバタと走ってゆく。
 ああして見ると、童顔と低い身長、ひょろっとした肉付きの薄い身体つきとあいまって、とても成人しているようには思えない。恐らく、まだ飛鳥の方が年上に見えるだろう。
「あの……」
「ん」
「あ、ありがとう」
「迷惑料だとでも思っておけ。ま、そもそも俺の金じゃないんだけどな。困ったときはお互い様というヤツだ」
「うん……そう、かな。でも、お互い様っていうけど、兄ちゃんみたいな人でも困ることってあるの?」
「……さあ。だが、そういう時はな、別の困ってるヤツを助けてやればいいんだ。で、そこで助けてもらったヤツが、また別のヤツを助けてやればいい。そうやって善意が巡るのは気持ちがいいだろう。判るか?」
「……うん」
「それはそうと、お前、名前は? 俺は飛鳥、雪城飛鳥だ。こちら風に言うと、アスカ・ユキシロだな」
「アスカ? あ、もしかして、レヴィ陛下のところのお客さま?」
「何故そこで唐突にレイの名前が出て来るのか判らんが、その通りだ」
「そっか。レヴィ陛下、この辺りにもよく視察に来てくれるから、色んな噂が伝わって来るんだよ。じゃあ、兄ちゃんがゲミュートリヒから来た陛下のお友達なんだね。あ、そうそう、ええとね、ぼくはティカだよ。ティカ・イフティラーム・ドゥーカーンっていうんだ」
「ティカとイフティラームが名前でドゥーカーンが姓か?」
「イフティラームも名字だよ。イフティラームは父さんの、ドゥーカーンは母さんの名字」
「第三大陸とは違うな」
「うん、そうだね」
「しかし……ティカにイフティラームか。興味深いな」
「どういうこと?」
「俺の故郷にも似たような言語がある。ティカは信頼を、イフティラームは尊敬を意味する言葉だ。……アラビア語だが」
「あらびあご? ふうん。でも、なんかすごくいい意味だね。ちょっと嬉しいかも」
 言った少年、ティカがにこにこと笑う。
 そこへ、
「あの……」
「話中、すまないが」
 控え目な声が飛鳥の背後から幾つかかかる。
 声の主は、先刻ごろつきたちに絡まれていた露天商たちだ。
 その中のひとり、青みがかった灰色の髪に新緑色の目をした、勇仁と同年代と思しき男へ、飛鳥が視線を向ける。
「ああ、あんたか。大丈夫だったか? ……せっかくの立派なイモがあんなになってしまったな」
「いや、身体さえ無事なら何度でもやり直せるさ、助かったよ、ありがとう。しかし、まさか兄ちゃんが加護持ちとは、びっくりだ。家に帰ったら自慢するよ、黒の加護持ちにオレのイモを食わせた、ってな」
「自慢にしては微妙だな、それ」
「いやいや、こんな自慢できるネタはそうそうないぞ。ありがとうな」
「ま、美味いイモを振る舞ってもらった礼だ。……ということにしておいてくれ。さっきの馬鹿どもに関しては、騎士団の連中にでも声をかけておくから心配するな」
「そりゃありがたい。ここは客層も雰囲気もいい、出来ればずっと商売してたいからな」
「ああ、それは俺もそう思う。こんないいところを、ああいう馬鹿どもにのさばらせるのは業腹だしな。……うん、だから気にせず、商売に励むがいいさ。俺もまた機会があったら買いに行く」
 飛鳥がそう言うと、露天商のみならず見物人たちまでが救われたような……ホッとしたような顔をした。
「そうか、そうだな。兄ちゃんがそう言うなら、くじけずに頑張るか」
「すまない、感謝する」
「貴き加護持ちに、黒双神の加護が篤く降るように」
「助けてくれて、どうもありがとう」
「黒の加護持ちに祝福がありますように!」
 あちこちからそんな声が聞かれ、飛鳥が肩をすくめる。
「別に、そんないいもんでもないけどな」
 賛辞や祝福の言葉にもまったく変化のない口調で淡々と言う飛鳥を観つつ、勇仁が先刻鉄の矢を二本ばかり斬り飛ばした剣を鞘に戻すと、
「そういえば、金村」
 ようやく正式に主人となった少年が、唐突に声をかけてきたので、彼は瞬きをして飛鳥を見やった。
「ん、どうした、若」
「あんた、結構すごいな」
「何がだ?」
「いや、さっきこぼれた矢を斬っただろう。剣道と実戦の剣は違うだろうに、よくあんなことが出来たな」
「……ああ」
 勇仁はわずかに肩をすくめて苦笑した。
「まぐれだ」
「……そんなもんか。それは、なかなか前途有望そうだな」
「ふむ、なら、ご期待に添えるよう精進しようか」
 本当を言うと、実は、もっと別の要因があったのだが、――あったような気がしたのだが、それはあまりにも胡散臭く、どんなにここが故郷では想像もつかぬほど突拍子もない出来事の起きる世界だとしてもおとぎ話的に過ぎ、さすがの勇仁も口にするのを躊躇ったのだ。
 だから、そう答えるだけにとどめたのだが、飛鳥は勇仁の言に疑問を差し挟むことなく小さく頷いた。それから、ブレーデ一家のごろつきたちが消えて行った通りの角を見遣り、つぶやく。
「しかし……どこの世界にでもいるんだな、ああいう輩は」
「ふむ。そんな部分にまで文明やら文化の収斂を垣間見たかぁねぇけどな。だがまぁ……悪党の考えることってぇヤツは、結局のところ似通ってくるもんなんじゃねぇか?」
「悪党と呼ばれる連中の望み、頭の悪い欲望が、いかなる世界であっても似たような類いであるようにか」
「だろうな」
「……レイは何をしてるんだ、まったく」
「ん?」
「国の、地域の、社会の末端にまで目を配るのが王の、為政者の務めじゃないのか。無論今が乱世であり、内ばかりに目を向けていられないことも理解はするが、それでも、内あってこそ、一般市民あってこその国じゃあないのか。そう思うと、少し、腹が立つ」
「……厳しいな、若は。それがレヴィ陛下であっても、通すべきところは通すんだな」
「違う、レイだからこそだ」
 飛鳥のそのきっぱりとした言には、レーヴェリヒトが特別だからこそなすべきことを完璧になしていてほしいという、どこか子どもっぽい願望が含まれているように感じられ、勇仁は思わず苦笑した。
「どうでもいい、王である以前に人間であることにすら値しないような馬鹿が相手なら、勝手に滅びろと断じるだけのことだ」
 獅子の光の名を持つあの青年が絡むと、この少年は途端に表情豊かに、感情的になる。
 たかだか二週間の付き合いで、わずか十七歳のこの少年が、並の大人では太刀打ち出来ないほど自分に厳しく、自律的だと理解した勇仁には、そのことはとても稀有で貴重に思われた。
 若は表情豊かな方が絶対に似合う、などと親馬鹿ならぬ下僕馬鹿で思っていた勇仁は、異大陸の少年と何事か言葉を交わしていた飛鳥が、不意に弾かれたように背後を振り向いたので首を傾げた。
 飛鳥の背後にあるのは、徐々に自分の買い物へ戻ってゆく人々と、店を再開した人々の、賑やかで活き活きとしたやり取りばかりだ。
 飛鳥の視線は、その向こう側を見ていた。
「……若?」
「兄ちゃん?」
 勇仁とティカ少年の訝しげな声が重なる。
 だが、飛鳥は微動だにしない。
 勇仁は眉をひそめつつ飛鳥と同じ方向を見つめていたが、少しずつ日常へと……自分の営みへと戻ってゆく人々の群れの向こう側に、先刻とは別の感情を含んだざわめきが起きていることに気づいた。
「――――レイ」
 飛鳥が、彼だけが許された、彼だけの呼び名をつぶやく。
 それで目を凝らしてみれば、二十メートルばかり前方に、陽光を浴びて白銀に輝く髪が見えた。
 あの、一種神々しいほどの、目を閉じればまぶたの裏側に光の筋が残るまぶしい白銀は、このリィンクローヴァの王、レーヴェリヒト・アウラ・エストのもの以外にありえない。
 ゆっくりと近づいてくる銀髪の青年王の両隣には、市場へ到着する直前に、急用を思いついた、などと奇妙なことを言って姿を消した異形の双子の姿がある。赤の異形はいたずらっぽい笑みを、青の異形は恥ずかしげな笑みを浮かべて、人々が手を振るのへ同じ仕草をしてみせていた。
「お久しゅう、レヴィ陛下」
「いらっしゃいませ、国王陛下!」
「リィンクローヴァの未来を担う貴い方々」
「善き異形のおふたりに祝福あれ!」
「レーヴェリヒトさま。ご機嫌麗しゅう」
「御世(みよ)に栄えあれ、光あれ!」
「ご光臨に感謝いたします!」
 立場的に言えば下層に位置する、まつりごとや上流階級とは無縁な人々の、翳りも偽りもない言葉に明るい親しげな笑みを向けながら、白銀の髪を一本に結い上げ、青い貫頭衣の上に濃灰色のマントをまとった国王陛下、勇仁が今までに観た人間の中でもっとも美しいという形容詞のつく青年は、市場をゆっくりと通り抜け、やがて飛鳥の前で止まった。
「よう、アスカ」
 言って軽く手を上げたレーヴェリヒトは、この世のものとも思えないほど美しかったが、笑顔がまるで子どものように開けっ広げなお陰で、その美貌は活き活きとした生命エネルギーに満ちて見えた。
「……お前、仕事は?」
「抜けてきた。つーか、こいつらが呼びに来てくれたんだ」
「いいのか、それ」
「や、正直なとこあんまよくねぇ」
「あまりというより、まったくよくはないであろうな」
「……ならなんで呼んで来た」
「なに、最近のレヴィ陛下は働きすぎじゃ。少々怠けても神罰は下るまいと思うてな」
「と、まぁ、そういうわけだ。俺も仲間に入れてくれ、せっかくだから。しかし、この辺来るの、すっげぇ久しぶり。ガキのころは近所だったし、ちょくちょく来たんだけどなぁ。つーことで、久々に露店で何か食おう。いつ見てもどれも美味そうで迷うな、ここ」
「まぁ……もう来てしまったものは仕方ないとは思うけどな、何か色々滞りそうな気がするんだが……」
「ふむ、その辺りはリーノエンヴェとアルヴェスティオンが何とかするであろうよ。儂らはまつりごとには触れぬゆえ、よくは判らぬがの」
「何というか、たまにあの騎士団長閣下が可哀相になるな。当人は俺に同情されたなんて聞いたら憤死しそうだが。……しかし、ヴェスタはどうなんだ、働いていていいのか。傷は?」
「ん、ああ、ハイルが治療した。こっぴどく殴られたらしいが、中身の方も問題はねぇって話だぜ。ハイルが言うにゃ、二三日は眩暈と頭痛に悩まされるかもってことだったが、さっきもお前たちの市民権取得手続きと身分証明書発行手続きに精出してたしな」
「……他の仕事に精を出してる人間に、自分の仕事を押し付けてくるなっつの。なんかもう色々と今更だけどな……」
「ただいまアニキ、買ってきたよ……って、あれ? なんで王様がここにいんの? カノウもウルルも戻って来てるし」
 勇仁があっけらかんとしたレーヴェリヒトと額を抑えて溜め息をつく飛鳥とを見比べていると、玉子の入った小さなかごを抱えて戻ってきた圓東が、不思議そうに首を傾げる。
 圓東に気づいた飛鳥が主人さながらの鷹揚さで彼を労い、玉子の入ったかごを受け取る。
「ん、ご苦労。こちらの国王陛下は仕事を怠けておいでになられたんだそうだ。案外平和なのかもな、リィンクローヴァって」
「とりあえず、確かに王様っていつも平和そうだよね」
「もしかして馬鹿にされてるのか、俺……」
「頭の中が平和という点に関しては、お前もレイも大して変わらんだろう」
「……同じくくりかよ」
「それって……喜ぶべき?」
「お前はどう思うよ、キョウスケ」
「……微妙」
「俺もだ」
「観てる分にはどっちも面白いから心配するなふたりとも。ほらティカ、持って帰れ。美味いケーキを焼いてもらえよ」
「あ、うん、ありがとう。無駄なお金使わせてごめんね」
「それでお前が誕生日を楽しく祝えるなら、無駄なことなど何もないだろう」
「……うん」
 飛鳥のきっぱりとした物言いに、褐色の頬を上気させてティカが頷く。
「じゃあ帰るね、母さんが待ってるから」
「そうか。気をつけて帰れよ」
「うん。……また会える?」
「ああ、また来る」
「そっか。じゃあ、声をかけるね」
「そうしてくれ」
「うん、じゃあまたね、さよなら。本当にありがとう、兄ちゃん」
「ああ、またな」
 そんなやり取りのあと、ティカ少年はかごを抱えて踵を返した。小走りに市場を突っ切り、狭い曲がり角に辿り着くと、何度も飛鳥に手を振ったのち、そこを曲がって見えなくなる。
 それを見送る飛鳥は相も変らぬ無表情だったが、勇仁には、その漆黒の双眸が、ずいぶんやわらかい光を含んでいるように感じられた。
 少年が姿を消してからしばらく、飛鳥は黙ったままでいたが、
「――レイ」
 ひとつ溜め息をついたあと、静かな声でレーヴェリヒトを呼んだ。
「ん?」
「さっきここで何があったか、知ってるか」
「いや、知らねぇが、なんかあったのか」
「……お前はこの辺りで生まれ育ったんだよな?」
「ああ、もうちょい王城側だけどな。どしたんだよ、アスカ? なんか歯切れが悪ぃぞ?」
 短い問いを繰り返すばかりの飛鳥の言わんとしていることが判らないのか、レーヴェリヒトが首を傾げる。
 飛鳥はそれを理知的な黒の目で見遣り、
「……ブレーデ一家とかいう馬鹿どもが、力をかさに市場の人々を虐げる場面に行き逢った」
 そう、ぽつりとこぼした。
 レーヴェリヒトが表情を改める。
「……そう、だったのか」
 飛鳥の目が、レーヴェリヒトのアメジストのそれをまっすぐに見据える。
「レイ。俺は、為政者とは国の、社会の隅々にまで目を行き届かせなくてはならないと思う。まつりごとや富や名声からは遠い人々にこそ、光は当たるべきだと思う」
「……ああ」
「すべてはお前の采配次第だし、まつりごととは他者から嘴(くちばし)を挟まれてどうこうするものでもないだろう。だから、俺は、これ以上賢しく声高に何かを言い募るつもりはない。だが……それでも道理の判らぬ王なら、俺はもうここにはいられない」
「厳しいんだな、アスカは」
「は、金村にも言われたな、それ。なら同じ答えを返そうか。――相手がお前だから言うだけだ」
「…………そか」
 飛鳥の、一国の王にするにはあまりに不遜で直接的な物言いに、何人かの野次馬たちは顔色を変えたし、周囲の人々はざわめいたが、それらに頓着することなくレーヴェリヒトは頷き、微笑した。
 男だとか女だとか、若いとか年老いたとか、そういう枠組みを超えた、神々しいほどに美しい笑みだった。
 そしてそれは、どこか嬉しげでもあった。
 飛鳥に応えたあと、レーヴェリヒトはこちらを伺っている露天商や、買い物に訪れた人々へ向き直り、彼らをぐるりと一望してから、
「皆、すまねぇ」
 朗々と響く、よく通る美声で潔く詫びて、胸に拳を当てる仕草をして頭を下げた。
 民衆からどよめきが起きる。
 飛鳥は穏やかに苦笑し、圓東は目を丸くし、双子の異形は顔を見合わせて笑った。勇仁は、彼もまた飛鳥と同じく自分に厳しい、自律的な人間なのだと強く思う。
 王としての、貴い血筋としての矜持になど見向きもせず、ただ、己が過ちを率直に詫びるその姿は、勇仁には――勇仁にも、かもしれない――とても心地よく感じられた。
「言い訳はなしだ。同じ過ちを繰り返さねぇってことだけを約束する。ここは自由市だ、自分の才覚を、創造物を売り買い出来るところだ。てめぇの創った商品だけが声高にものを言う市場だ。どんな権力、どんな法にもそれは覆せねぇ。――二度と、それを揺らがせねぇことを誓う」
 誓言は潔く、紡がれる言葉は音楽的な美しさを持っていた。
 彼がきっぱりと断じると同時に、周囲からは歓声と拍手とが巻き起こった。レーヴェリヒトを讃える言葉と、心配しないで、とかありがとう、とかそういう声があちこちから聞かれた。
 勇仁は、レーヴェリヒトが民衆から愛される根本的な理由を垣間見た思いだった。
「ありがとな、アスカ」
 振り向いたレーヴェリヒトが唐突にそう言い、飛鳥は肩をすくめる。
「礼を言われるとは思わなかった」
「そんな風にきっちり言ってくれるヤツ、まわりにいねぇから」
「……そうか」
「うん……だから、また、俺が間違ってたら、何か言ってくれるか?」
「――ああ」
「ここは俺の根っこだからさ。ここがあったから、ここで生まれたから、今の俺があるんだ。それを蔑(ないがし)ろにしてるようじゃ、駄目だよな。……本当によかった」
「お前のそういうところ」
「え?」
「――――悪くないと、俺は思う」
 薄い唇にかすかな笑みを浮かべ、飛鳥が言う。
 驚いたのか、アメジストの目を丸くしたレーヴェリヒトだったが、次の瞬間には、開けっ広げで晴れやかな、満面の笑みを浮かべて頷いた。
 そういう表情をすると、この青年はひどく幼く見える。
「さて、ではどうするんだレイ。どうせだから昼飯でも食って帰るか。帰ったらまた仕事なんだろう、何ならこっそり手伝ってやってもいい」
「ちっと早ぇけど、それもいいかもな。王城の料理も悪かねぇけど、やっぱ何が美味いってこういう露店で食うメシだろ。匂いからしてたまんねぇもんなぁ。帰ったら仕事ってのは確かだが、書類に目を通してサインする類いだからなぁ。なかなか手伝いは頼み難いんじゃねぇかな」
「王様の仕事なんてそんなものだろう。だが、言っておくが、人のサインを真似させたら俺の右に出るものはいないぞ?」
「おお、そりゃ頼もしいな」
「……ええと王様、ここでおれが突っ込むのもどうかとは思うんだけど、それって偽造とかじゃないの?」
「決裁なんざ誰がサインしたって同じだからいいんだよ。いっつも、何で俺がとか思いながら署名したり御璽(ぎょじ)捺(お)したりしてんだからな」
「いや、あの、そこで威張られても困るし……」
「なら、ばれないくらい精巧に真似よう。そうすれば問題なしだ」
「……カノウ、なんかこう突っ込んだ方がよくない?」
「ふむ、まつりごとに関わらぬ儂らにはどうでもよいことじゃ。ようは、国がきちんとまわればよい。のう、ウルル?」
「はい、にいや。レヴィ陛下は書類のお仕事は苦手であらせられますから。時折、署名係と押印係を作ればいいのにと思いますものね」
「……まぁ、みんながそれでいいって言うならおれはいいんだけどさ……」
「そういうことにしておけ、心の平安のためにも。ふむ、ならまた露店を物色に行くか。レイは何が食いたいんだ」
「肉」
「……馬鹿の代名詞みたいな返答だったな」
「ええっ!? 欲求に忠実に従っただけで馬鹿扱いかよ!?」
「欲望の権化め」
「うわなんかすげぇ不名誉っぽい呼ばれ方! いや、ここの串焼き肉スゲ美味いんだって。チーズ作ってる酪農家と契約結んでるか何かで、仔牛と子羊の肉が仕入れやすいんだとさ。おとなの牛や羊よりやわらかいし、癖もなくて美味いんだぜ」
「……ああ、レンネットを取るための仔牛か。気の毒な話だが……まぁ、仕方ないんだろうな」
「レンネットってなに、アニキ?」
「チーズを……というか生乳を固めるための酵素だ。反芻動物のこどもの第四胃にしか存在しない」
「え、それってつまり、チーズが作りたかったら仔牛とか子羊を殺さなきゃ駄目ってこと?」
「昔はな。今はその他にもイチヂクやパパイヤの樹液とか、カビの酵素なんかも使われるようになってるらしいが。まぁ、この辺りにはないだろ、そういうのは」
「そうなんだ……じゃあ、これからチーズを食べるときにはちょっと黙祷でもしよう」
「……はてしなく鬱陶しいからやめろ、それは」
「えー」
 唐突にチーズ講座に突入した飛鳥と圓東の姿を面白そうに見遣ったあと、レーヴェリヒトが露店のひとつへ近づいてゆく。まさに串焼き肉を売っているそこからは、獣の肉が焼ける、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
 店主は勇仁より一回りほど年かさに見える男だ。
「よう、王様。しばらくぶりだな」
 それは飛鳥と同じく、どう考えても一国の王に対するものではない口調だったが、そもそも王家の威信を重要視していない風情のあるレーヴェリヒトが、それを気にする様子はまったくなかった。
 銀髪の青年王はただ、親しげな笑みを浮かべて軽く片手を上げただけだ。
「ああ、そっちは元気でやってるみてぇだな」
「そうだな、王様たちが頑張ってくれてるお陰だよ」
「そう言われると照れ臭ぇな。ま、これからも頑張るさ、黒の加護持ちも来てくれたことだしな」
「おう、頑張ってくれよ」
「当然だ、それが俺の責務だからな。……ん、もしかして仔牛肉の串、俺が来ねぇ間にちっと値上がりしたか? 前は青銅貨一枚だったよな?」
「そうじゃねぇよ王様。見てみろよ、数が増えてるだろうが? 腹持ち感を追求した結果こうなったんだよ」
「確かに。でもやっぱ青銅貨二枚は取りすぎじゃねぇか? 三枚で二本とかにしろよ」
「っかー、ヤだね、ったく。一国の王がそんなしみったれたこと言ってるようでどうするよ。美味い仔牛肉に免じて赤銅貨一枚、釣りはいらねぇぜ! くらい言ってみせてくれよ」
「何言ってんだ、王だろうが何だろうが質素倹約これ基本だっつの。……まぁいいや、とりあえず腹減ったからそこの赤身の多い串一本くれ」
「ほい、まいどあり。じゃあ、オマケに焼きトマトもつけてやるよ。レヴィ陛下だから特別だぜ」
「……オマケがトマトの王様ってのもどうなんだろなぁ。いや、好きだから嬉しいけど」
「というより、今までのこの一連のやり取りを聴いて、お前を国王陛下と思うヤツがいるかどうか甚(はなは)だ疑問だ」
 串焼き屋の店主とレーヴェリヒトのやり取りを、その隣で聴いていた飛鳥がしみじみと言うと、ふたりは顔を見合わせてぷっと笑った。
「このおっさん、二十年くらい前からずーっとここで串焼き屋をやってんだよ。だから、気の置けない旧い知り合いってとこかな。ガキの頃は色々オマケしてもらったもんだ」
「小せぇころのレヴィ陛下はホントに可愛かったんだけどな、女の子みてぇでさ。それがどうだ、今じゃ背丈ばっかりにょきにょき伸びちまって」
 子どもの拳サイズの塊が五つばかり刺さった肉の串と、皮を剥いて焼いた小振りのトマトが三つばかり刺さった串とを手渡しながら店主が大げさに嘆くと、二本の串を大事そうに受け取りつつ、レーヴェリヒトは盛大に顔をしかめてみせた。
「ばっかりとか言うな、ばっかりとか。もっと色んなもん成長してるっつの。背なんかついでみてぇなもんじゃねぇか、そこを言及すんな」
「へいへい。あ、そうだ、兄ちゃん」
「……俺のことか?」
 唐突に声をかけられた飛鳥が瞬きをして自分を指差すと、店主は大きく頷いた。オマケだよ、などと言いつつ、肉とトマトが交互に刺さった串を飛鳥へ差し出し、反射的に受け取ってしまったらしい彼がちょっと困ったような顔でそれを見下ろすのを見遣りながら、
「王様のこと、あんま責めねぇでやってくれ」
 オレンジがかった茶色の目に、真摯な光を宿してそう言った。
「ん?」
「さっきのあいつらさ」
「……ふむ」
「王様はいつでもここいらのことを気遣ってくれてるよ。俺たちのああしてほしいこうしてほしいって要望にも出来る限り応えてくれるしな。ただな、ホラ、今、外のことが大変だろ。クエズにダルフェにフェアリィアル、果てはアルバトロウム=シェトランからまで狙われてると来たもんだ。そんな時にあんま王様を困らせちゃマズイってんで、戦争が終わるまでは俺らも黙ってようと思ってたのさ」
「……なるほど」
「や、そんくらい言えよ、普通に。水臭ぇな。国内に手が回せねぇほど切羽詰ってもいねぇんだ、何とでもするっつの」
「王様ならそう言うと思ったからこそだよ」
「ああ、その気持ちは判らなくもない」
 苦笑する店主と同質の笑みを浮かべた飛鳥、それが礼儀だとでも言うように、ほんの少し串焼きに口をつけてから、残りを圓東に手渡した彼が、そう言ったときだった。
 つい今まで、一般的に言う鉄面皮に近くはあるが、それでも穏やかなと言える表情をしていた飛鳥の、その顔が唐突に強張った。
 それは、勇仁のような、他者の気持ちや表情を読む能力に乏しい人間にすら判ったほどの……飛鳥には珍しいほどの、はっきりとした硬直だった。
「……若?」
「どしたよ、アスカ?」
 同じことに気づいたのだろう、訝しげに白銀の眉を寄せたレーヴェリヒトが、勇仁と同時に声をかける。
 ――飛鳥は、蒼白と言うのが相応しい顔色になっていた。
 勇仁もまた眉根を寄せる。
「おい、アスカ?」
「どうしたんだ、若」
「アニキ? なに、どしたの、どっか苦しいの?」
「いかがいたした、アスカ」
「顔色がよくありません、アスカ。どこかで休まれたほうが……」
 周囲からの言葉にも飛鳥は答えず――それはもしかすると答えられず、だったかもしれない――、震える手で口元を覆う。と、ぐらりと身体を傾がせ、彼らしくもなくよろめいたあと、なんとか倒れず踏みとどまったものの、立ち続けていることは出来なかったらしく、その場にうずくまった。
 しなやかで強靭な背が、震えている。
「アスカ! なんなんだ、一体!?」
「おいおい、大丈夫かよ兄ちゃん。どっか寝かしてやるか?」
「大丈夫か、若」
「アニキ、ホントにどうしたんだ? これって、お医者さんとか、呼んだ方がいいのかな?」
 方々からかかる言葉に答えることなく、飛鳥は震えるというよりも痙攣するといった方が正しいような手で口元を覆い、肩を上下させていたが、やがて何度か激しく咳き込んだ。
 それから、息を荒らげつつ口を開く。
「俺のことは、いい。それより……何か、来る、ぞ……!」
 苦しげに咳をしながら、彼がそう言うのと同時に、勇仁の背筋をぴりりとした何かが滑り落ちていった。それとともに、勇仁は、腰の剣に目をやる。声が聞こえたような気がしたからだ。
 勇仁より一瞬早く、弾かれたように顔を上げたレーヴェリヒトが、眉を厳しくして腰の剣を抜き、アメジストの双眸で周囲を見渡した。その晴れやかな美貌は、先刻までの明るさ陽気さが嘘のように厳しく引き締められ、戦意に雄々しく輝いて見えた。
 それを目にした市場の人々、売り手買い手の双方が、恐怖とも驚愕とも取れぬ声を上げて散り散りになる。しかし、レーヴェリヒトへの強い信頼があることは確かなようで、恐怖が大きなパニックにつながることはなかった。
 双子異形が、赤と青の双眸を静かな戦意に輝かせ、無造作に身構える。
 ――迫ってくるそれは敵意だった。
 そして、殺意だった。
 人ならぬ何者かの、純粋にして獰悪なる。
「これ……魔法生命体、か……?」
 眉をひそめたレーヴェリヒトがつぶやく。
 そのつぶやきに、未だ震えの収まらない飛鳥の背をさすっていた圓東が、不安そうに彼を見上げた。

《危機、危機、危機!》

 ――――勇仁の脳裏に声が聞こえた。
 今度こそ、空耳でも思い過ごしでもなく。
 そう……先刻、勇仁があの矢を斬り飛ばすなどという、非日常に過ぎる芸当をやってのけられたのは、

《我が名は“聖閃”、主を失したる愚鈍なる剣なり》

《汝(なんじ)、我が主たる資格を持つ者》

《我、汝(な)がための一閃とならん》

《我を揮え、そのための知識ならば与えよう》

 この剣の囁き、もしくは主張に従って『彼』を揮った結果だったのだ。
 何にせよ、胡散臭いことに変わりはなく、飛鳥の不調に敵意を持った何者かの接近が重なって、まったくもってそれどころではないのに、
「……さすがに、てめぇの行く末が気になるな、これは……」
 自分で名乗りを上げる便利な――自己主張の激しい剣を腰から引き抜きつつ、思わずつぶやかずにはいられない勇仁だった。
 ――敵意と殺意とをまとった何者かは、彼のそんな胸中などお構いなしに、恐ろしい勢いで近づいてくる。