まるで、光の差さない奈落の底で、ありとあらゆる責め苦を受けるかのような感覚だった。
 視界はジェットコースターよろしくぐるぐるまわり、込み上げる吐き気と悪寒とで四肢に力が入らず、手足の末端は氷のように冷え切って感覚がなかった。内臓を鋭利な刃物か太い針でちくちくと突かれるかのような、奇妙にくっきりとリアルな痛みばかりが飛鳥を苛んだ。
「ち……面倒臭ぇな、十じゃきかねぇぞ、これ」
 レーヴェリヒトの存在とは、それほど大きなものなのだろう、悲鳴を飲み込んだ市場の人々が、建物や荷物の影などに身を潜める。
 飛鳥もまた、圓東に支えられて――もっとも、決して力持ちではない圓東には、見かけより重い飛鳥をきっちり抱えて歩くなどという芸当は不可能で、どちらかというと引きずられるような感覚だったが――、これから戦わなくてはならない人々の邪魔にならぬ位置へ移動した。
 不甲斐ない、と思いつつ、そのわずか数歩の移動すら意識が揺らぐほどの苦痛である今の飛鳥では、そこに留まっても足手まといになるだけだ。それはある種の屈辱ですらあったが、無意味なプライドのためにレーヴェリヒトたちを危機に陥れるわけには行かないことも飛鳥は理解している。
 人々や飛鳥の移動を確認したレーヴェリヒトが、周囲を油断なく見遣りながらつぶやく。
 頷いた金村が首を傾げた。
「しかし、妙な気配だな。人間とも動物とも取れるが、そのどちらでもねぇようにも思える。こりゃ一体、何だ?」
「まず間違いなく魔法生命体だろ。しかも、かなり上級の」
「なんだ、そりゃ」
「魔導師がてめぇの魔力から生み出す擬似生命だ。使い魔ってぇヤツだな。用途に応じて色んな仕事をする。魔導師の力量が上であればあるほどたくさん生み出せるし、一体一体の力も強ぇんだ」
「そいつが、こんな殺気を出すのか」
「そう創られればな」
「――剣で斬れば、死ぬか?」
「偽物とは言え、いのちだからな、一応」
「なら、問題はねぇな」
「そーいうこった。――――来るぞ」
 このフィアナ大通りに迫り来る悪意の存在をひしひしと感じ、それに応じてレーヴェリヒトや金村が剣を抜き、双子異形が身構えるのを理解しつつ、飛鳥は地面にうずくまったまま身動きできずにいた。
 骨折以上の怪我を何度もしてきて、肉体の受ける傷には慣れているはずの飛鳥だったが、それは今までに味わったどんな痛みよりも深く重く全身を締め上げ、彼の呼吸を妨げる。
 しかし、意識を失うわけには行かず、苦痛は去らず、飛鳥は何度も咳き込みながら、途切れそうになる呼吸を懸命につないだ。
「アニキ、アニキ、大丈夫?」
 不安げに彼を呼び、飛鳥の背をさする圓東の少し上ずった声が、妙に浮いて聞こえた。
 ――そしてそれは、空からやって来た。
 空気を切るような音がして、空を見上げた圓東が、ひゅっとかすれた音を立てて息を呑んだ。
「な……なんだ、あれ……!?」
 それにつられるように、苦痛に霞む視界を上へ向けてみると――それだけで、身体のあちこちが引き攣れるように痛んだ――、昼前の明るい青空を『鮫』が泳いでいた。
 数は……恐らく、三十未満。
 『鮫』の体長は1メートル五十センチといったところ。
 海棲生物の鮫としては小型だが、空を舞う生き物としてはかなりの大型だと言えるだろう。それらは、つやつやとした黒灰色のからだと寒々しい――無感情な氷色の目、そして鈍い銀色に光る牙とを持っていた。
 本来の鮫が持つものよりもかなり大ぶりのひれ、何故かナイフのように鋭利なそれで、空を泳ぐようにして、フィアナ大通りの上を旋回しながら飛ぶ『鮫』たちの、冷たいアイスブルーの目が、フィアナ大通りの中央で身構える四人の姿を捉える。
 そのうちの一匹が、ぎしぃっ、と、扉が軋むような音で鳴いた。
 すると、他の『鮫』たちがその鳴き声に呼応する。
 それもまた禍々しく、寒々しかった。
 空を見上げたレーヴェリヒトが顔をしかめてつぶやく。
「……なんつー規模だ。下手すりゃ賢者クラスだぞ」
「狙いは誰だ? レヴィ陛下か?」
「妥当な線じゃが、アスカも同じく標的に含まれておるやも知れぬな」
「若が? 確かに、あのゲマインデとかいう連中もそんなことを言ってたが……しかし、何でだ?」
「ふむ……それはまた後々説明いたそう。今は、彼奴(きゃつ)らをどうにかするのが先じゃ」
「ま、そういうこったな。――ウルル」
「はい、レヴィ陛下」
「連中は俺らが何とかするから、アスカたちのこと、頼むな」
「――御意」
 静かに答えたウルルが、飛鳥や圓東、そして市場の人々が息を潜める建物の傍へそっと退くと同時に、

 ぎぎいぃぃいぃ!

 耳障りな、気味の悪い声で、鬨の声を彷彿とさせる調子で鳴いた『鮫』たちが、冷ややかに陽光を反射する銀色の牙を剥き、渦巻くように旋回しながら急降下して来た。
 それはまるで、黒々とした竜巻が襲いかかって来るかのようだった。
 ――狙いは、やはり、レーヴェリヒトだ。
 『鮫』たちは一般市民になど――彼らが息を潜める建物になど見向きもせず、一直線に彼へと突っ込んで行く。刃状のひれが、ぎらりと鈍く光る。
「はッ……剛毅なこった」
 だが、レーヴェリヒトの声に焦りはなかった。
 それどころか、どこか楽しそうですらあった。
 彼は、『鮫』の群れから逃げるどころか、連中へ向かって走り出すと、瞳と同色の宝石が柄に埋め込まれた剣、初めて会った時に飛鳥が命を救われたそれを無造作に――的確に、神技を思わせるほど巧みに揮い、群れの先頭の『鮫』を二枚おろしにしてみせた。
 空中で身体を真っ二つにされた『鮫』は、オレンジ色の奇妙な体液を撒き散らしながら、びちゃっ、と、濡れた布を地面に叩きつけたような生々しい音を立てて石畳のうえへ落下した。
 オレンジ色のうそ寒い体液が石畳を汚し、尾やひれが、活け造りの要領でぴくぴくと動く。
「さすがに硬ぇな」
 硬いといいつつ特に難儀がる様子もなく、レーヴェリヒトはその後、自分に向かって突っ込んでくる『鮫』たちを軽やかに避けた。それから、急接近した一匹を、非常識にも固めた拳でぶん殴り、弾き飛ばす。
 殴り飛ばされた『鮫』は、理不尽な扱いに憤ってか、ぎぎっ、という声をあげてから、その身体をくねらせて上空へと舞い上がった。
 観れば観るほど、空気を泳いでいるようにしか思えない動きだった。
「……確かに、相当な魔力の持ち主が来ておるとみえる」
 カノウは武器を持ってはいなかったが、悪童めいた雰囲気を宿したこの異形は、今ばかりは戦士の厳しさを全身からにじませている。
 細められた真紅の眼には、隠し切れない喜悦があった。
「だが……数を頼んだとはいえたかが使い魔ごときが、リィンクローヴァの国王を害そうなどと、愚かしいにもほどがある」
 ひんやりとつぶやくと、カノウは、レーヴェリヒト目がけて殺到する『鮫』の群れに身を投じる。からだの重さを一切感じさせない、しなやかで軽やかな足取りだ。
 邪魔者に牙を剥く『鮫』の大きな口や、かすっただけでもただでは済まされなさそうなひれを、ひょいひょいと……軽々と避けたカノウは、その中の一匹の尾をむんずと、まったくもって無造作に掴むや、魚そのものの動きでびちびちと暴れる『鮫』を、力いっぱい地面に叩きつけた。
 ばき、びちゃっ、という、水気を含んだ物体が硬いものに叩きつけられるに相応しい音がして、最初より平たくなったように見える『鮫』が、びくびく痙攣しながら地面に張りつく。
「おお、ほんに硬いの。が、まァ、どうにもならぬほどではないようじゃ。―― 一匹残らず叩き潰して進ぜよう」
 この緊迫した場には不相応なほどに晴れやかな――悪童そのものの陽気な笑みとともに言ってカノウが笑う。
 それからカノウは、先刻と同じく無造作に泳がせた手でもう一匹の『鮫』の尾を鷲掴みにし、今度は反対の手で、バタバタと暴れる『鮫』の頭部を掴み、『鮫』がその手を食い千切ろうと大きな口を開けるより早く、その、いかにも硬そうな頭を握り潰した。
 ごしゃっ、という生々しい音に、圓東が吐きそうな顔をする。
 それは、圓東がどうこうというワケではなかったのだろうが、彼の仕草が気に障ったとでも言うように、突然、『鮫』の一匹が彼らの身を潜める壁際へ向かって突っ込んできた。
「うえっ!?」
 間の抜けた息を漏らし、焦りと恐れの混じった、助けを求める目で背後を見遣った圓東だったが、周囲の人々が震えながら身体を縮こまらせているのを観て、小さく唸るとその場から立ち上がり、飛鳥や人々を庇うように一歩前へ踏み出した。
 ひょろっとした小柄な身体はぎくしゃくと強張り、わずかに震えていたし、戦いに臨むにしてはへっぴり腰もいいところだったが、その横顔には不退転とでも言うべき決意が見て取れた。
 ――彼もまた、戦うべきときには戦うしかないのだと、心のどこかで理解しているのだ。そしてそれを、今、実践しているだけなのだ。
 ぎぎぃ、と喜悦を感じさせる声で鳴いた『鮫』が、人間の頭くらいならば軽く噛み砕けそうな大きな口を開き、銀色に光る禍々しい牙を剥き出して、圓東目がけて殺到する。
 いったい何をどう戦うつもりだったのか、人々の……というよりは、どちらかというと飛鳥の前で仁王立ちになった圓東が、歯を食いしばると同時に両手を広げる。
 双眸を恐怖に揺らしながらも、逃げることなく踏みとどまり、『鮫』を見据える圓東の姿に、人々が息を飲んだ。彼らの中には、どこからどう観ても戦闘要員ではない彼が、無慈悲な『鮫』の牙に身体を食い破られ、血の海に沈む様を想像したものもいるだろう。
 飛鳥はまだ動けなかったが、しかし、実を言うとあまり心配してはいなかった。何故なら彼は、自分たちの傍に赤い異形の片割れがいることを理解していたからだ。
「大丈夫……心配ありません、アスカ、キョウスケ。わたくしがお護りいたします」
 果たして飛鳥の想像通り、こんな場面でも穏やかな声がそう言ったかと思うと、声の主が圓東の目の前にすっと現れた。
 青い角と尻尾とが、それが何者なのかを教えてくれる。
「……ウルル」
 圓東が、安堵を含んだ声で名を呼ぶ。
 ウルルは彼を安心させるように、かすかに笑ってみせると、大きな口を開けて突っ込んでくる『鮫』に向かって走り出した。その手には、いつのまにか、白く光る糸のようなものがある。
 その糸を手に、片割れと同じく軽やかな足さばきで『鮫』に肉薄したウルルが、『鮫』に糸を巻きつけるような仕草でさっと腕を巡らせると、きらりと糸が輝き、次の瞬間『鮫』は頭と胴と尻尾に別たれていた。
 ぶつ切りになった『鮫』が、オレンジ色の体液を撒き散らしながら、水音とともに地面へ落ちる。
「ウルル、すごいな」
「いえ……そんなことは」
 瞬きをした圓東が、驚きを素直な感嘆の言葉に変えると、まだ糸を手にしたままのウルルは、ちょっと頬を赤らめて首を横に振る。えーそんなことないって、ほんとーにすごいってー、などと圓東が言い募ると、ウルルは更に頬を赤くした。
 ――しかし、今の飛鳥には、そんなやり取りを微笑ましく眺める余裕もなかった。
 ほんの少しマシになったかと思えば、すぐに第二波第三波が来る。
 寒気と吐き気と身体中の痛み、四肢の震え、冷え切った末端、そのどれもが一向におさまらない。
 先刻購入したばかりの、姿のいい剣を揮った金村が、見事な手さばきで『鮫』を幹竹割りにした。迷いも躊躇いもない、冷徹な一閃だった。
 その背後に迫った『鮫』を、レーヴェリヒトの剣が斬り払う。
 レーヴェリヒトを狙って大口を開けた『鮫』は、カノウの拳に一撃されて吹き飛び、その後赤の異形によって引き裂かれた。
 彼らは決して不利ではなかった。
 だが、有利でもなかった。
 何故なら『鮫』たちは、空中という、地べたを這いずるしかない人間には到達し得ない場所をテリトリーとしていた。
 学習機能があるのだろう、それを徐々に理解し始めた『鮫』たちは、三人に襲いかかっては上空へ逃げるという、ヒット・アンド・アウェーそのものの戦い方を繰り返すようになった。
 無論三人の速さを侮るものもいて、逃げようとした瞬間に仕留められる個体もあったが、戦いが長期化していることに違いはない。
 手伝いに行かなくては、と、半ば強迫観念で思い、何か手はないかと、苦痛に霞む目で周囲を見渡した飛鳥は、石畳の真ん中、大通りの中央からは少し離れた位置に佇む、あまりに見慣れた存在に気づいて息を詰めた。
(……!?)
 白に近い茶色だったはずの髪が、レーヴェリヒトのそれと同じ白銀に変化していることを除けば、それは確かに、飛鳥があの不思議な部屋で出会った、妹とそっくりの顔をした奇妙な人物だった。
「……ソル、……」
 眉をひそめ、その名を呼ぼうとした飛鳥だったが、中央からは離れた位置とはいえ、明らかに道の真ん中に佇む『彼女』に、誰ひとりとして意識を向けていないことの異様さに気づいて口を噤んだ。
 ――否、誰も、彼女に気づいてはいないのだ。
 それは恐らく、飛鳥にだけ見えるモノなのだ。
 しかしそれが幻でも飛鳥の妄想でもないことは、飛鳥自身が誰よりも実感し、理解していた。
 訝しさに眉根を寄せる飛鳥に莞爾と微笑み、ソル=ダートが愛らしい唇をゆっくりと開く。
『それはおまえがこの先一生背負って歩くしかない業だ、アスカ』
「なん……だって……?」
 問うたつもりだったが、苦痛に飲み込まれて声は音にならない。
『それは、その『発作』は、これから先も定期的にお前を襲い、苦しめるだろう。それは想像を絶する苦しみを伴い、お前を無力にするだろう。その苦痛とともに生きるしかお前に道はない』
 ――レーヴェリヒトの剣が、『鮫』を真っ二つにした。
 そのすぐ横をさっと飛んだ『鮫』の、研ぎ澄まされたナイフのように物騒な輝きを放つひれが、彼の腕をかする。
 衣装が切り裂かれ、血をにじませた白い肌が露出する。
 さすがに痛かったのか、顔をしかめたレーヴェリヒトは小さく舌打ちをしたが、傷に怯むことはなかった。油断なく身構えながら、空中を旋回しながらこちらを伺っている『鮫』たち、まだ半分も減っていないそれらの様子を、冷静な眼で観察している。
 その姿は、いつもの陽気で朗らかな彼とはうって変わって厳しく鋭い、百戦錬磨の戦士そのものだった。
『だが』
 迷いのない足取りで、急降下して来た群れへ肉薄した金村が、剣を手にして数時間とは思えない手つきでそれを揮い、レーヴェリヒトを襲おうとした『鮫』のひれを斬り飛ばした。バランスを失って地面へ引っ繰り返り、バタバタともがくそれの頭に、鋭い切っ先を突き入れる。
 それから、背後に迫った『鮫』を驚くほど機敏な動きで避け、足元からレーヴェリヒトを襲おうとしていた『鮫』の横っ面を、硬いブーツの先端で勢いよく蹴り飛ばした。
 『鮫』はぎぎっ、と鳴いて数メートルを吹き飛ばされ、アイスブルーの目に忌々しげな光を瞬かせながら舞い上がる。
『その痛みとともにある限り、お前は強大な力を手にすることが出来るだろう。それは変化の力、運命の一角、あの日お前が手に入れた変革のための種だ。あれが偶然だったのか必然だったのかは、私にも計れないが』
 切れ切れに戦いの場面を追う今の状態で、ソル=ダートの言葉は、激しい戦いの中にあってなお朗々と響き、飛鳥の脳髄に沁み込むように届いた。
 その真の意味は理解できずとも。
『さあ、お前はどうする、アスカ。苦痛に怯え、日々を嘆くか。それとも、苦痛を甘受し、力を得て、未来を切り開くか。お前は、どちらを選ぶ』
 強靭な意志を宿した双眸が、やわらかな慈愛を含んで飛鳥を見る。
 未来。
 その言葉は、飛鳥にはどこかくすぐったく、憧憬めいて聞こえた。
 十歳まではそれを作るためと言われて育ち、十歳以降はそんなものは存在しないと思って生きてきた。
 だから、なんのてらいもなく口にするには、あまりにも希望に満ちた、気恥ずかしい言葉だった。
『――――観るがいい、世界が辿る運命を。お前の、そしてお前が友と呼ぶあの王の未来を』
 言ったソル=ダートが白い繊手を掲げた瞬間、剣を振るレーヴェリヒトも、金村も、カノウも、圓東もウルルの姿も――フィアナ大通りすら掻き消えて、その代わり飛鳥の目の前には、いくつもの風景が広がった。
 それは、言葉で説明しろと言われても困難な、奇妙で不可解な体験だった。
 様々な映画の1シーンをあちこちから切り取ってきたかのような、幻想的で非現実的な細切れの映像を、プレヴューでも見せられるかのようにして幾つも幾つも見た。
 しかし、そこにいるのは飛鳥だった。
 そして、レーヴェリヒトだった。
 過去ではありえない、経験した記憶のない映像の、演じ手はしかし間違いなく飛鳥たちだった。
 そこにはいくつもの観知った顔があった。

 甲冑に身を固めた軍勢の先頭で、白銀に輝く髪を風に躍らせながら、美しい剣を天に掲げるレーヴェリヒトの姿がある。陽光を受けてきらめく剣の切っ先までが、くっきりと見て取れた。
 飛鳥は彼の隣で、ゲミュートリヒ領主夫妻から譲り受けた剣を揮っていた。
 金村や双子異形、リーノエンヴェの姿もあった。
 流れる血、失われる命よりも大切なもののために、失われた命へのはなむけのために、彼らは剣を揮っていた。
 命を奪うことへの恐れも、そのときばかりは、遠い。
 ――そして現れたのは、美しい姫君だ。
 理知と矜持とを含んだ彼女の眼差しには、深い悲しみと感謝がある。

 何でもない風情の、平和で穏やかな明るい日に、レーヴェリヒトと肩を並べて町を歩く自分の姿に、それどころではないのに胸を打たれる。
 レーヴェリヒトはその晴れやかな美貌を喜びに輝かせ、他愛ない会話に楽しげな相槌を打っては笑っていた。
 それは飛鳥が思い描く平和そのものだ。
 飛鳥が望む平和そのものだ。

 まぶしいほどの漆黒の竜、三対六翼の大きなそれが、激しい雷(いかずち)とともに戦場を舞い、甲冑の統一された大軍を蹴散らしている。
 竜はつい先日ゲマインデの男が連れていた飛竜よりもなお大きく、その姿は神威に満ちて、どこか神々しくさえあった。
 それを見上げるレーヴェリヒトの目には、信頼と感嘆とが見え隠れする。

 続け様に、立て続けに流れてゆく映像には、たくさんの顔とたくさんの表情、そしてたくさんの生き様が映っていた。

 様々なかたちの、たくさんの剣。
 紙の山を前に、溜め息をつきながらペンを操るレーヴェリヒト。
 空に翻る美しい戦旗。
 お茶を淹れるウルルと、パイを切り分けるカノウ。
 イスフェニアと肩を並べて歩く金村。
 真紅の眼をした老人とともに、細かな作業に精を出す圓東。
 剣を鍛える火花、音。
 飛鳥に殴り倒されるノーヴァ。その表情が嬉しそうなのは……多分気のせいだ。
 夜、酒や菓子を持ち寄って、月と星の光をランプ代わりに、他愛ない、くだらない会話に花を咲かせるいつもの面々。

 泣き声。涙。
 罵声、怒声、歯噛みする気配。

 赦しを乞う声、苦悩に刻まれた皺、けれど悔いない矜持と決意を感じる。
 渦巻く陰謀と危険、徐々に近づいてゆく心。
 濁流。
 レーヴェリヒトの浮かべる、驚愕を含んだ悲痛な表情。
 精緻な彫刻の施された、重厚な扉を蹴り開けたのは、飛鳥だ。
 心配させやがって。そんな、安堵の含まれた言葉。

 いくつもの死。
 裏切りと信頼と、真実と。

 どこか歯車の食い違った目の、まだ若い男。
 その頭上に輝く、黄金の冠が、血にまみれているように思えるのは何故だろう。
 彼にひざまずく何千人もの侍従、侍女、騎士たち。
 彼が、彼に仕える厳つい顔の男たちに命じるのが聞こえる――「世界を、我が手に」。
 泣きそうな顔、爪を噛む仕草、簡素な墓に手向けられた白い花。
 本当にほしかったのは、と、つぶやく声。

 無数の死。
 無数の別れ。
 無数の、苦悩。

 めまぐるしい変化に目が回る。
 ――しかし、映像は巡る。次々と、連綿と。
 飛鳥のことなどお構いなしに。

 五色の娘と、五色の若者の姿。
 伸ばしても伸ばしても届かない手と、落とされる溜め息。
 沈鬱な黒いもやと、人間だったモノから弾けるように溢れ出る異形。
 混沌の姿をした黄金が、ひっそりと笑う。

 漆黒の翼を持った天使たちが、様々な甲冑に身を包んだ人間たちとともに、黄金の翼の天使たちと剣を交えている。
 黒と金に彩られた天を舞う、五色の竜。
 ――金色の少年の涙。
 そんなつもりじゃなかった。と、悔恨の悲鳴が漏れる。

 ――――――――そして。

 映像の最後に、飛鳥はそれを見た。
 血にまみれ、死に瀕して横たわる、己の姿を。
 自分を取り囲む、たくさんの人の顔を。
 たくさんの、涙を。

『……何が見える?』
 ソル=ダートの囁きはどこか遠く、それでいて奇妙に近い。
『私には、見せてやることしか出来ないが』
 飛鳥は答えなかった。
 絶え間なく流れてゆく映像たちが、ソル=ダートの創り出したただの幻ではなく、自分の負うべき運命なのだと、いずれ訪れる未来なのだと、魂の根っこの部分で理解している。
 それでも、飛鳥が感じたのは、深い深い安堵だった。

(…………ああ)

 魔導師らしき衣装に身を包んだ人々が、懸命に魔法を紡ぎ、飛鳥の命をつなぎとめようとしているのが判る。
 もはやどこから血が流れ出しているのか判らぬほど……数えきれぬほど、身体中に傷を負った飛鳥の、力を失ってゆく身体を抱きかかえて、レーヴェリヒトが憤りと悲嘆に吼えるのが見える。
 それでも、治癒魔法の甲斐なく、レーヴェリヒトの悲痛な祈りの甲斐なく、今まさに逝こうとしている自分自身の顔は、ひどく穏やかだった。
 そこには、死への恐怖も、生への執着も、後悔も躊躇いもなかった。ただ、自分のなすべきことをなしとげた、揺るぎない矜持と充足だけがある。
 そして、すべてが終わったことに――平和と、静けさとが戻ってきたことに、世界が歓喜していることが感じられた。
 だから。

(――――悪くない)

 そう、心につぶやくと、震えがおさまった。
 冷え切っていた手足の末端に、血が通ってゆくのが判る。

 幻は、レーヴェリヒトが護られたことを、彼が生き長らえることを教えてくれた。リィンクローヴァの幸いと繁栄とを教えてくれた。
 たくさんの見知った顔、たくさんの人々が、幸いを享受できる世界が訪れたことが見て取れた。
 ならば、飛鳥に、否やのあろうはずも、なかった。

『――……どうする、アスカ?』

 ソル=ダートの声は、どこか確信を含んで聞こえた。
 飛鳥は微笑する。
 ソル=ダートの確信は、正しい。
 彼以外には幻でしかないそれに向かい、きっぱりと断じる。
「甘受しよう、すべてを」
 その瞬間、鉛の、鎖のごとき、飛鳥を縛っていたすべての苦痛が、消えた。
 そして、清々しい自由が訪れる。
「……アニキ……?」
「アスカ。お身体は、もう……?」
 ゆっくりと立ち上がった飛鳥に、圓東とウルルが訝しげな声を上げる。
 飛鳥は答えず、ソル=ダートを一瞥した。
 妹の姿をした何者かはゆったりと微笑し、頷いた。
『――祝福あれ、黒の申し子、世界の愛し子よ』
 運命を不変のものとは思わない。
 飛鳥が動くことで、変わってゆくものもあるだろう。
 だが、飛鳥は、いずれ訪れるあの未来を必然と感じる。
 それを恐れるつもりもない。
「俺は、俺の力と存在にかけて、俺の責務を全うしよう」
 ――――右手の人差し指が熱い。
 背中に圓東とウルルの視線を感じつつ、飛鳥は大通りへと踏み出していた。
 それに気づいた『鮫』たち、レーヴェリヒトや金村、カノウに群がっていた、十数匹の使い魔たちは、一瞬動きを止めたのち上空に舞い上がるや、その寒々しいアイスブルーの目を、唐突すぎるほど唐突に飛鳥へと向けた。

 ――おやおや、ようやく主役のご登場かな。危うく待ちくたびれるところだったよ。

 誰かが、冷ややかさの含まれたそんな言葉を、どこかでつぶやいたような気がしたが、飛鳥は構わずに歩を進め、フィアナ大通りの真ん中で立ち止まった。そして、無造作に『鮫』の群れを見上げる。
 『鮫』たちは低い唸り声を上げながら飛鳥を見据えていたが、何かの命がくだされでもしたかのように、不自然なほど同時に、一直線と言うのが相応しい速さで彼へと殺到した。
 ぎらぎらと、銀の牙が光る。
「アスカっ! 危ねぇ、避けろっ!」
「若! 退いてくれ!」
 武器を持たぬ彼を案じてだろう、レーヴェリヒトと金村が鋭く告げるが、飛鳥は微動だにしなかった。
 彼はただ、奇妙なほどの確信と、苦痛の延長上にある熱の余波に浮かされるようにして、右手を目の前に掲げ、短く命じただけだった。
「邪魔だ、消えろ」
 ――特別なことなど何もなかった。
 例えば、飛鳥の言葉とともに、この世界の人間には見えていない指輪から光がほとばしるとか、飛鳥の身体が宗教家のパフォーマンスよろしく光を発するとか、そんな胡散臭いことは何もなかった。
 何もなかったのに、飛鳥のその言葉が途切れた瞬間、今まさに飛鳥へと到達しようとしていた『鮫』たちは、その牙で飛鳥を引き裂かんとしていた使い魔たちは、慣性の法則すら無視してその場に急停止し、無機物さながらの動きでぼたぼたと落下した。
「な……!?」
 レーヴェリヒトが驚きの声を上げる。
 次いで、『鮫』の身体、唐突に動きをなくしたそれらと、先刻までオレンジ色の体液をぶちまけていた骸とが、空気に溶けるかのごとくに消えてなくなると、今まで戦闘が行われていたとはとても思えない、静けさと穏やかさが戻ってくる。
 もはや敵意殺意はどこにも感じられず、フィアナ大通りのどこを見ても、『鮫』の形跡は何ひとつ存在しなかった。蛍光色に近い、あれば見逃すはずのない体液ですら、ひとしずくも残ってはいない。
 周囲を見渡した市場の人々が、安堵の溜め息を吐くのが判った。
 見事な戦いぶりを見せたレーヴェリヒトを、金村を、カノウを讃える声があちこちから聞こえる。
 同時に、飛鳥の中から、神がかった確信と熱が出てゆく。
 飛鳥に運命を見せた沢山の映像もまた、記憶の中から薄れていった。
 完全には消えずとも、はっきりとした映像はもはや飛鳥の記憶の中にはなく、彼に残ったのは、運命を見たがゆえの覚悟と、決意だ。
 終わってしまえば、今の飛鳥は、ただの人間だった。
 無論、それをこそ普通だと思いもするのだが。
「……なんだ、今の」
 一連の不可解な出来事に、青年王は訝しげに白銀の眉を寄せたが、それよりもまず飛鳥のことが気懸かりだったようで、剣を腰に戻すと小走りに彼へと近寄ってくる。
 空気を含んだマントが、彼の動きに合わせてふわりとたわんだ。
「アニキ、だいじょぶ?」
 レーヴェリヒトとまったく同じタイミングで、背後から圓東が走り寄ってくるのを感じていた飛鳥は、ふと、視界の隅に黄金の光が散ったような気がして眉をひそめた。

 ――あーあ。やっぱり、使い魔なんかじゃ、駄目か。

 誰かがまた、残念そうでありながら、どこか楽しげな口調でつぶやいた。
 そこに紛れもない害意を感じ取って、飛鳥はゆっくりと視線を動かす。
 声の主、害意の持ち主へそれが行き着くよりも早く、飛鳥の魂の根っこの部分、本能とでも言うべきそれが、またしても唐突に危険を告げた。『鮫』のように直接的ではない、しかし楽観視も出来ない危険の到来を感じる。
 狙われているのは、自分だ。
 何の証拠もないのに、確かにそう感じる。
 ゆっくりとこちらへ近づいてきていた金村がかすかに眉をひそめ、周囲を見渡した。
「……何だ? 精霊……じゃねぇ。何かが、集まってる、のか……?」
 ひどく胡散臭い単語を聞いたような気がしたが、今の飛鳥にそれを言及しているだけの時間はなかった。
 ――レーヴェリヒトが自分に近づいてくる。
 脳裏に浮かんだのは、このままでは巻き込む、という思考、それのみだ。
 得体の知れない何か、エネルギーのようなものが、大きく膨れ上がったのが判った。それが危険をもたらすものであることを、飛鳥は奇妙なほど強く確信している。
 そのときの飛鳥に、躊躇はなかった。
「来るな!」
 低く鋭く告げるとともに、まさに自分の傍へ辿り着いたレーヴェリヒトの身体を突き飛ばす。
「ぅわっ、た、と……っ!?」
 予測していなかったのか、派手によろめいたレーヴェリヒトが、
「何すんだ、アス、」
 抗議の声を上げるよりも早く。
 飛鳥を、黄金の光が包み込んだ。光はまぶしく、稀有なほどに美しかったが、禍々しいまでの敵意に満ちていた。
「あ……アスカ!? 何だ……これ、神霊魔法、か……!?」
 レーヴェリヒトが驚愕の表情を浮かべて周囲を見遣る。
 手を伸ばしてその黄金に触れた飛鳥は、自分が光の中に閉じ込められたことを知った。指は黄金に触れこそすれ、光の向こう側に突き出ないのだ。それはまぶしく美しい檻だった。
 ――否、閉じ込められたのは飛鳥だけではなかった。
「な、なな……なんだ、これ……っ!?」
 背後で上がる、滑稽なほどうろたえた声は、圓東のものだ。
 そういえば忘れていた、と、非情なことを飛鳥が思ったとき、黄金の檻が動いた。眩暈にも似た浮遊感が訪れる。
 飛鳥は小さく息を吐いた。
「まったく……なんで、こんな、次から次へと……」
 巡らせた視線の先に、また、黄金の光を見る。

 ――これで死ぬとは思わないけど……面白そうだから、ね。

 楽しげなつぶやき。
「……誰だ、お前は……?」
 飛鳥の視界に、黄金の髪と眼をした、華奢な少年が映った。
 白い肌と、少女と見紛う美しい目鼻立ちの、恐らく飛鳥と同年代と思しき少年だった。
 それを確認した瞬間、飛鳥の意識は、禍々しい黄金光に飲み込まれた。どこか遠くで、圓東の悲鳴を聞いた気がしたが、それも定かではない。

 そして、その光が消え去ったとき、飛鳥と圓東の姿はそこにはなかった。
 ふたりは、忽然と姿を消していた。
 ざわざわと、驚愕の声が広がってゆく。