呆けていた意識が戻るのに要したのはほんの一瞬だった。
飛鳥の主観的感覚で言えば、の話だが。
「……?」
地上数十メートルにある高層ビルの屋上まで、超高速のエレベーターで一気に駆け上り、更に下降したかのような、背筋がムズムズする感覚を伴う、奇妙な浮遊感のあとのことだ。
飛鳥は、脳味噌の片隅にわずかに残った、痛みとも眩暈とも取れぬそれに顔をしかめ、軽く頭を振ってから周囲を見遣り、そこがひどく薄暗いことに気づいて眉をひそめた。
まだ身体が完全には回復しきっていないのか、感覚が妙に曖昧だ。
つい先ほどまで、飛鳥は確かに、切なさすら感じるほどの青空の下、色とりどりの商品で満ち溢れた賑やかな場所にいたはずなのに、ここでは青空どころか、太陽の光や風の匂いすら感じられなかった。
いったいどこなのか、そこは薄暗く、何が入っているのかさっぱり判らない大小様々な木箱や麻の袋があちこちに置いてあった。
飛鳥の周囲に人の姿や気配はなかったが、決して小さくないサイズと判る獣の唸り声や、誰かがこぼす啜り泣きがどこかからかすかに聞こえ、また、何かが腐ったような饐(す)えた匂いがした。
明らかに、フィアナ大通りではない。
「つまり俺は、何がしかの力によって、フィアナ大通りからここまで飛ばされたということ、か?」
続け様に起きた事件のお陰で少々混乱している意識を落ち着けようと、思い当たる事柄を口に出していた飛鳥は、先刻の黄金の光、奇妙な牢獄によってもたらされたその浮遊感が、この世界に飛ばされたときに感じたものとよく似ていることに思い至る。
あの、黄金の髪と眼――つまり、この世界風に言うなら黄の加護持ちを飛鳥は観たのだ――をした少年が何を目論んで飛鳥の前に姿を現したのかは知らないが、彼の、喜悦を含んだ言葉、どこか歪んでも感じられたそれが、飛鳥への敵意に満ちていたことだけは確かだ。
「……さっきのは、転移か、何かだったのか……?」
無論魔法の何たるかすら理解出来ぬ彼にその成否など判るはずもなく、飛鳥は小さな溜め息をついてからゆっくりと立ち上がった。手を握ったり開いたり、首や肩を回したりして身体の調子を確かめ、四肢に力が戻っていることに安堵する。
あの『発作』がこれから何度も飛鳥を襲うにしても、それが不可避の運命なのだとしても、今のこの瞬間、得体の知れない場所に飛ばされた状況下においてそれが起きていなければ、それはそれで構わないのだ。
「まぁ、なるべくなら、あんなものは起きないにこしたことはないけどな」
ちなみに飛鳥の足元には、棒切れのように手足を突っ張らせた姿で圓東が転がっている。
先ほどの転移、感覚の奔流で目を回したのだろう、どうやら今は夢の世界に遊んでいるらしいが、その夢も決して楽しい内容ではないらしく、なにやら深刻な顔でうなされていた。
「あー……」
圓東を見下ろして飛鳥は頬を掻いた。
レーヴェリヒトにばかり気持ちが向いて、あの青年王を巻き込んではいけないという思いばかり先に立ち、彼を魔法の光、もしくは黄金の檻から庇ってやれなかったのは飛鳥の不徳の致すところだが、
「……まぁ、バラバラに、まったく別々の場所に飛ばされなかっただけずいぶんマシだ。むしろ親切にも一緒に飛ばされてやった俺の偉大さを褒め称えるべきだな、うん」
コイツはレイや金村のような戦士でもないし、頑丈でもないんだからもう少し気を遣ってやらないと、などと反省したのもほんの一瞬で、すぐに恐ろしく自分に都合のいいかたちですべてを納得する。
それでもそれなりに圓東を気遣いつつ、彼にも神経を集中させつつ、さてではどうしようかと周囲を見渡した飛鳥は、唐突に、自分たちが、四角い檻のようなものの中にいることに気づいて眉をひそめた。
檻の中に飛ばされた理由も判らなければ、何故檻があるのかも判らない。
――判ることといえば、檻というものが、主に危険な動物を捕らえておくために用いられるという客観的かつ普遍的な事実くらいのものだ。
それと同時に、ようやく回復した感覚のすべてが、同じ檻の中に何か危険なモノがいることを警告する。位置にすると、今彼らがいる檻のすみっこと正反対の、角の辺りだ。
おおよそ十メートル四方という、小さくはないが決して広くもない檻の中で、飛鳥がその存在に気づけなかったのは、やはり先ほどの『発作』の所為だろう。あの苦痛が、ひとときとはいえ、飛鳥から様々な力を奪うのだ。
そのときの弱体化を思うと、今後の先行きが不安になるほどだ。
何にせよ、レーダー並に優秀な自分の感覚が危険を告げているのだ、そこで呆けているわけにも行かず、ボケてる場合じゃないぞと自分を叱咤しながら、飛鳥はそろそろと視線を移動させる。
十七年間の厳しい日々のお陰で研ぎ澄まされた神経、常人を凌駕した数々の感覚が、全身全霊で危険を叫ぶその方向へ。
「……!」
『そこ』へ、檻の反対側へ視線が行き着いた瞬間、檻の主の、地球にはありえないその姿が飛び込んでくると同時に飛鳥の目が大きく見開かれ、檻の主が飛鳥を警戒心に満ちた双眸で見据えていることに気づくと同時に――その、黄金の瞳孔を持った琥珀の眼と視線がかち合ってしまったと同時に、彼の呼吸が途絶したのはごくごく当然のことだったが、数々の修羅場をくぐってきている彼は、そこで悲鳴を上げたりパニックを起こしたりするほど弱い心臓の持ち主ではなかった。
それよりも、そこで激しい反応をしてしまうことへのデメリットを計算する思考が働く方が早いのだ。
檻の主を刺激しないよう、静かに深呼吸をし、彼への害意を持たないことを示すようになるべく気配を抑えつつ、しかし視線は揺るぎもせずに檻の主を見つめる。
主は黄金の瞳孔をきらりと輝かせて低い唸り声を上げたが、飛鳥に害意がないことを、危害を加える存在ではないことを理解したのか、それとも何か別の理由があるのか、敵意を剥き出しにすることも、こちらへ向かってくることもなかった。
その、琥珀の双眸は静かで、理知的ですらあった。
顔にはまったく出さなかったものの、飛鳥は心底安堵する。
パニックを起こしてはならないと思うからこそ自制心が働いたが、恐怖を感じないかと言われたらそんなはずはないのだ。
飛鳥にも、ヒトに飼い慣らされぬモノへの恐怖心はある。
同時に、畏怖にも似た憧れを抱きもするが。
そう、檻の主とは、
「う……うーん……」
――不意に、圓東が呻き声を上げた。
視線の端に見遣ると、苦しい夢でも観ているのか、眉間に皺が寄っている。
棒切れのように突っ張った手足が動き、水中でもがくかのような、深い眠りから醒めるときの伸びのような、奇妙な仕草のあと、
「……ご、め……――、ッ、て、ごめん、なさ……」
何かを詫びる言葉が、哀しみと苦悩と諦観とを含んで紡がれた。
言葉はかすかで、しかもかすれていて、飛鳥の優秀な聴覚をもってしても完全には聞き取れなかったが、深い深い哀しみと、普段暗い過去の影を匂わせることすらない圓東の持つ、重い何かを感じさせるには十分だった。
思わず――地球にいた頃の飛鳥には考えられないほどの認識の甘さで――檻の主から視線を外し、圓東を見下ろすと、圓東のその少年めいた顔には苦しみと哀しみの双方が刻まれていた。
「……」
声をかけることも出来ず、またかけるべき言葉も浮かばす、ただ瞠目する飛鳥の足元で、圓東がぱっちりと目をあけた。
「――あれ?」
彼の口をついて出た声に、悲嘆や懊悩の色はない。
「アニキ、何してんの? ってか、何でおれはこんなとこで寝てんの? ここどこ? ……何があったんだっけ?」
ぼさぼさになった頭をかき回してから身体を起こし、あれ? と、疑問符だらけで首を傾げる圓東の、邪気のない仕草に、かえって飛鳥は、彼が抱える深い闇を垣間見る思いでいた。
外には見せられぬ傷にこそ、重い痛みは宿るものだからだ。
彼もまた同じ傷を抱く身ゆえに、共感にも似た思いを抱いていた飛鳥だったが、唐突に低く重い唸り声が空気を震わせ、
「――ッ!?」
弾かれたようにびくりと震え、それを観た圓東が、眼球が飛び出るのではないかというくらいに目を見開いた時点で眦を厳しくした。
ルルル、と再度唸った主が、こちらを凝視しながらゆっくりとその巨体を起こす。彼の首に、鈍い金色に光る輪がはめられていることに、飛鳥はそのとき気づいた。
蒼白になった圓東が口をぱくぱくさせた。腰が抜けたのか、立ち上がることも出来ずにいる。
しかし、それも仕方のないことだとは思う。
「と、ととと、虎……っ!?」
――そう。
何故なら、檻の隅でこちらを伺う『主』、この檻が捕えるべき対象は、漆黒の翼を持ち、白銀に青縞の毛皮をした、巨大な虎だったのだ。
頭から胴の長さだけで三メートルに及ぶだろう。尻尾を入れれば四メートル、地球の虎に比べると一回り大きい。
不可解なのはその背にある漆黒の巨大な翼だ。広げれば『虎』の体長の倍以上になるだろうそれは、折りたたまれてその背中に張りついていたが、何にせよ生物学的にありえない。
だが、今は、人間における腕と四ツ足における前脚と鳥類における翼の意味を云々する場合ではなかった。
そのとき、飛鳥がしたのは、がくがくと身体を震わせ、恐慌をきたして叫びだしそうになっていた圓東の頭を鷲掴みにし、万力のような力で締め上げることだった。
「ッ、え……ったたたたたッ」
「うるさい、静かにしろ」
恐怖から無意味に――半ば無意識に絶叫しそうになっていた圓東だったが、洒落にならない握力・腕力を持つ飛鳥に頭を締め上げられるという物理的痛みは、その恐怖を上回る脅威となるのに十分だったようだ。
涙目で、飛鳥の手を外そうと躍起になっている圓東を見下ろし、飛鳥は真顔で――傲然と――告げる。
「みっともなく悲鳴を上げてあの虎に食い殺されるか、それとも俺にこの場で頭蓋を砕き殺されるか、好きな方を選べ」
「こ、殺されるしか選択肢がないんですけどっ!?」
「この緊迫した場で、取り乱して喚き散らすとかいう愚を犯す馬鹿にはちょうどいいだろう。精々華々しい死に様をさらすがいいさ」
「ちっともよくないって! わ、判った、判りました、絶対に何があっても悲鳴上げません取り乱しませんアニキの指示に従いますっ! だ……だから手ぇ放して! も、ほんとにマジで割れるからっ!」
飛鳥の言が本気と判るのか、『虎』を目にした時に優る恐怖の表情を浮かべ、バタバタともがく小柄な人物の頭を、まったくの無表情で強烈かつ無慈悲に締め上げていた飛鳥は、涙声の圓東がそう誓うに至ってようやく締め付けを緩め、手を放した。
「仕方ない、許してやろう。なら、どんなことがあっても鉄の自制心で静かにしてろ。意味もなく喚くとか走り回るとか自棄に走って攻撃しようとするとか、そういう愚行は論外だ。問答無用で割るぞ。いいな?」
「は、はいっ」
解放された圓東が必死の面持ちで首を縦に振る。
『虎』への恐怖が消えたわけではないのだろうが、低く唸りつつも敵意のない眼でこちらを観察している『虎』よりも、激怒した飛鳥に頭蓋骨を割り砕かれる方が物理的に怖いのだろう。『虎』へちらちらと視線を向けてはいるものの、圓東が過剰な反応をすることはなくなった。
ただ、『虎』を気にしながらそろそろと薄汚れた床を這いずって、飛鳥の背後に隠れただけだ。
それを見下ろして飛鳥は肩をすくめた。
「まぁ、さっきの光から庇ってやれなかった罪滅ぼしに、ちゃんと護ってやるから心配するな」
「……えっ? あ、う、うん」
「なんだ、その変な顔は」
「え、う……うん、いや、あの、そんな風に言ってもらえるとは思わなかったから。巻き込まれた自分が悪いんだから自分で何とかしろとか言われるんじゃないかって……」
「お前は俺のことを一体何だと思ってるんだ?」
「え、いや、あの、それは」
「……まぁいい。どちらにせよ、あいつに関してはあまり心配は要らないんじゃないかと俺は思ってる」
「え、あの虎?」
「ああ」
「なんで?」
「俺たちがこんなに騒いでいるのに、こちらへ向かってくる様子もない。敵意が感じられないんだよな。すごく賢そうな顔をしてるし、もしかしたら誰かに飼われていた虎なのかな」
「そ……そうなの? おれ、動物の敵意とか判んないし。アニキがそう言うんなら大丈夫なのかもしれないけど、でも……なんで羽根が生えてるんだろうね、あいつ」
「さぁな。翼というのはそもそも前脚が変化したものだ、あれではあいつの祖先は四本の前脚があったことになってしまうんだが、どういうことなんだろうな。この世界では普通のことなんだろうか」
「うーん、ありえそうな気はするけどね。魔法とか異形とか、ワケ判んないモノがいっぱいあるわけだし」
「言い得て妙だな。しかし……どうするかな、この事態。この檻、出口が見当たらないんだよな」
「そだね。うーん、あの幅じゃ、ちょっと出られなさそうだなぁ」
人間の子供、ごくごく幼い、小柄な者だけが通り抜けられる程度に過ぎない柵の隙間を見遣り、ふたりが会話をしていると、立ち上がったのと同じくらい静かに、しかし唐突に、『虎』が床に横たわった。
前脚に顎を乗せ、何もない前方を見つめながら小さな溜め息を吐いた、その仕草がやけに人間臭くて、基本的に動物好きな飛鳥は思わず微笑した。
――近寄って触ってみたい、などという、危険極まりない願望が根差す。
もっとも、考えなしにそれを実践して、この小康状態を自ら破るほど、彼は浅はかでも向こう見ずでもないが。
しかし、せっかくだからもう少し観ていたい、という意識は否定できず、飛鳥は再度『虎』へと視線を向けた。
『虎』もまた、飛鳥たちが気になるのかこちらをちらちら伺っていて、飛鳥の漆黒の双眸と、『虎』の理知的な琥珀とが絡み合う。
そのときのことだった。
《……誰ぞ》
声が聞こえた。
どちらかというと男性的な、不思議で音楽的な音韻を持った声だったが、それは耳という器官を介して聞こえたものではなかった。直接意識に響く、不思議な声だった。
しかしそんな声を発するような対象も見当たらず、空耳かと思っていると、首を傾げた圓東が周囲をきょろきょろと見渡している。
「今、なんか聞こえなかった?」
「お前もか。……頭の中に直接、か?」
「うん。不思議な声だったね」
「ああ」
誰かいるのかと、ふたりで周囲を見ていると、
《――誰ぞ、おらぬか》
また、同じ声が聞こえた。
思考に直接届く所為で、どこから響いてくるのか判然としない。
《我をこの茨(いばら)より解放し、靭(つよ)き佳(よ)き銘(な)で我を新しくする者は、おらぬか》
「……何言ってんのか判んない」
「言っている意味は判るが、どういうことなのかがよく判らん」
《小さき者、人の子でもよい。魔の者でもよい。誰ぞ、おらぬか》
圓東と互いに首を傾げていた飛鳥は、ここに存在するものが、自分たちの他には有翼の『虎』しかいないことに思い至り、まさかな、という確認のような気持ちで『彼』に目を向けた。
やはりこちらへ琥珀の双眸を向けたままの『虎』と視線が絡み合う。
また、『虎』が人間臭い溜め息を吐いた。
《加護の者か……佳き黒だ。彼奴(きゃつ)らに、我の言葉が届きさえすればよいものを》
飛鳥は眉をひそめた。
「……今の、聞こえたか」
「うん」
「ということは、声の主は、あいつか」
「っぽいね」
何故動物が言葉を話すのか、何故脳裏に直接言葉が響くのか、判らないことは山盛りだが、ともあれ、目の前の『虎』が何事かを切望しているそのニュアンスだけは理解できた。
自分たちが彼の言葉を理解できるなら、彼もまた自分たちの言葉を理解できるだろうという、行き当たりばったり的な思考の元――最近の飛鳥は、地球にいた頃から比べると、格段にこの傾向が強くなってきている――、飛鳥は『虎』に向かって口を開いた。
「おい、そこのあんた」
飛鳥のぞんざいな物言いに、『虎』がまた息を吐く。
《黒の子が何ぞ申しておるな。あれが真に、我と交わせる言葉ならよいのだが》
どうやら、飛鳥が何か独り言でも言っていると思い込んでいるようだ。琥珀の眼が、ひどく残念そうに飛鳥を見る。つまり、本来、『虎』の言葉とはヒトの耳に聞こえるものではないのだろう。
飛鳥は呆れた声を出した。
「自己完結するな、そこの虎。俺の声が聞こえてるなら返事しろ」
《ぬおっ!?》
飛鳥がすかさず突っ込むと、ものすごく狼狽した声が上がり、檻の隅に寝転んでいた『虎』が飛び起きた。
そして、黄金の瞳孔をきらめかせ、こちらを見遣る。警戒しているのだろう、身体を低くし、尻尾を立てていた。
それに怯えたのか、圓東が飛鳥の背後に隠れる。
どこからどう見ても小動物な眷族だが、護ってやると約束した手前笑うわけにも邪魔だと蹴り倒すわけにも行かない。
《……汝は今、我に声をかけたのか》
「あんた以外誰がいる」
《何故我が声が聞こえるのだ。汝らはヒトであろう、ヒトに我らの言葉が届いたことなぞついぞないというのに》
「知らん。知ってどうなるものでもない」
《……我の見るところ、唐突に降って涌いたようだが、汝らはどこから来たのだ》
「ここがリィンクローヴァ国内かどうか知らないし、地名を口にしたところであんたに判るかどうか微妙だが、フィアナ大通りから飛ばされたらしい。どうも、魔法に巻き込まれたみたいだな」
《おお、それゆえの世界の揺らぎであったか。神霊魔法とは、稀有なことだ》
「ま、無事だったからいいさ。それよりも、あんたは何だ? 何故、ここで囚われている?」
きらりきらりと輝く黄金の瞳孔に怯むことなく、平素と変わらぬ調子で飛鳥が問うと、『虎』は苦渋に満ちた声を出した。
《我は神獣、霊獣、聖獣などと呼ばれる獣の一頭だ。人間どもに囚われ、ここに閉じ込められた》
「ここは、どこだ?」
《王都アインマールから少し離れた小集落の傍、フィルカと呼ばれる山の奥だ。ありとあらゆる手段で手に入れた珍品を秘密裏に売買する組織と聞いたぞ、しばらく前までここに囚われておった金狼の奴に》
会話が成立すること、意志の疎通が出来ることに安心したのか、圓東が話に割り込んでくる。
「そっか、捕まったんだ。虎さんはなんで逃げないの?」
《ぬ、汝も我が声が聞こえると申すのか。なんと稀有なことだ。――逃げたくとも逃げられぬのだ》
「なんで? 羽根があるじゃん。いや、檻もあるけどさ」
《檻などあろうがなかろうが同じことだ》
「ん? どゆこと?」
《今の我は、茨に力を封じられ、銘(な)を奪われておる》
「いばらってナニ?」
《我の首にかけられた、この忌々しい金輪のことだ。神聖を封じる魔法がかけてある》
「へー。それって、取れないの?」
《少なくとも、我には取れぬ》
「まあ、当然だな。圓東、お前手先器用だろう。ちょっと観てやれ」
「えっ……うーん、まあいいか。近づいてもガブッとかしないでね?」
《失敬な。ヒトなど食うほど零落(おちぶ)れてはおらぬわ》
「え、そういうもんなの? そりゃシツレーしました」
どうやら『虎』への警戒も薄れたらしい圓東が、へらりと無防備に笑って彼へと近づいてゆく。腰には、圓東がいつも持ち歩いている小さな道具入れの姿があった。
「うーん、どれどれ? ちょっと屈んでよ、おれの身長じゃ輪っかまで背が届かな……あー、うん」
「どうだ?」
「うん、取れるよ、これなら」
《まことか!》
「うん。溶接もしてないし、つなぎ方もちゃちぃし。えーと、ちょっと待ってね……」
圓東が道具入れからペンチとねじ回しのようなものを取り出し、その場にしゃがみ込んだ『虎』の首元で、なにやらカチャカチャと音を立てて作業すること数分。
かららん、という軽快な金属音とともに、『虎』のいうところの茨が、彼の首を離れて地面へ落下した。
『虎』が清々した、という風情で伸びをし、欠伸を漏らす。どうやら、よほど気色の悪いものだったらしい。
《なんと……汝はよほど名のある細工師に違いない。我を数ヶ月に渡って悩ませた茨を、かくも容易く取り外してしまうとは!》
「や、そんな褒めてもらうようなことでも。普通に簡単だったから。そりゃまぁ、手が使えないと無理だけどさ」
《むう……》
「ふむ、まぁ、種族の違いとはそんなものだろうさ。あんたには簡単なことでも、俺たちには到底不可能なこともあるだろうしな。何はともあれご苦労。なんであれ、懸念のひとつが消えたならいいことだ」
「そうそう。あとはここからどうやって出るか、だよね。ねえアニキ、あの柵曲げられないの?」
「さすがに直径五センチ以上の鉄の棒を曲げる根性はないな」
「そっかー。じゃあどうしよう? なんだっけ……その、秘密組織? の人たちがここに来たらちょっとまずいよな?」
「まあ、色々と面倒なことにはなるだろうな。レイや金村も心配しているだろうし、早めに何とかしたいものだが」
《ならば……ひとつ、頼まれてはくれぬか》
これからを算段するふたりへ、不意に『虎』が声をかけてきた。
飛鳥は首を傾げて彼を見上げる。
「何だ?」
《巧く行けば、汝らを外へ出してやることも出来る》
「――ほう。どうやって?」
《我に銘(な)をつけてくれ》
「銘?」
「それって、名前のこと?」
《人間でいえば、そうだ》
「何故、それをつけろと?」
《我にあの忌々しい茨を被せた小癪な魔法使いめが、念のためにとほざいて銘を奪って行きおったのだ。銘のない神獣は牙を抜かれ爪を折られた肉食獣のようなもの、世界に対して何の力も発露させられぬ。茨がはずれたところで、これでは何の意味もない》
そのときのことを思い出したのか、苛立たしげに唸った『虎』が、心底悔しげに前脚で床を引っ掻く。
「アニキが虎さんに名前つけてあげたら、虎さんは自由になれる?」
《おそらくは。汝らは黒の一党であろう、資格、素質としては申し分ない》
飛鳥は考え込んだ。
「それは、俺に出来ることなのか? 俺がつけていいものなのか?」
《判らぬ。判らぬが……それ以外に、我が力を取り戻すすべはないのだ。一旦奪われた銘は二度と戻らぬ、上から佳き銘を重ねてやるしかない》
「力さえ戻れば、ここから出られるのか」
《腐っても神威の獣だ、このようなもの、木ぎれも同然》
「……だが、よい銘がつけられなかったら、どうなる」
《何も変わらぬ。我は動けぬし、汝らは出られぬ、それだけのことだ》
「ふむ。当たって砕けろ、ということかな」
飛鳥が言うと、
《――頼む。我はもう一度空が観たいのだ。もう一度大地を駆け、空に遊び、風と戯れたいのだ》
憧憬のこめられた言葉とともに、『虎』が天井を見上げる。
そこにあったのは、薄暗く汚らしい、すすけたような色合いの、土造の天井に過ぎなかったが、彼の眼に映っているのは、きっと彼の愛する風景なのだろう。
圓東がしんみりとつぶやいた。
彼もまた、遠い昔を思う目をしていた。
「……自由になりたいんだね」
「ああ」
「あのさ」
「ん?」
「いい機会だから白状するけど、実はちょっと前のおれも、おんなじこと考えてた」
「……そうなのか」
「うん。やりたいことなんか何にもさせてもらえなくて、やんなきゃいけないことばっかり押し付けられてた。あの時は、死んだ方がマシだと思ってたけど、でも、今は、自分の好きな場所で、好きなことが出来るから、生きてて本当によかったと思う」
「――――…………俺もだ」
飛鳥の口からほろりとこぼれたそれ、圓東の独白めいた言葉につられて紡がれた深い共感に、年上なのに年下に見える眷族は驚きに目を瞠り、
「……うん」
それから、晴れやかに、背負った何かがほんのわずか軽くなったかのように、邪気のない笑みをこぼして頷いた。
飛鳥は微苦笑ののち、おとなしく目の前に座る『虎』を見上げて、その首筋を撫でた。つやつやとした毛の質感と、ふかふかした手触りに、ある種の感動さえ覚える。
「さながら彼は、俺たちの鏡か」
「うん」
「そうか……」
「だから、アニキが名前つけてあげて、元気に、自由になれるんなら、すっごくいいことだよね」
「――ああ」
脳裏にいくつかの単語を思い浮かべ、飛鳥はほんの一瞬瞑目した。
『虎』のような神聖動物にとって、いのちに関わるほど重要な『銘』を、しかも奪われた前の『銘』を上回る力を持ったそれを紡げるかどうか、飛鳥に確証はない。
この世界の言葉、名づけに使われるという神聖語も知らないし、名づけ方の常識も判らない。彼が使えるのは、彼の故郷で使われていたいくつかの言語だけだ。
それが定石に当てはまらない名づけ方であることも判る。
しかし、自由を渇望する彼の、その苦しい、切ない胸中もまた、痛いほどに理解できた。飛鳥にも、自由という名の広大なそれを、叶わないと知りつつ夢見ていた時期があったからだ。
だから……彼は紡ぐ。
脳裏に閃いた、たったひとつの名を。
「ならばその鏡が、希望に満ちて常に輝くように。そうあればいい――――シャイネンシュピーゲル」
ドイツ語で『輝く鏡』を意味するそれを飛鳥がつぶやいた瞬間、『虎』に――周囲に変化が起きた。
ゴウッ、と音を立てて、新鮮な外の空気を含んだ風が吹き、その風を浴びるや否や、漆黒の翼、折りたたまれたまま力なく背に横たわっていたそれが、光を放ちながら大きく広がったのだ。
両翼で優に十メートルを超す、神秘的なまでに美しいそれらは、蛹が蝶になるのようなしなやかさで広がると同時に、物理的圧力すら伴った激しい風と衝撃とを巻き起こし、彼らを捕えていた頑丈な檻を、その鉄の柵を引き千切り、粉々に破壊してしまった。
どぉおん、という、硬い大きなものが粉々に破壊される轟音が響く。
激しい風に、周囲に積もっていた埃が舞い上がり、もうもうと立ち込める砂埃を思い切り吸い込んでしまったらしい圓東が盛大に咳き込む。
しかし、破壊された檻の欠片が、決して小さくもない天井及び床の破片が、飛鳥や圓東を襲うことはなかった。
『虎』が、広げた翼でふたりを護ってくれたからだ。
《我が銘(な)はシャイネンシュピーゲル!》
もはや檻など影もかたちもなくなった薄汚い地面に悠然と立ち、轟、と、『虎』が吼えた。彼の咆哮に合わせて風が渦巻き、鮮やかな、外の空気の匂いを運んでくる。
《世界の寵を受けし黒より、空の守護者の銘を与えられたる者なり!》
飛鳥はそのとき、この薄汚い場所に、冒し難い神々しい光が満ちたような、思わず居住まいを正さずにはいられぬような、言葉では表現し難い錯覚を覚えていた。
囚われの『虎』、いまやシャイネンシュピーゲルとなった彼が、金の瞳孔を輝かせて飛鳥を見下ろす。その理知的で静かな眼差しは、感謝と感嘆とで彩られていた。
《そうか……汝は……》
しかし、彼が何かを口にするより早く、周囲が騒がしくなった。
――薄暗いこの場所、どうやらもともとは何かの洞窟であったらしい空間の、様々な品物が積み上がった向こう側から、お世辞にも柄がいいとは言えない濁声がいくつも響いてくる。
それらの声は、驚愕の音色を含みつつ、いったい何が起きたのかとか、護衛班を呼んで来いとか、剣と弓を持って来いとか、侵入者は殺せとかいう、直接的かつ攻撃的な内容を喚いていた。
「ふむ」
すっかり自由になったのは飛鳥も同じことで、彼はぐるりと肩を回してから声が聞こえてくる方向を見遣った。
「シャイネンシュピーゲル、面倒臭いからシュネとか呼ぶが、圓東を背中に乗っけてやってくれ」
《ふむ。我には容易きことだが、汝は?》
「決まってる、連中を蹴散らすんだ。あんたはその隙をついて外へ出てくれればいい」
《危険だぞ。彼奴らは上級七位の魔導師を抱えておるゆえ。もっとも、使命の黒を持つ汝なら、かような魔法は役に立たぬであろうがな》
「使命……? なんだ、それは。まぁいい、その程度の危険を恐れて自分の本分を忘れてやれるほど、俺は安くない。天才雪城飛鳥様の実力、篤(とく)と見るがいいさ」
特に気負うでもなく、ただ事実を告げる口振りで、しかし傲然と断じると、シャイネンシュピーゲルがかすかに笑った。
そこに含まれていたのは、感嘆と慈愛だった。
飛鳥はただ、人間のために囚われの身となった神威の獣に、これ以上人間の醜さ狡さを見せたくなかっただけだったが、
《アスカと申すのか、汝は。佳き名だ。汝こそ、乱世を終焉へ導くに相応しき者であろう。……案ずるな、恩人をふたり乗せて飛ぶ程度のことは、我にとって呼吸と同等に容易い》
そう言うや、シャイネンシュピーゲルは、圓東の服を口でくわえ、ひょいと自分の背中に放り投げた。
「え、う、うわ……んぎゃーっ!?」
一瞬何が起きたのか理解できなかったらしい圓東が、間の抜けた……彼らしい悲鳴を上げる。飛鳥がそれに苦笑するよりも早く、すっと彼に近づいたシャイネンシュピーゲルが、飛鳥の服の袖をそっとくわえて、圓東と同じように自分の背へと放り投げる。
驚くほど器用な、巧みな技だった。
「っ、と……」
みっともなく悲鳴を上げるほど不慣れな感覚でもなく、飛鳥は空中で身体をひねると体勢を整え、神獣の、白銀と真青に彩られた背へ腰を落ち着けた。ついでに、滑り落ちそうになっている圓東の腕をむんずと掴み、シャイネンシュピーゲルの背へと引っ張り上げてやる。
「うう、あ、ありがと……」
向こう側から、武器を手にした人々が走ってくるのが見えた。
数にしておよそ二十人。
それは、飛鳥に何とか出来ない数ではなかったが、
《ふむ……では参ろうか。しっかりつかまっておれよ》
どこか楽しげに告げたシャイネンシュピーゲルが、轟々と咆哮すると同時に地を蹴り、走り出した時点でその思考を放棄した。
何故なら、
「うわ……すご……!」
圓東が歓声とも感嘆とも取れぬ声を上げた。
武器を手に、殺意を剥き出しにして、こちらへ向かってこようとしていた男たちはほんの一瞬で背後に遠ざかった。
それはまるで風だった。
風圧で、背後に取り残された男たちがバタバタと引っ繰り返るのが見えた。
《我は西王虎の一党、風は常に我とともにある》
シャイネンシュピーゲルが言うように、彼らの周囲には常に風が渦巻いていた。
風は芳しく、すがすがしかった。
「……すごいな」
この背に護られて地を駆けることが出来るなら、自分などが手を出す必要もないと、飛鳥は思う。
神威の獣はあっさり薄暗い空間を抜け出すと、秘密組織とやらが本拠地に使っているのであろう、大きな洞窟を風のように――そこを守っていた人々が何ひとつ手出しできなかったほど速く――走り抜けた。
喧騒はあっという間に遠ざかった。
巨大な翼に薙ぎ倒され、洞窟内部に建造された建物の一部や倉庫、何かの動物を捕えていたらしい檻などが派手な音を立てて壊れるのが見えたが、それは飛鳥の知ったことではない。
その後、数分間、洞窟から続く水っぽく細い砂利道を駆け抜けると、前方に陽光と判る明りが見えた。
《……汝らの厚情、感謝するぞ、アスカ、エンドウ。この恩、我がいのち尽きるとも忘れまい》
明り目指して疾駆しながら、シャイネンシュピーゲルが静かに告げる。
飛鳥は苦笑した。
「忘れろ、そんなつまらないこと」
彼の言に笑った圓東が、らしいよね、とつぶやく。
――陽光の差す方向から、清冽な風が吹き込んでくる。
出口はすぐそこだった。