「……あー、やっぱり駄目だったか。残念」
 およそ三時間もの間、まるで精緻な彫像にでもなったかのように身動きしなかった少年が、唐突に、残念といいながら大して残念そうではない声で言い、先刻まで額を押し付けていた水晶から顔を離したので、シュラハテンダーメは剣を磨く手を止めて彼を見遣った。
 小さいけれど清潔で居心地のいい、静かな宿の窓から涼しい風が流れ込み、まぶしい、稀有なまでに美しい黄金の、さらさらとしたやわらかな髪が、少年の額をふわりと流れる。
 シュラハテンダーメは、武骨で強靭な剣、十年近い時間をともにあるそれを鞘に戻し、無造作にテーブルへ置いてから立ち上がり、白磁のカップに温かいハーブ茶を入れて少年のもとへ歩み寄った。
「成果は今ひとつといったところのようですが、お疲れ様です、クゥ」
 やわらかさの欠片もない労いとともにぬっとカップを差し出す。仮にも貴い血の云々は幼い頃から言われてきた言葉だったが、これがシュラハテンダーメの生まれ持った気質なのだから仕方がない。
 それを理解せず、なおも矯正しろと言い募るような輩とは、わざわざつきあおうとも思わない。
 シュラハテンダーメのそういうあっさりきっぱりとした性質をよく理解している少年は、あまりに武骨でがさつな労いを気にすることもなく、貴い黄金の双眸に子供っぽい喜色を讃えてカップを受け取った。
「まぁ、今回は顔見せってとこかな」
 笑みを含んだその声は、瑠璃糸鳥のさえずりのように美しい。
「向こうもクゥに気づいた?」
「間違いなく。魔法越しに、僕を見てた。本当に綺麗な眼で、恋に落ちちゃうかもってなくらいにどきどきしたよ」
「……ひとさまの恋愛沙汰に口を挟むほど私は野暮ではありませんが、出来ればそんなところでときめかないでください。そもそも彼は男です」
「今更いいじゃないか、性別くらい。綺麗なものは綺麗だし」
「あなたのその垣根のなさは利点でもあると思いますが、たまに同意しかねます。――しかし、なるほど、魔法越しに魔導師の姿を見るほどとなれば、使い魔ごときでは無理でしょうね」
「うん、そうみたい。みんな強くてびっくりした。さすがはリィンクローヴァの国王陛下と黒の加護持ちだ。――いや、あれは加護の黒じゃなく、使命の黒かもしれないね」
「ああ、乱世ですからね、今は。それもありえないことはないでしょう。どちらにせよ、我々は我々の使命を果たすだけのこと」
「そうそう、僕だって彼のことは言えないし、それでやるべきことがなくなるわけでもないしね。でも、話には聞いてたけど、異端の異形も、黒の申し子の眷族も強かったし、強者のまわりには強い人間が集まるってことかな」
「そうですね。強い王にこそ才ある者は惹かれるのでしょう。小国の王とはいえ、今のソル=ダートに、レーヴェリヒト・アウラ・エスト以上の求心力ある武人がいるかどうか。何にせよ、国の柱とも言うべきその彼を弑し奉ろうというのですから、連中の考えは判りません」
「でも、あの人たちのお陰でこんなにあっさりここまで来られたわけだし。もっとも、僕らの目的が他にあるって知ったら、地団駄踏んで悔しがるだろうけどね。――まぁ、それも全部読んで、それでも僕たちを利用しようとしてる、っていうのが正しいかな」
「お互い様ということですね。私たちの目的を知ろうが知るまいが、彼らのなすべき事柄に変更はないということなんでしょう。なら、お互い便利に利用して、それなりに利用されてやればいい」
「うん、別に負い目を感じる必要も手加減する必要もないよね。自由にやらせてもらおう」
 そうですね、とシュラハテンダーメが頷くと、
「シュリは、彼らと戦ってみたい?」
 熱いものが苦手な少年が、カップのお茶をふうふうと吹いて冷ましながら、唐突にそう問うた。
 それは問いかけというより、確認の色彩を帯びていた。
 『彼ら』が誰を差すのか気づけぬほど少年とは浅いつきあいではないし、シュラハテンダーメ自身も察しの悪い人間ではない。
「……胸が高鳴りますね。それでこそ、故郷を出た甲斐があるというものです」
 紅も差していない唇に、うっすらと、獰猛で好戦的な笑みを浮かべ、シュラハテンダーメがきっぱりと……楽しげに断じると、
「やっぱりシュリだね」
 と、黄金の少年はくすくすと笑った。
 シュラハテンダーメも笑みを返す。
 それは、故国では見せたことのない類いの笑みだった。
 故郷の血族が見れば目を剥く程度には、今のシュラハテンダーメは表情豊かで穏やかだった。苛酷と言って過言ではない日々を送りながらも、十分すぎるほどに満ち足りていた。
 その充足の源が、すなわち、この黄金の少年なのだった。
「そうそう、使い魔を送ったあとなんだけどね」
「ええ」
「ほら、こっちに来る道すがら、色んな動物が閉じ込められてる洞窟をみつけたじゃない」
「ああ、あの。フィアナ大通りで馬鹿面をさらしていた、何とかいうごろつき一家とつながりがあるような雰囲気でしたね。組織の傘下と言ったところでしょうか」
「かもね。だから、リィンクローヴァなんて治安のしっかりした国の、しかも王都であれだけ大きな顔をしてたんじゃない? まぁ、それはさておき、あそこの洞窟にね、彼を飛ばしてみたんだ。ひとり、余計なのが混ざっちゃったみたいだけど」
「そうなんですか。……確かに危険な匂いがプンプンしていましたけど、加護持ちにせよ御使いにせよ、彼を殺すには役者が足りていないでしょう。世界の寵を受けるものに、人間などよりよほど世界を知っている獣たちが牙を剥くとは思えません」
「うん、そう思ったんだけど、どう出るかなーって。まだきちんと『目覚め』てもいないみたいだったし、巧く行けば死んでくれるかなーとか思ったんだけど。あれはかなり世界に愛されてるね。かなり頑張ったのに見事に失敗。さっき見たところでは、普通に国王陛下と再会してたし」
 黄金の少年が、肩をすくめてみせる。
「クゥの神霊魔法をもってしても、ですか? あなただって、世界に愛される最たる者のひとりでしょう」
「うん、僕なんか全然だよ。黄と黒の違いって大きいね。おまけに彼、捕まってた西王虎を助けて、銘(な)をつけてあげたみたい」
「おやおや……銘付け親と言うことですか。ではその獣ともいずれ相対することになります、厄介な相手を敵に回しましたね。西王虎といえば、西方白神族の一員でしょう」
「うん、『幻視』でのぞいただけでもすごく綺麗で強そうだった。でも何よりすごかったのは銘付けの瞬間だよ。あのときの、世界が震えるような感覚、シュリにも味わわせてあげたかったな」
「ありがとうございます……と言いたいところですが、私ごときには畏れ多すぎます。遠慮しておきますよ」
「ははは、言うと思った。――うん、でもまぁ、あのくらいは予定のうちかな。どうせすぐに終わるとも思ってないし、神獣が一頭や二頭味方についたくらいで引っ繰り返るような運命なら最初から何仕掛けたって無駄だし。――それに、神獣くらい、シュリなら斬れるよね?」
「ええ、それがクゥの命とあれば」
 シュラハテンダーメの断定を耳にした少年が、華奢で色白の、少女と見紛うような甘い美貌に深い深い笑みを浮かべる。
 誰もが引き込まれ、虜にされてしまいそうな、甘い毒を含んだ蠱惑的な笑みだったが、シュラハテンダーメにとって少年の見目は決して重要なものではなかった。
 その性質から一族の鬼子と呼ばれ、豪奢ではあるが監獄のような場所で、自分を殺して窮屈に生きていたシュラハテンダーメを、目的あってのこととは言え護衛に選び、一度たりと裏切ることも軽々しく扱うこともなく、こうして傍に置いてくれる少年を、シュラハテンダーメは誰よりも何よりも敬愛し、宝石のように大切にしているのだった。
 出会ってから六年、ようやく十六歳になったばかりの、自分より七つも年下の少年に、こんなにも呪縛されていることを恐ろしく思わなくもないが、それでも、その感情すらシュラハテンダーメにとっては貴いものなのだ。
 その彼がそうと望むのなら、シュラハテンダーメは、世界を統べる神や魔王とも戦ってみせる。
「ねえ、シュリ」
「はい」
「黒の申し子なんだけど、シュリはまだ、本人を観てはいないんだよね」
「ええ、残念ながら。『遠見』でちらりと見た程度です」
「だよね。『遠見』も相手がアレじゃあんまり近づけないし」
「気づかれますからね」
「うん、僕は『幻視』で観てるからかなり細かいところまで判るけどさ。名前はアスカって言うらしいよ、変わった響きだよね。まぁ、そのうちシュリには警備の薄そうな時を狙って実力を測りに行ってもらうつもりでいるから、どこかでこっそり観に行こうね」
「すぐには殺さないんですか?」
「殺さないっていうより、現実的に言って殺せないと思うんだ。やっぱり至高色はすごいね、彼のまわりには恐ろしいほどの力と、世界の愛が渦巻いてる。依頼の件はさておき、方向性を探りながら色々仕掛けて行きたいし、そこそこ時間をかけた方がいいと思うんだよね。――もちろん、力試しはしてもらうつもりだけど」
 シュラハテンダーメは、自分の口元に笑みが浮かぶのを自覚した。
 その血に生まれついた者が持つには相応しくない、戦いの昂揚と興奮とを好む性質は、シュラハテンダーメを孤独にし窮屈にした最たるものだったが、それでも、ソル=ダート随一の武王と名高いレーヴェリヒト・アウラ・エストと、至高色を身に宿す黒の申し子を相手にできると聞けば、そう生まれついて本当によかったと思わざるをえない。
「――――それは、楽しみです」
 少年がくすくす笑った。
「ああ、その返し方、ものすごくシュリっぽい」
「褒め言葉と受け取っておきます。どんな人物ですか、黒の申し子とは。私には、髪と眼と衣装が黒いことくらいしか見えませんでした」
「うーん、顔は普通だったな。不細工じゃないけど、別に美人でもない。どこにでもいそうな人間の子供、って感じ」
「顔は、ということは、それ以外はどうなんです?」
「シュリのそういう鋭いとこ、好きだよ」
「おだてても何も出ませんよ」
「本気で言ってるんだよ。まぁいいや。――うん、髪や目の色が人目を惹くのは当然だけどさ、とにかく身にまとってる雰囲気が全然違うんだ」
「クゥも十分、普通の人間とは違いますよ?」
「うん、一応それなりに判ってるけどね。でも、やっぱり全然違う。僕は頑丈だし魔導師だけど戦士じゃないしね。何だろう、あの空気。冬の、一番寒い日の、雪に埋もれた山奥みたいな気配」
「――それは、孤独ということですか?」
「んー、どうかな、判らない。シュリに似てるような気もしたけど、ちょっと違うような気もするし」
「クゥがそんなに曖昧なことを言うのは珍しいですね」
「相手が相手だから。でも……うん、僕に手の出せる相手じゃないかも、とは思うよ。今までに出会ったどんな存在よりも、彼は手ごわい気がする。こういう予感、当たるんだよね」
「クゥ」
 彼の言葉に含まれた不安、畏れを感じ取ったシュラハテンダーメが、気づかうようにそっと名を呼ぶと、少年はふっくらとした唇にゆるりと笑みをのぼらせ、黄金の双眸に静かな決意をたたえて頷いた。
「うん、もちろん、僕は黄の申し子であるのと同時に破界神晶を持つ身だ、僕にも課された使命がある。退くわけにはいかない」
「はい」
「……シュリのお義兄さんは、僕の使命を知ったら怒るかな」
「――……」
「それとも、よくやったって喜ぶかな」
 少年の流麗な眉宇が困惑のかたちを刻む。
 我が身を削る重い責務を負いながら、どうあっても死を招く責務を遂行するために存在しながら、彼は優しすぎるのだ。彼がそれを成さなければ、今を倍する数の命が失われると知りつつも、納得しきれずにいる。
 そして、この一連のたくらみ、乱世という時代の中で失われてゆく命を、不毛と知りつつ悼んでしまうのだ。偽善だと自嘲しながらも。
 何を今更、と、深い自責の念に駆られつつも、その道を突き進むしかないことを彼は理解している。軽々しい憐憫によって、手を止めるわけには行かないことを痛いほどに理解している。
 ――――それゆえの、深い悼みを含んだ困惑なのだ。
 シュラハテンダーメは首を横に振った。
 五つ年上の義兄、母親の違う彼の考えは、シュラハテンダーメには今ひとつ判らない。彼が望むのが本当に世界の覇なのか、それとも別のものなのか、読みきれない部分が多すぎる。
 ふたりが今このリィクローヴァにいるのは、その理由のひとつは、間違いなく彼の命と手助けによるものだったが、しかし、ふたりが抱える真実の責務、もっとも重要な理由は、義兄の思惑とはまったく違う位置にあった。
 シュラハテンダーメにとって、大切なのは真実の責務だった。
 黄金をまとう少年の負う、重い重い責務だった。
「私には判りません、クゥ。――――しかし、どちらにせよ」
「うん」
「果たさねばならぬ事柄に変わりはありません」
「……うん」
「あなたの主がそう望まれ、そうお命じになられたというのなら、あなたはそれを成すしかないのでしょう? 義兄や故国の思惑など、私にはどうでもいい。義兄がソル=ダートの覇王になろうと、ソル=ダートを滅亡に導こうと、どちらでもいい。私はただ、あなたの使命、あなたの思惑、あなたの願いさえ、果たされればそれでいいのです」
「――……うん、シュリ。君の、そういう純粋で一直線なところ、すごく救われるよ」
 貴い色を持ちながら、決して順風満帆な、愛情に包まれた生を送ってきたわけではないらしい少年の、はにかんだようなその言葉に、シュラハテンダーメは微笑した。
 そして、テーブルから剣を取り、その剣を横にして両手に捧げ持つと、少年の腰かける簡素な椅子の横に恭しくひざまずいた。
「何度も繰り返した誓いです。この先何度繰り返しても変えようのない誓いです。――ですが、何度でも繰り返しましょう、あなたが不安に苛まれるときには」
 少年が、照れ臭そうに頷く。
 年相応の、可愛らしい表情だった。
 シュラハテンダーメは、胸の奥から込み上げてくる感覚を、幸いという感情とともに思う。自分はきっと、彼のこんな顔を守るためにここにいるのだろうと思う。
「クゥ……クヴァール・ゴルトアイト。我が主、我が神、我が救い主。シュラハテンダーメ・キチェ・ムート・シェトランの名にかけてお守りします。この剣はあなたのもの、この命はあなたのもの」
 静かに、しかし断固とした強さをこめて言い、剣の鞘にキスをする。
 そして、その剣を、少年へ向けて高く掲げる。
「たとえこの剣が折れ、我が身が砕け、私の命が尽きようとも、あなただけは守ります」
 きっぱりとした、無限のとでも言うべき深い親愛をこめたその言に、少年が頷く。滑らかな白皙を、ほんの少し桃色に染めて。
「――――…………うん」
 華奢な指先が、そっと武骨な剣に触れる。
 それだけで、シュラハテンダーメは限りなく誇らしい気持ちになる。
「頼りにしてるよ、シュリ。いつだって、どんなときだって君が僕を守ってくれるって、信じてる」
 シュラハテンダーメはにっこりと笑った。
「はい、クゥ」
 躊躇なく答えると同時に立ち上がり、剣を壁際に立てかけてから、
「それで、どうしましょうか」
 次の予定を問いかける。
 少年、クヴァールが、かたちのいい頤(おとがい)に白い繊指を添えた。
「そうだね……じゃあ、まずは……」
 ふっくらとしたやわらかな唇、薔薇のようななどという陳腐に過ぎる表現がぴったり当てはまる、シュラハテンダーメにとっては天上の音楽にも優る言葉を紡ぐそれが、次なるたくらみを美しく奏でるのを、犬さながらの忠実さでじっと待つ。
 ――無論、少年に関する事柄であれば、待つことすら、楽しみと幸せを含むのだが。