8.生きる理由・死ぬ理由・戦う理由
夢と理解してそれを観ていた。
奇妙な現実味と、それと同等の浮遊感にたゆたいながら。
彼は、自分が雪城飛鳥だという事実が曖昧になるほどの俯瞰的な意識で、広い視界に展開されるそれらを観ていた。
どこまでもどこまでも、永遠を思わせる広大さで続く、鮮やかなのに寒々しい空の中央に彼らはいた。
そう、空の中央、支えも台もないまったくの空中に、静かな輝きを内包した漆黒の、古代の神殿を思わせる神秘的な建造物があるのだ。
建物は、床も柱も屋根も、何もかもが、静謐に輝く漆黒で出来ていた。それはいつか、あの、ソル=ダートの部屋で観た、光沢ある闇と同じ色彩だ。
浮かんでいる、とも、漂っている、とも違う、ただ『在る』としか表現できない、無造作で、空間や重力などといった諸々の力学的な法則をすべて超越した代物だった。
それは大きくなく、壁のない、四阿(あずまや)とでも言うべき造りではあったが、空の青とよく映え、静謐に美しかった。
しかし空は青く美しいのみで――どこまでも青く透き通るのみで、そこには雲も風もなく、鳥の姿もそのさえずりもなく、虫一匹飛んではおらず、変化と呼べるものはなにひとつなかった。
彼らのほかに命と感じられるもの、生きていると思えるものは何ひとつ存在せず、世界は停滞していた。
ただただひたすらに――無意味に、不気味に、不毛に続く、無音の空だけがそこにはあった。
それは孤独というより、死を喚起させる寒々しい虚無そのものだった。
その、漆黒の四阿の一角に、互いに背を向け合った五人の若者が座り込んでいる。
座り込んで、無意味に鮮やかな空を見上げている。彼らの視線の先には、そして彼ら自身の表情には、いかなる変化も動きもない。
若者らの年の頃は十代後半から二十代前半といったところだろうか、外見は様々だったが彼らは一様に驚くほど美しく、しなやかで優美だった。なめらかな横顔やすらりと伸びた首筋が、その美しさを主張する。
繊細で優美な、神々しい美貌だったが、そこに女性的なかよわさは存在していない。彼らは我が目を疑うほどに美しかったが、同時に彼らが、その外見を裏切るほどに強靭であることも判る。
剣を持てば、誰よりも美しい戦士となるだろう。
(まるで、あいつのようだ)
胸中につぶやいて、五色の青年を見つめる。
ひとりは光沢のある闇を思わせる漆黒の髪と眼を。
ひとりは陽光に輝く雪を思わせる白銀の髪と眼を。
ひとりは秋の昼下がりに地上へ降り注ぐ陽光を思わせる黄金の髪と眼を。
ひとりは生命を謳う熱い血潮を思わせる真紅の髪と眼を。
そしてひとりは穏やかさをたたえて凪ぐ南の海を思わせる真青の髪と眼をしていた。
五つの色はどれもが神秘的で、鮮やかで、美しかった。
しかし、美しい色を宿した美しい青年たちの、神秘的なまでに深い眼差しは悲哀に満ち、表情に生気はなく、生命の躍動と言う名の力を微塵も感じることの出来ない伸びやかな身体は、強靭でありながら力や戦いからは遠く、声もなく痛みを絶叫していた。
いつからこうしているのか、青年たちは互いに声をかけ合うこともなく空を見上げていたが、やがて黒の青年がこちらに気づいた。
稀有な輝きを放つ黒の双眸に、ほんのわずかな生気が宿る。
《君は……誰だ?》
色彩だけなら自分と同じ――それは裏返せば色彩以外何もかもが違うということだ――青年の唇がかすかに動き、声ならぬ声をこぼすと、他の青年たちの身体と双眸もまたこちらを向いた。
――まるで、すがるような色彩の揺れる双眸が。
《どうして人の子がここに?》
《どうして、こんなところに?》
《何のために?》
《いったい、どうやって――この牢獄まで?》
年端の行かぬ童(わらべ)のような、ある種のいとけなさ、頑是無さを感じさせる問いに、苦笑する。この夢の傍観者ではなく、登場人物なのだと気づかされる。
(――前にも、こんなことがあった。ような、気がする)
記憶の囁きに首を傾げ、夢にのめり込むのも滑稽なことだと思いつつ、戯れに言葉を返す。
「他人に名を尋ねるときは、先に自分が名乗れと教わらなかったか」
どこまでも悪態めいた言い草しか出てこない己には呆れるが、そのあくまでも揺るがぬ態度に青年たちがさわりとざわめいた。
互いの存在に気づいていないのではとすら思わせた希薄感が遠のき、顔を見合わせ、囁くように言葉をかわすその様子には、安堵すら覚える。――ようやく彼らを、生きた存在だと思えたからだ。
《君は、なんて強いんだろう。……私たちの前で、そんなにも強い自我を保てるのだから。……そうか、では、君が御使いなのだね。フォウたちが、君を招いてくれたのか……》
黒い青年の言葉に、肩をすくめてみせる。
そこには気になる単語がいくつか含まれていたし、決して遠くない過去に、同じような場面で、同じような色彩を持つ誰かに同じようなことを言われたような気もするが、多分に独善的な、独白めいたその言い方では、何を訴えられているのかはっきりしない。
「なんだ、それは。あちこちで聞いたような気がするが、それが何なのか俺には判らん。判るように言え」
言い捨てると、また、漣のようなささやきが交わされる。
若者たちの色とりどりの目に、確かな懇願の色が加わったのが判る。
それは、どこか幼く、また悲痛だった。
黒い青年が、美しい弧を描く唇を開いた。それが震えているように見えたのは、きっと気の所為ではないだろう。
《私はエルヴァンディータ。エルヴァンディータ・ソア・リィ・ユレア・ソレスト。――――お願いだ、黒の申し子。強き御使いよ。君がここに遣わされたのが運命だというのなら、どうか私をあの方に逢わせてくれ。私たちを、あの方たちに逢わせてくれ》
エルヴァンディータと名乗った青年が言葉を紡ぐとき、飛鳥の脳裏にきらめいたのは、黒銀とでも表すべき、鋭い雷光だった。
――そんなイメージだった。
「……」
エルヴァンディータの言葉が途切れたあとも、飛鳥は黙ったままだったが、それを皮切りに、若者たちが次々に口を開く。
すがるような、必死さを含んだ表情で。
(……いつだった、誰かにこんなことを言われたのは……?)
次に言葉を告いだのは白銀の青年だった。
そのまぶしい、神秘的な白銀の髪に、胸を揺さぶられる。
それは、彼が唯一と定めた美しい青年王の髪と、まったく同じ色彩だった。
――加護の色、の、意味を深く感じる。
《僕はヴェロハン。ヴェロハン・フル・ダヌ・コーナ・エリン。どうか、道をつないでください、申し子よ。僕たちに、新しい道を。――この乱世の終焉を以て》
ヴェロハンが言葉を紡ぐと、周囲には芳しい風が舞い踊った。
胸を清々しくするその風からは、いのちそのものの匂いがした。
その次は、黄金の青年。
《僕はフィータス、フィータス・ロウ・クラ・エクス・ディーナ。これ以上、世界を苦しめたくないんだ。――これ以上、狂うわけにはいかないんだ。僕たちが狂えば狂うほど、世界は歪み、壊れてゆく。だから――どうか、僕たちに希望を与えてくれ》
フィータスの言と同時に、雨が降ったあとの土を思わせる、懐かしく温かい匂いがした。
それもまた、生命を思わせた。
そして、真紅の青年。
《俺はカトルゲート。カトルゲート・サイ・アナ・ヴァム・ロスタメルト。もちろん、判っている。人間にそれをなすことがどれくらい難しいかは。それでも、ほんの少しの望みでいい、俺たちに夢を観させてくれ。あの方たちに逢えるという、夢を。俺たちは決して、この、美しい世界を滅ぼしたいわけではないんだ》
カトルゲートの言葉は、飛鳥の胸に、真紅の炎を思い起こさせた。
それは熱く、激しく、頑固で、それと同じく明るく温かい、火の真髄そのものだった。
最後が、真青の青年だ。
《私はサレアトゥーラ。サレアトゥーラ・ナン・ラス・アリア・ルウジーン。私たちはただ、世界の平穏と、私たち自身の平穏が欲しいだけ。そのために、どうか力を貸してください。そしてどうか、貴き御祖(みおや)の創造されたこの偉大な世界を守ってください……強き御使いよ》
サレアトゥーラが言葉を紡ぐと、清々しい水のにおいがふわりと漂い、同時に水が陽光を反射する、きらきらとした光の欠片が視界に映った――ような気がした。
彼らの声はこの世のものとも思えぬほど美しく、その言葉は部外者の飛鳥にすらそれと判るほど切実だったが、そうやって、次々に言い募られても何がなにやら判らない。
そして、以前にも同じように言い募られて困惑したことがある、と、曖昧な記憶が囁く。
懇願をたたえて見つめてくる、五対の美しい瞳に涙がないのは、きっとその哀しみが深すぎるからなのだろう。何故か、確かなあかしもないのに、魂の根幹でそれが真実だということを理解している。
それでも、理解できぬものに安請け合いなど出来るはずもない。例えこれが、夢の中の話だとしても、だ。
――否、飛鳥はもう、これを単なる夢とは思っていなかったが、どちらにせよ彼は、出来もしないことに対して、容易く気休めを口にするような偽善者ではないし、己が思慮の及ばぬ事態にまで大言壮語を吐くほど身の程知らずでもない。
彼が常々口にする不遜な――傲然とした物言いは、そのすべてが、先を見通し、間違いないと判断した上での計算づくの言なのだ。
「……何か切実な事情があるんだろうとは思うが、あんたたちの言うことはよく判らん。俺は、自分が判らんものを、納得できないものを簡単に引き受けてやれるほど浅はかではないし、お人好しでもない」
きっぱり断じると同時に、青年たちとまったく同じ色彩の、神秘的に美しい娘たちの顔が脳裏に浮かんだ。そして、同じようなことを懇願された自分が、同じ答えを返したことも、思い出す。
忘れていた己が不可解なほどだが、何か理由があるのだろう。
「……あれは、地だったな」
ぽつりと独白する。
「では、ここは……天か」
こんな、生命の感じられない場所がそうなのだとは、あまりにも寂しくて考えたくはないが。
「五色十柱。この世界の神は、そういう存在だったな」
言葉は、問いかけというより確認だった。
自分の記憶への。
「……なんか、ややこしくなってきたな」
以前、五色の娘たちに会ったときよりも、この世界に関する飛鳥の知識は増えている。更に言うなら、五色の娘たちと会ったときより、飛鳥の自我ははっきりしていた。
自分が何者で、誰の元にいて、なんという国にいるのか、今から自分が何をしようとしているのかを、鮮明に思い出すことが出来る。
だから、必要なことを――判らないことを尋ねておこうと、目覚めたときの意識には残らずとも、記憶のどこかには刻まれるだろうと、口を開く。
世界のなりたち、行く末に対する興味もあったし、どうせのちのち、必ずどこかで関わってくるのだ、彼の運命とかいう不可解なものに。
それは驚くほど強い確信を伴っていた。
「あんたたちの言う『あの方』とは、地に座す五人の女か?」
飛鳥が問うと、青年たちがざわりとざわめいた。
《会ったのか……彼女に。エルシャンディナに》
《ヴェリカナに、》
《フィーリスに、》
《カトレイナに、》
《サレイノーラに?》
漣のように紡がれる名に、記憶を探り、小さく頷く。
彼の記憶力のよさは、折り紙つきだ。
「ああ、そうだ、そんな名前だった。もっとも、夢の話だが」
《夢は魂の旅する先だ、強い魂ほど自由に、遠くに行ける。それは確かに夢だが、非現実ではない。君のように、はっきりした自我を持ってここまで辿り着けるものはごくごく稀だけれど》
エルヴァンディータが、どこか懐かしさを含んだ眼差しで言い、まぶしげに飛鳥を見た。
《彼女は、彼女らは、何と?》
「…………あんたたちに逢いたいと、逢わせてくれと、頼まれた。人の子の世が平らかになればそれが叶うと。だが、俺にはその意味が判らんし、判ったところで叶えてやれるとも思わない」
飛鳥が告げたそれは、決して希望に満ちた……彼らにとって都合のいいものではなかったはずだが、しかしそれを聞いて、エルヴァンディータが、ヴェロハンが、フィータスが、カトルゲートが、サレアトゥーラが、胸が痛くなるような笑みを浮かべた。
泣き出しそうな愛しさを含んだ笑みだった。
他者を愛するとは、そんな微笑が浮かべられる行為なのだと、思わず驚いたほどの笑みだった。
《……そう、か……》
《彼女らも、そう祈ってくれているのですね》
《なら……僕たちも、まだ、絶望せずに済む》
《この望みを、虚しいだけの繰り言とは思わずに済む、か》
《ああ……それなら、もう少し、祈り続けましょう》
青年たちの滑らかな面に、わずかな、それでいて深い喜色がのぼる。
そこに含まれる希望を感じる。
――気になることなら幾つもあった。
彼らの言からすると、フォウという存在が、飛鳥や彼の眷族たちをこの地に招いたことになる。
そして飛鳥は、フォウ及び五色十柱の彼らに、彼らを救うべく、そのように動くよう、期待されているということだ。
否、渇望されているということだ。
そのためには、恐らく、人間世界が平和でなくてはならないのだ。
飛鳥は、その実現を望まれているのだ。
――――しかし。
「あんたたちは、そのフォウとやらは、俺に一体何を望んでいる? 俺は確かに一般に言うところの普通の人間とは違うが、それだけのことだ。出来ることはいくつもあるが、出来ないことも数えきれないほどある。きっと、この世界においては、特別に珍しくもない存在だ。その程度の俺に、あんたたちは何を望む。……一体、何をさせたいというんだ」
それは、飛鳥が、この豊かで美しい異世界、ソル=ダートに来て以来、ずっと感じていることだった。
彼は確かに、あの故郷においては――彼の創造主たちの思惑においては、間違いなく最高傑作だ。唯一にして随一の完成品だ。
彼は豊富な知識と技術を有し、優秀な感覚を持ち、驚異的な肉体機能を持っている。生き延びる術(すべ)も、戦いの技も、強靭にして豪胆な精神も持ち合わせている。
――だが、それだけのことなのだ、結局のところ。
不可解で便利な魔法や、巨大で神秘的な――幻想的な獣や、様々な技能を持った規格外の人々など、数多(あまた)の不思議に満ちた、この異世界ソル=ダートにおいて、その程度の優秀さが一体何になるのかと、飛鳥は感じ続けている。
それは恐らく、飛鳥が唯一執着する青年王、レーヴェリヒト・アウラ・エストの手助けをし、彼を守るためには有用だろうし、そうあるべきだと思う。そうでなくてはならないと思う。
だが、その程度の力量が、五色の青年や娘たちの願いを、恐ろしく複雑で重たそうなそれを、どうにか出来るとは思わない。
彼は、規格外ではあれ、たったひとりの人間なのだ。
そして、彼には、それよりも先になすべきことがあるのだ。
「それに、俺には守ると決めた人間がいる。必ず助けると、何があっても裏切らないと決めた人間がいる。今の俺にとって最優先されるべきはそいつに関することだし、それ以外のために動くつもりもない」
きっぱりと断じる。
――断じる以外、ないのだ。
彼の誓言、果たすべき約束が帰結する場所は、そこでしかないのだから。
同時に、飛鳥が癒され、過去の疵から救われるためには、彼を愛した人々がそうと望むように、彼がすべての赦しを得て幸せになるためには――もっとも、飛鳥自身は、己が幸いになど何の興味もなかったが――その約束を果たすしかないのだから。
薄情者と詰られようと、世界を統べる貴い存在に不遜な、と罵られようとも、飛鳥の立ち位置は変わりようがないのだ。
《……》
あまりに手前勝手な、言うなれば自分の都合だけの、不遜に過ぎる飛鳥の物言いに、怒り出すかと思われた青年たちは、しかし、互いに顔を見合わせて、ほんの少しだけ笑った。
やはり、見ているこちらの胸が痛くなるような、たくさんの感情が内包された笑みだった。
黒い青年……エルヴァンディータがまた口を開く。
《ああ……それでいいんだ》
飛鳥は首を傾げた。
「何がだ」
《君が君の愛するもののために、あの、人の子の王のために戦うことが、必ず私たちの願いとつながるから》
「……?」
《ここはあまりに現世と遠い、きっと君は、この邂逅のことも、完全に記憶にとどめてはおくことは出来ないだろう。私たちはあまりにも世界から離れてしまった。あまりに遠い地での出来事を、現世に持ち込むことは難しい》
「そういうものか。魂のことなど、俺にはよく判らないが」
《そうだね、君の魂はとても強靭だから、完全に忘れてしまうこともないだろうけど。私たちは結局のところ世界の均衡を保つための存在だ、やはり、創造者たる我らが御祖のようには、いかない。亡き者となってなお、世界を見守り、また世界を歩き続けるあの方々とは、違う》
「……それは、ソル=ダートのことか」
《ああ……やはり、逢ったのだね、あの方に。その、界神晶を観れば判る。そうだ、我々は、我々の生み手であるあの方のようには行かなかった。分かたれた痛みが我々から力を奪い、世界から遠ざけてしまった》
哀しげに、歌うように紡がれるそれに、飛鳥は眉をひそめる。
何のことなのか今ひとつ理解できない所為もあったが、以前、レーヴェリヒトが言っていた、神々が『遠い』という言葉を思い出したからだ。
何故神々が『遠い』のか、何故遠ざかってしまったのか、与えられた情報を整理して考えると、つまり。
「世界が乱れた所為で、本来ともにあるべき双神であるあんたたちが、天と地に分かたれてしまった、ということか? そして、その『世界の乱れ』とは、人間の争いか」
思案しながら言うと、五色の青年たちが悲嘆と同意とをこめて頷く。
五色の代表であるかのように、エルヴァンディータが口を開く。残り四色の青年たちは、銘々に空の遠くを見ていた。
《君は賢明だ。フォウたちが、そしてあの方が君を選んだ理由が判る。その幸運に私たちも感謝しなくては。そうだよ……人の世で起きた戦乱が、世界の乱れが、天と地にあってもつながっていたはずの私たちを断ち切ってしまった。その結果、世界は歪み始めている》
「乱世か。今も、そうなんだな。だが、それなら、そんなに時間は経っていないのか、あんたたちがバラバラになってから」
飛鳥の、地球の、そして日本の感覚で言うと、乱世とか戦争などというものは、長くとも百年二百年単位で行われるものごとだった。無論、世界各地には、信じる神や人種の違いのために、何百年も争っている連中もいるが、それは世界の覇権を狙う戦いとは少し違う。
だから、この、世界を司る神と言うにはあまりに弱々しい彼らが、彼らの半身たる娘たちと別たれてからそれくらいしか経っていないのかと思ったのだが、飛鳥の問いに返ったのは否定だった。
エルヴァンディータは首を横に振り、ゆるりと美しい微苦笑を浮かべた。
《いいや、もう、ずいぶん経ったよ》
「ふうん。五百年くらいか?」
《いいや》
「なら、千年……か? 想像もつかないが」
《三千年、くらいかな》
「は?」
《人間が一連の争いを始めてから、三千年ちょっと経った》
「三千年? ……地球じゃミケーネ文明が破綻した辺りだな。日本じゃ倭国も生まれてない。とんでもないとしか言いようがないが……何故そんなに乱世が続く。強者の名の元に、何故、終結しない。乱世とは、世界の覇権を狙う戦いとは、そういうものじゃないのか」
《……判らないんだ》
「判らない? それは、あんたたちが遠く離れている所為で、か」
《いいや。私たちも世界の一部だから、遠いとはいってもまったく何も観えないわけじゃないんだ。三千年、ここから世界を見つめてきたけれど、その間、一度たりとして平和が訪れたことはなかった。いつでも、世界の覇権を求める声の元に、どこかで戦いが起きている》
「終結する気配は?」
《三百年ほど前に、アルバトロウム=シェトランが興ったときは少し期待したんだけどね、鎮まるどころか、戦禍は大きくなるばかりだ。これからもっともっと戦渦と被害は拡大していくだろう》
「アルバトロウム……なんつー不吉な。まぁいい、それなら何となく判る。人間の本質は、生物としての本能は争うことにあるとか、人間が人間である限り完全な平和なんてものはあり得ないとか、そういう問題じゃないんだな。人々の争いが、ではなく、今の乱世が、あんたたちをバラバラにしているんだ。つまりその、三千年に渡る一連の争いを、どんなかたちであれ終わらせることでしか、あんたたちが再び巡りあうことは出来ないんだな」
飛鳥が辿り着いたその結論に、エルヴァンディータが頷く。
血の気のない白い面に、わずかな朱を昇らせて。
《その通りだ。だからこそ、君が君の友のために戦い、勝利を収めることが、私たちの願いをつなぐ希望となるんだ》
「大まかな流れは判ったが……難しい話だな。あの国に滞在してそう長いわけじゃないが、なんというか、レイの気質からいって、戦乱の世の覇者に! とかいうことにはならない気がする」
お人好しで開けっ広げな、他者の痛みに敏感すぎるヘタレ王のことを思い出しながら言うと、エルヴァンディータがくすりと笑った。
安堵すら覚えるほど、『生きた』笑いだった。
《それでも君は、その友を愛しているんだろう。運命は、その流れは、かの国が覇者となる道を示しているよ。そうなったとき、君は、彼を助けるだろう。彼をソル=ダートの覇者にすべく、持てるすべての力を使うだろう》
飛鳥は肩をすくめた。
「運命なんてものは俺には判らん。だが、そうだな、誓いは絶対だ。そんな未来が訪れるというのなら、全身全霊をもってあいつを守ろう。そのために戦おう。そう決めたのは、俺自身だからな」
《ああ……そうだな。君の、その強くて誇り高い、揺るぎない魂を私たちは信じよう。だからただほんの少しだけ記憶の中に留めておいてくれ、人の世の平らかさを、私たちが渇望していることを。君になら出来ると信じているよ、黒の申し子。界神晶を負う、強き御使いよ》
「……ご大層なことだ。だが……まぁ、そうだな、あんたたちのことは記憶にとどめておこう、世界を守る神様が幸せになっちゃいけないなんて法はない。俺が俺の誓いを果たすその過程が、あんたたちを助けられるのなら、それも悪くはないだろう」
五色の青年たちの視線を感じる。
淡い期待と希望、切実な懇願と哀しみ、そして……飛鳥への感謝を。
《ありがとう》
青年たちの、血の気の失せた頬に、希望という名の喜色が灯る。
エルヴァンディータが、ヴェロハンが、フィータスが、カトルゲートが、サレアトゥーラが、いとけない童(わらべ)のような無垢な笑みを浮かべ、小さく頷いた。
《ありがとう……人の子、強く純粋なる御使いよ。待っているよ、ずっと。私たちには、時間だけはあるからね》
「前にも言ったような気がするが、時間だけというのも辛い話だな。なら、肝に銘じておくさ、あんたたちがそうやって待っていることを」
《そうだね、期待している。――ああ、そうだ、君の名前を教えてくれないか、人の子。君の名前を呼んで、祈りながら待っているから。この、遠い遠い牢獄から》
「鬱陶しいからやめてくれと言いたいところだが……まぁ、いい」
苦笑し、そして己を己たらしめるその名を口にした瞬間、自我は唐突に拡散し、白い光に押し上げられるようにして覚醒への道を辿る。
朝だ、と、意識のどこかがつぶやいた。
――やるべきことは、たくさんある。