特に急ぐでもなく階下へ降りるとウルルはもうおらず、すでにすっかり身支度を整えた金村が、何故か轟沈寸前のグロッキー状態で『リビング』にへたり込んでいる圓東に、パンとバター、チーズとソーセージ、それに赤味の強いオレンジといった印象の果物と温めた牛乳という、簡素な食事を差し出しているところだった。
「なんだ、今朝はあんたが朝飯の当番なのか」
 時刻は恐らく、身体の感覚から言って七時半頃だ。
 故郷の、路地裏の隅にあった廃工場で生活していた頃は、早ければ五時、遅くても六時過ぎには目覚めていたのに、こちらの世界に来て、世界の美しさ清浄さに気が緩んでいるのか、飛鳥の起床時間はぐんと遅くなった。
 無論、敵意や殺気など、どんなにわずかなものであっても、異変に身体がさらされればゼロコンマの勢いで飛び起きるが、それにしてもこのゆるみっぷりはいただけない、と苦笑混じりに思う。
 圓東よりも遅くまで寝ているなんてある種の屈辱だ、などと人でなしなことを思いつつリビングへ行くと、振り向いた金村がわずかに表情を緩めた。
 初めて観た当初よりずいぶん赤くなったような気がする茶色の髪を――もう茶色というより赤といった方がいい――、整髪油か何かで無造作にまとめ、立たせているのだが、それがまた驚くほどに似合っている。
 昨日、刺客のひとりとやりあってかなりの怪我をしたようだが、賢者ハイリヒトゥームに頼んで癒してもらったらしく、彼の動き、立ち居振る舞いには一分の隙もなかった。
「おはよう、若。昨日は災難だったな、本当に。身体の方はどうだ?」
「まったくだ。まぁ、こうして平穏に朝を迎えられただけマシということだろうさ。幸いにも、大した怪我もせずに済んだしな。今のところ、ちょっと全身が筋肉痛っぽいが」
「そうか、そりゃよかった」
「ああ、必要以上に頑丈な自分を今回ばかりは褒めてやりたいところだ」
「そりゃいいことじゃねぇか。頑丈ってのぁ大事だぞ」
「違いない、特にこういう場所で生きていくのならな。ところで金村、そいつは何故そこまでへばっているんだ?」
「ん? ああ、体力づくりを始めたらしくてな」
「……体力づくり、だ?」
「昨日の件で今のままじゃ不味いと思ったみてぇでな。ひとまず体力をつけるんだと、五時半ごろかな、早くに起きて走りに行った。城下町まで降りてから戻って、城の周囲を十週ほどしたな」
「行った、って事実として口にするってことはあんたも付き合ったのか」
「まぁな。俺の場合鍛錬は日課だが」
「あんたも大概体育会系だな……」
「ヤクザなんてそんなもんだろ。まぁ、で、こうして力尽きてるわけだ。さすがに初日からあれはちっとやりすぎだったかもしれねぇな、俺としては、景色も空気も綺麗で心が洗われるような気持ちだったが」
「そりゃあんたには日常茶飯事だろうがな……」
 せっかく出された、素朴だが食欲をそそる朝食にも手をつけず、水揚げされて冷凍されたマグロを彷彿とさせる棒切れのような姿で絨毯に埋まっている圓東を見下ろし、飛鳥はなるほどと頷く。
 無駄な贅肉はついていないが、筋肉もまたあまりついていない、薄っぺらいというのが相応しい身体の圓東が、何を思ったかは知らないがそんなに突然ハードな運動などしては、一気に燃え尽きるのも当然というものだ。
「おい、圓東」
 飛鳥が指先で圓東の後頭部を小突くと、ふかふかした毛足の長い絨毯に顔面から埋まるようにしてへたばっていた圓東が、老衰で死にかけた獣よろしくぷるぷると全身を震わせながら顔を上げる。
 正直な話、ちょっとしたコント並に面白い動きだ。
「あ、あー……アニキか。うう……お、おはよ……」
「ああ、おはよう。なんか今にも死にそうだな、お前」
「あー……うーうーうー。いやもうなんつーか、今、全身で地獄を味わってるよ、おれ……」
「なんでそんな急にマラソンなんか思いついたんだ?」
「いやー……ほら、昨日、金村のアニキが戦ってんの、観てさー。これからもあんなことが、起きるんなら、おれもちょっとは何か出来た方がいいのかなー、とか思ってー……」
「その姿勢は評価するが、基礎体力もクソもない状態で唐突にハードすぎる運動をしてどうするつもりだ」
「だって、身体の鍛え方なんておれ知らないし……」
「それでいきなり長距離走か。まったくもって駄目だろ、それ。言葉にするなら愚の骨頂だ。その程度のプログラムならいつでも組んでやる、どう鍛えたいのか言ってみろ」
「ぐのこっちょうってナニ……? ってか、え、アニキ、そんなことまで出来んの?」
「当然だ」
「アニキってほんとーにすごいんだなぁ。えーと、うん、じゃあ、次にあいつらが来た時、手助けなんて大それたことは無理でも、せめて足手まといにならないよう逃げ回れるような体力とスピードがほしい」
「高いのか低いのかどうにも判り辛い志(こころざし)だな。まぁいい、時間のある時を見計らって組んでおいてやろう。お前が人質にでもされたらこっちも大変だからな」
「……言われてみると、そういうカノーセーも完全にゼロってわけじゃあないんだよなぁ。うん、頑張るよ」
「心意気は買うが、張り切りすぎるなよ、慣れてない奴はちょっとずつ身体を造って行くのが鉄則だ、でないと長続きしない」
「あー、うー、うん、判った……」
 言ってゆっくりと身体を起こし、ようやくテーブルおよび朝食と向き合った圓東ががしがしとかき回す髪もまた、金村の髪と同じく、出会った当初より灰色がかったブロンドぶりに磨きがかかったような気がするのは飛鳥の思い違いだろうか。
 一番最初に目にしたときには、明らかに染めていると判る色合いだったのに、金村にせよ圓東にせよ、今のふたりの髪色は、生まれた時からこの色だったと言われても信用するだろう程度には自然だ。
 自然現象として考えるには、あまりにも不自然な変化だった。
 飛鳥は、ここが色によって貴賎が――力の強弱が決まる世界なのだということを、唐突すぎるほど唐突に思い出していた。
(……ならば、俺は、何だ?)
 他者よりも濃い黒色を持っていたという理由で、それだけのことで敬意を払われるのだろうか。彼をこの世界に招いた何者かは、それだけのことを重視していたのだろうか。
 ――――それは、飛鳥にとっては、屈辱以外のなにものでもない。
 大いなる理想と希望……呪われた目的のために生み出され、そのためだけに育てられた彼にとっては。
「若、どうかしたか?」
 思わず眉根を寄せた飛鳥に、かすかに首をかしげた金村が声をかける。
「……金村」
「ん?」
「その髪」
「髪がどうした?」
「あんたと、圓東のだ。気になってたんだがな、最初会ったときも、そんな、今みたいな色だったか? 俺はもっと、なんつーか、人工くさい色だったように思うんだが」
 問うと、金村はかすかに首を傾げ、初めて出会った時より幾分長くなったように思える前髪を引っ張ってその色合いを確認し、それから同じような仕草をしていた圓東と顔を見合わせた。
「……てめぇの髪なんざ気にもしてなかったが、言われてみると相当赤くなったな。ゲミュートリヒで日に焼けた所為かと思ったが……そういや、圓東も髪が伸びたわりにゃ生え際の色が変わって来てねぇなァ」
「うん、金村のアニキも黒くない。おれのも金村のアニキのも、最初に染めた色とちょっと違う気がする。おれもともと完全な黒髪ってわけじゃなかったけど、でもここまで薄い色でもなかったよな、金村のアニキ」
「ああ。なんだろうな、これ?」
「……それが理由なのかどうかは判らんが、この世界では色が力の強弱を決めるんだとメイデやアルディアが言ってた。相応しくない色を身に帯びることは出来ないと」
「ふむ、この世界で、黒い眼に黒い髪の姿でいるにゃあ俺たちは力不足ってことか。判らねぇでもねぇな、それは。しかし、若は何も変わらねぇな。それはつまり、そんだけ強ぇ力を持ってるってことか? さすがは若だ」
「そんなもん、俺に判るか。そこで感心するな」
「でもアニキって、黒以外の色が想像出来ないもんなー」
「――――ずいぶん盛り上がっておるようじゃな。何の話じゃ?」
「ほわああぁっ!?」
 背後から唐突にかかった声は、先刻逃げるように部屋を出て行った青い異形の片割れのものだ。
 青い異形が無垢で可憐な童女を彷彿とさせるなら、こちらの赤い異形はやんちゃで闊達な悪童を思わせる。額の真ん中から突き出た角も蜥蜴を思わせる頑丈そうな尻尾も、この異形を覆う奇妙なパーツのすべてが、少年めいた屈託のなさを助長するに過ぎない。
 突然すぎる登場に驚いたらしい圓東が鼻から息が抜けるような間の抜けた悲鳴をあげ、大げさに身をよじる。オーバーリアクションもいいところだ。
 気配も何もない登場だったので、飛鳥とて少しも驚かなかったわけではないのだが、驚きが表情に直結するわけではない彼は、事実を確認する意味合いでちらりとそちらに視線をやっただけだ。
 一瞬の油断が取り返しのつかない事態を招くあの路地裏での生活でなし、殺意敵意の感じられない相手にまで無駄なアンテナを張っていたくないというのも事実だった。
「ノックのひとつもしろとは言わないが、せめて気配を消して入って来るな。驚きのあまり俺のか弱い心臓が止まったらどうしてくれる」
「おや、そうじゃったか、それは失礼いたした。意図して消しておるわけではないのじゃが、よもやアスカの心臓が、小鳥のようにはかなく繊細なものとは思うてもおらぬでな」
「なんだ知らなかったのか、実はガラス並に脆(もろ)いんだ。以後気をつけろよ」
「えええっ!? っていうかそんなのアニキの心臓じゃないっしょ! むしろアニキの場合防弾ガラスとかアクリルガラ……ったたたたたたッ! 痛い痛い痛い、ちょ、待っ……わ、割れる割れるっ! いやもうホント、マジで割れるから、頭っっ!!」
 失言の犠牲となり、ビール瓶およびワインボトルを素手で割り砕く飛鳥に頭部を鷲掴みにされた圓東が涙目で喚く。
「割れてしまえ、こんないかにも用途の少なそうな、中身の入ってなさそうな頭は。別に困らないだろ」
 台詞に反する晴れやかな笑顔で言うと、圓東が灰色がかった黒瞳に真剣な恐怖の色を浮かべた。
「こ、困るに決まってるじゃんかっ!」
「まぁそういうな、やってみたら案外いいものかもしれないぞ? ほら、案ずるより生むが易しとよく言うだろう」
「若、それはこの場面で使うにゃあんまり相応しくねぇ気がするんだが」
「なら、終わりよければすべてよし、だな」
「何がどういいのか意味が判んないしっっ!!」
「仮にも俺の眷族とやらなら判れ。もう、音速を超える勢いで」
「め、目がマジだよこのひと……ッ!? あーっ、ごめんなさいおれが悪かったですなんかもう生まれてきてごめんなさい土下座でもなんでもするんで許してくださいっっ!!」
 真顔の飛鳥に顔を引き攣らせた圓東が、涙目のまま一息で言い切る。
 飛鳥は残念そうに手を離してみせた。
 こちらの世界に来て、体機能全体が向上しつつある気がする現在、本気でやれば彼の頭を柘榴(ザクロ)か鬼灯(ホオズキ)のようにぱっくりやることも不可能ではなさそうだが、貴重な同郷人をそんな目にあわせるのもさすがに寝覚めが悪いのでやめておく。
「ううう……本気で割られるかと思った……」
「ああ、奇遇だな、俺も今努力すれば出来るんじゃないかなぁと思っていたところだ。昔からやれば出来る子だからな」
「いやあの、自分で言うなよ、やれば出来る子とか。……ってか気になってたんだけど、アニキってさ」
「ん?」
「握力どんくらい?」
「あー……そうだな、とりあえず、最後に計ったのが十歳の誕生日だ。そのときで、右が105で左が98だったか。正確には判らないが、多分今は両方とも180くらいあると思う。……更に言うなら、この先もっと増えるような気もする」
「えーと……金村のアニキでどんくらい?」
「右が100で左が120ってとこだな」
「……おれ、右も左も50ちょっとなんだけど」
「うわ、弱っ」
「これっておれが弱いの? それともアニキと金村のアニキが強すぎるだけなの?」
「お前のがしょぼいだけだ」
「ううっ、断言されたっ」
「いや、まぁ、若にしてみりゃそりゃあ弱ぇだろうが、確か成人した男の平均握力が40ちょっとだったはずだから、実際にはそんなに言うほど弱くもねぇと思うぞ、俺は。技術屋ってのぁ結構力が要るからな」
「だが俺の三分の一以下であることに変わりはない」
「身も蓋もねぇな。まぁ、実際そうだが」
「……そっか、それでこないだコメカミぐりぐりされたときもあんなに痛かったのか……。ヘタしたら穴空いてるとこだったな……」
「――――つかぬことを尋ねるが」
「ん、どうした、カノウ」
「ぬしらの故郷では、手の力を計る道具があるのか」
「ああ、まぁな。あんたらなんか、すごい数値が出るだろうな」
「ぬしらの話を聴けば聴くほど、ずいぶんと便利で面白そうな故郷じゃな、話の種に一度訪れてみたいものじゃ。いったいどの辺りにある? 第三大陸の近辺には、そのような文明を持つ地域はなかったように思うが」
「……それは尋問か何かか? 得体の知れない地域から来た俺たちが信頼ならんと?」
「いいや、単なる興味じゃ。ぬしらの得体が知れんのは最初からじゃ、今になって気にしたところでどうしようもあるまい。そもそも、あのレヴィ陛下があそこまで懐いておられるのに、何を今更疑うものかね」
 突っ込んだ問いに不審を覚え、問いで返した飛鳥だったが、カノウは軽く肩をすくめてそう言っただけだった。
 毒気を抜かれ、飛鳥は苦笑する。
「懐くってあんた。一応二十四歳だろあいつ」
「一応、じゃ。初代から三十七代に渡ってリィンクローヴァの国王を観て来たが、レヴィ陛下ほど甘ったれで馬鹿な王はおらなんだぞ? なにゆえ二十四歳にもなって駄々をこねる……」
「あー、いるよな、頭いいのに何かバカなヤツって。でもいいじゃないか、あいつ強いし、仕事も出来るんだろ」
「そうじゃな、三十七の国王の中で、あれほど勇猛で賢明な王もそうそうおらぬとは思う。思うのだが、のう……」
「複雑だな。まぁ、確かに甘ちゃんだとは思うぞ、俺たちみたいな不審な連中をこうやって懐に入れてしまうんだからな」
「ぬしに関しては、儂にせよウルルにせよ、何も心配はしておらぬよ」
「……ずいぶん信頼されたもんだ、俺も。もしかしたら、国王陛下の命を狙って密かに敵国から派遣された間者(スパイ)かもしれないぞ?」
「は、好きに言うておれ。儂とて伊達に五百年生きておらぬわ。大体にして、そもそもぬしは、あのように屈託なく一途に己を慕うてくるレヴィ坊やを無下に出来るのかえ?」
「坊やと言うにはあまりにでかい図体だがな」
 飛鳥は肩をすくめた。
 言外に、無下に出来るわけがない、するわけがないと言い切って。
 それを理解してのことだろう、カノウは真紅の双眸をゆるりと笑みのかたちに細めた。
「あの坊やは甘ったれで素っ頓狂な、儂らの苦労と頭痛の種じゃが、同時に儂らの宝物じゃ。坊やなしに儂らの日々はまわらぬ」
「大層な愛されぶりだな」
「リィンクローヴァの王とはそういうものじゃ。王とは常に国と民のために生きるもの。そのために身を削るものじゃ。民はそれを、我が身をもって理解しておるがゆえに、代々の王へ揺るぎない信頼と愛とを捧げるのじゃ。初代国王、エーデルシュタイン・ニア・ミルト・リィンクローヴァから三十七代経ってもそれは変わらぬ」
 一国の歴史を初めから見守る異形の、きっぱりとした……愛情に満ちた言葉に、飛鳥は黙って微苦笑する。それはどこか、彼を生み育んだ、あの研究所の人々の言にも似ていた。
「それであんた、何か用があって来たんじゃないのか? さっきあんたを呼んで来ると言って出て行ったが、ウルルはどうした?」
 気を取り直した飛鳥が問いかけると、カノウはようやく気づいたとでもいうようにまばたきをした。
 ややあって、ぽんと手を打つ。
「そうじゃった、すっかり忘れておったわ。神殿とつなぎが取れたのでな、ぬしらの準備が整い次第出発しようと言いに来たのじゃ。ウルルは先触れとして神殿へ向かっておる」
「あんたな、それ一番の重要事項だろうが……まぁいい、じゃあ、行くか」
「えっ、アニキ、朝飯は?」
「あんまり減ってない。というか、神殿からの帰りがけに市場に寄ろうと言ってるんだ、そこで食う方が楽しそうだ」
「……お金は?」
 ウルルの楽しげな言葉を思い起こしながら飛鳥が言うと、牛乳の入ったカップに口をつけていた圓東が上目遣いで問う。そういう表情をされると、どうしても柴犬にしか見えない。
 飛鳥は肩をすくめた。
「イースを通じてレイからいくらか預かってる。働きもしないで金銭を受け取るのは業腹だが仕方がない、早く仕事して返さないとな」
「そっか。じゃあおれもこれだけで我慢しておこうっと。市場だったらきっと珍しい食べ物も美味いものもいっぱい売ってるしっ」
「……でもそんだけは食うんだな……」
「普通ならこれの三倍くらい食うぞ、若」
「それでなんでそんなどうしようもない貧弱な身体なのか、一度解剖でもして中身を確かめてみたいもんだな。案外、ノーベル賞クラスの発見があるかもしれないぞ」
「へー、アニキはカイボウも出来るんだ、やっぱりすごいなぁ……って、えええっ!? いやあのっ、絶対に嫌だしっ!?」
「ま、そのうちな、そのうち」
「そ、そのうちって……え、なに、おれカイボウされんの? 死んだら? それとも生きてるうちに? ううう、なんかめちゃくちゃ不安な『そのうち』だ……っ!」
「いいからとりあえず食え。十分で準備できないようならお前は留守番だ」
 自分で食事を中断させておいて、人でなし極まりない言葉を飛鳥が吐くと、
「え、留守番は絶対に嫌だ! から、すぐ食うっ」
 ぶんぶんと首を横に振った圓東が、バターをこんもり乗せたパンに猛然と食らいつく。この分だとすべて平らげるまで五分もかかるまい。
「金村、あんたはもう食ったのか? まだなら軽く済ませておけよ」
「ん、ああ、俺もその市場とやらでいい」
「そうか。カノウ、その神殿とやらはここから遠いのか?」
「ふむ? まァ、徒歩で二十分弱といったところじゃな」
「そうか。じゃあ、そんなに時間はかからなさそうだ。浄化とやらがすぐに済むものなら、案外ゆっくり出来るかもな、今日は」
「さて……そればかりは儂にも判らぬ。《死片》というヤツは厄介でな、『色無し』によって持つ毒素が違うのじゃ。『為る』前の人間の出自や職業によってそれなりに系統立ちはするが、そのどれもが同一ではないのでな。異形がこの世界を脅かすようになって数千年、いまだその研究は進んでおらぬ」
「へえ、確かにそりゃ面倒臭いな、そんなんじゃ対策の立てようがない。しかし、そもそもなんで悪創念ってのが涌いたり、異形が生まれたりするんだろうな。もちろんそれがなかったらあんたたちも生まれてなかったわけだから、そんなものなければよかったのにとは言わないが」
「ふむ……その辺りの研究もイマイチ進んでおらぬようじゃな。なにぶん乱世ゆえ、今の世界は人間同士の争いで満ちておる。それ以外のものは後回しじゃ、異形との戦いなぞ、そのついでにすぎぬよ」
「結局一番面倒臭いのは人間ということか。どこの世界も一緒だな」
「まるで別の世界を知っておるような口ぶりじゃな、アスカ」
「……実は、知ってるのかもしれないぞ」
「おお……なるほど、それならばぬしらの得体の知れなさにも納得が行くというものじゃ」
 飛鳥の口にしたそれは、ほぼ無意識にぽろりとこぼれた、ちょっとした失言だったのだが、カノウはそれをただの冗談としてではなく、重要視すべきではないどうでもいいこととして受け止めたようだった。
 いたずらっぽく片目をつぶったカノウがそう言ったので、そこに否定や不信感が含まれていないことを感じ取った飛鳥は、一度訪ねてみたかったことを冗談交じりに問いかけた。
「だとしたらどうする。……レイは、気味悪がるかな?」
「出自だの住まいだの、今更にもほどがある。たとえ真実ぬしが別世界から来た怪しげな人間だったとしても、レヴィ陛下はもう、なにがあっても、ぬしを厭いも裏切りも遠ざけもすまいよ。あのように活き活きとしたお姿は、ほんに久しぶりじゃ」
 カノウの言葉は淡々としていたが、同時に真摯だった。
 飛鳥は苦笑するしかない。
「ずいぶん買われたもんだ」
「そうとも、儂もウルルもぬしを買っておる。あの方はの、アスカ。玉座を戴いて以来、ついぞ自分に関するわがままを言われたことがないのじゃ。それが、ぬしの関わることではどうじゃ、あのように駄々までこねられる」
「……今ちょっとというかものすごく申し訳ない気分になった。うん、なんつーかもう心底すまん」
 仮にも一国を統べる国王(しかもいい年こいた成人男性)に自分のことで駄々をこねさせるのはどう考えてもいいことじゃないだろという意識からの言だったが、カノウは笑って首を横に振った。
「儂らはそれを喜んでおるよ。あの方は自分を押し殺しすぎじゃ。国王という責務にある以上、期待を負って歩まねばならぬのは事実じゃが、王が個としての己を大切にしてはならぬという法はない。じゃから、アスカ」
「ん?」
「儂らはぬしに期待してもおるのじゃ。常に王ではない、ただのレーヴェリヒトとしてのあの方を観るぬしに、な」
「……はは、そりゃ、乞うご期待と言うしかないな」
「まァ、今はその程度でよいわえ」
 小さく笑ったカノウがそう言うのと、
「お待たせしましたっ、圓東鏡介、準備かんりょーですっ!」
 食事を終え、身繕いを済ませたらしい圓東が、威勢よくそう告げたのとはほぼ同時だった。
 その背後には、一分の隙もない出で立ちの金村の姿がある。水の匂いがするところからして、どうやら圓東が使った食器を洗っていたらしい。このまめさ、本当に元ヤクザなのか判然としない男だ。
 ふたりを視線の端に見遣り、微笑を唇に刻んで自分を見るカノウを見遣ってから、飛鳥はまた軽く肩をすくめてみせた。
 気負うつもりはない。
 ただ、あるがままでいるだけだ。
 それがレーヴェリヒトの望みでもあることを、彼は理解していた。
「まァいい、じゃあ、行こうか」
「ああ」
「城下町ってどんなとこかなー、楽しみー」
「ふむ、ではご案内いたそうか」
 カノウの言葉に従って部屋を出る。
 朝の太陽が、まぶしく王城を――鮮やかな風景を照らし出していた。