中央黒華神殿は、外からだと巨大な温室のように見えた。
 神殿と聴いて、この国の文化レベルや様式から(あまりにもそのまんまではあるが)パルテノン神殿のような建物を想像していた飛鳥は、ちょっとというかかなり意表を突かれたのだが、何にせよそこはひどく洗練されたフォルムと、神秘的な美しさとを持っていた。
「……なんてゆーか」
「ん?」
「いや、神殿っていうから、おれ、なんかすごい分厚い岩の扉がある大きな建物を想像してたんだけど」
「なんで神殿で分厚い岩の扉だ?」
「ほら……日本の神話であるじゃん、なんとかいう一番偉い女神様が、弟のいたずらがあんまりひどいからって怒って家に隠れちゃったとかそんな話。あんたが隠れてなんか問題解決すんのかよって思った記憶があるんだけど、あれって確か、女神様んちの戸なんだよな」
「そりゃ天磐戸(アマノイワト)だ。別に神殿じゃない。まぁ、岩屋の中を貴人(神)がこもった館(殿)と考えるなら間違いじゃないのかもしれないが、しかし、なんでそんな偏った知識を持ってるんだ、お前」
「すっごい暇だったとき、金村のアニキに借りて読んだ本に書いてあった気がする」
「……暇潰しに記紀神話か。剛毅だな」
「そうか? 普通に読むがな、古事記も日本書紀も。興味深ぇし、読み込んでみると面白ぇぞ?」
「否定はしないが、歴史馬鹿と普通の馬鹿を一緒にしてやるなよ」
「え、普通の馬鹿っておれのこと?」
「お前以外に誰がいる」
「……うう……」
 非情極まりない飛鳥の断言に、圓東が目頭を押さえる。
 飛鳥は彼のそんな仕草にはまったく注意を払わず、再度神殿を見上げた。
「黒曜石か、ヘマタイトを彷彿とさせる光沢だ」
「――ああ、赤鉄鉱か。日本じゃあんまり産出されねぇな」
「あんたも大概偏った知識の持ち主だな……」
 この場では無意味としかいえないコメントに、飛鳥は呆れ声を上げた。
「でも、なんか、ちょっと見たことないくらい珍しくて綺麗だな。おれ、あのぴかぴかした感じ、好きかも」
「光り物が好きとか、鴉かお前は」
「え、でも、綺麗じゃない?」
「……まぁ、汚いとは思わんが。黒がこの世界でもっとも貴ばれる色なのだとしたら、これほど貴い建物は存在しないんだろうな」
 言った飛鳥が見上げる先には、光沢ある漆黒色をしたガラス状の――しかし光の屈折率から言ってガラスではあるまい――何かで覆われた大きな建物がある。
 建物は三つのパートに分かれていた。
 真ん中にひときわ大きな建物があり、これがちょっとしたデパートくらいのサイズがある。その両脇に中央の建物の半分程度の建物があるのだが、これら三つの建造物は、一体何で出来ているのか、きらきらと光を反射する漆黒をしていた。
 前述の通り、それらの輝きは黒曜石やヘマタイトを彷彿とさせたが、たとえ神殿がそういった貴石半貴石の類いで出来ているのではないとしても、その建築にはかなり高度な技術を要しただろう。
 深い深いその色は、空の青に驚くほどよく映え、また純白の雲をまるで鏡のように映しもして、見つめていると吸い込まれそうな錯覚すら覚える。
 それがすなわち中央黒華神殿、これから三人が向かうべき――向かうであろう――場所である。
 黒き双ツなる神と呼ばれる、男女の雷神を祀る信仰の窓口であるのと同時に、異形に与えられた『毒』を浄化する絶対の場として、人々からは畏怖と尊崇と敬愛とを注がれるところであるらしい。
 三人は現在、神殿前にある大きな広場で、向こうからの迎えを待っているところだ。
 広場には、大理石のような佳麗な石を、相当な手間をかけて磨き上げたと思われる、すべすべとして美しいタイルが敷き詰められていた。タイルの研磨の見事なことといったら、覗き込めば自分の顔が映りそうなほどの滑らかさで、この世界にこれだけの技術が存在するのかと感心したほどだ。
 しかも、飛鳥たちの故郷、東京は新宿にある国立競技場のフィールドくらいある広場すべてがそのタイルで覆われているのだ、神殿の持つ力の大きさが如実に知れようというものだ。
 神殿と街の中継ぎとでも言えばいいのか、恐ろしいほど――無意味なほど広大な広場には、神に仕える官と思しき衣装の人間と、神殿を守護する役目を負った騎士か兵士のような人々、そしてどこにでもいるような普通の人間たち、三種類の人々があちこちに見受けられた。
 ここが様々な役目を負っているからだろう、彼らは様々な言葉を交わしているようだったが、それらの雰囲気はそれほど悪くはなかった。
 ちなみに、何故そんな場所で迎えなどというものを待つ羽目になったかというと、彼らをここに連れてきたカノウが、稀有なる黒の加護持ちとその眷族を三人だけで――直属騎士のふたりは、昨夜の件から派生した、周辺警備がどうしたとかの細々した煩雑な理由で王城に残っている――直行させるわけには行くまいなどと言い出した所為だ。
 面倒かつ鬱陶しい話ではあったが、それらが国王陛下の立場上の問題にもつながることを飛鳥は理解していた。
 だから、たとえレーヴェリヒトがそれらの問題など歯牙にもかけないとしても、その辺りのくだらない理由でレーヴェリヒトを煩わせたくなかった飛鳥は、素直に――むしろ、赤の異形に対してはテンプレートのごとく文句を言ったのだが、カノウはあまりこたえた風情もなかった――その申し出に従い、「多少驚くかも知れぬが逃げるでないぞ」と不可解なことを告げて姿を消したカノウを待ち続けて今に至るわけだ。
 恐らく、飛鳥たちが『自宅』を出てから一時間弱、この広場に到着してから三十分は経っている。
 お陰で飛鳥の退屈ゲージは徐々に上昇中だ。
 空や街の姿、色彩が美しかったから、そしてたくさんの観察対象があったから、不機嫌にはならずに済んでいたが、これがもしも故郷の、あの猥雑な繁華街で、彼を待たせているものがその他諸々のどうでもいい存在だったら、待ち人が現れた時点で盛大に張り倒し足蹴にしているところである。
 ――口には出さないが、ふたりの眷族がそれぞれ色々なことを喋るお陰で、急激な退屈及び手持ち無沙汰に陥らなかったと言うのもある。
「神殿は権威の象徴でもあるからな、見せるところではきちっと見せておかなきゃならねぇってことだろう」
「違いない。中にいる連中が、権威に凝り固まった馬鹿ばかりじゃないことを祈るばかりだ」
「……万が一そうだったとして、あまり派手にやらかしてくれるなよ?」
「中の奴ら次第だ。だが、大体にしてあんたは、俺が否と断じた何者かを、あくまで庇おうなんて思うのか?」
「まさか」
「……自分で訊いといてなんだが、恐ろしいほど即答だったな、今……」
「観てる分には面白かったよ」
「まったくもって嬉しくない返しだな。まぁいい、とりあえず俺たちはいつまでここにいれば、」
 退屈げにぐるりと巡らせた視線がひとところに行き着くや否や唐突に言葉を切った飛鳥を、圓東が首を傾げてわずかに見上げる。
「どしたの、アニキ?」
 飛鳥はそれには答えず、大仰な溜め息をひとつつき、世の中のしがらみや自分の置かれた立場、レーヴェリヒトへの迷惑や先刻までのちょっとした決意をすべて放棄して回れ右をしようとしたが、
「これ、逃げるでないわ、そこな加護持ち」
 赤の異形のもの以外ありえない声が呆れを伴って響いたのでは、もう一度嘆息して諦めるしかなかった。
 なんだカノウじゃん、といった表情をした圓東が振り向き、こちらへ近づいてきているそれに気づくと目を真ん丸にした。
「ええと……なんかのコスプレ大会?」
「至言くさいが恐らく違うだろうな。そもそもこの世界で何をもってコスプレと称せばいいのか微妙なところだ」
「なんか……うん、アニキが今回れ右しようとした気持ちがよく判る気がする。あれに取り囲まれるのはおれも嫌かも」
「誰だって嫌だろう。あんなものに取り囲まれて悦に入れるような人間にロクなヤツはいない」
「うん、なんか……派手だねー」
 圓東がしみじみ言う。
 飛鳥は溜め息とともに頷いた。
 彼らの視線の先には、一直線にと表現するしかないようなまっすぐぶりでこちらへ向かってくる、きらびやかな――色とりどりの――衣装に身を包んだ人々の姿がある。
 つい先ほどまで単なる一市民として広場内の空気に溶け込んでいた三人を、何事かという表情の人々が見物している。
 突き刺さる好奇の視線に、基本的に夜とか闇の中で生きてきた飛鳥はまた溜め息を堪えた。
 別に目立ちたくてこんなところに来たわけではない。
 半ば逆恨みを込めて、コスプレ集団を観察する……というより睨む。
 先頭の十二人が恐らく高位の神官職、その後ろに続く二十四人が神殿に仕える騎士、その更に後ろの六十四人が神殿を守護する兵士だろう。その誰もが、ファンタジーと呼ばれる漫画やアニメや映画などに必ずひとりはいそうな出で立ちをしていた。
 メンバーが全員男なのは何らかの理由があるのだろうが、飛鳥的にはあまり面白くない。
 彼らを先導しているのが赤の異形カノウである。
 様々な色彩を目や髪に有した、コーカソイド(白色人種)とモンゴロイド(黄色人種)の中間のような顔立ちをした彼らは、畏怖とも緊張とも取れぬ表情でこちらを見つめていた。
「……何で迎えごときに百人だ?」
「そりゃ若を迎えるにゃそんくらい必要だってことじゃねぇのか?」
「…………いいからあんたは黙っててくれ」
「金村のアニキってどんどんアニキ馬鹿になっていってる気がする」
「気がする、じゃねぇぞ圓東」
「あ、ちゃんと自覚はあるんだ」
「嫌な自覚だな、おい……」
 正直なところそういう扱いには慣れていないというか慣れたくもない飛鳥は、妙に疲れてきてぼそっとこぼしたのだが、それで金村が気を変えるはずもないことも理解はしている。納得は行かないが。
「ご機嫌麗しゅう、貴き方。ご来訪を歓迎いたします」
 やがて飛鳥たちのもとへ辿り着くと、カノウを先導とした一行の、カノウを除いたすべての人々がうやうやしくその場にひざまずいた。先頭の、一番きらびやかな――しかし趣味は悪くない――衣装に身を包んだ神官が、朗々とした声で挨拶の言葉を紡ぐ。
 ざっ、という音がしそうな、見事に統制立った美しい動きだったが、たとえ美しかろうがなんだろうが、百人の男にひざまずかれて悦べるような性質を飛鳥は持っておらず、とりあえず何をさておいても今すぐ立ち去りたいという激しい欲求に狩られた。
 このときになって、ようやく、軍族の面々にひざまずかれて困った顔を見せていたレーヴェリヒトの気持ちが真実理解できた飛鳥である。
 隣では圓東が思いっきり引いているのが判る。今風に言うとドン引きというヤツだろう。
 金村はこんな時でも無表情だったが、ヤクザ社会で重鎮を務めていたならそれほど珍しくもないのかもしれない。
「わたくしは中央黒華神殿の主事を務めさせていただいております、グリューナ・ラスエスタと申します。どうぞお見知りおきを……――おお、なんと素晴らしい黒でしょうか、噂にお聴きしていた以上です。しかし……失礼ですが、御髪(おぐし)を、何故?」
 グリューナと名乗った初老の男、ライトグリーンの目に緑がかった金髪をした彼が、訝しげに飛鳥の頭を見遣った。
 飛鳥は肩をすくめる。
「無駄に騒がれたくないからに決まってる」
 言うと、グリューナが眉をひそめた。
「……騒がれたくないと仰いますか。それで、貴い加護色を、至高色をお隠しになられたと」
「なにか問題があるか?」
 そう、黒目黒髪の取り合わせがあまりにも珍しく、人目を引くものなのだということを理解した飛鳥は、そんな、自分の実力でも思惑でもない生まれつきのもので騒がれたくもなく、ターバンのようなものを頭に巻きつけ、髪を隠していた。
 『自宅』のクロゼットから引っ張り出してきた、灰色がかった濃い青色のこれは、本来はショールとして作られたもののようだったが、質のよい絹を使ってあり、頭に巻いても気持ちがいい。
 ターバンは和っぽい、アジアっぽいデザインの衣装ともよく似合ったし、飛鳥自身はこの出で立ちを結構気に入っているのだが、神官主事には気に食わない――というより不可解な――ことのようだった。
 加護持ちがわざわざ自分の色を隠すような事例は珍しいというか前代未聞のようで、飛鳥の言を聞いた前方の人々が、ちらちらとこちらを観ながらなにかを囁きあっている。
 しかし、飛鳥がまったく動じず、小揺るぎもしない態度を崩さずにいると、神職という浮き世とはまた少し違った責務にある者たちだからか、彼らはそれ以上追及せず、再びその唇に笑みをたたえて深々と礼をした。
「あなたがそう仰るのならば、そのように。――では、早速で申し訳ありませんが、こちらにおいでいただけますか。眷族の方もご一緒いただいて結構ですが、少し時間がかかるかと存じますので、お暇でしたら周囲を散策していただいても構いません。眷族の方々でしたら、どこへ入っていただいても結構ですので」
「――だ、そうだ。どうする?」
「なら、若が戻ってくるまでぶらついてるとしようか。この辺りの歴史的建造物を見てるのも楽しそうだ」
「うん、じゃあ俺もせっかくだしその辺探険してくる。アニキが帰ってきたら市場でメシな」
「はしゃぎすぎて迷子になるなよ。探しに行かないぞ」
「……が、頑張る……」
「じゃあ俺たちは行くが、何かあったらすぐに呼んでくれ。いつ何時どこにいても駆けつけるからな」
「距離によっては声も届かないだろとかいうツッコミ以前に、あんたなら何千キロ離れてても呼んだら来そうだと思った自分がちょっと嫌だ……」
「そりゃ光栄だ」
「なんか金村のアニキって以下略。まぁ、金村のアニキがそんで幸せなら別に構わないんだけどさ。んじゃアニキ、またあとで。おれハラ減ったし早目に帰ってきてね」
「俺が知るか、そんなこと。いいから早く行け」
 心底面倒臭そうに飛鳥が手を振ると――というよりそれは犬を追い払うときの仕草そのものだった――、圓東はあっけらかんと笑って頷き、そのまま特にどこへ行こうという目的意識の見えない歩調でぶらぶらと歩き出した。まったく無表情の金村が、神官たちに一礼してから圓東にならう。
 ふたりの眷族がそうして去ったあと、飛鳥はまず、ひざまずいたままの神官たちを見下ろし、
「とりあえず、視覚的暴力に近いから立ってもらえるとありがたいんだがというより立て。電光石火の勢いで。百人の男を見下ろしたまま会話するとか、面妖すぎてありえん」
 頼みごとをしているはずなのに爽快なまでに命令口調という不可解な言い方で、本来はこれが彼らの普通なのだろう、不思議そうに顔を見合わせる一行を立ち上がらせた。
 訝しげに立ち上がった一行の、リーダー格であるグリューナに、
「……それで、だ。一連の流れを聴かされてないんだが、そもそも今日は何をするんだ?」
 そう問いかけると、神官主事は自分のなすべき使命を思い出したらしく、はい、とよく通る声とともに頷いた。
「浄化を行うようにとの国王陛下のお達しでしたので、これからこの中央黒華神殿の象徴であり浄化の名手でもあらせられます巫女姫さま、エーヴァンジェリーン姫さまにお会いいただき、検査を受けていただいたあとで毒素の浄化という運びとなります。わたくしどもが差配し、ご案内いたしますので、どうぞご心配なく」
「そうか」
 そういえばそんな名を、まだこの世界の言葉が理解できていなかった最初のころに聞いたような気がする、と脳裏に思いつつ、飛鳥は一行に向かって軽く頭を下げる。
「――――では、世話になる」
 飛鳥にとっては、面倒をかける相手への当然の礼儀だったのだが、それを目にした神官たち、騎士たち兵士たちがほんの少し息を飲んだ。
 飛鳥にもそのかすかな息が感じられた。
「……なにかおかしなことでも?」
 飛鳥が眉をひそめると、グリューナが何度も首を横に振った。
 カノウを見遣るが、赤の異形は微笑むばかりで何も答えない。
「い、いえ……その、はい、なんでもありません。では参りましょう、ご足労をおかけしますが、こちらへお願いいたします」
 首を傾げつつも、ああ、と頷いて、グリューナの隣へ並んだ飛鳥は、自分を見る彼らの視線が少しやわらかくなったことに気づいていた。
 ふたりが歩き出すとその背後に十一人の神官たちがつき従い、さざなみのように道を開けた騎士たち兵士たちが、来たときと同じく素晴らしく統制立った動きで飛鳥とグリューナの後ろへぴたりとつく。
 あちこちから注がれる好奇の視線を全身に浴び、見世物同然の扱いに飛鳥の回れ右をしたいゲージは高まりつつあったが、神殿がどんなところで、どんな機能を持った施設なのかという興味は否定しきれず、ひとまず今はおとなしくグリューナの言に従う。
 ――グリューナというこの壮年の男、書類仕事や神事を執り行うのは得意でも喧嘩はからきしだろうと思われる彼の物腰がやわらかで、嫌いにはなれそうにないタイプだったというのも大きい。
 そのまま一行は、黒曜石のような建物を目指して歩き出した。