巫女姫の思惑が何であれ、理由も判らずに――いや、たとえ判っていたとしても――十把一絡げのいわゆる『どうでもいい他者』に好き勝手されてやる義理も心の広さもなく、眦を厳しくした飛鳥は、神衛騎士たちが素晴らしいと言うしかないような連携ぶりで次々に振り下ろしてきた棒を、密林のトラップをかいくぐる冒険者ばりの身のこなしで避けた。
 日本という法治国家にいながら生きるか死ぬかの日々を送り、弾丸の乱れ飛ぶ壮絶な修羅場をかいくぐったこともある飛鳥だ、棒切れを避ける程度なら何の苦でもない。
 しかし、これまで回避できるような相手を『罰し』てこなかったのか、飛鳥が軽やかに十本の棒を避け、神衛騎士たちから距離を取ると、彼らの間にざわりとした驚愕が走った。
 何故招かれた身で、そして彼らの言うところの至高色を宿した身で、言ってみれば同属たる彼らと争わなくてはならないのかという素朴に過ぎる疑問がチラリと脳裏をよぎったが、もちろんのこと、他者からの命を受けてこの行動を取っている彼らが、まさか諦めてくれるはずもない。
 驚愕と苛立ちと軽い逡巡とをこめて騎士たちが舌打ちをすると、彼らの手の中でくるりと踊った棒が、また飛鳥を狙って飛来する。
 流れるような滑らかさで次々に繰り出される棒は、なるほどこうやって今まで何人もの咎人(とがびと)たちが打ち据えられてきたのだろうと思わせる速さで、鋭く空気を裂きながら飛鳥を襲ったが、
「だがまぁ……大したこともない、な」
 それらも、東京の闇に潜むヤクザや海外から流入したマフィアがぶっ放してくる銃弾、昨夜の飛竜や刺客に比べれば、飛鳥にとっては鼻で笑う程度のものだった。彼らと比べれば、多分、金村や下僕騎士たちの方がまだ強い。レーヴェリヒトは言うに及ばずだ。
 ――そしてそもそも、殺す気で来る彼らと、他者から命ぜられて迷いながら戦う神衛騎士とでは覚悟が違う。
 飛鳥は、上段から叩きつけられた棒を手の平で受け、そのまま滑らせるようにして勢いを殺し、反対の掌を使って弾くと、左右から襲いかかってきた二本の棒と下段からの一撃とを一メートルばかりひょいと跳躍して避ける。
 跳躍したついでに、傍にいた騎士の脇腹を強かに蹴り飛ばし、低く苦痛の声を上げてよろめいた彼が、脇腹を押さえてしゃがみ込んだのと同時に棒を手放したので、これ幸いとばかりに余裕の表情で拾い上げる。
 蹴り飛ばされた騎士は咳き込みながら飛鳥を睨んでいたが、何せごついブーツで腹部を一撃されたのだ、相当なダメージだったのだろう、立ち上がることができない様子だった。
「ふむ……孫悟空でも気取ってみるか」
 ひどくおさまりのいい、しっくり馴染む滑らかな触感の棒を手に、誰にともなくうそぶいた飛鳥が、ごくごく自然に構えると、神衛騎士たちの間にぴりりとした緊張が走った。
 先刻の、巫女姫の命による緊張とはまた少し違う、自分たちの対峙している相手が只者ではないことに気づいたがゆえのものだ。
 自然、彼らと飛鳥との間に、微妙な間合いが発生する。
 飛鳥を半円形に囲むそれは、彼自身がそう意図して空けたわけではなく、飛鳥に気圧された騎士たちが半ば無意識にその距離を取ったのだ。
 視線の端っこに、ちらりとエーヴァンジェリーンの様子を伺うと、彼女は騎士たちの敗北など疑ってもいない様子でこちらに背を向け、黒擁石の台の上で何か作業しているようだった。
 青い匂いがしたから、きっと、薬草でも調合しているのだろう。
 騎士たちの手当てをしてやる手間が省けていい、などと、自身の敗北など眼中にない風情で胸中に思い、ひとつ深呼吸をすると、
「――――行くぞ」
 静かに言うや、飛鳥は行動に移った。
 濃灰色のターバンを翻して鋭く踏み込み、右端の騎士へと打ちかかる。
 標的となった騎士が、一撃に備えて身構える暇もなかった。
 ひゅっ、と、先端の『飾り』が空を切る鋭い音がして、飛鳥の揮った棒は、正確無比に騎士の手を打ち据えていた。
「っぐ……!」
 硬い、尖った石の部分で打たれたのだ、彼の受けた衝撃はいかほどのものだったのか、騎士はどことなく気品のある面に苦痛の色を張り付け、痛みに耐え兼ねたかのように棒を取り落とした。
「……何とも容易い話だな」
 嘲るでも呆れるでもなく、ただ事実を言うだけの口振りで低くつぶやいた飛鳥が、あちこちから叩きつけられる棒を軽々と――いっそ華麗に――避けながら、棒をくるりと回転させてから撥ね上げるようにして揮った石突(いしづき)で彼の顎を強打すると、騎士は悲鳴とも呻きとも取れぬかすれた声とともに吹っ飛び、横転してそのまま動かなくなった。
 目を回したらしい。
「エルムズ!」
 低い声が失神した騎士の名を呼ぶ。
 騎士の何人かが罵りの言葉とともに飛鳥を睨んだ。
 しかしその程度のことで怯むほど可愛らしい性格をしていない飛鳥は、冴え冴えと――冷え冷えと笑い、
「……次々行くぞ?」
 三人目の犠牲者へと向かった。
 三人目は、茶色の髪と青の目の、ひとり目ふたり目と同じくちょっと見目のいい青年だった。
 これは神衛騎士全員に言えることだが、顔立ちに気品があることといい、ちらと見た手指が荒れていないことといい、神衛騎士とは、巫女姫という貴い身分の女性の傍に侍る必要上、警察官の役割も果たすがゆえに市民階級出身の騎士も多い聖叡騎士団とは違って、ある程度の家柄が必要とされるのかもしれない。
 無論のこと、地位や家柄や容色などというものは、飛鳥に価値を見出させるものではなく、手加減の対象にもならない。
 自分が狙われていることに気づいた青年が、眉を厳しくして身構える。
「神々のご威光とともにある神衛騎士が、そうそう容易くしてやられると思うな!」
「はっ、何ともご大層だな、神衛騎士とやらは! だが、そういう大語は、俺に勝ってから胸を張って言うがいいさ!」
 嗤った飛鳥が彼の揮う棒をひょいと避けて彼の懐に入り込み、石突の部分で鳩尾を一突きしてやると、
「……ッッ!!」
 青年の顔がみるみる苦痛に歪んだ。
 ゆらりと上体を揺らめかせて一歩後退した青年、倒れなかったのはさすがだが、ダメージが大きすぎてその場から逃げることも反撃に転ずることも出来ずにいる彼に決定的な一撃をくれてやろうとしたところで、飛鳥は背後に殺気じみた敵意を感じた。
 残り七人で一斉に打ちかかろうというものらしい。
 飛鳥は口元に不敵な笑みを浮かべると、素早く青年の背後に回りこみ、必死に態勢を整えようと踏ん張っている彼の背を突き飛ばした。
「う、あ……ッ!?」
 息を飲んだ青年が、しかしなすすべもなく前へつんのめる。
 慌てたのは飛鳥に打ちかかろうとしていた残りの神衛騎士たちだ。
「く……っ!」
「退け、クーノ!」
 彼らが焦りの混じった声で青年を叱咤するものの、無論退けと言われて退けるはずもなく、彼自身の意志に凄まじく反して青年の身体は騎士たちの中へ突っ込む。
 何せ常人の三倍以上の膂力を誇る飛鳥に突き飛ばされたのだ、ダメージのない状態であればいざ知らず、前後不覚一歩手前の青年が、その衝撃に踏みとどまれたはずもない。
 崩れるように倒れかかって来た仲間を傷つけまいと、飛鳥ひとりに、一直線に向けられていた棒の先が総崩れとなる。
「ふむ……まぁ、相手が悪かったと思え。俺を好きにしたかったら、本気で来ないことには始まらないぞ?」
 うそぶき、飛鳥は自分が突き飛ばした青年の背中めがけてジャンプした。
 そして、彼の背中を踏み台にして更に跳躍し、ごついブーツに踏みつけられた青年の潰れるような聞き苦しい悲鳴を完全に聞き流しつつ、わざとらしいほど華麗にくるりと一回転して騎士たちの背後に着地すると、そのまま飛鳥は攻撃に転ずる。
 完全に失神したのか、力を失ってしなだれかかる青年の身体に動きを妨げられ――彼に気をとられ、騎士たちの動きは致命的に遅れた。
 時間的に言えばそれはほんの数秒のことだったが、その数秒は勝敗を決するに十分すぎた。
 彼の身体を抱き止めたひとりを除いて、残り六人の騎士たちが背後の飛鳥に向き直ろうとしたとき、飛鳥の手にした棒はすでに右端の騎士の横っ面を打ち据えて彼を横転させたところだった。
「ぐぅ……っ」
 呻き声をあげて吹っ飛んだ彼が、取り落とした棒とともに引っ繰り返るより早く、飛鳥の手の中でくるりと踊った棒切れは、その隣にいた青年騎士の鳩尾を一撃し、更にくるりと回転してもうひとりの向こう脛を強打するや、決して小柄ではない彼を勢いよく横転させる。
 痛みを与えることには慣れていても与えられることには慣れていないのだろうか、飛鳥に打ちのめされた三人は、悲鳴や呻き声とともに床を転がり、再び立ち上がってくる様子もない。
「くそっ、こ、このっ!」
 隠しようのない焦りとともに突っ込んできた騎士、まだ少年の面差しを残した彼の下顎を石突で撥ね上げ、よろめいたところを棒身で打ち倒す。
 どすん、という、優雅さの欠片もない音を立てて騎士は引っ繰り返った。
 飛鳥はそのみっともない様子に少し笑い、それから、背後から叩きつけられた棒を流れるように滑らかな動きで避けると、棒が地面を打ち据える硬い音を聞きながらやや年かさの青年に肉薄し、今度は棒を使わず、片手で彼の襟首を掴むやその身体を思い切り投げ飛ばした。
 重さにして八十kgの塊は勢いよく宙を飛び、
「なッ……ちょ、待……っ!?」
 少し離れた位置にいた青年騎士を盛大に巻き込んで地面に沈没した。
 起き上がって来ないところをみると、ふたりとも目を回しているらしい。ぐったりと折り重なった身体から、長い手足がだらしなく伸びた様などは滑稽なほどだ。
「さて……残るはお前だけ、か」
 最後のひとりとなった神衛騎士を見据えた飛鳥が凶悪に――楽しげに笑ってみせると、金髪碧眼のやはり見目よい青年は、悲痛と言って差し支えないだろう表情で棒を握り締めた。
 その目には、怯えにも似た深い畏怖がある。
「お前は、あ……あなたは、一体……!?」
「一体もクソもあるか。俺は俺だ、それ以外のものにはなれない。それ以上でも、それ以下でもないな」
「ありえない、こんな……加護持ちが、武力において神衛騎士を凌駕する、などという、ことは……!」
「なら、それとは別のものなんだろうさ、きっと。別に俺はどっちでもいいんだ、加護だの何だの、面倒臭いし鬱陶しいだけだしな。――まぁ、御託はいい、行くぞ? 精々、神衛騎士とやらの誇りをかけて足掻いてみせろ」
 不遜に、傲然と言い切った飛鳥が棒を向けると、騎士は蒼白な顔のままで身構えた。
 それは確かに、一般の兵や騎士とは一線を画した隙のない立ち姿だったが、
「――――まだまだだな」
 飛鳥を相手にした実践という意味で言えば、なっていないも同然だった。
 そもそも、一対多数の戦いを得意とする――そのように設定された――飛鳥だ。一対一で遅れを取るはずがない。
 鼻歌でも口ずさみそうな軽やかさで青年の懐へ踏み込み、顔を引き攣らせた彼が半自棄の攻撃を試みる前に、すっと身を屈めてその背後へ回り込むと、大きく揮った棒で彼の脚を思い切り払ってその長身を引っ繰り返らせる。
「っぐ、うっ」
 どすっ、という音が示すとおり、背中を強かに打ったらしく、端正な顔をゆがめて呻く青年の鳩尾に、石突の部分を叩き込む。――ただし、急所を飛鳥の膂力で思い切り打ち据えた日には死んでしまう可能性すらあり、それはさすがに困るというか寝覚めが悪いので、少々手加減しつつの一撃である。
 もっとも、加減をしたといっても、所詮は飛鳥の、であるから、相当な衝撃だったことも確かなようで、石突が人体急所を小突いた瞬間、青年騎士は白目を剥いて失神した。
 手足がぴくぴくと痙攣しているところを見ると、手加減したつもりで実はあまり出来ていなかったかもしれない。
「まあ……運が悪かったと思え。そのうちいいこともあるだろ、多分」
 と、まったく他人事の口調で言った飛鳥が、手の中の棒をくるりと回転させたのと、一連の騒ぎをまったく気にすることなく――恐らく、彼女は彼女の騎士たちの敗北を微塵も疑ってはいなかったのだろう――薬草作りに専念していたらしいエーヴァンジェリーンが、手の平に乗るサイズの壷を手にして立ち上がったのとはほぼ同時だった。
 場が静かになったのを、騎士たちが『仕事』を終えたためと解釈したのだろう、満面の、極上の笑みとともに振り向いたエーヴァンジェリーンは、
「ご苦労様でした、みなさ……」
 彼女の目の前に立っているのが飛鳥だけだということに気づくや、漆黒の双眸を大きく見開き、その美貌を凍りつかせて絶句した。
「まぁ、こういうわけだ」
 飛鳥が肩をすくめてみせると、
「わたくしの、」
「うん?」
「わたくしの騎士たちが、こんなにも簡単に……」
「実力の差だな」
「あなたは、一体何者なの」
「何者と言われても困るんだが。俺に黒の加護持ちという名称を与えたのはそっちだろう」
「加護持ちは……その『器(うつわ)』は、物質的には無力な存在よ。その魂本が、あまりにも強大に護られているがゆえに。それなのに…………何故。何をもって、神々は、こんなにも強い『器』を、」
 恐らくこちらが地の口調だろうと思われる、どこか居丈高なそれが、驚愕を含んで途切れる。
 飛鳥を見る同色の目に、紛れもない畏怖が張り付いていた。
「ま、さか」
「何のことだ」
「それ以外には、考えられない……でも、まさか、そんな」
 完全に自分を置き去りにしてなにごとかをつぶやくエーヴァンジェリーンに、飛鳥は小さく首を傾げた。
 自分が、実は加護持ちとかいうご大層な存在ではないことなど、異世界人である彼には最初から判りきっていた事実だが、それ以外に何か驚くようなことがあるのかと思ったのだ。
「そんなはずがないわ……そんなはずが。こんな、普通の、何も持たない人間が、黒の名を継ぐヴェルトだなんて、そんなはずが……」
 よく判らないことをぶつぶつとつぶやくエーヴァンジェリーンが鬱陶しくなってきて、飛鳥は、強引に話を変えることにした。
 ――どちらにしても、尋ねなくてはならないことに変わりはないのだ。
「俺が何だろうが、あんたに関係はないだろう。俺もひとつ訊きたいことがある。答えてもらえるとありがたいんだが?」
「……なにを?」
「何故俺はあんたに仕置かれなくてはならないんだ? あんたの恨みを買うような真似をした覚えはないが」
「自分の胸に尋ねてみて判らないというそれがあなたの愚かさ、罪深さなのだわ。でも……それを知ってどうするの。土下座して、額を地べたにこすりつけて謝罪してくれるとでもいうの?」
「まさか。悪事を働いた覚えもないのに、何で俺が。そうじゃない、誰が敵か知っておけば、次に狙われたとき、真っ先に報復できるだろう」
「そう。それでこその下賎ね。――――答える必要も、義務も感じないわ」
「ふん、ま、そう言われるだろうとは思ったさ。高貴な連中は、とことん自分だけが可愛い身勝手なクソどもばかりだからな。さて……じゃあ、どうするかな。幸い、今ここにいるのは俺とあんたと役立たずの騎士どもだけだ、色々楽しいことが出来そうだ」
 言った飛鳥が、指先で棒の先端、鋭く尖ったそれを確かめながらにやりと笑うと、エーヴァンジェリーンは表情を硬くして一歩下がった。
「……何をする気なの? わたくしを殺す? それとも、辱めようとでもいうの? そんなことをすれば、あなただってただではすまないわ」
「ふん? 俺は別に、あんたが俺を罰しようというその理由さえ教えてもらえればそれでいいんだがな。あんたごときの血で手を汚すのも業腹だし、力で無理やり女を自由にしようというほど不粋でも餓えてもいない。だがまぁ、ここですごすご引き下がっても、後々禍根を残しそうだな。なら――こんなのは、どうだ?」
 エーヴァンジェリーンの警戒の眼差しを全身に受けつつ、飛鳥は、足元に転がる騎士の首筋、頚動脈辺りに尖った黒擁石の先端を当てた。
 エーヴァンジェリーンが眉を険しくする。
「何をするの! 彼らは関係ないでしょう!?」
「馬鹿を言え、あんたの命に唯々諾々と従って、俺を襲った時点で同罪だ。うん、あんたがあくまで答えないというのなら、あんたと、騎士のうち九人をここで殺してしまって、残ったひとりに罪をなすりつける、ってのはどうだ。もちろん、最後のひとりに真実を漏らされても困るから、手も足も喉も使えなくしてしまおう」
「な……」
「俺は第一発見者だな。筋書きは……あんたに懸想(けそう)したこいつが、あんたを独り占めするために他の騎士を殺そうとして乱戦になり、結局あんたまで殺してしまった。ベタベタだが、まぁ、そこのところは勘弁してくれ。小説みたいな劇的な話は作れん」
 飛鳥が、淡々と、しかしどこか楽しげに、素晴らしく非情で冷酷な案を口にすると、エーヴァンジェリーンは漆黒の双眸を怒りに燃え立たせ、薬壷を投げつけてきた。
 無論、深窓の姫君の細腕から投擲されたものが飛鳥をどうこう出来るはずもなく、それは放物線を描いて床に落下し、がしゃんという音を立てて砕け散っただけだったが、どうやらこの巫女姫は、見かけによらず激情家らしい。
「恥を知りなさい、下郎!」
「ふむ、特に否定はしないが、他者に命じて人を襲わせておきながらあんたがそれを言うか。お互い、恥知らず選手権に出場したら上位入賞は間違いなしだろうな」
「何をわけの判らないことを……!」
「わけが判らないのはあんただ。さあ、どうする?」
「……」
「俺は別に、人殺しがしたいわけじゃない。誰かの命を奪って悦に入れるほど変態でもない。だが、誰かが俺の行く道を阻むというのなら、あくまで俺の邪魔をするというのなら、それを躊躇いはしない。――そう、決めた」
 飛鳥の言は、静かで、そして強靭だ。
 そこに偽りはなく、厳しく、揺るぎない。
 それを感じ取ってか、エーヴァンジェリーンが唇を引き結ぶ。
 飛鳥は晴れやかに――凶悪に笑って、いまだ意識の戻らない神衛騎士の、その無防備な首筋に、鋭く尖った黒擁石を押し当てた。
 エーヴァンジェリーンが悲壮な顔をする。
 それを鑑みるに、彼女は、決して高慢なだけの姫君ではないようだ。
 自分以外の命が失われることに、ああして反応できるのだから。
「わけも判らずぶん殴られて、無関係なのに殺されて、後世まで語り継がれるだろう程度には不名誉な罪を押し付けられるこいつらも、憐れといえば憐れだな。無論、だからといって斟酌してやる義理もないが」
 とどめとばかりに飛鳥が言うと、巫女姫はぎゅっと目をつぶり、
「――――判ったわ」
 ようやく折れた。
 飛鳥は肩をすくめる。
「話すから、彼らを傷つけないであげて。神衛騎士ほど、わたくしのために尽くしてくれる者はいないのよ」
「ふむ、なら、そうしようか。あんたが、俺の満足できる答えをくれるならな」
 エーヴァンジェリーンが溜め息をつく。
 憤りとも、諦めとも取れぬ、複雑な呼気だった。
「あなたがあの方を歪め、変えてしまったからよ」
「あの方? ああ、レイか?」
「その呼び方、忌々しいわ。まるであの方があなたのものになってしまったよう。――あなたのような人間には想像もつかないでしょう、わたくしたちがレーヴェリヒトさまをどれほどお慕いしているか」
「どっちかというとあんまり想像したくない。鬱陶しすぎて」
「リィンクローヴァの中枢部を担う同年代にとって、あの方は太陽や光と同等の貴い存在よ。あの美しいお姿も、まつりごとに向かわれるあの姿勢も、戦場にあっては無敗の象徴とも言えるあの武の腕前も、何もかもがまぶしいほどの方。お優しくて賢明で、なにごとにもまっすぐな、レーヴェリヒトさまを愛さない者などいないでしょう、この国には」
「まぁ、確かに好かれやすい性質ではあるな」
「わたくしもそのひとり。あの方のことを心からお慕いしているわ。もしも黒に黄金の加護色を持って生まれて来なかったら、レーヴェリヒトさまのお妃にだってなれたかもしれない」
「ああ、ってことはエーポス家直系の姫か、あんた」
「そうよ。だから、あの方に嫁ぐには相応しい血筋なのよ」
「血筋云々は俺には何の関係もないが、別に、結婚したければ申し込んでみればいいだろうが。受け入れるかどうかはレイ次第だろうがな」
「巫女姫は一生涯を独り身でいる義務があるの。浄化の力を常に純粋に保たなくてはならないのよ。それはどこの神殿でも同じ。だから、巫女姫である限り、わたくしは決してあの方に嫁ぐことは出来ない。願いを口にすることすら許されないわ」
「何だそりゃ。自分の気持ちの問題だろうが、そんなもの。――しかし、つまるところあれか、俺は嫉妬の所為で殴られそうになったのか。ろくでもない話だな」
「否定はしないわ。レーヴェリヒトさまを特別の愛称で呼び、隣にあることを許されたのが、何もないあなただなんて、腹を立てる以外にどうしろというの。でも、それだけじゃない」
「……どうしろとか言われても困るというか逆切れでもするしかないんだが、こっちも。その、それだけじゃないってのは、もう少しまともな理由なんだろうな?」
 飛鳥は胸中に呆れの息を吐きながら先を促した。
 夜会前にノーヴァが言っていたことは概ね真実であり、国王陛下ファンクラブと貴族たちを称した飛鳥の言葉は間違っていなかったということだろう。別に国王陛下の寵を競おうなどと思っているわけではない飛鳥には迷惑極まりない話だが。
 エーヴァンジェリーンが漆黒の双眸に紛れもない嫉妬の色を浮かべて飛鳥をなじる。
「彼は王よ。それも、歴代の中でも特別に優れた善き王。何よりも貴く、何よりも優れ、そして誰よりも高みにいなくてはならない方なの。それでこその王でしょう。レーヴェリヒトさまを愛するわたくしたちのすべてが、あの方が王の中の王であらせられることを願っているわ」
「ふん?」
「――それなのに、今のレーヴェリヒトさまはどう? 貴い加護の持ち主とはいえ、後ろ盾ひとつ持たない子どもに夢中になって。今までの彼にこんなことはなかった。だとしたら、それはすべてあなたの所為ということでしょう。そう思っているのはわたくしだけじゃないわ、きっとこの先、あなたを憎み、敵視する者が何人も現れることでしょう。それがあの方を歪め、変えてしまった罪であり罰よ。覚悟するといいわ」
 虚勢のような、優越感のような、憎悪のような、憧憬のような、そんな微妙で複雑な表情とともにエーヴァンジェリーンが感情を吐き出す。叩きつけると言っていい。
「……なるほど、それが理由かクソども」
 エーヴァンジェリーンの言葉に、飛鳥は目を厳しくすがめた。
 自分がこの先、貴族の馬鹿どもから小うるさいくちばしを受け続けるなどと言うことは、飛鳥にとってどうでもいい瑣事に過ぎない。来れば来ただけ、粉微塵に叩きのめすのみだ。
 彼が怒りをあらわにしたのは、そんなことの所為ではなかった。
 飛鳥の双眸が――声音が険を含んだことに気づいたのだろう、エーヴァンジェリーンがまた一歩下がる。
 ――軍族にひざまずかれて困った顔をしていたレーヴェリヒトの姿が脳裏に浮かぶ。
 飛鳥のことを初めての友達と呼び、それを心の底から喜び、正体も出身地もここにいる目的もはっきりしないという不審極まりない飛鳥に何の疑いも抱かず、ただただ開けっ広げに深い信頼を寄せるレーヴェリヒト。
 貴くはあるが王族ではない母を持ち、優れた王となってもなお、懸命に国のために尽くしてもなお、純血ではないがゆえに幾つもの誹謗中傷とともにあるお人好し。
 彼の望みは、ただ、飛鳥のような構えなくていい相手が傍にいることだけなのに、彼の周囲の人間は、それを理解するどころか、彼を自分たちの都合で神聖視し、彼をますます孤独に追いやろうとしているのだ。
 ――国王陛下はそうでなくてはならないなどという、自分勝手な、レーヴェリヒトの心を無視した理由で。
「――――恐ろしいほど身勝手で、怠惰で、傲慢で、醜悪で、滑稽な言い草だな。いっそ清々しいほどだ」
 だから、飛鳥の言葉が氷をはらんだのも、当然のことだった。
 凍てつくような侮蔑と怒りとを含んだ厳しいそれに、エーヴァンジェリーンが鼻白む。
 剣幕に気圧されてか、返る声は先刻と打って変わって弱かった。
「血筋の美しくない、下賎の身で、偉そうに……」
「はっ、なら、それをレイの目の前で言ってみろよ。あいつの母上が何者だったか、あんたは知ってるんだろう?」
「……っ、それは、」
「あんたらの言うことは矛盾だらけで笑える。結局、血だ財だ地位だはどうでもいいんだ、一番大事なことはそんな即物的なところにはない。レイだってそうだろうさ、でなきゃ俺と友達になろうなんて思うもんか」
「……」
「まったく、貴族とか貴人ってヤツらはどうしてこうも無神経で不粋で不細工なんだろうな。人間として自分の貴さを理解することは大事だが、度を越せば単に醜悪なだけだ」
 胸中の苛立ちを強い口調で吐き棄てると、飛鳥は手にしていた棒をぽいと放り投げ、そして籐編みのかごから自分の衣装を引っ張り出すと、それを肩に引っ掛けて踵を返した。
 エーヴァンジェリーンから訝しげな声がかかる。
「――――どこへ行くの」
「帰る」
「浄化はどうするつもり? 言っておくけれど、わたくし以上に浄化術の使える者などこの国には存在しないわよ。《死片》の毒がどれだけ恐ろしいか知らないの?」
「下衆に頼って生き延びるくらいなら、明日にでも、自分の意志で死んだ方がマシだ」
 返す言葉は、潔いというよりも取りつく島もない。
 これまで下衆などという表現をされたことがなかったのだろう、エーヴァンジェリーンが絶句し、怯むのが判った。
「……邪魔したな」
 それだけ言って、飛鳥は、元来た道を悠然と戻る。
 黒擁石の廊下は彼を妨げず、むしろその覚悟と心根を喜ぶかのようにきらきらとやわらかく光った。
 しかし、正直なところ、飛鳥は、自分の身体が浄化などというものを必要としているようには思えなかったのだ。
 身体はどこまでも強靭な力に満ちあふれていて、精神には一片の曇りもなく、思考は淡々と静かでクリアだ。自分の身体のどこにも、飛鳥は、リィンクローヴァ人たちが言う『毒』の存在を感じることが出来なかった。
 そして、彼のそういう感覚は、これまで、彼を裏切ったことがない。
「……まぁいい、金村と圓東を探して飯を食いに行こう。さすがに腹減った」

 ――暢気に過ぎる言葉を吐いて、神殿深部を後にした飛鳥は、知らない。
 呆然と飛鳥を見送るエーヴァンジェリーンの傍らにあった漆黒のモニュメントが、彼が姿を消すや否や神々しい――どこか喜ばしさをはらんだ光を放ち、その光で部屋を隅々まで照らし出したことを。
 その光に絶句し、畏怖と嫉妬と憧憬とを漆黒の双眸に宿してモニュメントを見つめたエーヴァンジェリーンが、
「やはり……彼が黒の御使いなのね、黒神晶がこうまで輝くということは。では、いずれ、そう遠くない未来にリィンクローヴァは世界の覇者となり、御使いに友と呼ばれるレーヴェリヒトさまこそが、この乱世を終わらせる英雄となられるのだわ……」
 祈りすら込めて、そうつぶやいたことを。