――誰かの声が聞こえた気がして、金村勇仁はふと立ち止まり、周囲を見渡した。
 しかし、辺りに人の姿はない。
「……空耳か」
 勇仁は首を傾げてつぶやくと、そのまま『散歩』を再開する。
 あてどなくと言うのがもっとも相応しい気ままさで、広大と言って過言ではない神殿の敷地内を歩いているときのことだった。
 特に行くべきところがあるでなしするべきことがあるでなし、彼の若が戻ってくるまで時間が潰せればいいだけのことなので、歴史的建造物を観ているだけで日が暮れる勇仁にとっては、ここはひどく都合のよいところだった。
 何せ彼は暇さえあれば(勇仁がヤクザ稼業で不満に思うのは、一般企業のように、有給休暇や長期の休みが取れないことだ)日本各地の遺跡や寺社巡りをしていたほどの日本史好きであり、学生時代は世界遺産目当てで海外にも出かけていたような歴史好きなのだ。
 ――顔に似合わない、と常々周囲から言われていたことは彼の預かり知らないところではあるが。
 神殿本体のフォルムは少々現代的だが、それ以外の建物、たとえばちょっとした休憩所や兵士の詰め所、それから花や布や色とりどりの菓子で埋められた祠のようなものなどには、繊細で佳麗な、近世ヨーロッパを彷彿とさせる彫刻や装飾がなされていて興味深い。
 道行く人々は、衣装が多様なため、中世から近世の西洋的かと思うと時には古代ギリシアを思わせる。
 何か理由があって、地球のようには完全な文明・文化の移行がなされなかったのかもしれないが、しかし、彼らがまとった衣装や手にした道具、荷物、その身を飾る装飾品の類いが、地球という異世界が辿った歴史の変遷をなぞっていることは判る。
 文化、文明の収斂とでもいうのだろうか。
 人間というのは、どこの世界であっても――多少の差異はあっても、結局のところ同一の道を辿る生き物なのかもしれない。
「……まぁ、出来れば東洋的な文明の方が面白かったけどな……」
 などと口にしてみるものの、この、リィンクローヴァという国を内包した世界は、たとえ今が乱世という混乱の時代であるにしてもひどく色鮮やかで興味深く、何よりも清澄で美しかった。
 ここで一生を過ごすのだと言われても、特に動じる必要を感じない程度には、勇仁の心はこの世界に魅了されていた。
 無論、彼の若がこの世界に骨を埋める心積もりでいるのならば、という前提があるのも事実だが。
 不意に、また何かの声が聞こえた。
 ――ような、気がして、勇仁は立ち止まる。
 しかし、周囲には人の姿も、気配もない。
 何せ彼が今いるのは神殿の裏側辺り、そもそも人通りなどなきに均しいであろう場所なのだ。
「……何だ?」
 圓東とともに魔導師ハイリヒトゥームの『意思疎通の魔法』とやらの世話になっている勇仁は、基本的な言語はすべて理解出来る。
 そもそも偏差値の高い大学に通っていたうえに勤勉で旅行好きな彼は、英語と仏語、中国語をそこそこ使えるため、他言語というものにまったく不慣れではない。だから、まだ魔法の世話になる前から、この異世界の言語が、成り立ちそのものは地球のそれとはまったく違っても、そこに言語としての大系が存在していることを理解してはいたのだ。
 しかし、今聞こえた声は、どうにも妙だった。
 それは確かに何かを主張する音韻だったが、聞こえたそれをどんなに反芻してみても、その言葉の意味を理解することは出来なかった。
 何かに似ている、と一瞬考えた勇仁は、
「……あぁ」
 あるものに思い至って小さく首肯した。
 ――それは、嬰児(えいじ)の口にする喃語(なんご)の類いだ。
 まだはっきりとは意味をなさない、発声だけの……しかし、確かに何かしらの意志のこもった。
 かといって赤ん坊がいるようには思えず、それを抱いた人間の姿も見えず、再度首を傾げた勇仁だったが、
「――やめてください、……離して!」
 唐突に、今度ははっきりと聞き取れ、また意味を理解も出来る言葉が鋭く響いたので、瞬きをしてから声のした方向を見遣った。
 建物の影に邪魔されて姿は見えないが、声の主は、まだ若い女のようだ。
 足音がふたつ、聞こえた。
 歩幅や歩調から言って、ひとつは逃げていて、もうひとつは逃げる方を追いかけている。
 ややこしい色恋沙汰か何かあって、痴話喧嘩でもしているのかと、そういうのはどこの世界でも変わらねぇな、などと少々呆れつつ歩を進め、特に気負うでもなく建物の影をのぞきこんだ勇仁は、
「お前は本当に判らない女だな。何故この僕を拒む? 何ひとつとしてお前のためにはならないのに」
 居丈高な口調でそう言った男がもがく女の腕をつかみ、建物の壁際に追い詰めているのを観て眉をひそめた。
 男は恐らく三十代前半、身なりや顔立ちから言って相当な上流階級だ。貴族の……しかも十大公家に近しい、いわゆる高貴な血筋のものだろう。
 髪はこげ茶色、目は翠で、肌は滑らかに白く――少々生白い印象を受けるが――、顔立ちは高貴で美しかった。そして、辛い労働を知らぬ白く滑らかな手をしていた。
 しかし、彼は、全身から持てる者の傲慢さ、優越感と、持たぬ者への嘲りが滲み出ている所為でひどく冷たく見え、お世辞にも友人づきあいをしたいとは思えないタイプの男だった。
 女は二十代前半から半ばといったところだろう。
 この神殿の女官もしくは神官のようだった。
 キリスト教が浸透していたために男尊女卑社会だった地球の中世・近世ヨーロッパとは違い、ここはほとんど男女同権だ。男神と女神とが同等の位置づけで存在するからだろう。
 そのため、女性でも普通に戦場に立つし、女性でも家督を継ぐ。
 リィンクローヴァには女王が十人以上いたらしい。
 無論、適性などといったものは当然のようにあり、どう頑張っても就けない職業というものは存在するが(男の舞姫や女の土方作業員、老人の飛脚や妊婦の戦士が決して一般的ではないのもそういうことだろう)、それでも、実力さえあればという前提はつくものの、男だから女だから戦えない、家を継げない、といった不便は、地球に比べると驚くほど少ない。
 まったくない、というわけでもないようだが。
 だから、この神殿内の服務に詳しくない勇仁には、彼女が女官なのか神官なのかの判断がつきかねたのだが、それでも女が決して低い地位にはいないことだけは判った。
 衣装が、彼の若を迎えに来た男たち同様、派手ではないが鮮やかで美しかったからだ。
 そして女もまた美しかった。
 髪は濃い金茶、目は夏空のように澄んだ青だった。
 すらりと背が高く、身体つきは華奢で、背筋はピンと伸びていた。知的で凛々しい印象を与える女だった。
 事実彼女は、体格でも、恐らく家柄や権力でも優る相手を前に、少しも怯んではいなかった。
「判らないと仰るあなたこそが私には判りません。意に染まぬ女を力で無理やりものにすることが、高貴な血筋の方の流儀なのですか」
 腕をつかまれ、追い詰められながらも、女の口調は理知的で、そして厳しかった。その気迫に勇仁は感心すらする。
 しかし、貴族には精神的不感症の人間が多いのか、男は激しい非難を含んだその言葉にも堪えた風もなく、にやりと笑うと、美しい青の双眸を怒りで染めた女を壁に押し付けるようにして、その華奢で白い首筋に顔を寄せた。
「やめてください! 何度も申し上げたはずです、私はあなたのものにはならない、なれないと!」
「そう思ったところでお前に何が出来る? お前の家族は、友人は、僕にあくまで逆らってまでお前を守ろうとしてくれるのか? なら……僕も、少しは考えなくてはならないか」
「彼らに何の関係があるというのですか!? なんて身勝手な方!」
「はは、詰る言葉も、美しい女が言うと音楽のようだ。お前には笑顔も怒りも、どちらともよく似合う」
「少しは人の話を聞いてください……っ」
「聞いているじゃないか、ほら、こうやって」
「――――惚れた腫れたを部外者が云々するのも不粋な話だが、とりあえず嫌がってるみてぇだからやめてやったらどうだ?」
「うわああぁっ!?」
 勇仁としては、別に驚かせようと思ったわけでも何でもなく、無理強いはやめろと、女のそれが気を惹くための演技なのだとしたら、もめるならもめるでこんなところでやるなと言いたかっただけだったのだ。
 しかし、彼の若、雪城飛鳥ほどではないが、常日頃から気配のない勇仁が、(特に意識してではないが)そっとその背後に近づき、唐突にそう声をかけたもので、女の身体に顔をすり寄せるようにしていた男がみっともないほど狼狽した悲鳴を上げ、彼女から飛び退いた。
 息を整えてから背後を振り返り、勇仁の姿を確認するや、男の顔に毒々しい怒りが差す。
「――誰だ、お前は。この僕の邪魔をするなんて、いい度胸じゃないか」
「この僕だの誰だのと言われても困るんだが、そういう濡れ場はもっと人気のないところでやってくれ。目のやり場に困る」
「戯言を! ん、お前……もしかして、」
「ん?」
「黒の加護持ちの眷族とかいうヤツか。レヴィ陛下の客分の」
「まぁ、そういうことになってるらしいが、よく判ったな」
「僕たちの間ではちょっとした噂になってるからな」
「ほう?」
「――持つものといえば色だけの、血も財も身分もない下賎の身で、よくもまぁあそこまでレヴィ陛下に取り入ったものだ、とな。まったく……レヴィ陛下もお人のいい」
「…………そりゃ、若のことか?」
「ふん、それ以外に誰がい、……ッッ!?」
 勇仁の行動は実に迅速だった。
 若を――飛鳥を侮辱されたと感じた瞬間、するりと男の間合いに入り込み、その横っ面を一撃したのだ。
 恐ろしく手馴れた、滑らかで躊躇いのない動きであり、一撃だった。
 表情ひとつ変わっていないのは、ただ単に彼の顔面の筋肉が強情なだけで、内心では深い怒りを感じている。そうでなくては、外面こそ怖いものの中身は温厚でのんびりした(鈍い、とも言う)彼が、そこまで強硬な態度に出るはずがないのだ。
 それでもそれなりに加減はした勇仁だったが、生白い顔の語るとおり、軍族の出ではないらしく、勇仁がガツッという手応えを感じると同時に、男は情けない悲鳴とともに弾き飛ばされ、よろよろとよろけて引っ繰り返った。
 自由になった時の姿のまま硬直していた女が、ふんと鼻を鳴らして男を見下ろす勇仁を、何か得体の知れないものを観る目で観ていた。
 男は地面に引っ繰り返ってしばらくの間、涙声で何やら呻いていたが、やがて勇仁に殴られた横っ面を押さえて立ち上がり、怨嗟を込めた目で彼を睨みつけた。
 身体つきが貧相なうえ、涙目なので、威厳や迫力などというものは皆無だ。外見が美しい分、ますます締まらない。
「お前……この僕を! 十大公家の一員たる、ズィンロース・タルベ・エーポスに手を挙げるなんて、その意味が判っているのか!?」
「誰であろうと、若の敵なら俺の敵だ。下僕が主人を侮辱されて黙ったままでいるなんざ、まったくもって無意味だろうが?」
「僕は貴族だぞ!? 貴族が、下賎のものをどう扱い何を言おうが、お前たちにどうこう言われる筋合いはない!」
「ああ、そりゃあつまり、貴族であることにしか拠りどころを持たねぇってことだな? ちょっと嗤えるくらいみっともねぇ話だな、それも」
「な、何だと……!?」
「てめぇ自身に誇れるもんがありゃ、自分が貴族だから偉いなんていう、てめぇの手柄でもねぇ、そもそも威張る理由にもならねぇようなことで胸を張るような、頭の悪ぃ滑稽なことはしねぇだろうが?」
「吠えたな、下郎が! 名乗れ、そうまで言うからには、覚悟は出来ているんだろう!」
「俺は勇仁、金村勇仁だ。こっち風に言うならユージン・カネムラだな。だが……それで、どうしようってんだ?」
 この世界では珍しい(らしい)黒の目で、ズィンロースと訊かれもしないのに名乗った自己顕示欲の高い男を見据えると、気圧されたらしく男は一歩後退した。
 普段は無口な勇仁だが、一旦怒るとやたら口が回る。
 基本的に(顔にもしくは職に似合わず、とまたしても言われそうだが)学のある男なので、語彙は豊富だし使いどころもわきまえている。実は案外毒舌でもある。
 ただ、怒っている時以外にはそれがあまり反映されないだけのことだ。
 そして、彼が本気で怒ることは滅多にない。
 滅多にないだけに、日頃の彼をよく知る人々は、その怒りが根深く強いことを理解し、恐れてもいるのだ。
「どう、だと? 加護持ちの眷族だから、ふたつの加護色持ちだから何でも許されると思うなよ。お前のことはレヴィ陛下にもご報告しておくぞ、加護持ちの眷属に無礼を働かれたとな! 自分のために主人が叱責され、苦しい立場に置かれることを後悔するんだな!」
 ズィンロースがそう吐き捨てる。
 我が身に置き換えたのか、女が悲痛な顔をした。
 しかし、勇仁は、思わず笑っただけだった。
 何故そこで嗤われたのか判らなかったのだろう、ズィンロースが美しく整った眉をひそめる。
「……若が? レヴィ陛下が? 馬鹿か、てめぇは」
「なッ」
「レヴィ陛下が詳しい事情も聞かずに若を叱責するはずもなけりゃ、苦しい立場とやらに追いやるはずもねぇ。てめぇらみてぇな小物が百人いて、つまらねぇ小細工をしようとも、若は歯牙にもかけねぇだろうよ。てめぇの眼(まなこ)の曇りっぷりを棚に上げて、人に責任を転嫁しようとするもんじゃねぇ、ますますみっともなく見えるだけだぜ?」
「こ、この……!」
 普段の彼を知るものが見たら驚愕せずにはいられないような饒舌さでズィンロースを罵りつつ、勇仁はごくごく冷静に、赤くなったり青くなったり忙しい男を観察していた。
 権力という威光を笠に着て大きな態度を取るものは、彼が若頭とかいう職務を負ってヤクザ稼業に精を出していた頃にも数多くいた。篠崎組は決して小さくはなかったが、大きいわけでもなく、強い勢力に属する宙ぶらりんの馬鹿が、自分の力でもない権威を盾に、こういう態度を取ったものだ。
 こういう類いは、思い切り下手に出ておだててやり、陰で嗤って便利に使うか、もしくはそれ以上の強い力でぺしゃんこにしてやるのが一番いい。
 さてではこいつはどうしようか、と、再度ズィンロースを見遣った勇仁だったが、不意に、またあの喃語のような不可解な声が聞こえてきたので眉をひそめた。
 ――それは、ズィンロースの傍から聞こえてきたのだ。
 目を凝らすと、勇仁を睨みつけるズィンロースの周囲を、『何か』が取り巻いているのが判る。
 女が鮮やかな青の双眸を大きく見開いた。
 男の周囲を、熱気が渦巻いた。
 ――凶悪な意志を伴って。
 ズィンロースが何かを口中につぶやき、右手の人差し指と中指をそろえて印を切った。
 女が小さく悲鳴をあげる。
「やめてくださいズィンロース様! この神聖な場所で、いったい何をなさるおつもりですか……!?」
「退いていろ、イム。――イマー・リムアネヴァ。愛するお前の言葉なら聞いてやりたいが、こんな侮辱を受けて黙っていられるほど僕はお人好しじゃない。――骨も残さず焼き尽くしてやる」
「いけません、兄君がこのような場所で人殺しなんて、巫女姫さまが哀しまれます!」
「ああ……そうだな、エヴァには黙っておこう」
「そういう問題ではありません! お願い、やめてください、ゼーン様っ! ああ、そちらの方、早く逃げてください、せめて人通りのあるところまで! この方は上級五位の魔導師なの、人間のひとりやふたりなんて、何の苦労もなく、いなかったことにできてしまう力をお持ちなのよ……!」
 イム、イマーと呼ばれた女が、必死の眼差しでズィンロースを見、勇仁を見る。
 しかし、勇仁は微動だにしなかった。身動きひとつしなかったが、それは、出来なかったからではない。ただ、ズィンロースの周囲にある『何か』に釘付けになっていたのだ。
 ――先ほどまで喃語だったそれが、意味のある言葉をつぶやくようになっていた。
 ぼんやりとしたゆがみ、揺らぎのようなものでしかなかったそれらが、かたちを持ち始めていた。
 そして、それが聞こえ、また見えているのは、どうやら勇仁だけだった。
 途切れ途切れの単語でしかなかったが、さざなみのように繰り返される言葉は、勇仁に『何か』が何をしようとしているのかを報せたし、徐々にかたちをなしてゆく『何か』が、手の平ほどの大きさで、人とケモノの中間のような姿をしていることも理解できた。

 ――お呼び?
 ――お呼び。
 ――何を?
 ――何が?
 ――敵?
 ――倒す?
 ――火?
 ――焼く?
 ――焼く。
 ――火。
 ――熱。
 ――命令。

 それらは、さわさわと……きゃらきゃらと、どこか楽しげにズィンロースの周囲を飛び回り、彼の命を復唱していた。
 思い出したくもないが勇仁にはどうやら霊感とかいうものがあるらしく、過去に何度も気味の悪いものを見ているし、気味の悪い目にも遭っている。遺跡めぐりの最中、明らかに奈良時代と思しき衣装の、半分透けた女が泣いている姿を目にしたこともある。
 これは、もしかしたらその所為なのかも知れない。
 それと同時に、勇仁は、喃語もどきが聞こえるようになったのはこの神殿に入ってから、及び、自分の髪が完全に真紅へと変化したことを指摘されてからなのだということにも気づいていた。
「それが、魔法とかいうヤツか」
 自分の周囲を熱波が渦巻くようになっても、勇仁はあまり恐怖を感じなかった。
 そもそも鈍いというのもあるが、自分の周囲に何かをなしているのが、この声の持ち主なのだと理解しているからかもしれない。その『何か』たちは、勇仁の周囲を舞い踊りながら、火の粉まじりの熱気を発していた。
 魔法とは、この『何か』が、魔導師の命令に従って何かをなすことを言うものであるらしい。
 だとしたら、喃語が言葉になったのは、魔導師の命を受けることで存在が強まった所為なのかも知れない。確かなことなど何も言えないが。
「イム、危ないからこっちに来い。お前まで黒焦げになってしまったら、何の意味もなくなってしまう」
「やめてください、いやです、逃げて、お願いっ!」
 ズィンロースに腕をつかまれ、引っ張られながら女が叫んだが、勇仁はかすかに笑って首を横に振っただけだった。
 何故なら、彼の周囲を巡る『何か』が、

 ――でも。
 ――でも?
 ――このひと。
 ――眷族?
 ――申し子の。
 ――死?
 ――哀しむ?
 ――命令。
 ――死?
 ――申し子。
 ――フォウ様。
 ――主様も。
 ――哀しむ?
 ――哀しむ。

 そんなささやきを交わしていたからだ。
「すまねぇが……出来れば、退いてくれねぇか。まだ、仕事が残ってるんだ」
 勇仁が、そう、自分の周囲を舞い踊る『何か』に向けて、試しに声をかけてみると、
「何を言っている、下郎。今更後悔しても遅いぞ! まあもっとも、土下座して涙と鼻水を垂らしながら詫びるなら、手足の一本や二本で考えてやらなくもないがな!」
 ズィンロースからはそんな嘲笑が飛んだが、勇仁は彼を完全に無視した。
 それどころではなかったからだ。

 ――聞こえた。
 ――聞こえた。
 ――聞こえている?
 ――見えている?
 ――どうして。
 ――驚
 ――驚
 ――加護色?
 ――驚
 ――ふたつ。
 ――見えている。
 ――声。
 ――話した。
 ――死?
 ――嫌
 ――嫌
 ――話した。
 ――初めて?
 ――初めて。
 ――嬉
 ――喜
 ――喜
 ――楽

 それは確かに感情だった。
 勇仁の周囲を舞い踊っていた『何か』が、熱を放つのを止めた。
 『何か』たちは、その熱を、喜びという名のエネルギーに変えて更に舞い踊った。さわさわとさんざめきながら、くすくすと笑いながら、勇仁に戯れるように飛び回る。
 異変を感じ取ったらしく、ズィンロースが柳眉をひそめ、周囲を見渡す。
「……ど、ういう、ことだ」
 熱波は完全に消滅していた。
「何故だ、何故、魔力が消える。何故、精霊たちが、使役者たる魔導師の命を無視し、お前の言葉を聞き入れる……!」
 ズィンロースが狼狽した声をあげた。
 イマーもまた、青の双眸を驚愕に瞠(みは)り、勇仁を見つめている。
 彼の言葉で、勇仁はようやく、あの『何か』たちが精霊と呼ばれるスピリチュアルな存在なのだということを知ったが、名前など大した問題ではなかった。ただ、『何か』たちが、勇仁に対してひどく好意的だったことだけが重要であり、心に残った。
「……すまねぇ、感謝する」
 勇仁の静かな言葉に、『何か』たちはくすくすきゃらきゃらと笑って、彼の指先や髪や頬をくすぐり、また楽しげに笑って――名残惜しげにさんざめいてから、ゆっくりと空に解けて消えた。空が、虹とオーロラを混ぜ合わせたかのような色調で輝く。
 夢のように幻想的な光景だった。
 たとえそれが、勇仁にしか見えていないものなのだとしても。
「馬鹿な……こんな、ありえない! いかにお前が二つの加護色を持つとしても、魔導師でもない人間が、呪文も誓願もなしに精霊を使役するなんてことは……!」
 勇仁は肩をすくめた。
 彼にだって、理由など判らないのだ。
 狼狽するズィンロースにかけてやる明快な言葉など持ってはいない。
「てめぇの命があんまり馬鹿らしいってんで、精霊とやらが手加減してくれたんだろうさ。――それで、どうする、貴族のダンナ。どうやら魔法は、使いにくいみてぇだが。拳でやるか?」
「……くそっ」
 勇仁が拳を握ってみせると、ズィンロースは顔をゆがめて舌打ちをした。
 そして、
「ユージン・カネムラ。お前の顔と無礼、忘れないぞ」
 そう、テンプレートかセオリーのごとき捨て台詞を吐くと、踵を返して去って行った。傲然とした足取りだったが、頬の辺りを押さえたままなのが滑稽ではある。
 馬鹿馬鹿しいからさっさと忘れてくれ、などと思いつつ彼の背中を見送っていた勇仁に、
「あの。どうもありがとうございました」
 女が声をかけてきた。
「ことを大きくしただけのような気もするがな。ま、女を力尽くで、なんてみっともねぇ真似は、同じ男としてあんまり見たかねぇしな」
 肩をすくめた勇仁が言うと、女はかすかに頷き、笑った。
「あの方も、決して真実悪人ではないのですが、己になびかぬ女に執着するくせがおありなのです。本当に助かりました、ユージン・カネムラ、レーヴェリヒト陛下の客人たる方。ああ、申し遅れましたが、私、中央黒華神殿で巫女姫様付きの女官長をしておりますイマー・リムアネヴァと申します。あなたのご厚意に感謝いたします」
 きびきびした理知的な礼と名乗りは、華奢で美しいこの女をひどく強くみせた。事実、強い女なのだろうとも思う。
 勇仁は、儚げで可愛らしい、か弱い女よりも、こういう、さばさばとしてあまり女性的すぎない、凛々しい女の方が好きだ。
 色恋云々という意味ではなく。
「そりゃご丁寧に。ま、あのダンナの求愛が度を越すようなら陛下にでも直訴してくれ、悪いようにはなさらねぇだろ、あのお方なら」
「はい、そうですね。そうします」
 と、にっこりと笑って頷いたイマーが、かすかに首を傾げて、
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか?」
 そう言ったので、勇仁もまた小さく首を傾げてから頷いた。
「ああ、俺に答えられることならな」
「先ほどのことです。魔法をかき消した、あの」
「――あれか」
「私は二十年ばかりこの神殿におりますが、ああいった、呪文も契約も介さずに魔法を無効化するような力は今まで見たことがありません。あれは、何ですか?」
「いや、それが俺にも判らねぇ」
「え?」
「何だろうな、本当に」
「――――そうですか。でも、悪いものではないようでしたね」
「そうか?」
「はい。私はひとつだけですが加護色を持っていますから、他の方々より、ほんの少しだけ世界に近いのです。あの時、あなたを、とても喜ばしいものが包んでいましたね」
「――そうか。ああ、そりゃ、悪かねぇな」
「ええ」
 珍しく、本当に珍しくはっきりと笑うと、イマーもまた美しく笑った。
 本当のところ、真理が何であろうと、勇仁にとっては、その程度のことが判っていればそれでよかった。
 その不思議な邂逅が、勇仁の若に、不都合をもたらすものでないことさえ判ればいいのだ。
 金村勇仁とは、そういうものの考え方をする人間だった。