圓東鏡介は、ひどく満ち足りた気持ちで辺りを散策していた。
「……平和だなぁ……」
 さんさんと降り注ぐ太陽の、ほどよい熱が心地いい。
 ノーヴァに訊いたところ、今は初夏だという話だったが、この世界――もしかしたらこの国、この大陸だけかもしれないが――には日本のように梅雨が存在しないらしく、日本で言うところの六月七月の、あのじめじめとした気の狂いそうな蒸し暑さはなかった。
「いいとこだよなぁ、ここ」
 ふわ、と、大きな欠伸をしながらつぶやく。
 たかだか二十年しかない彼の人生の中で、住みやすい、居心地がいいと感じられたところは数少なかった。
 だからこそ、本来なら彼の人生において関わるはずもなかったヤクザの組事務所、行き場所がなければここにいろと言われた場所から、様々な危険と暴力にさらされつつも、五年もの時間を逃げ出すことも離れることもなく暮らしてこられたのだ。
 そう、生まれた瞬間から邪魔者、いてはいけない人間だった彼にとって、ごくごく自然に『そこにいること』を許してくれる、この世界はあまりに魅力的だった。
 ――口汚く罵り、時には拳に訴えもしつつ、結局のところ彼が傍にいることを許す、鏡介の『アニキ』の存在もまた。
 鏡介より三つも年下の『アニキ』、鋼か刃を彷彿とさせる硬くて鋭い少年に、わずか二週間という短い時間の中で、自分がすっかり依存してしまっていることを、難しい言葉は判らずとも、彼は自覚し理解していた。
 そして、それを恐ろしくも、心強くも思っていた。
「……アニキ、まだかな。そろそろ真剣に腹減ってきた。早く市場に行って何か食べたいなぁ……。一度戻った方がいいか……」
 一般人における普通程度の量の朝食を詰め込んではいた鏡介だが、彼の燃費の悪さは古巣の篠崎組でも話の種になっていたほどで、朝食から二時間ちょっとが経った現在、彼の身体は深刻な空腹を訴え始めていた。
 飛鳥たちと別れて小一時間、もうそろそろ帰って来るんじゃないかと、神殿前の広場へ戻ろうとした鏡介だったが、
「……あれ?」
 後ろを振り返り、前方を見晴るかし、左右を確認しても、
「ここ、どこだっけ……?」
 自分がどちらから来たのか、まったく判らなくなっていた。
 途方に暮れて周囲を見渡すも、似たような造りの、倉庫や休憩所らしき建物が目に入るばかりで、どちらへ行けば神殿前へ出られるのかはさっぱり判らなかった。
 空と空気と建物が綺麗で、それが楽しくて、遠くまで来すぎたのだ。
 あの、特徴的で巨大な、神殿本体がどこにも見えない。
 今、彼の周囲にあるのは、太い樹木とベンチ、砂利道ばかりだった。
 はしゃぎすぎて迷子になるなよ、探しに行かないぞ、と、別れ際に告げた飛鳥の顔が思い浮かぶ。
「……うわ、どうしよ」
 きっと彼の『アニキ』は、口ではそう言いつつも、最終的には鏡介を探してくれるだろう。見つけてもらえた瞬間ぶん殴られるかもしれないが、それでも、『アニキ』は鏡介を見棄てはしないだろう。
 付き合いが始まってたかだか二週間、たかだかそれだけの時間で、鏡介はあの漆黒の少年が、信ずるに足る人間であることを理解していたし、彼と身近に付き合えば誰もが理解できるだろうとも思う。
 それだけに、あまり迷惑をかけたくもなく、どうやって戻ろうかと思案した鏡介は、
「……誰かに訊こう。うん、それが一番手っ取り早い」
 楽観的につぶやいて、通行人を探すために歩き出した。
 人跡未踏の山奥でなし、誰かいるだろうと思ったのだ。
 ――が。
「なに、ここ、廃墟かなんか……?」
 十分ばかりうろうろしても、誰にも出会わない。
 それどころか、まるで生きた存在など何ひとつとして存在しないかのように、辺りは物音ひとつなく静まり返っている。
 鏡介は『アニキ』や保護者である金村勇仁のように、人の気配を探るなどという芸当は出来ないので、目に見えない耳に聞こえない何かを頼りに、人通りの多い場所を探し当てることは不可能だった。
「うわ、まず……どうしよ……」
 こういうときケータイが使えたらなぁ、地球っていうか日本ってホントに便利な世界だったんだなぁなどと嘆息し、再度ぐるりと周囲を見渡した鏡介の目に、お寺や日本庭園の中にあるような休憩所、飛鳥や勇仁ならば四阿(あずまや)と称したであろう建物が目に入った。
 屋根と柱とベンチと机、ゲミュートリヒの庭園グーテドゥフトで見かけた休憩所と同じようなそれは、周囲をうろうろした十数分間で他にもいくつか見かけていたが、それが他と決定的に違ったのは、そこに人が腰かけていたということだった。
 鏡介に背を向けるかたちで座っているので顔や年齢は判らないが、遠目にも、その人ががっしりした身体つきと男性であることは見て取れた。
 息を殺して近寄ってみると、バンダナのような布で頭を覆っているが、そこからわずかにこぼれる髪は、茶色がかった灰色だ。
 『彼』は、視線を下に落としたまま身動きもしない。
 素性の知れない男が、人通りのない場所でうつむいているのだ、せっかく出会えた『人間』ではあったが、別の手近な樹木の影に隠れたまま、鏡介は声をかけることを躊躇した。
 想像したくもないが、『彼』がお尋ね者だったとして、ここで襲われたら鏡介には逃げ延びるすべすらない。
 腹は減ったしそろそろ戻らないと真剣にまずいしで、泣きたい気持ちにすらなった鏡介だったが、不意に、
「……そこの。ワシになんか用かい」
 しわがれた、明らかに自分に向けてのものと判る声とともに、スイと立ち上がった男がこちらを振り向いたので、鏡介は思わず腰を抜かしそうになったほど驚いた。
 悲鳴をあげなかっただけマシかもしれない。
 鏡介が隠れていたそこは、完全に背を向けていた男が察せられる位置にはなかったのだ。
「取って喰やァせん、出て来ィ」
 特徴的な物言いとともに再度呼ばわられ、恐る恐る樹の影から顔を出し、男を見遣った鏡介は、彼を目にするや硬直した。
 ――知った顔ではなかった。
 茶色がかった灰色の髪と同じ色の髭、よく日焼けした肌と、ゴツゴツした手。
 そして、ハッとするほど鮮やかな真紅の目。
 双子異形の片割れと同じ、この世界で言うところの加護色を持つ男だった。
 背は勇仁より少し低いくらいだろうが、がっしりした身体つきのお陰で勇仁よりも大柄に見える。
 年の頃は六十代から七十代だろうと思う。
 一般的に言うところの、老人というヤツだった。
 顔にも手足にも首筋にも、彼が年を経てきた証しのように皺が刻まれていたが、よくなめされた革製品を思わせる、張りと光沢のある肌のお陰で、現代日本の、下手な――ひょろひょろとして見てくれにしか興味のない、中も外も軟弱な若者よりよほど健康そうにも、頑丈そうにも見える男だった。
「どォした、坊」
 訝しげに首を傾げた男が、鏡介に近づいてきて、彼はますます硬直する。
「ご……」
「ご?」
 咄嗟に、ほぼ無意識に、まるで条件反射のように口をついて出そうになったのは、「ごめんなさい」、だった。
 そのまましゃがみこんで、頭を抱えて丸くなってしまいたくなる。
 ――――鏡介は老人が怖かった。
 目の前の男が、ではない。
 年老いた人間全体が怖かったのだ。
 この世界に来てからもそれは変わっておらず、男でも女でも、六十代以降の人間は皆、鏡介にとって恐怖の対象だった。
 理由など、判りすぎるほど判っている。
 昔、とある老夫婦から、彼が老人を恐怖するに至る、十分すぎる仕打ちを受けたからだ。
 今でもその傷痕のいくつかは彼の身体に残っているし、目に見えない大きな傷、肉体のそれを凌駕するものが、彼の精神には刻まれている。
 ゲミュートリヒでもアインマールでも、老人の姿を目にしなかったわけではなかったが、それはただ、いつも傍に飛鳥か勇仁がいたお陰で特に気にせずにいられただけで、こうして一対一で面と向かい合うのは苦痛と恐怖以外のなにものでもなかった。
 唯一の例外は先代の篠崎組組長で、鏡介は彼のことがとても好きだったが、組長はもう死んでしまった。
「――どォした、坊。迷ゥたか」
 どうしたらいいか判らなくなって、樹の幹に張り付いたまま固まっていた鏡介だったが、大股で彼に近づいてきた男が、
「あァ、怖がらんでもエエ。こんな小汚い恰好をしとるがナ、ワシゃ賊とは違うからの」
 そう言って笑い、大きくてゴツゴツした手で、生まれつきの色からすっかり変化してしまった鏡介の頭をがしがしと撫でたので、大きく目を瞠(みは)って彼を見上げた。
「だ……」
「だ? あァ、誰、か? そうよナ、バドとでも呼びゃァええわ。この近辺に住まう細工師じゃ。ヌシゃ、名をなんと言う?」
「う、え、あ……」
 驚愕と恐怖感から舌が強張って巧く言葉が出て来ず、怒られるんじゃないかと焦る鏡介の頭を、バドと名乗った老人がまたかき混ぜる。
 鮮やかな真紅の目がやわらかく細められ、そこに確かな慈愛を感じ取って、鏡介は少し落ち着いた。
「お……おれ、鏡介。圓東鏡介。ええと……こっち風に言うと、キョウスケ・エンドウ、かな……」
「キョウスケか。珍しい名だの。……おォ、そうか、その目、ヌシゃ黒の加護持ちの眷族とかいうヤツか」
「あ、う、うん」
「そうか、まっこと椿事よナ。これでリィンクローヴァの平和も護られよう。して、その眷族が何ゆえここにおる?」
「あ、えっと、その……ご、ごめ……」
「はは、謝らんでもよいわナ。ヌシをどうにかして困らせてやろうなんぞとは、思ゥておらんでの」
 言って頭を撫でる、バド老人の手と声は温かい。
 あの老夫婦とは違うのだ、と、魂の根っこの部分がようやく納得し、鏡介は深呼吸をひとつして老人を見上げた。彼が悪人ではないことが判明した以上、当初の目的を遂行しないわけには行かない。
「えと、あの、バドさん」
「バドでエエぞ」
「でもホラ、人生のセンパイだし」
「ならバド爺(じい)とでも呼びゃァエエ」
「バド爺ちゃん?」
「おォ、そりゃァエエわ。で、どォした、キース」
「キョウスケだよ」
「そうか。ちぃっと言い辛いのォ」
「……じゃあ、キースでもいいや。その響き、なんかカッコいいし。えと、あのさ、おれ神殿前の広場に戻りたいんだけど、どう行ったらいい? ぶらぶらしてたら迷っちゃって」
 どうにか通常の状態に戻った鏡介がそう尋ねると、バドはフムと頷いて、
「そりゃァずいぶん遠くまで来たナ。神殿前広場は、ここをまっすぐ、二十分ばかり行ったところにある。ほぼ一直線ゆえナ、迷いはすまいよ」
 そう、東の方向を指差した。
「そっか。よかった、これで戻れる。ありがとう、バド爺ちゃん」
 安堵とともに礼を言った鏡介だったが、笑って首を横に振ったバドの手から木片がはみ出ていること、そしてそれが何かの細工であることに気づくや、思わず彼の手元を覗き込んだ。
 手指の仕事が大好きな、技術屋の宿命かもしれない。
「それ……根付(ねつけ)?」
「ほう、判るかい。最近じゃァ廃(すた)れてきたがナ、昔ゃ荷から小物が落ちんよォにこいつで留めてたもんだ」
「見せてもらってもいい? おれ、こういう細かい手仕事、すっごい好き」
「おォ、そりゃァ嬉しいナ、見てやってくれ」
 破顔したバドが、鏡介の手の平に細工物を落とす。三cmから五cmの細工物が三つ、鏡介の手の中に転がった。
 鏡介はまるでガラスでも扱うかのように細工物をそっと掲げ持ち、まじまじと見つめて思わず溜め息をついた。
 それは、柘植(つげ)の木(もしくはそれに似た材質の木材)を使って作られた、鷹と狼と百合の花を模した留め具だった。
 その精緻さ、正確さといったら、サイズが同じで色をつけたら誰も木造とは思わないのではないかとすら思うほどだ。それほどリアルで、活き活きとした細工だった。
 バドの、情熱と愛情と心配りとが見て取れる。
「すごい。なんか、ホントに生きてそう、この鳥」
「ほ、そりゃァ嬉しいことを言うてくれる」
「バド爺ちゃん、何かするつもりでここにこれ持って来たの?」
「いやなに、次の作品の図案をナ、考えようと思ってナ。何か具体的な実物があった方が、思い浮かびやすいのでナ」
「へえ。やっぱ、世の中にはまだまだすごい人がいるんだなぁ。おれももっと頑張らないと」
「フム、つまりヌシゃ細工師か」
「んー、技術屋。……に、なれたらいいなぁって思ってるとこ。作ったり直したりするのが好きなんだよね」
「そゥか。おォ、なら、一度ワシの工房へ遊びに来ィ。ワシも、ヌシの腕前に興味がある」
「や、そんな大したもんじゃ……」
「なに、ようはもう一度会って話がしたいというだけのことよ。茶と菓子くらいは出してやるからナ、いつでも来ィや。ワシの工房はこの道を西へまっすぐ入った突き当たりだ」
「本当に行ってもいい?」
「当然だ。己で招いておいて帰れなんぞと言うほど奇ッ怪なことはせんよ」
「…………うん。じゃあ、また遊びに行く」
 ――それは多分、鏡介が抱えるトラウマを知る、例えば勇仁辺りが聴いたら大いに驚くようなことだったが、鏡介は、このバドという老人を好きになりかけていた。年老いた人間に恐怖する自分の根本を踏み越えてでも、彼ともう一度話がしたいと思い始めていたのだ。
 たかだか十分間の出会いではあったが、飛鳥と同じく、この老人が決して自分を裏切りはしないだろうことを、鏡介は根本的に理解していた。
「おォ、楽しみにしておるでナ。そうだ、そいつも土産にくれてやろう、誰か好きな女子にでも贈るがエエわ」
「え、いいの? マジで? やった! じゃあ、アニキと金村のアニキにもあげようっと」
「おやおや、色気のないことだ。だがまァ、大切にしてもらえりゃァ誰の手元に行くのであっても嬉しいわナ」
「うん、大事にする。ありがと、爺ちゃん。じゃあまた。絶対に遊びに行くからな!」
「おォ、待っとるぞ。ではナ、気をつけて行けよ」
「うん、じゃあね。ありがと!」
 細工物を上着のポケットにそっと仕舞い、バド老人に何度も手を振ってから鏡介は走り出した。振り向くと、目を細めたバドが、鏡介と同じように何度も手を振っている。
「……怖い人ばっかじゃない、ん、だよな。うん、昔、金村のアニキが言った通りだ。…………――――よかった」
 言葉とともに心の底からの息を吐き、もう一度大きく手を振って、あとは振り返らず一直線に進んでゆく。
 飛鳥と勇仁に報告することが出来たな、などと思いながら。