ぽっかりと目を開き、周囲を見渡すと、開け放たれた窓の向こうに、深い深い青をたたえた空が広がっているのが見えた。
「……」
 ゆっくりと上体を起こした飛鳥は、ベッドの上に胡座をかくと、片手で顔を覆い、ひとつ溜め息をついた。
 夏の早朝の、さわやかで清々しい、ひんやりとした空気が、どこか芳しい薫風とともに部屋を――そして飛鳥の胸を満たす。
 窓の外に広がる一枚の風景画のような景色、ものごとへの執着の少ないはずの飛鳥が心の底から愛してやまず、王都アインマール滞在十二日目にして、すでになくてはならない光景となっている、いっそ神々しくすらあるそれを視界の片隅に見ながら、ぽつりとつぶやく。
「……しまったな」
 つぶやいて、ベッドから降りる。
 小さな欠伸が漏れた。
 昨日は――というより今日は、かもしれない――、遅くまで勉学に励んでいたのだ。
 それを目にした圓東が眩暈を起こしたという逸話を持つ、虫眼鏡がほしくなるほど細かい字で書かれた書物と格闘し、この世界の成り立ちが綴られた神話の類いと、この国の歴史が書き連ねられた史書をものすごい勢いで読み漁ったのだが、それらがあまりに興味深く、面白かった所為で、就寝時間が午前三時ごろになってしまった。
 太陽の位置や光の状態からして、今が午前六時を過ぎた辺りだから、大して眠れてはいない。
 もちろん、読書を数少ない趣味、娯楽と言い切る飛鳥にとって――呆れるほど強靭な肉体を持つ飛鳥にとって、多少の寝不足など、ごくごくどうでもいい、瑣末なことにすぎないが。
 着替えをしようと、無駄に大きい(というよりほとんど広大だ)クロゼットへ向かいつつ、飛鳥はまた独白する。
「……世界が歪むとはどういうことなのか、彼らがこの先永遠に出会えないと世界がどうなってしまうのか、もっときちんと訊いておけばよかった」
 ――――夢は、飛鳥の中に残っていた。
 ひとつも、欠けることなく。
 否、それが夢でないことは飛鳥にもよく判っていた。
 五色の青年たちと出会ったことのみならず、ソル=ダートと出会ったときのことも、五色の娘たちと出会ったときのことも、それらのすべてが、現世にある肉の器を通していないだけで、すべて事実なのだと言うことが。
 夢は魂の旅する先だという、エルヴァンディータの言葉が脳裏に翻(ひるがえ)る。
「どちらにせよ、また、なし崩しに会うことになる気はするが」
 五色の神々、男神と女神とが出会えぬがゆえに、この世界は歪み、深刻な不具合を抱えているのだという。
 寒々しい不毛の大地で出会った女神たちも、虚ろに鮮やかな天空で出会った男神たちも、自分たちが出会えないことが、その嘆きが、世界を壊し狂わせて行くのだと言っていた。
 彼らのその言葉に偽りはないだろう。
 その不具合がどんなものなのか、もう少し尋ねておきたかった気もするが、仕方がない。
「この世界の人間は、レイはこのことを知ってるんだろうか? ソル=ダートのことや、五色の双神のことを」
 漆黒のシャツに袖を通しつつ、飛鳥は右手の人差し指を見る。
 そこに輝く、光沢ある闇を観る。
 漆黒の青年、エルヴァンディータは、飛鳥のこれを界神晶と呼んだ。
 ソル=ダートが呼んだのと同じように。
「……すっかり忘れてたな。これのこともそろそろ調べないと」
 ここ十日間、ずっとバタバタしていたもので、今すぐに解決しなくてはならないわけでもない問題は、すべて棚上げされていたのだ。
 勉強の合間に調べてみよう、と、これから先の日程を脳裏に思い描きつつ胸中につぶやく。
 やはり、調べ物をするならアルディアの書庫に限る。
 そして、ゲミュートリヒ市領主宅へは、明日訪問することになっている。
「百科事典を観ろ、と、言っていたな……」
 独語とともにさっさと着替えを終え、城内を移動するときに使っているサンダルに足を突っ込んで、そろそろ鬱陶しくなってきた前髪をぐしゃぐしゃとかき上げたのち、飛鳥は階下へと降りる。
 彼らの居宅となっているこの一連の空間から物音がしないのは、恐らく、時に飛鳥より早起きの金村が城下へ朝の鍛錬とやらに出かけており、圓東が惰眠を貪っているからだろう。
 午前七時ごろになると、金村は一旦居宅へと帰って来る。それから、飛鳥が圓東のために組んだトレーニング・プログラムに合わせて、城下のなだらかな丘をジョギングする圓東に付き合うのだ。
 多忙で薄情な飛鳥がそれに付き合うことはなく、彼はトレーニング中の圓東の様子を知らないが、トレーニングを開始しておよそ十日、すぐに成果の表れる類いのものではないものの、金村によると、姿勢や心構えが少し変わってきたという。
「……まぁ、所詮はポチだ、端(はな)から戦闘力なんぞには期待してないしな。死なない程度に頑張ってくれればいい。――あれくらいのトレーニングで死ぬようならお先真っ暗だが」
 苛酷とまではいかないものの、そこそこハードなプログラムを組んだのは自分だということを思い切り棚にあげ、人でなしなことをつぶやきつつ、居宅となっている部屋を出る。
 そして、上の階へと向かう。
 無論、飛鳥以上に多忙な国王陛下に会いに行くためだ。
 国王の側近たるに相応しい技能と知識を蓄えるための学習に追われる――それは多分に楽しさを含んだ忙しさではあるのだが――飛鳥の、その仕える相手となるレーヴェリヒトは、色々あってここ数日多忙を極めており、一緒に夕食も摂れない日が多かったのだ。
 何せ、昨日飛鳥がレーヴェリヒトを目にしたのは、昼間のたった数十分、一緒に昼食を摂ったわずかな時間だけだ。それ以外は、あちこちへ移動しながら職務をこなしていたらしく、結局夕食時にも現れなかった。
 肌に合わない類いの職務なのか、大層げっそりした表情をしていたが、仕事に関しては驚くほど真摯なレーヴェリヒトは、そこでこんな仕事はしたくないと駄々をこねるようなことは出来ないだろう。
 王としての責務を果たすことは、彼にとってのアイデンティティの証明でもあり、純血であること以上に彼を王たらしめる事柄なのだ。
 おまけに、そこかしこで手を抜けるような、要領のいい人物でもない。
 そんなわけで、今日も恐らく激務から開放されまいと踏んだ飛鳥は、まだ政務の始まらない、早い時間に話をしにいこうと思ったのである。
 報告したいこともあるし、尋ねたいこともある。
 何より、義務や責務、仕事に関わらない、言葉遊びのような他愛のない話がしたいと、飛鳥自身が思っている。
 ――その感情を稀有だと思っている。
 広い廊下、流麗な手すりの向こう側に広がる光景、光と鮮やかな空気とを含んだ色彩豊かな街並の姿を視界の端にとどめつつ、上の階へ上がるための階段をのぼる。
 まちは少しずつ目覚め始めているようだった。
 広い公道に、ぱらぱらと人の姿が見える。
 空の向こう側を、青い鱗を輝かせた竜が横切るのが見えた。
 全長二十メートルは下るまいというそれは、巨大で強大でエネルギーに満ち満ちた、あまりにも美しい生き物だった。
 その周囲を、嘴の鋭い猛禽たちが、戯れるように舞い飛んでいる。
 飛鳥は、日々の営みという日常の中に、何の違和感もなく幻想の動物が溶け込んでいることを不思議に思い、また、それを受け入れて何の問題もないこの豊かな世界に驚嘆するのだ。
 色とりどりの街並の、あちこちの煙突から煙があがっているのは、女たちが朝餉(あさげ)の仕度をしているからだろうか。
「今日の朝飯は外で、だったな。レイは……まぁ、無理だろうが」
 飛鳥自身がフィアナ大通りの市(いち)を気に入ったこともあって、現在彼らの朝食は、奇数日が圓東、偶数日がフィアナ大通りの露店によって賄われていた。
 今日は、城下へ降りることになっている。
 野菜ならばそこそこの量を口に出来る飛鳥にとって、夏とは本当にいい季節だ。
 何せ、彼が一日に摂取できる総カロリーはおおよそ三百キロカロリー。
 どんなに多くとも五百キロカロリー程度なのである。
 その程度しか摂取出来ないのでは、当然、王宮での昼食・夕食を食べるにも差し障りが出るが、今のところ宮廷料理人たちが、わずかな量しか口にしない飛鳥に対して文句を言ったことはない。
 それは、ここ十日で飛鳥の性質を芯まで理解した料理人たちが、彼の奇妙な体質に気遣いを見せるのと同時に、そこで声高に料理人の論理を――飛鳥にはなかなか理解し辛い理念を――主張して彼を怒らせることは決して賢明ではないと思っているからかもしれない。
 それとも、もしくは、貧弱な身体つきからは想像もつかないような大喰らいの眷族が、飛鳥の分まで綺麗に平らげるからかもしれないし、その眷族が、宮廷料理人たちと妙に仲がいいからかもしれない。
「串焼き屋で焼き野菜を買って、麸(ふすま)のパンに挟んでもいいな」
 それでも、飛鳥が、食べる楽しみを少しずつ理解し始めているのは、間違いなく、このソル=ダートでの日々のお陰だった。
 食の、美味の、味覚の何たるかを完全には理解できていなくとも。
「薄焼きパンを、豆を煮たスープにつけて食うのも楽しそうだ。――ああ、帰りに壁掛けのいいのがあったら買って帰らないとな」
 他愛ない、日常めいたことを独語しつつ瀟洒な造りの階段を昇りきると、そこは城の最上部に近い階層だ。王族とそれに近しい者以外は踏み込むことすら赦されない。
 白い廊下を幾らも歩くと、目の前に、国王の居室が現れる。
 王族の住居となっている階層でありながら護衛官の姿すら見えないのは、賢者ハイリヒトゥームが、この階層に住まう者への害意を持った輩(やから)は一切近づけないという特殊な魔法を施しているからだという。
 そのため、廊下はひどく静かで、広々としている。
 ちなみに、広すぎる部屋では落ち着けないという、あまりに庶民じみた国王陛下のために、彼の部屋は美しく整えられてはいるが、飛鳥たちの居宅の半分くらいしかない。
 ――もっとも、狭い土地に慣れた日本人の感覚からすると、それでも十分すぎるほど広いのだが。
 レイはもう起きてるんだろうか、などと思いながら歩いていた飛鳥は、その居室の入口、月と太陽と桔梗(ききょう)に似た花が彫刻された流麗な扉の前に、金の髪の近衛騎士団長が佇んでいるのを見て首を傾げた。
 繊細でやわらかい美貌の、しかし熟練の戦士であることをうかがわせる立ち居振る舞いの青年は、困惑したと表現するのが相応しいだろう、今にも溜め息をつきそうな表情で、扉の彫刻を見上げている。
「難しい顔をして、どうした、近衛騎士団長閣下」
 飛鳥が何の気負いもなく声をかけると、淡い金の髪を美しく結い上げ、派手ではないが一目で高価だと判る衣装を身につけて、腰から細工の見事な長剣を下げた青年貴族は、その、流麗で、多分に女性的な顔に、大層嫌そうな表情を浮かべた。
 判りやすい男だとは思うが、自分より十歳も年上の、しかも国家の重鎮、大貴族たる人物が、ここまで表情豊かで――内面を隠すことができなくて――いいのだろうか、とも思う。
 もっとも、宰相家ゾイレリッタァの当主たるこの青年が、こうまで負の感情、有り体に言えば嫉妬や羨望をあらわにするのは飛鳥に対してのみなので、それはそれである種の人徳かもしれない。
 リーノエンヴェはきっと、そんな人徳は嫌だと声高に主張するだろうが。
「……おはようございます、加護持ち殿。レヴィ陛下に会いに来られたのですか?」
 ここで大人げのないやり取りをしても仕方がないと思ったのか、溜め息をひとつついたリーノエンヴェが、若々しく張りのある声で問うたので、飛鳥は小さく頷いた。
 リーノエンヴェの声は、姿かたち、動作のひとつひとつが現実味を欠いてすら感じられるレーヴェリヒトほどではないものの、どこか少年っぽい、やわらかで音楽的な美しさを持っていて、それのみを聞いて言うなら、飛鳥よりリーノエンヴェの方が年下に思えるだろうほどだ。
 飛鳥の声が、年齢から想像されるものより低い、というのもあるのだが。
「そういうあんたは国王陛下を起こしに来たのか、近衛騎士団長閣下」
「……あなたに言われるとどうも厭味に聞こえるので、出来ればその呼称はやめていただきたいのですが」
「聞こえるというかそのまんまだが。だったらあんたも名前で呼べよ。そうしたらちゃんと名前で呼んでやる」
「そんな、とんでもない。偉大で貴い黒の申し子を呼び捨てにするなんて、畏れ多いですから」
「そりゃどうもありがとう、お気遣いには痛み入るが、ふむ、だったら俺も、貴い血筋の、勇猛果敢な近衛騎士団長閣下を呼び捨てにするなんて畏れ多いことはせずにおくとしよう」
「……」
「そういうものだろう、なあ?」
 眉根を寄せ、渋面を作るリーノエンヴェへ、飛鳥がにやりと笑ってみせると、大貴族の青年はまた大仰な溜め息をひとつついた。
 やわらかな緑の目には、なんとも表現し難い、呆れもしくは諦観にも似た感情が揺れている。
「……判りました、アスカ」
「そうか、そりゃよかった。分不相応な敬意を払われると居たたまれなくなるからな。リーノエンヴェ・カイエ閣下の広いお心に驚嘆してやろう」
「まったく驚嘆していないでしょう、それは。……いや、もういいです、あなたにつきあっていたら日が暮れる」
「そういう論理で折れたな、今。まぁ、賢明だ」
「…………こんなろくでなしに私のレヴィがああまで心を砕いているかと思うと、世界の色んなものを呪いたくなりますね……」
「ろくでなしだが天才だからな。役には立つぞ」
「役に立つだけでレヴィに愛されるなら、彼はリィンクローヴァの人間の大半を愛さなくてはなりませんよ」
「まぁ、実際愛してるだろ、リィンクローヴァの人間全部。役に立つからって理由ではないだろうけどな。――というか、今すごい勢いで所有格がついてたな。突っ込むべきかどうか悩むところだが」
「二十年お仕えしているんですから、当然です」
「当然なのか、それ。空恐ろしい世界だな。……まあいい、それであんたは何故ここに突っ立ってるんだ? レイはまだ寝てるのか? 寝坊してるなら、鍵でも何でも使って入って叩き起こせばいいだろう」
 ようやく本来の目的を思い出した飛鳥がそう言うと、リーノエンヴェは顔をしかめた。
 レーヴェリヒトに対する飛鳥の物言いが不遜極まりなく、敬意もクソもないことには、レーヴェリヒト本人がそれを喜んでいる節(ふし)もあってかそろそろ慣れてきたようだが、飛鳥の、『彼の』レーヴェリヒトへの扱いがあまりに雑なことには納得出来ないらしい。
 この分では、携帯電話で国王陛下をいじめているシーンなど観られたら刃傷沙汰にすらなるかもしれない。
「可愛いレヴィにそんな非道を働けるはずがないでしょう」
「二十四歳の成人男子に可愛いという修飾語をつけるのはどうかと思う」
「私が言及して欲しいのはそこではありませんし。昨日だって夜中の一時ごろまで仕事に追われておられたんですよ。少しくらい休ませて差し上げたいと思うのは当然でしょう」
「それを言うなら、俺は三時ごろまで勉強に追われてたが」
「あなたが何時まで何に追われようと知ったことではありません」
「……うん、何と言うか、いっそ清々しいほどの国王陛下ファンクラブ会員だな。そこまで潔いと怒る気にもなれん」
「ふぁんくらぶ? 鳳凰草ですか?」
「そりゃあれだ、ファーンクロウブだろ。こないだ初めて観たが、綺麗な花だよな。……いや、だからな、それでレイがどうしたって? 鍵がないから入れずにいるのか? つーか、なんであんたと話してると、こう、ネタがどんどんそれて行くんだ。これも俺の人徳か?」
「そんな人徳認めません。……いえ、鍵は持っていますよ、もちろん。起こしに来たわけではなくて、様子を伺いに来ただけですから、別にいいんですけどね」
「俺はあいつに話があって来たんだが……」
「鍵は開けましたよ」
「なら何故中に入らない」
「入りたいんですが、入れないんです」
「あ?」
「いえね、どうも、向こう側から机か何かで扉を押さえているらしくて。多分、書き物用の机と鏡台と小物入れを三つばかり積み上げたんだと思うんですが、物理的に扉が開けられないんですよね。それで、どうしようかと思っていたところなんです」
「……何故障害物で扉を押さえる?」
「お疲れだからじゃないですか?」
「障害物を積み上げる方が疲れる気がするのは気の所為か……?」
「そこに関しては私も同感ですが。一年に三回くらい、あまりお疲れになるとああやって怠けられるんですよ。といっても、三時間ばかり寝坊される程度のことなので、それで職務が滞ったことはほとんどないんですけどね。時期や状況を選んで怠けられますし」
「真面目なのか気が小さいのか判らんな、それは。レイらしいと言えばらしいが。そうか、じゃあ、扉からは入れないんだな」
「ええ、そういうことです。無理やり押し入って扉を壊しても困りますから、レヴィのお目覚めを待ちます」
 リーノエンヴェの言葉に、飛鳥は腕組みをした。
 のんきなことだとは思うが、中世から近世の、しかもヨーロッパ圏に似た文化となるとそんなものなのかもしれない。
 この分だと、乱世などと言いつつ、祝祭日などには戦争をやめてお祭り騒ぎを始めそうだ。
 それはそれで悪くないとも思うが。
 何にせよ、今日も明日もあさっても、様々な学習、予定が目白押しな飛鳥としては、レーヴェリヒトの仕事がどこで一段落するかもよく判らないだけに、出来れば今のうちに話をしておきたい。
 さてではどうするかと思案していた飛鳥が、この部屋が自分たちの居宅の真上にあるということを思い出し、
「……そういや、バルコニーの窓はいつも開けてあったよな」
 そうつぶやくと、リーノエンヴェが首を傾げた。
「ええ、今の季節は風がとても気持ちがいいですから。賢者殿が魔法をかけてくださっていますし、邪(よこしま)な思いを持った者は近づけませんからね。それがどうかしたんですか?」
「……いや」
 生返事を返すと、飛鳥は踵を返した。
「アスカ?」
 ものすごく不思議そうなリーノエンヴェの声が背後から届いたが、聞こえなかったふりで階下へ降りる。
 そのまま居宅へと戻り、まだシンと静まりかえった部屋を横切って、外の景色、アインマールの街並が一望できる大きな窓から身を乗り出す。
 この窓から地面までは四十メートルといったところか、落ちれば間違いなく命を落とすだろう程度の高さがあったが、日頃からアクロバティックな生活に慣れきっている飛鳥は、怖いとも危ないとも思わず、白い外壁のわずかな突起に手をかけた。
 そして、そのまま、指先だけに全体重を預け、壁を登り始める。
 垂直に、何の道具も使わず。
「あー、まあ、サネザワカンパニーのビルをよじ登ったときよりは楽だな。あの時は爪が半分くらい剥がれたもんな……」
 この王城にどんな材質を使っているのかは、建築には明るくない飛鳥には判らなかったが、少なくとも何かの石を積み重ねて造られているようで、コンクリートでぴっちり平面的に固められたビルより格段に登り易い。
 無駄に筋力に満ち溢れた自分を、このときばかりは褒め称えてやりたい気分だ。
 もし誰かに見られていたらさぞかし珍妙もしくは怪しく映るだろうななどと思いつつ、壁の突起を探しながらゆっくりと――黙々と壁を登ること数分、頭上にバルコニーの底に当たる部分が現れたので、飛鳥はやれやれとひとつ息を吐いた。
 手を伸ばし、部屋から突き出たかたちになっているバルコニーの外壁へ移動すると、そのまま更によじ登り、やがて見えた手すりにつかまると、ひょいとバルコニー内部へ飛び移る。
 それほど距離がなかったというのもあるが、この間わずかに十分である。
 もしも彼が泥棒もしくは空き巣に転職するとしたら、そこそこの成果は上げられそうな迅速さだ。
 無論飛鳥は、窃盗などに手を染めるくらいなら、馬鹿な金持ちから合法的に金を毟(むし)り取る方が早いと思っているクチだが。
「うん、まぁ、こんなものだろう。まだまだ鈍(なま)ってない。さすが俺」
 妙な自画自賛をしつつ、開け放たれた開き戸から室内へ踏み込む。
 バルコニーはリビング(らしき場所)につながっているので、そこから寝室へと移動しようとした飛鳥は、リビングを出た途端目の前に広がった惨状に眉をひそめた。
 そこは正規の入口から続く、ちょっと広すぎる廊下のような空間だ。
 廊下のような、といいつつ、そこだけでワンルームマンション一室分くらいの広さがあるが。
 ドアの目の前には、リーノエンヴェが予想したとおりの品、黒檀と思しき樹で作られた立派なデスクと全長二メートルほどもある立派で流麗な鏡台、そしてそもそもは衣装小物を入れるためのものであるらしい小物入れ(というより小型の箪笥だ)が三つ、敵の侵入を防ぐバリケードばりの堅固さで積み上げられていた。
 デスクからこぼれ落ちた様々な文具や小物入れからこぼれた佩玉、マントを止めるためのブローチ、ベルトや袖飾りなどが散乱し、辺りは物盗りにでも遭ったかのような散らかりぶりだ。
「しかしこれ、誰が片付けるんだ……? なんか、部屋の掃除を受け持つ侍従が可哀相になるな」
 などと独白し、とりあえず寝室へ向かった飛鳥は、敷き詰められた絨毯、やわらかくふかふかとした、美しく織り上げられた、踏み心地も触り心地もいいそれの上に、明らかに持ち主が脱ぎ散らかしたと思しき衣装一式がばらまかれているのを観た時点で額を押さえた。
 すらりとしたこげ茶色の長靴(ちょうか)から始まったそれは、濃い緑のマント、袖や襟に流麗な刺繍がされた薄青のサーコート、灰色の半袖シャツ、ビーズ織りのカラフルなベルトに黒いズボン、そして二の腕半ばから手の甲を覆う手袋まで、この場で着替えが出来るほど全部揃っている。
 観たくなかったので目をそらしたが、手袋と一緒に放り投げられているアレは下着ではなかろうか。
 ちなみにこの世界における男性の下着は下帯である。慣れるまでは身につけにくいが、慣れてしまえばこんなものかという感想だ。
 この国のなのかこの世界のなのか、夏場だけなのかどうかも知らないが、飛鳥の身近なソル=ダート人、リィンクローヴァ人(男)は、夜着を身につけず全裸もしくは下帯のみで眠る場合が多いようなので、そこに関しては何で脱ぐんだと突っ込む気にもならないが、それでも、
「……なんだろう、今、わざわざウォールクライミングまでしてここへ来た自分にものすごく後悔してるような気がする……」
 飛鳥が壮絶に脱力したのは否定しようのない事実だった。