圓東鏡介は帰途を急いでいた。
今日は飛鳥や勇仁が出向いているゲミュートリヒ市で、あの優しい領主夫妻や美麗な騎士団長閣下と一緒に夕食を摂ることになっている。ふたりの直属騎士も席をともにするはずだ。
なにやら小難しい仕事が一段落したレーヴェリヒトも来ると聞いていたから、遅れたらきっと、外見からは想像もつかないほど気難しい飛鳥に小突き回されることだろう。
実は、実際には、そうやって過剰すぎるスキンシップにさらされることも、自分が確かにそこにいて、飛鳥に『存在』として認識され、また世界と交わっているのだという証しのように思え、鏡介には嫌ではなかったが、それを口に出すと飛鳥にこの世の果てまで引かれそうなので口外はしていない。
「やー、でも、今日も楽しかったなぁ……」
ざくざくと砂利を踏み締め、小道を急ぎながら鏡介はつぶやく。
今日は、アインマールの城下町に住まう細工師、驚くほど精緻で表情豊かな小物を魔法のように生み出すバド老人に、木彫(もくちょう)の巧いやり方を教えてもらってきたのだ。
バド老人の腕の確かさを目の当たりにするにつけ、自分の未熟さがありありと理解できた鏡介だが、それは、己が未熟さを嘆くよりも、『どうすれば巧くなれるか』という意識に直結した。
そしてバドは、鏡介のそんな願いに、いつでも明確な回答をくれる。
それは例えば彫刻用ナイフのちょっとした使い方であったり、仕上げのちょっとした工夫であったり、デッサンのやり方であったりしたが、そのどれもが理に叶い、正しかった。
「明日は何を教えてもらおう。おれもあんな根付とか作ってみたいな。あ、でも、アニキのマントを止めるブローチとかも作ってみたいかも。銀で作ったら、真っ黒な布にはきっとよくあうよね……」
目下のところ鏡介はバド老人に、彼と過ごす時間に夢中になっていた。毎日でも、一秒でも惜しんであの工房に入り浸っていたいと思うほどだった。
無論、老人が怖いという事実に、彼が受けてきた数多くの傷と、そのトラウマに変わりはない。
ただ、バドを老人というカテゴリでではなく、ただのバドとして接することが出来ているだけだ。バドから、鏡介を責め苛み、たくさんの痛みを強いた、あの醜い皺だらけの生き物と同じものを感じずにいるだけだ。
飛鳥や勇仁や王様、彼らを取り巻く過保護な面々と同等に、バドならば傍にいても安らげるというだけのことだ。
「うん……でも、ほんとラッキーだったよな、おれ」
今日の成果である、木彫の薔薇を手の中でもてあそびつつ鏡介は独語する。
直径八センチほどのそれは、精巧なデッサンと細やかな彫り込み、丁寧な仕上げという作業が加わったお陰で、以前の鏡介のものとは段違いの美しさ、完成度を見せていた。
あまりの差に、仕上がったとき、ちょっと感動したくらいだ。
もちろん、もっともっと巧くなってやる、という野望があるのも事実だ。このまま、この状態で留まろうとは思っていない。
作ることは、彼の魂の根本に根差した本能のようなものだった。作ることでしか、鏡介という人間は、その内面は発露されないのだった。鏡介はそれを、言葉ではなく理解している。
職業の希望を尋ねられ、迷わずバド老人のところで働きたいと答えたが、本当にそうなればいいと心の底から思う。
そんな風に、自分自身が得意な何かに一生懸命になることが許される、この環境に鏡介は感謝していた。
物心ついたときから望みもしない『勉強』を強いられ、不出来だった所為で様々に不条理な仕打ちを受けてきた鏡介にとって、この国、この環境、この人間関係は天国だった。
ここは、生まれて初めて得た、『いてもいい場所』だった。
「……これなら、きっと」
太い街路樹を縫うように、砂利の小道を抜けながら鏡介はつぶやく。
この世界では大変貴いものであるらしい、わずかに灰色の光が差す漆黒の双眸に、どこか遠くを見る色彩がかすめた。
「うん。母さんも、喜んでくれる、よな」
そして、きっと、鏡介のことは忘れて、幸せになってくれるだろう。
彼女自身の幸いのために生きることが出来るだろう。
それは、彼女の中から自分が消えるという事実には、わずかな痛みと寂しさが含まれていたが、彼女が自分のことでどれだけ心を痛め、嘆いてきたかを理解している鏡介には、このうえない喜びであり、安堵でもあった。
彼女はまだ四十歳、まだまだ、個として、女としての幸せを見つけられる年齢だ。
鏡介は、その事実を喜ぶ。
「……母さんが、アニキと同じくらい幸せだったら、嬉しいな」
ぽつりとこぼし、鏡介は、脳裏の、優しい美しい母の姿を懐かしむように目を細めた。
――そのときだった。
「ん……?」
鏡介は、細かな砂利が敷き詰められた道の、二十メートルほど先に、派手ななりをし、大声で下品な話をしてはけたたましい笑い声を立てる、まだ若い数人の男たちがたむろしていることに気づいて首をかしげた。
バド老人の住まいと神殿をつなぐこの辺りは、民家が少ないため人通りも少ないし、店も施設も何もなく、賑やかさや華やかさとは縁遠いため、この辺りを通る若者は更に少ない。
「……誰だろ」
それに、そろそろ午後のティータイムが始まろうかという時間帯の、明るい日差しの下、彼らは明らかに浮いて見えた。
まっとうな職に就いているものなら、今頃額に汗して働いているはずだという認識よりも、彼らの、どこからどう見てもカタギとは思えない表情や出で立ちが、鏡介に警戒心を起こさせる。
彼は、規格外に過ぎる彼のアニキや勇仁とは違い、荒事には爪の先ほどの役にも立たない非力な人間だ。トレーニングは受けているが、それはまだ始まったばかりで、おまけに戦いのためのものではない。
そんな自分が、五人六人もの、背の高い男たちに喧嘩を吹っかけられて無事でいる自信は鏡介にはなかった。
こんなことならノーヴァに一緒に来てもらえばよかった、と思いはしたものの、飛鳥や自分たちに関する諸々の雑事で走り回っている騎士の青年に、自分の都合につき合わせるわけには行かないことも承知している。
それでも、そこを通ることでしか王城へは戻れず、ハイリヒトゥームにゲミュートリヒへ送ってもらうことも出来ないのだ。
意を決した鏡介が、なるべく目を合わせないように通り過ぎよう、と、平静を装いつつ彼らに近づくと、男たちはにやにやとした笑いを貼り付けて鏡介を見遣り、彼を指差してなにごとかを囁き合った。
極彩色の、趣味がいいとはとても言えない衣装と、力なき他者への無慈悲で酷薄な雰囲気とをまとった彼らからは、十日ほど前、フィアナ大通りで露店商たちに無体を強いたブレーデ一家と同じ匂いがする。
武器こそ持ってはいないものの、彼らは全身から暴力的な空気を発散していたし、人を殴り慣れた手をしていた。
「よぉ、兄ちゃん」
そのうちのひとりが、いやらしい笑みを貼り付けたまま鏡介に声をかけてくる。残りの男たちが、何がおかしいのかゲラゲラと声を立てて笑った。
鏡介は自分の心臓が跳ね上がるのを自覚しつつ、出来る限り穏やかに、静かに問い返す。ここで取り乱しては、更に事態が悪化するだけのような気がしたからだ。
「……なんか用?」
精一杯平静な声で返したつもりだが、裏返っていなかったかと問われて首を横に振る自信はない。
男たちがにやにや嗤いながら距離を詰めてくる。
回れ右をしてバドの家の方へ逃げるべきかと思ったが、それを見透かしたかのように、男のひとりが鏡介の背後へ回りこんだ。
赤茶色の目と青みがかった灰色の髪の、どこにでもいそうな顔立ちの男だったが、その目つきは、地球の東京と呼ばれる場所の暗部で、鏡介が毎日のように観て来た『ホンモノ』の連中と酷似していた。
年齢は恐らく鏡介よりひとつかふたつ上、身長は鏡介より十センチは高いだろう。喧嘩慣れしていることがはっきりと判る身体つきであり、足運びだった。
その彼に、上から下までじろじろと不躾な視線で眺められた後、
「キョースケって、兄ちゃんのことか?」
そう言われて鏡介は眉を寄せた。問いかけと言うよりは確認のようなそれに一瞬返答を躊躇う。
返答がイエスでもノーでも、碌なことにならない気がして答えられずにいると、男がぐっと距離を詰めてきた。威圧感に後退ろうにも、後ろにいるもうひとりが気になって身体を動かせない。
嫌な汗が、背を伝った。
「どうなんだよ? 口がないってわけじゃ、ないだろ?」
獲物を嬲り殺しにする猛獣のような表情で、男が目を細める。
舌なめずりすらしそうな雰囲気だった。
彼らが何故自分を待ち伏せにし、こうして名を確かめてくるのか、何がなにやら判らず、鏡介はパニックを起こすよりも呆然としていたが、楽しげに首を傾げた赤茶色の目の男が、拳を鳴らすパフォーマンスとともにもう一歩近づいてきたので、観念して口を開くしかなかった。
「……そうだけど」
それが? と訊くだけの時間はなかった。
何故なら、
「そっか」
言うなりにまりと笑った男が、ひょいと鏡介の懐に入り込むや否や、そのごつい拳で、彼の腹を殴りつけたからだ。
ずん、という重い塊が、無防備な腹部を直撃する。
「……ッッ!?」
それは強烈で、鋭かった。
あまりの衝撃に悲鳴も上げられず、鏡介は、苦悶の表情とともに身体を二つ折りにし、その場にうずくまった。
「あっ……ぅ、あ……?」
喉元から、苦い何かがこみあげてくるのが判る。
「悪いな。別に、あんたに恨みがあるわけじゃ、ないんだ」
淡々と、しかし楽しげに言った男が、うずくまる鏡介の脇腹を蹴りつけた。
「――……っっ!!」
爪先の鋭い、硬いブーツにやわらかな脇腹を強打され、鏡介はなすすべもなく地面を転がる。かふっ、というかすれた呼気とともに、生理的な涙が目尻を伝った。
「でも、頼まれちまったからには、ちゃんと『仕事』しないとなぁ?」
なんせ大金もらったから、と、酷薄に笑う男の目は、どこか爬虫類じみていた。
他者の痛みになど、欠片ほどの頓着もない、そんな目だった。
「まぁ、そんなわけで、だ」
にたりと笑った男に背を踏みつけられて、引き攣れた咳が漏れる。
「悪いけど、痛い目に遭ってもらうぜ」
それが合図だったとでも言うように、ゲラゲラ笑った男たちが、地面に這いつくばって震える鏡介へと駆け寄り、無慈悲に足蹴にしてゆく。
まるでサッカーのボールみたいだ、とは、奇妙に冷静な部分の意識がつぶやいた滑稽な例えだったが、彼らに蹴られたあちこちが耐え難く痛むのは紛れもない事実だった。
鏡介は悲鳴を上げて転がり、なんとか身体を庇おうとしたが、大人数にあちこちから蹴りつけられてはそれも無駄な足掻きでしかなかった。
「何……ッな、なんで、うああっ! やめ……やめろよっ、痛いっ!」
背を、腹を、腕や足を蹴られ、逃げようとすると髪をきつく引っ張られて引き戻され、無理やり立たされたかと思うと顔面を殴られた。
硬い拳に顔を一撫でされ、吹っ飛んで地面に叩きつけられる。
「ううう……」
呻きながら上半身を起こすと、鼻血がこぼれて地面を赤黒く汚した。口の中を切ったのか、血の味もする。
赤茶の目の男が、げほげほと咳き込む鏡介の襟首を掴み、また無理やり立たせる。かち合った男の目に浮かぶ、暴力を揮うことへの喜悦に、鏡介は恐怖せざるを得なかった。
そこには、鏡介を同じ人間と認識しているかどうかすら定かではない、弱いものをいたぶり、好き勝手にすることへの悦びばかりがあった。慈悲、手加減などという甘い幻想は一切存在していなかった。
情けないと思いつつ、涙があふれるのを止められない。
鏡介は真剣に、死という未来すら垣間見ていた。
「なん……なんで、こんなこと……っ」
「そりゃ、金もらったから、ってのもあるけどな。――まぁ、ぶっちゃけたとこ、俺が楽しいから、かな?」
その言葉とともに、また頬を拳骨で殴られた。
声もなく吹っ飛んで地面に激突する鏡介の、無様としか言いようのない姿に、周囲から嘲弄を含んだ笑いが巻き起こった。
それでも何とか逃げ出そうと、必死で足掻く鏡介の髪を掴み、引きずり倒してその身体を踏みつける赤茶の目の男に、傍観に回ったらしい他のメンバーたちから楽しげな声がかかる。
「殺すなよー、シュメルツ。お前いっつもやりすぎっから」
「ま、死んだら死んだでどっかに埋めときゃいいけどな、いつもみたいに。殺すなとは言われてないんだろ?」
「別にいいじゃん、ここに捨てていけば。ばれやしねーって」
勝手で残酷なことを口々に言う襲撃者たちに、全身の震えが止まらない鏡介だったが、シュメルツと呼ばれた赤茶の目の男は、喘ぐ鏡介の腹を踏みつけたまま、軽く肩をすくめてみせた。
「いや、殺すなとさ」
「なんでだよ?」
「あのお坊ちゃんはいっつも気紛れだからな、理由は知らない。でも、一回で済ます気はないらしいぜ? ってことは、何度でもたんまり謝礼金もらって楽しめるってことだろ」
「なるほど。それも美味しいな」
「だろ。まぁ……もうちっと、しっかり『仕事』しました、って痕(あと)でもつけとくか。一目でそうと判るような」
「どうする?」
「んー……そうだな、手でもつぶしとくか?」
肩で息をしていた鏡介は、その言葉に凍りついた。
「な……」
思わず視線が自分の手に向かう。
「あ、いいんじゃね? 判りやすいし」
「右? 左?」
「じゃあ、今回は右にしとくか。次に『仕事』もらったら左な」
にやにや笑った男たちが、鏡介の身体を押さえつけにかかる。
鏡介はぎりぎりと奥歯が鳴るほどに歯を食いしばった。
それから、渾身の力で、群がってくる連中を振り解こうと抗う。
しかし、無論それも虚しい抵抗でしかなく、じきに頭を――身体のあちこちを押さえつけられ、手首を固定されて、鏡介は絶叫するしかなかった。
死への恐怖にも優るそれに、歯がガチガチと鳴った。
「やめ……やめろっ! やめろ、離せよっ、離せ――――っ!!」
手をなくしては、ものを作れない。
ものを作れない自分に、生きている意味などないのだ。
恐怖の所為なのか哀しみの所為なのか、それとも単純に痛みの所為なのかも判らない涙がぼろぼろこぼれる。
「ま、恨むんなら」
軽薄に肩をすくめたシュメルツが言う。
その手には、道端から拾い上げた大きな石の塊があった。
鏡介の目が見開かれる。
「お前のご主人様を恨むんだな」
「え……?」
「あの、黒の加護持ちとかいう。ちょっと貴重な色を持ってるからってイイ気になると、お前みたいになるぞって教えてやれよ」
鏡介の脳がそれらの言葉を理解するよりも早く、シュメルツが石の塊を振りかぶった。鏡介はそれを呆然と見上げていた。
――しかし石は、幸いにも、鏡介の手を砕くなどという用途には使われずに済んだ。
何故なら。
「こりゃ、お前ら、何しとる!」
渋く低い、ここ数日ですっかり聞き慣れた声が響き、ひゅっという空気を斬る音がしたかと思うと、
「つ……っ!」
呻いたシュメルツが石を取り落としたのだ。
「ジジイ、なんだテメェは……!?」
鏡介の身体を押さえつけていた男たちが、彼から手を離すや、一斉に声の主へ向き直る。
鏡介は咳き込み、呻きながら身体を起こした。
男たちの目が声の主に釘付けになっているの確認して、その場からよろよろと離れ、力を振り絞って『彼』の背後へ逃げ込む。よろめく身体を、よく日焼けした張りのある手が支えた。
「ば、バドじいちゃ……」
「大事ないか、とは訊けぬ風情よナ。何があった?」
「わ……判んない……。それより、爺ちゃんは、なんで?」
「領主殿にナ、文(ふみ)を頼もうと思ゥておったのだ。それを渡し忘れたことに気づいてナ。今にして思えば、忘れておいてよかった」
「う、うん、ありがと……」
「おいてめぇ、俺たちの邪魔すんのか……?」
剣呑に目を細めたシュメルツが、舐めるようにバドを見る。
鏡介は思わずバドにしがみついたが、老人は涼しい顔をしていた。
「痛い目を見とゥないなら疾(と)く帰れ。ワシは今、ちっとばかし怒っておるでナ、手加減はしてやれぬやもしれんゾ」
怒っているといいつつ飄々とした、からかいを含んだその言葉に、シュメルツの眉が吊り上がる。
「黙れジジイ。てめえも殺すぞ?」
「はは、群れるしか能のないチビどもが偉そうな口を利くでない。やれるモンならやってみい。ほれ、来い」
ちょいちょいと人差し指で彼らを招く仕草をするバドの表情、口調には一分の揺らぎもない。
シュメルツがぎりぎりと歯を噛み締めたのが判った。
他者を好き勝手にするのは好きでも、好き勝手されるのは嫌いなのだろう。その表情には、先刻ほどの余裕はなかった。
「だったらお望み通りにしてやるよ!」
その言葉とともに、拳を固めたシュメルツが全力で突っ込んでくる。
「じ、じいちゃん、危な……!」
だが、バドはカラカラと豪快に笑うや、
「まだまだ青いナ」
飄々と言って、正確に顔面狙って突き出されたシュメルツの拳を、何の苦労も感じさせない動作でひょいと捉え、
「な……っ!?」
狼狽するシュメルツの脚を払うと、そのまま流れるように滑らかに、日本で言うところの柔道を思わせる動きで、勇仁と同じくらいの背丈と体重のありそうな男の身体を、軽々と遠くへ投げ飛ばしてしまった。
ややあって、どすん、という、重いものが地面に激突する鈍い音がする。
それを追うように、低い呻き声が響いた。
傍観していた残り五人が、ぎょっとした顔でバドを見遣る。
明らかに素人ではないと判ったのだろう。
「重畳重畳。まだ腕は衰えておらんようだナ。さてお前さんたち、これだけ騒いだのだ、じきに騎士たちがこちらへ来よう。もうしばらく、ワシの時間稼ぎにつきあうかい?」
カラカラ笑ったバドが、ごつい拳を握ってみせると、呻きながら身体を起こしていたシュメルツが舌打ちとともに唾を吐いた。
「いいところで邪魔が入ったな。面倒だ、退くぞ。あんだけやっときゃ、坊ちゃんは満足してくれるだろうさ」
赤茶色の目が、満身創痍というのが相応しい鏡介に向けられ、それから残酷な喜悦を含んで細められる。
「一回限りとは思うなよ? また、来るぜ」
それだけ言って、仲間たちに身体を支えられつつ、シュメルツは周囲を促して背を向けた。
シュメルツの物言いに事実の色合いを感じ取り、彼らの姿が道の脇に消えてゆくのを言葉もなく見送った後、鏡介はぎゅっと唇を噛む。あれに二度三度と来られて、無事でいられるとは到底思えなかったからだ。
そこへバド老人が、気遣わしげに声をかけてくる。
「大丈夫か、キース。手当てをせねば」
「う、うん。でも、早く城に帰んなきゃ」
「その状態でゲミュートリヒへ行くのか?」
「だって、行かないと怪しまれるよ」
「怪しまれる? 何をだ。このことは、ヌシの主殿に報告した方がよい。何度も都合よくワシが通りかかるわけではないのだぞ」
バド老人は、純粋に鏡介の心配ゆえに、飛鳥にこれらのことを報告し、今後の対策を練るべきだと思ったのだろうが、鏡介は身体中の痛みも忘れて首を横に振った。
「駄目だ、駄目だよじいちゃん! アニキには言わないで!」
悲鳴めいた声とともにバドにしがみつくと、老人は眉をひそめた。
「何ゆえだ」
「だ……だって、」
鏡介は言いよどんだ。
こんなことを言ったら、笑われるだろうか。そんな風に思う。
「だって、どうした」
しかしバドの声はやわらかく、温かい。
鏡介は拳を握り締めた。
消え入りそうな小さな声が、腫れた唇から漏れる。
「足手まといになりたくない……」
「ん?」
「これ以上、アニキの、邪魔になりたくない。おれ、ただでさえ、何にも出来てないのに……!」
言って、ぎゅっと瞑った目から、先刻とは違う意味合いの涙がひとつ、ぽろりとこぼれて頬を伝った。
鏡介は、これ以上迷惑をかけて見捨てられることが怖かった。
しかしそれ以上に、あの強い、潔い、自分に厳しい年下の『アニキ』に、鏡介のことで手を煩わせてほしくはなかったのだ。
飛鳥はきっと、鏡介のために、忙しい合間を縫って何か策を講じてくれるだろう。そうなれば、鏡介はきっと危険な目に合わずに済むだろう。
だがこれからも彼とともにこの国で暮らすのだとして、この先ずっと、自分で身も守れぬようなひ弱な存在が、飛鳥の傍にいて本当にいいものなのか、それは飛鳥に多大な迷惑を及ぼすのではないかという懸念が消えないのだ。
鏡介は、それを耐え難いと思っていた。
「……キース」
バドが、鏡介の背を優しく撫でた。
見上げると、鮮やかな真紅の双眸が、やわらかな光を含んで細められていた。鏡介はわけもなく安堵する。
「あの主殿は、ヌシを邪魔だなどと思いはせぬと思うがナ。ヌシがそう言うなら黙っておこう。危なくなれば、ワシが助けてやろう」
「じいちゃん……」
「なに、せっかくの弟子だ、むざと喪ゥてはもったいないゆえナ」
いたずらっぽく片目をつぶったバドにそう言われ、ようやく鏡介は笑った。笑った瞬間あちこちが引き連れ、思わず呻いたものの、バドの言葉に安堵したのも事実だった。
「ありがと」
「なに、礼を言われるようなことでもないナ。では、ひとまず王城で傷の手当てをして、それからゲミュートリヒへ行こう。せっかくだ、ワシも行ってよいか?」
「うん、もちろん。きれーなとこなんだよ」
「ああ、存じておる。その傷を主殿に尋ねられたときは、走っていて転んだと誤魔化すがよい。ワシも助け舟を出そう」
「あ、それいいかも。そうしよう。困ったときはじいちゃん、よろしく」
「うむ。では参ろうか」
バドが同行を申し出てくれたのは、もちろん先刻の襲撃者たちを警戒してのことだろう。しかし、そのことを除いても、鏡介はなんだか嬉しくなった。
あちこちが熱をもった身体は今もずきずきと痛かったし、心配事がなくなったわけでも、鏡介の身に迫る危険がなくなったわけでもなかったが、バドがいてくれる、と思うだけで心は軽くなった。
それを稀有だと思う鏡介だった。
* * * * *
「……で、誰にやられた」
開口一番、飛鳥にそう言われて、鏡介は絶句するしかなかった。
王城へ戻り、傷の手当てをして、ひどいところには侍女のオネエサンに頼み込んで貸してもらった白粉をはたき、精一杯目立たなくして来たのに、第一声がこれである。
「いや、あの……その、普通に転んだだけだから。誰にやられたとか、そんなんじゃないし」
飛鳥と視線を合わせないまま、もごもごと、こうまであっさり嗅ぎつけられては無駄かもしれないと思いつつ返すと、漆黒の少年の眉が跳ね上がる。それを見ただけで、別に悪いことをしているわけでもないのに、コメツキバッタのように土下座して謝りたおしたくなる鏡介である。
間の悪いことに、バドは領主夫妻となにやら話し込んでいて、助け舟どころではない様子だった。
「……お前は俺の目を節穴だとでも思ってるのか。転んだだけでそんな打撲痕が残るかボケ。転んでそんな痕を残せるような器用さは要らん。ふむ、そうして隠そうとするからには行きずりの暴漢にやられたわけじゃないな。となると、ここ数日で俺の近辺を騒がせ、かつ、お前を俺の身内と認識して仕返しに刺客を寄越せる力を持った輩か。しかも、直接俺へ向かわず、非力なお前を狙う狡からい奴。だとしたら、あまり位階の高い人間じゃないな……」
おまけに飛鳥は鏡介のいいわけなどまったく聞いておらず、さっさと自己考察に入ってしまっている。
「……ヴェーエトロース・ソガエ・ラムペ、だな」
しかもあっさりと答えらしきものに辿り着き、飛鳥は鼻を鳴らした。
「ずいぶん迅速な復讐行動だな。ちょっと舐めてた。恐らく間違っちゃいないだろうが、お前、なんかそれらしいことは言われてないか?」
そこまで来るとだんまりを決め込むことも出来ず、飛鳥に隠し事をしようということ自体が愚かな行為なのだとはっきり理解しつつ、渋々鏡介は口を開いた。脳裏に、あの忌まわしい記憶を反芻する。
それは多分に恐怖を含んでいたが、しかし何故か、傍に飛鳥がいると、何でもない瑣末なことのように思えるのだった。
「えと……俺のこと殴ったやつが、頼んだ人のこと坊ちゃん、て呼んでた、と思う」
「ふむ」
「それと、恨むんならアニキを恨め、って言われた」
「俺のことを何と表現してた?」
「……黒の加護持ち」
「なら、間違いないな。あの馬鹿だ」
淡々とした飛鳥の声に、あまり怒りを感じず、これならそんな騒ぎにはならないかも、とちょっとホッとして顔を上げると、
「……舐めた真似をしてくれる」
飛鳥は、その漆黒の双眸に、明らかな殺意の光を宿して微笑んでいた。
激怒しているといっていい表情だった。
否、表情はほとんどないのだが、ここ半月で濃いつきあいを重ねてきた鏡介には、飛鳥が無表情に怒り狂っていることがはっきり判った。
鏡介は思わず息を飲む。
飛鳥は普段あまり笑わない。
楽しいとか嬉しいとか、そういう時にも、唇の端をちょっと持ち上げる程度にしか表情を動かさないのだ。
むしろはっきりとした微笑は、怒りとか憎しみとか嘲りとか、そういう負の感情を表すために現れるものだった。
「俺の下僕を、俺以外がどうこうするだと? ……思い知らせてやるしか、ないだろうな」
「い、いやあのっ……」
そんなおおごとにしないでほしいと口にするよりも早く、電光石火の勢いで伸ばされた飛鳥の手が、万力の如き強さで鏡介の頭を掴み、勢いよく締め上げたので、鏡介は顔を引き攣らせて悲鳴を上げた。
おれ一応被害者なのになんで、という抗議が通じないことはこの十数日で実感済みだ。
飛鳥の怒りは、時に理不尽な方向を向く。
「たたたたたたっ!? いいい、いた、痛い……っ! ちょ、わ……割れる割れる! ああああぁアニキ……!?」
「俺に隠し事とはいい度胸だな」
飛鳥の声は、地獄からの使者の告げる、死の宣告のようだ。
「だだだだだだってっ! あ、アニキに迷惑かけたくなかったから……!」
「黙れ」
鏡介が言い募ろうとすると、低い、明らかな怒りを含んだ声が厳しく叩きつけられた。その冷ややかさに、鏡介は思わず項垂れる。
しかし、ぎりぎり締め上げられていた頭から手が離れ、
「身内にかけられる面倒事を厭うほど、俺が頼りなく見えるのか」
次に発せられた言葉に、鏡介はぽかんと口を開けて飛鳥を振り仰いだ。
それは確かに慰めであり、励ましであり、鏡介への肯定だった。
「……アニキ」
「お前が荒事に関して屁の役にも立たないなんてことは、初対面から納得済みだ。今更何を面倒だとか抜かせばいいんだ?」
「いや、だから……」
「好きに悩め、答えはやらん。だが、荒事だけが人間の価値を証明するものなのか」
それだけ言うと、飛鳥は、漆黒の衣装の裾を翻して踵を返した。
「メシは一時間後だ、それまで頭を冷やせ」
振り向かずに告げ、さっさと歩き去ってしまう。
鏡介は、黙ったまま、頬に張られた膏薬に触れた。
熱を持ったそこは、先刻まで耐え難い痛みとともにあったはずなのに、――全身が、熱く重苦しい痛みに支配されていたはずなのに、今、鏡介の心と身体を満たすのは深い深い安堵と充足感だけだった。
「……アニキって」
ぽつり、とつぶやく。
「なんであんなに強いんだろ」
そこには憧憬がこもっていた。
「喧嘩が強いから、ってだけじゃ、ああはなれない、よな」
心が軽くなったことを鏡介は自覚していた。
そして、軽くしてくれたのが何だったかも。
「うん……おれも、強くなりたいな……」
身体が、というだけでなく。
「――……頑張ろ。それしか、ないよな」
つぶやきは、誰の耳にも入らなかったが、鏡介にとっては絶対的な誓いそのものだった。