昼食後のことだ。
 午前中いっぱいを、イスフェニア・ティトラとの稽古に費やした金村勇仁は、彼の若や領主夫妻、その子息の聖叡騎士団長たちとともに昼食を摂ったあと、イスフェニアが領主補佐官の手伝いに出かけたので(どうやら彼が黒の加護持ち直属の騎士になる前までは日常茶飯事だったらしい)、主に領主夫妻とその親しい人々が寛(くつろ)ぐのに使われている私室、居間と呼ぶには少々広すぎるその部屋で、アルディア・ミュレから借りて来たたくさんの本に囲まれて過ごしていた。
 センスのいい調度が据えつけられた部屋の、大きなガラスのはめ込まれた美麗な開き戸からは、家人しか目にすることも入ることも出来ない、まったくのプライヴェートな、小ぢんまりとしてはいるがきちんと手入れの行き届いて美しい庭を見ることが出来る。
 このくらいの文化レベルには貴重な、畳一枚分ほどもあるガラスが惜しげもなく使われた開き戸は大きく開け放たれ、部屋の中には晩夏の爽やかな風が緑の匂いを伴って吹き込んできていた。
 目が痛むほどの青空と清浄な空気の匂い、人工物を一切含まないまじりっけのない光と清冽な風の立てる囁きの、その調和によって、このゲミュートリヒ市の、いっそ完璧と言うしかないような、『美しい風景』の手本のような世界が創り上げられていた。
 風景の穏やかさに加えて、手触りのよい表紙の、分厚い、古い紙の匂いのする本を手にしているだけで心安らぐ勇仁である。おまけに、意思疎通の魔法という便利な代物のお陰で、習ってもいない文字が苦もなく読めるのだからありがたい。
 遺跡探訪の次くらい、鍛錬と同等の位置づけで読書が好きな勇仁には、このゲミュートリヒ市領主宅は天国とすら言えた。
 それは彼の若も同じで、勉強や訓練以外の時間のあるときには、お互い、周囲が呆れ驚くほどの量の本に囲まれているふたりである。
 お陰で、圓東が首を傾げてそれは一体何語なのかと真顔で問うような、本の中で語られる様々な――難解でややこしい事象について小一時間議論することも出来る。
 そういう時間を、勇仁は楽しんでいた。
 古巣の篠崎組にいた頃にはなかなか出来なかったことだ。
 なにせ篠崎組の連中と来たら、読む本といえば真偽の定かではないゴシップ雑誌や漫画雑誌、もしくはパチンコの攻略雑誌くらいのもので、文学書とか学術書について話を振っても、皆、曖昧な態度とともにそそくさとその場から離れて行ってしまうのだ。
 そういう場ではないしそういう環境で育った連中でもないと言われてしまえばそれまでだが、それなりに愛着のあるあの古巣に、不満な、残念な部分があるとすればそのことだろう。
 若い頃は学者を目指していた勇仁にとって、議論も討論も出来ない場、出来ないメンバーというのはやはり、物足りない。
 ――もっとも、実際には、読む本の種類云々以前に、仏頂面としか表現出来ない真顔の勇仁に、感情のこもらない、低い声で意見を求められた面々が、内容が理解出来ないとかそういう問題ではなく、単に思い切り怯えて逃げ出していただけのことなのだが、それは彼には知りようのない真実だ。
 圓東などは、その辺りのこともよく理解しているのだが。
 何にせよ、今日は夕方には圓東もレーヴェリヒトもゲミュートリヒ市へ来て――魔法とは本当に便利な代物だと思う勇仁である――、皆でそろって夕食を摂るとのことだったので、それまで本に埋もれていよう、と、行儀悪くソファに寝転がって、シリーズで借りて来たリィンクローヴァの歴史書、歴代国王陛下の人となりや功績を詳細に書き記したそれらの、第十八代目まで読み進んでいた勇仁だったが、
「じゃあアスカ、今日はとりあえず、第三大陸の大まかな成り立ちについて勉強しようか。他のことで忙しくてずいぶん後回しになってしまったね」
 理知的で穏やかな声とともに、たくさんの本を抱えた細身の男と、同じくたくさんの本と書き物用のノート及び筆記具を持った、細身だが明らかに全身筋肉と思しき身体つきの少年とが部屋に入ってきたので、ふかふかした座り心地のよいソファから身体を起こした。
 時刻は恐らく、午後二時といったところだろう。
 お互い、ゲミュートリヒ市滞在中は入り浸っている場所なので、特に意外でもなく、金村を視界に認めた飛鳥がわずかに眉を上げる。
「あんたも読書に精を出してるところか」
「ああ。若は社会勉強か?」
「まぁ、そんなものだな。今日はとりあえず、常識的なことを思う存分教わろうと思っているところだ。なんなら、あんたもどうだ? どうせこの先必要になってくるぞ」
「ん、ああ……そりゃそうだな。だが、俺がいても迷惑にならねぇか?」
「自分から参加してみたいと言っておきながら勉強開始後数分で爆睡して涎(よだれ)の海を作成した挙げ句、『もう食べられません』とかいうスタンダードすぎる寝言を臆面もなく吐く圓東に比べれば、あんたの存在なんて可愛いもんだ。なぁ、別にいいよな、アルディア?」
「うん、もちろんだよ。あとでメイがお茶を淹れて持ってきてくれるらしいから、ゆっくり楽しく勉強しよう」
「なるほど、なら相伴に預かるとしようか」
 生物の三大欲求より知識欲の方が優っている風情のある飛鳥ほどではないものの、勇仁もまた、知ることへの欲求は深い。
 この、非凡であるがゆえに意固地でプライドの高い少年が、アルディアの教師としての才能に全幅の信頼を置いていることは勇仁も承知していたので、いい機会だと参加させてもらうことにする。
 どっしりしたテーブルに本を積み上げたアルディアが手招きするまま、勇仁が背もたれに美しい彫刻が施された椅子に腰かけると、その隣に座った飛鳥が、彼のためにとわざわざ圓東が手作りしたノート(ちなみに糸綴じである)を開いた。
 恐るべき記憶力を誇るわりに、こうしてメモを取りたがるのは、本人曰く「貧乏性なんだ」ということだったが、たかが十日で三冊目に突入した勉強ノートには、几帳面で細かい文字が躍っている。
 ふたりの前の席に腰かけたアルディアが、パッと目を惹くほどの美貌ではないものの、穏やかに整った顔をゆるりと笑みで彩ってから口を開いた。
「さて……じゃあ、何から知りたい?」
「とりあえず何を知ればいいのかが判らない」
 対する飛鳥の返答には身も蓋もない。
 アルディアが苦笑した。
「ああ、基本的だね。ふむ、なら、第三大陸の基礎的なデータを披露しておこうかな?」
「あ、それいいな。異存なしだ」
「判った。まず……そうだね、第三大陸の面積や各国の面積、国家ごとの人口辺りから行こうか。こっちの本の、この地図を見てくれるかな」
「ん、すごいな、この文化レベルで大陸や国々の面積がはっきりしてるのか。へえ……この地図も、ものすごく精巧に出来てる」
「うん、あるところに暇で物好きな魔法使いがいてね、色々な角度で世界を眺めているうちに紙に書き残したくなったんだ。お陰でリィンクローヴァ発行の地図は、他国の追随を許さない正確さだよ」
「……そういう物言いをするってことは、もしかして、暇な魔法使いってアルディアのことか? 確か、レイが言ってた気がするんだが」
「はは、正解だよ。ハイルほどすごい魔法は使えないけれどね。ゲミュートリヒ市は余暇が多いから、色々なことが試せて面白い」
「ふぅん。しかし、広いんだなリィンクローヴァって。金村、見てみろよ。ひとつの市だけで北海道くらいの広さがあるぞ」
 飛鳥に指し示され、分厚い、A2サイズほどもある大きな造作の本を覗き込むと、クリーム色の滑らかな紙の上に精巧なタッチで描かれた、リィンクローヴァ及び第三大陸の図が目に入った。
 ひとつひとつの国ごとに、きちんと国名と都市名、主要な川や山などが細々と書き込まれていて、絵の具の色合いを変えることで高低差も巧く表現してあるし、国名の下と都市名の下には、大まかな面積が書き記してあった。
 無論平方メートルという単位ではないが、便利な通訳魔法のお陰で、リィンクローヴァの総面積が、およそ三百八十万平方メートルであることが判る。
「どれ。……確かに、下手すりゃ日本が十個は入るな。インドとミャンマーを合わせたくらいか」
「ああ、そんなもんだろ。でも、人口密度は日本の十分の一以下みたいだしな。アルディア、リィンクローヴァの総人口は?」
「ひとつの市で、奴隷を含めてもおよそ十数万人といったところだね。王都や王領都市、大都市はもう少し多いけれど……それでも、全部あわせて八百五十万人くらいかな」
「過疎もいいとこだな。広い土地があれば作物は作りやすいだろうが。じゃあ、国民と奴隷の違いと、数の割合と、その位置づけは?」
「アスカたちの故郷に奴隷はいるのかい?」
「いいや。昔はいたらしいが、今、人身売買は禁じられてる。似たようなことをやってるヤツらはいるけどな」
「そうか、アスカたちの故郷はとても進んでいるんだね、いいことだ。本当は、人間なんてものに、貴いとか賎しいとかそういう価値をつけてはいけないんじゃないかと思うから。――この国の奴隷制度は他国とはかなり違っていてね、他国のほとんどでは、奴隷というのは『持ち主』が自由に売買したり譲渡したりもらったりできる、品物同然の存在だけれど、リィンクローヴァでは『戦争に行かず、税を支払わない国民』のことを言うんだ、基本的にはね」
「ふむ」
「ギリシアやローマの都市国家みてぇなもんかな」
「の、ようなニュアンスだったな」
「基本的に、国民には二種類ある。自ら武器を取って国のために戦う兵民と、税金を納める財民だ。兵民は税の半分以上を免除されるし、リィンクローヴァのまつりごとに加わることも出来る。更に国内の様々な援助を受けることが出来る。財民は、リィンクローヴァのまつりごとに加わることが出来るし、国が行っている様々な政策の恩恵を受けることが出来る。そのかわり、兵民は自分たちで武装を整え、身体を鍛えて他国との戦いに赴かなくてはならないし、財民は自らの才覚で金銭を稼ぎ、定められた金額を国に納めなくてはならない。ここまではいいかな?」
「ああ、問題ない」
「下層民とも称される奴隷階層の民には、戦争に行く義務も、税金を納める義務もない。でも、そのかわり彼らは、兵民や財民に一定の労働力を提供する義務がある。そして、国が行っている様々な事業や政策の恩恵を受けることは出来ない。労働に対する給金は、財民が納めた税金の一部から支払われるけれど、決して高額じゃない。生きてゆくのに必要最低限の金額と言えば判りやすいかな。リィンクローヴァの法律は、理由なく下層民たちを虐げたり、彼らの尊厳を踏みにじったりすることを厳しく禁じているから、他国の奴隷たちと比べれば苛酷ではないけれど、総じて言えば、豊かでも楽でもない位置づけだろうと思うよ」
「割合は?」
「そうだね……兵民が百五十万、財民が二百万、下層民が五百万くらいかな? 大雑把に言うと」
「国民の二割弱が兵士か。……多いのか少ないのかよく判らないな」
「確かに。多けりゃいいってもんでもねぇだろうしな」
「他の国はどうなんだ?」
「隣国ハルノエンだと国民が四百二十万で奴隷が九百万くらいかな。ハルノエンはリィンクローヴァの親戚みたいな国だけれど、リィンクローヴァの制度はそれほど引き継いでいないから、奴隷の立場は世間一般で言うところのそれと大差ない。もっとも、身分制度の厳しいダルフェやフェアリィアル、ノーデなんかに比べたら相当マシだとは思う。世界最大の国家、アルバトロウム=シェトランは、国民が千八百万、奴隷が一億二千万というところだね。この辺りの数字も魔法遊びの賜物だから、数値はそこそこ正確だと思うよ」
「日本の総人口と同じ数の奴隷か……なんか、想像出来ない」
「というより、奴隷が反乱を起こしたら対処しきれねぇんじゃねぇのか、その国民数じゃ」
「俺も思うが、それも、厳しい封建制度下で反乱を起こそうと思えるかどうか、だろうな。この制度が何百年も続いてきたものだとしたら、支配者たちは支配し慣れているだろうし、専制君主によって統べられ続けてきた奴隷たちに『反乱』なんて思考が根差すかどうかも疑問だ」
「ふむ、そういうものかもな」
「そうだね、アルバトロウム=シェトランにせよ他国にせよ、過去に何度か反乱めいたものは起きているようだけれどね。いずれもまとまりきれず、国軍に完膚なきまでに叩き潰されたと記録には残っているよ」
「やっぱり。いい武器といい防具を持った、衣食住が足りてる職業軍人を相手に貧乏人が戦おうと思ったら、相当団結しないと無理だろう」
「若が下層民側だったら、勝てるか?」
「時と場合による」
「否定しねぇとこが若だな」
「当然だ。……そういえば、この国は? 反乱は起きてないのか?」
 周囲を見渡す仕草で飛鳥が問うと、アルディアはどこか誇らしげに首を横に振った。
「ないよ」
「そうなのか。それだけ厳しく管理されてる……ようには見えないな」
「ああ。……この国ではね、アスカ」
「……?」
「向上心と才覚さえあれば、誰もが望む場所に行けるんだ。財民が兵民になることも、兵民が騎士になることも、決して珍しくはない」
「奴隷でも?」
「もちろん。役所に申請を出して、試験を受けて、優秀さを認められれば財民にも兵民にもなれる。もっと才能のある者なら騎士にでもなれる。身近な例で言えば、ノートヴェンディヒカイトはもともと下層民の出身だけれど、その武の腕前を認められて十五歳の時に兵民として認められて、その後も努力を怠らずに鍛錬を続けた結果、十七歳で騎士になったんだよ」
「へえ。あいつ実はすごいヤツなんだな、ちょっと見方が変わりそうだ。……じゃあ、M体質なのは元奴隷だから、――ではないな、絶対」
「もちろん、今の制度に不満がまったくないわけじゃないと思うよ。でも、リィンクローヴァが実力さえあれば何にでもなれる国だということに間違いはないんだ。それは同時に、実力のない人間は、例え貴族であっても決して成功は出来ないということだね。国民たちは基本的に勤勉で賢明だから、リィンクローヴァ五百年の歴史の中で、大きな混乱が起きたという記録はない。それに、自分で土地を開墾して好きなように、自由に暮らしたいとかそういう理由で、わざわざ下層民になる物好きもいるくらいだからね。感じ方はそれぞれということなんだろう」
「なるほど、そんなもんか。しかし、職業軍人同士のぶつかり合いとなると、戦争はかなり面倒臭そうだな」
「そうだね、もっとも、兵士が職業軍人のみで構成されているのはリィンクローヴァだけだけれどね。アルバトロウム=シェトランを始めとした、第三大陸の国の半数以上が、戦場に大量の奴隷を投入しているよ。戦いのためだけに育てられた戦奴も少なくない」
「だが、それでは覚悟が違う」
「うん、つまりそういうことだね。リィンクローヴァの国軍が、第三大陸、ひいては世界一の精度と練度を誇るのは、自国を己が手で守るという矜持のなせる業なんだよ」
「その矜持が、リィンクローヴァを狙う隣接国の魔手を退け続けているということなんだな。……恐れ入る」
「ふふ、褒められるとなんだか嬉しいね」
 飛鳥の、表情少なくはあるものの、確かな感嘆の混じった言葉に、アルディアがやわらかく笑った。
 飛鳥もまた、ほんの少し目元を和らげる。
 そこへ、
「何のお話かしら? とても楽しそうね、羨ましいわ。勉強熱心なのはいいことだけど、あまり根を詰めすぎては駄目よ。美味しいお茶を淹れたから、休憩しましょう」
 華やかな美しさとしっとりした落ち着きの双方を併せ持った声がして、薄手の白シャツに裾の短い紺のサーコート、灰色のズボンに硬質的なブーツという、ひとつの市を統べる領主(しかも女性だ)にしては簡素かつ身軽すぎる出で立ちのメイデ・ルクスが、つやつやとした木の盆にティーセットとお茶請けとを載せて現れた。
 ふわり、と、レモンとオレンジの中間のような匂いが立ちのぼったので、ここ数日何度かお目にかかった、プラーティーン市産のダルク茶だということが判る。
 レーヴェリヒトやリーノエンヴェもお気に入りだというこれは、栽培が非常に難しく、また生産される絶対量も少ないため、大層美味だが大層高価な飲み物であるらしい。
「メイ。お茶の準備が出来たのかい」
「ええ、アル。今日のお茶請けはくるみのパイよ」
「それは美味しそうだ。メイの焼く菓子はどれも絶品だから」
「ふふふ、アルにそう言ってもらえると嬉しいわ」
 立ち上がり、盆を受け取ったアルディアの言葉に、メイデがどこかあどけなく微笑した。その指先を繊細な手で捕えたアルディアが、白く優美だが力強いそれへそっと口づける。
「君の作り出すすべてのものが私を幸せにするよ、私のメイ」
「ええ、私もそうよ、愛しいアル。あなたの与えてくれるすべてのものが、私の日々を色鮮やかにしてくれるわ」
 新婚家庭のごときこの熱愛ぶり、人前だろうが何だろうがお構いなしに、恐ろしくダイレクトに感情を口にする、見ている方が恥ずかしくなるようなこれには、ここに滞在している間何度もお目にかかっているわけだが、レーヴェリヒトが苦笑し、リーノエンヴェが呆れ、圓東がどぎまぎと目をそらすそれを見ても、飛鳥の口調や表情に変わりはなかった。
「というか、その恰好、もしかして私兵軍に稽古をつけてたのか」
 無表情のまま彼が口にした言葉も、目の前で展開される情景にはまったく関係のない、自分の都合一辺倒のものだ。
 きっちりと結い上げた長い髪をわずかに揺らしてメイデが頷く。
「ええ。ここしばらく政務は急がないものばかりだから。私もたまには剣を手にしないと鈍ってしまうしね。やっぱり、身体を動かすとすっきりするわね。それに、私兵軍の皆はとても優秀だから、彼らの洗練された動きを見ていると気持ちがいいわ」
「そうなのか。一度、メイデの軍事訓練を見てみたいな」
「そう? なら、いつでも観に来てちょうだい、アスカが見学に来るとなれば、私も張り切るわ。でも、今はまずお茶にしましょう。アスカはいつも通り、お茶だけにしておくわね」
 衣装の簡素さなど何の瑕疵にもならない美貌を晴れやかに輝かせて笑ったメイデが、ゆるりと薫香を立ちのぼらせるティーポットを手に取った。
 そこから始まったティータイム、他愛ない会話と美味な茶で彩られたやわらかな時間が、ほんの一時間ほど続いた辺りだっただろうか。
 そのとき飛鳥は、耳長(みみなが)と小幸霊(さきみ)と海波人(うみびと)、そして天人(てんじん)の違いをアルディアに説明してもらっていた。勉強の一環と言うよりは、本人の興味の範疇らしかったが、何にせよ、知識欲の旺盛な少年である。
 優秀な文官であるのと同時に優れた芸術家でもあるらしいアルディアの手にしたペンが、ノートを滑らかに動き、独特のフォルムを描き出す様子を、興味深げに眺めていた飛鳥が、不意に、低く呻いて胸元を押さえたので、
「……『発作』か、若」
 勇仁は、ぱらぱらとめくっていた本を閉じて立ち上がった。
 飛鳥が苦笑した。
 小さく頷き、それが苦しかったのかまた呻く。
 無表情が基本の飛鳥には珍しいほど、さっと顔色が変わるのは、よほどの苦痛だからなのだろう。
「の、ようだ……」
 この十日で、飛鳥の『発作』は二回ほど起きているが、そのいずれもが、観ていて気の毒になるほど苦しそうで、どうにもならないことだと飛鳥本人が明言してはいるものの、誰もがどうにか出来ないのかとやきもきしてしまう。
「大丈夫かい、アスカ。少し休もう、そっちのソファに横になるといいよ」
「アスカ、これを少し飲むといいわ、薬師に頼んで調合してもらったの。気持ちを穏やかにしてくれるハーブ水よ」
 夫妻の言葉を聞きながら、勇仁は飛鳥に肩を貸して立ち上がらせ、ソファへと動かして、そこへ横たわらせた。アルディアがちょうどいいサイズのクッションを持ってきて、枕代わりに飛鳥の頭の下へ敷いてくれる。
 勇仁がわずかに飛鳥の上体を起こすと、メイデが小さなグラスを彼の口元へ運び、中の液体を含ませた。飛鳥はひどく億劫そうにそれを嚥下したが、すぐに眉根を寄せた。
 小さな欠伸が漏れる。
 その不自然なまでの唐突さからして、原因がメイデの与えた液体にあることは明らかだ。
「……ハーブ水というか、これ、睡眠薬、だろ……しかも、なんだ、このキツさ、は……」
「あら、そうだったかしら。実は熊でも昏倒するくらい強い眠り薬だったなんて、言わないわよ。――でも、ちょうどいいでしょう? アスカはずっと頑張っているんですもの、こんなときくらいぐっすり眠って」
「……まったく、あんたたち、には、かなわない、な」
 苦笑とともに飛鳥が嘆息する。ゆるゆると眠りに誘われてゆきながら、徐々に閉じられてゆく目をテーブルの上の本に向けて飛鳥がつぶやく。
「……ああ、そういえば、」
「うん、どうかしたかい?」
「いや……界神晶、が、どんなものなのか、を、調べようと思って……また、忘れていたな……」
 吐息のような、かすれた飛鳥の言葉に、アルディアとメイデが顔を見合わせ、首を傾げた。
「創造神ソル=ダートがお与えになった神威の貴石でしょう? 創世の力を閉じ込めた、と言われている。御使いと呼ばれる特別な人々の、その中でも特別な存在だけが、稀に手にすることが出来ると聞くわ。『発作』が収まったら、また、詳しく調べるといいわ。……でも、それが、どうかしたの?」
「……いや。よく聞くが、御使いとは、何なんだろう……?」
「世界に幸いと平穏を撒くべく天より遣わされるものだよ。御使いに膝を折られた王は、世界の覇者になるとも言われている」
「…………」
「アスカ?」
「いや……なんでも、ない……」
 それきり飛鳥は答えず、ゆっくりと目を閉じた。すぐに、静かで規則正しい寝息が聞こえ始める。
 強力すぎるほど強力な睡眠薬は、飛鳥から苦痛を取り除くことに成功したらしかった。その表情は穏やかで、どこか幼い。
 夫妻が顔を見合わせ、笑みを交わす。
 そこに含まれた感情、慈愛と悲嘆と諦観と甘受、様々な色彩が絡まった複雑なそれを、勇仁が訝しく思うよりも早く、
「ユージン、済まないが、客間からブランケットを持ってきてくれないか。寒くはないと思うけれど、あるに越したことはないと思うから」
 アルディアがそう言ったので、
「ああ」
 一瞬思案したのち、小さく頷いた。
 それから踵を返す。
 どちらにせよ、彼らが、飛鳥に無体を働く存在でないことだけは確かなのだ。それさえ判っていれば、勇仁が迷う必要はない。
「使ってしまってごめんなさい、それと、厨房から水差しも持ってきてもらっていいかしら? アスカが起きたとき、まだ『発作』が続いているようなら、鎮痛剤を飲ませてあげたいの。どれだけ効くのかは判らないけど」
「そうか、判った」
 それに、用事を言い付かれば不安が紛れるのも確かだ。
 言葉少なに返して、勇仁は部屋を出た。
 そして、目的を果たすべく、早足に屋敷の奥へと向かう。

 ――だから、勇仁は知らない。
 強力な薬による、抗い難い眠りの淵にいる飛鳥が、それを知り得なかったように。
 身じろぎひとつせず静かな寝息を立てる飛鳥の、ずいぶん長くなった漆黒の髪を、繊細で優美な指先でかきあげて、その秀でた額にやわらかく口づけたアルディアが、
「あと……どのくらいだろう、『あの日』まで」
 そうつぶやいたことも。
 哀しげな、しかし覚悟と決意を秘めた笑みをこぼしたメイデが、
「二ヶ月、くらいかしら」
 そう返し、飛鳥の頬にそっと指を這わせたことも、その、美しく年齢を重ねたものだけが持ち得る輝きをまとった美貌が、深い深い慈愛を含んで飛鳥を見つめていたことも。
「実感は湧かないね」
「ええ。こんな穏やかな日々が、永遠に続くかのような錯覚すらあるわ」
「私たちがいなくなっても、もう大丈夫だよね?」
「そうね、そのために準備をしてきたのだもの。きっと、大丈夫よ」
「……ハルノエンの様子は?」
「今のところは、何も。定期連絡が少し遅れているくらいかしら」
「そうか。何が私たちに『あの日』を与えるのか、まだ判らないんだね」
「ええ。――ねえアル、私たちが死んだら、アスカは哀しむかしら。レヴィ陛下と同じように、泣いてしまうかしら」
「そうだね、きっと哀しんでくれるだろうね。……でも、アスカは強い子だから、どんなに哀しくてもぐっと堪えてしまうかもしれないね」
 また笑みが交わされる。
 ふわりと微笑んだメイデが、先刻アルディアがしたのとまったく同じ動作で、飛鳥の額に口づける。
 苛烈で非凡な少年の、無防備な寝顔に、慈愛と同等の哀しみ、罪悪感をはらんだ視線が向けられたが、飛鳥自身はきっと、たとえ目覚めていたとしても、何故そんな表情をされなくてはならないのか、判らなかっただろう。
「――ごめんなさい、アスカ。リィンクローヴァの命運と、あの方の幸いの鍵を握る御使いよ。あなたにこんな重い責務を背負わせるために、このゲミュートリヒへ招いたわけでは決してないのよ」
「それでも……どうか、願わくは」
 ふたりが、同時に、同じ仕草でこうべを垂れた。
「この美しい国と、あの可愛い方を、守って」
「君の、その力を、心を、信じているよ」
 ――その言葉の中に含まれた運命の影と、強い強い祈りの意味を、飛鳥たちが知るのは、そこから二ヶ月後のこととなる。