この国もしくはこの世界における集合区役所というものは、現代日本でいうところの区役所とは少し違っている。
 現代日本における区役所といえば、区民たちが様々な手続きに来たり、要請を行ったりし、役所の人間たちが区民の生活のために様々な便宜を図るべきところだが、この、フィアナ大通りから三分ばかり歩いたところにある集合区役所は、現代日本的な業務も執り行うものの、どちらかというと情報公開所としての性格の強い場所だった。
 そもそも、王都アインマールはリィンクローヴァ王家直下の都市なので、ここには区という区分は存在しない。ひとつの市と同じかそれ以上の規模を誇りながら、区という単位で細かに分けられてはいないのだ。
 それはつまり、王都アインマールには下級貴族――往々にして横暴で粗野な連中――が嘴(くちばし)を挟む余地も、勘違いした権力を揮う余地もないということだ。
 アインマールを支配し統率し守り導くのは、リィンクローヴァ王家と、アインマールの市民そのものなのだ。
 区とは、上級・中級貴族が支配する『市』の一部分を、彼らの意を受けた下級貴族たちが管理する、いわゆる中間管理職たちの任地を示す区分なのである。
 古いヨーロッパのように、爵位などというものがあるわけではないようだが、それでも、上中下という位階には断固たる差異が存在し、貧富の差も歴然としている。そのため、広大な自領を持つわけではない下級貴族たちは、少しでも自分たちの位階を上げるため、より多くの貨幣を得ようと躍起になっているのだという。
 ラムペ家がそのいい例だ。
 ラムペ家の現当主は、政治家としても不味くはない実力の持ち主だが、銀灯をはじめとして、茶や煙草の生産、質のいい毛織物の販売など、特に金を稼ぐ手腕に長けている。
 財力だけならば、中級どころか上級下位の貴族にすら及ぶほどだというから、相当だ。
 その金の使われる先が、自分のためではなく、区民のためというのが天晴れなところだが、無論清廉潔白なだけでそこまで反映できるはずがないから、どこかで後ろ暗いこともしているのだろうと思いもするものの、それは飛鳥にはどうでもいい話だ。
 何にせよ、集合区役所とは、リィンクローヴァ全国の区についての情報が得られる便利なところであるのと同時に、全国の区が、購入者を増やすために区内の特産品をアピールできる場所でもあるのだ。
 絹糸で有名な区と絹織物で有名な区が提携を結んだり、牧畜で有名な区と燻製食品で有名な区が協力関係を築いたり、美しい樹木を栽培している区に家具で有名な区が買い付けにいったりすることもあるので、非常に重宝がられているらしい。
 そのため、集合区役所はひとつの市に必ずひとつ存在するという。
 その中でも、もっとも充実した情報量を誇るのが王都アインマールの集合区役所なのだ。
 乱世とはいえ、諸外国に対して開かれたこの国は第三大陸内の国のみならず第一・第二大陸の国々からも熱い視線を寄せられているらしく、アインマールの大きな商店や問屋などを観察してみれば、飛鳥は、そう苦労することなく、明らかに第三大陸民ではない人種を見つけることが出来た。
 そんなわけで、集合区役所は、所属民のデータを管理し要請に応え、また区のインフラを整える、いわゆる役所としてよりは、多種多様な人々が様々な儲け話やよい品を求めて出入りする場所となっていた。
「……結構賑わってるんだな。俺たちの感覚で言えば、区役所なんかそうそう頻繁に行くようなとこでもないが」
「ああ。あいつらの真剣な顔を見て、ちょっとハローワークを想像した」
「言われてみれば、確かに。雰囲気が似てる」
 などと言いつつ、周囲をぐるりと見渡し、目的の区を探す。
 各区の情報が展示してある部分は、役所としての業務を行う区画、アインマールに出てきている他市民のための役所とは別の場所にあった。
 全体的にはつながっているのだが、部屋としては別たれているのだ。その内部は、役所というよりも、どこか大きなデパートの地下にでもあるようなフードコートを彷彿とさせた。
 サイズで言えば、ちょっとした体育館をふたつ並べたくらいだろうか。役所としての業務を行う場所か、こちらか、どちらが本体なのか判らなくなるような大きさだった。
 吹き抜けの、平面的に建てられた役所は非常に広く、様々なものが密集していたが、しかし、決して見辛い印象は受けなかった。
 壁際や内部に、薄い壁で隔てられたブースがびっしりと立ち並び、資料とともに実物を展示して、区のアピールに努めているのだ。
 学生を対象にした、企業の就職説明会を思い起こせば一番近いかもしれない。あれをもう少し昔っぽく、格式高くしたような印象だ。市ごとにまとめられて整然と並んだブースには、判りやすく区名が示されていて、見たい区がすぐに探し当てられる。
 飛鳥はちょっと感心した。
「……これ、この世界ではかなり新しいやり方なんじゃないか?」
「俺もそう思う。そもそも中〜近世なら、同じ国の中でも、あまり交流がないことの方が多いんじゃねぇか。それをこんだけしっかりまとめて、互いに行き来させてるわけだからな。この国が繁栄してる理由が判る気がする」
「この方法を取り入れたのが何代前か判るか、イース?」
「は、レヴィ陛下の御祖父とお聞きしています」
「ああ、レイによく似てたとかいう。進んだ考え方の人間だったんだろうな。……ふむ、さて、ラムペ区のブースは……っと、ああ、あった」
 ミュゼス市の区画を探し出せば、ラムペ区のブースに行き着くことは決して難しくなかった。
「へえ、確かに綺麗だ。職人の技術の粋が篭められてる、って感じだな」
 何故なら、ブース内部の天井からは、いくつもの銀灯が下がり、美しくもやわらかい光を発していたからだ。
 この世界には、光霊石という、中流以上の家庭の半数が灯りとして使っている発光物質があるのだが、その石を使わず、わざわざ油を用いて火を灯しているところを見ると、このランプは、その火のかたちをも楽しむためのものなのだろう。
 事実、この銀灯の光源が光霊石だったら、飛鳥でもきっと、少なからずがっかりし、興ざめしたはずだ。
 それほど、火とランプとは見事に調和していた。
 外装としての銀細工と、内部のガラス、そして火が、一分の隙もなく溶け合った品だった。
 銀細工は物によって様々で、一片一片、魂を篭めて作られたと思しき繊細な銀の枝葉が、紡錘形のガラスを覆うように巻きつき、その枝の一角に美麗な鳥が留まっているものもあれば、満開の花畑に蝶が舞い飛ぶ意匠のものもあるし、川の流れと睡蓮を模したものもあった。
 何にせよ、それらはすべて、ヴェーエトロース・ソガエ・ラムペが言ったように、確かに誰もが目を奪われるだろうほどに美しかった。
 もっとも、展示されている資料にざっと目を通したところ、恐ろしく手のかかる技術や最高級のものばかり使っているという材料に見合うだけの値は張るようで、なんとこれひとつで金貨三百枚である。日本円でいえば三百万円ということだが、物価の低さから考えれば三千万円に匹敵する。
 一般の、ごくごく普通の四人家族が、一切働かずに長い間くらしていける金額なのだ。
 もっとも、貴族と平民の間に貧富の格差があるのは当然だが、黒銀貨や白銀貨を平気で動かすような連中には、それほど高価なものではないのかもしれない。
 しかし、このランプを見て、値段を確認し、飛鳥はひとつの確信に行き当たった。
「……なるほど」
「ん、どうした、若。心の底から納得したような顔をして」
「いや、こんなに綺麗なものを、金の有り余ってるような連中にすら売れずにいるあのお坊ちゃんは、あり得ないくらい可哀相なヤツなんだな、と思っただけだ。うん、ここに来ておいてよかった、ちょっといい報復方法を思いついた。俺のためにも、圓東のためにもなりそうだしな」
「ほう。どういうのだ?」
「まだ秘密だ、劇的に行きたいから。ふむ、とりあえず、差し当たって材料をそろえないとな。まぁ、ここは紙の製造でも有名な国らしいから、あんまり心配はしてないが……」
 職人はバドと圓東がいるから心配要らないとして、どこをどう経過させれば爆発的に広まるかな……などと、自分の脳内での作業に没頭し始めた飛鳥を、無口な眷族と下僕騎士が不思議そうに見ている。
 とはいえ、ふたりの、黒と琥珀の目に宿る光は、疑う余地など一片もなく、飛鳥への絶対的な信頼であり忠誠を示すものだったのだが。
「ふむ」
 ややあって、脳内シミュレーションから現実に復帰した飛鳥は、ブース内で資料の整理や来客への説明を行っていた担当の係員に声をかけた。
「ひとつ訊きたいんだが」
「はい、なんなりと」
 最初金村とイースの強面無表情ぶりに驚いたものの、気を取り直したようににっこり笑ってうなずいた係員は、まだ若い女で、ミュゼス市はラムペ区の役人であるらしかった。服装の質からして貴族ではないようだったが、きちんとした出で立ちと丁寧な物腰に好感が持てた。
 飛鳥のような、どこをどうみても明らかに金など持っていなさそうな子供にも、きちんと応対してくれているのだ、この人物の役人としての真面目さ、誠実さが伺えようというものだ。
 こういう人間の努力と誠実さの影で、身の程を知らぬ横暴を働く馬鹿者がいるから、結果として善人が苦労する羽目になるのだ。
 もっとも、これからラムペ区に苦労を振り撒こうとしているのは飛鳥に他ならないのだから、他人のことなど何も言えないのだが、眷族の身の安全をまず第一に考えるしかない飛鳥にとっては、ひとときの他人の苦労は捨て置くしかない。
 面倒を起こすことになってすまないな、恨むなら自分のところのお坊ちゃんを恨んでくれ、などと、反省も後悔もなく胸中に思いつつ、飛鳥は口を開く。
「この銀灯のことなんだが」
「はい。お気に召しましたか?」
「ああ、とても。まぁ、見て判る通りの貧乏人だ、お貴族様方のようにひょいと買うなんてわけには行かないが」
「ええ……そうでしょうとも。金貨三百枚など、そうそう簡単に手に出来る金額ではありませんよね。ですが、これはラムペ区の誇りです。それをお褒めいただいたことそのものを嬉しく思います」
「そうか……そういう風に言ってもらえると助かるな。それで、訊きたいんだが、この銀灯はやはり、ラムペ区にとっては主要な財源なのか?」
「ええ、もちろん。とはいえ、それほど頻繁に出るわけではありませんから、最重要、最主要とは申せませんが。我がラムペ区で最主要生産品といえば茶か毛織物でしょうね。特にエリシャ茶は、プラーティーン市産のダルク茶に優るとも劣らない人気を誇っておりますので」
「ふむ。じゃあ、銀灯の職人について訊いてもいいか?」
「はい、構いませんよ。銀灯の職人たちは、それほど数多いわけではありません。何せ、材料の面から言っても、あまりたくさん作れるものでもありませんしね。それに……」
 そこまで言った係員の女が、ハッと我に返ったかのように口をつぐみ、苦笑した。諦観とも哀しみとも取れぬ色彩の含まれたそれに、半ば予想をつけつつも飛鳥は首を傾げる。
「それに、なんだ?」
「いいえ、何でもありません」
「なら、俺が当ててもいいか?」
「……え?」
「販売業務を仰せつかった某三男のお陰で、どうにも売上が伸びない。もしくは、売上が落ちている。だから、職人たちも数を作るに作れずにいる。――どうだ?」
 飛鳥の断言に係員は目を丸くし、それから再度苦笑した。
「ご存知なら、隠す必要もありませんね。別に、重要機密というほどのことでもありませんし。でも、どうか、事情をご存じない余所様にはご内密に願います」
「ああ、言いふらすほど暇でもないさ。半分ほどは当てずっぽうだが、当たるところが虚しいといえば虚しいか。しかし、せっかく出来上がった綺麗なものが、売り手の不味さの所為で日の目を見ないのは憐れだな」
「……そうですね。もっとも、わたくしなどがやきもきしたところで致し方ないことではありますが」
「いや、ひとつの集合体を支えるのは根っこの人間だ、あんたたちのような人間がそう理解している限り、悪くないと思う。――ふむ、まぁ、そんなものかな。どうもありがとう、助かった」
「いいえ、どういたしまして。お知りになりたいことがありましたら、またいつでもいらしてくださいね」
 言ってにこりと笑った女へ一礼し、
「知りたいことは知った、帰ろうか」
 そう告げたところ、
「ああ、そうだ」
 係員の女が、小さく声を上げた。
「どうした?」
「いえ、あの、差し出口かもしれませんが、もしもラムペ家や区についてもっとお知りになりたいのなら、ラムペ家の方々がアインマールに滞在される際に使われるお宅が神殿寄りのアルティネラ通りにありますから、そちらへ行っていただければと。あそこは別宅であるのと同時に役所の支部でもあります。ラムペ区の業務も請け負っていますから、あちらでも何かしらの情報は得られると思いますよ」
「……そうか、助かる、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 丁寧に一礼した係員の女へ、再度礼を言ってからブースを離れる。
 彼女が、一体何を思って、下手をすれば自分の所属する区に不利な事実が露呈しかねない情報を与えてくれたのかは判らないが、それは飛鳥にはとてもありがたい言葉だった。
 巧く行けば、ヴェーエトロースの交友関係などから、圓東を襲撃した連中のことが判るかもしれない。
「……さて、では、色々始めるとするか。天才の本領発揮と行こう」
 淡々と、恥ずかしげもなくつぶやいて、飛鳥は集合区役所を後にする。
 もちろん、ほんの少し、面白いことになってきた、などと思っていたのも事実だ。



 帰宅途中、飛鳥は、まるで約束ごとやスタンダードのごとくにフィアナ大通りの市に立ち寄った。
 特に買い物の必要性があったわけではなく、露店を眺めたくなったからだ。色とりどりの食材や布地、多種多様な人々が織り成す雑多な空間を観ているだけで飽きないし、気持ちが弾むのだ。
 質のよい紙と木材、出来れば竹をどう準備するか、脳裏に算段しながら歩いていると、見覚えのある人物と行き会った。
「……おや」
「あ、兄ちゃん!」
 向こうも飛鳥のことを覚えていたようで、満面の笑みを浮かべた小柄な少年が、こちらへ走り寄ってくる。
「久しぶりだね」
「ああ。元気にしていたか? 美味いケーキを焼いてもらえたか?」
「うん、ありがとう。とっても素敵なお誕生祝いだったよ。兄ちゃんは?」
「俺か? まぁ、普通だな」
 飛鳥の静かな物言いに、十日ほど前に飛鳥が助けた少年、ティカ・イフティラーム・ドゥーカーンはにっこり笑った。
「そっか。よかった、市に来て。また会えて嬉しい。母さんがさ、黒の加護持ちに助けてもらって、玉子までもらったって言ったらすっごく喜んで、是非一度会いたいって言うんだ」
「そんなに喜ばれるようなことをした覚えもないな」
「そうかな。兄ちゃんって控え目なんだね」
「……なんか恥ずかしいからその表現はやめてくれ」
「兄ちゃん、変わってるね……あ、母さん! おおい、こっちだよ!」
 しみじみ言ったティカが、不意に飛鳥の背後に向かって大きく手を振った。
 それに応じてこちらへ近づいてくる気配を感じ、飛鳥は苦笑する。
「母さんにも会ってあげてよ、喜ぶから。第二大陸では、加護持ちに会うだけで幸せになれるって言うんだよ」
「……それは面映い話だな。まぁ、構わんが」
 静かに、従順に、彼の近くに付き従う、ふたりの男を多少気遣いつつ飛鳥は頷き、振り向く。
 そしてかすかに首を傾げた。
 どこかで見覚えのある女が、こちらへ歩いて来ていたからだ。
 恐らく、三十代初めから半ばといったところだろう。
 衣装は質素だが、清潔に調えられた姿かたちは確かに美しかった。
 結い上げられた髪は濃い茶色、瞳はティカと同じ鮮やかな翡翠色だ。褐色の肌と彫りの深いエキゾティックな顔立ちは、彼女が第二大陸民であることを如実に物語る。
 優秀かつ正確すぎる自分の記憶、自分を助けもし、苦しめもするそれをさらった飛鳥は、
「ああ、そうか……あの時の」
 三日ほど前、ブレーデ一家の生き残りたちが異形化した時のことを思い出していた。
 あの広場からフィアナ大通りへ戻る際にすれ違った人々の中で、たくさんの糸を手にした女の姿があった。第二大陸の織物とはどんな模様なのか、と思ったこと飛鳥はよく覚えている。
 ティカが母と称した女性は、その女に間違いなかった。
 そんな些細なことまで如実に覚えておかなくても、と思いはするが、これはもう飛鳥の性質であり根本なので仕方がない。
「兄ちゃん、知ってるの?」
「先日すれ違っただけだ」
「そっか。あ、母さん母さん、こっちだよ。ほら、前に言ってたでしょ、こないだ助けてくれたアスカ兄ちゃん」
 飛鳥の腕を引っ張ったティカが手招きすると、女性はやわらかく微笑んだ。清楚で、どこか少女めいた微笑だった。
「そんなに強く引っ張っては駄目よ。困ってしまわれるわ、ティカ」
「あ、そっか。ごめん兄ちゃん」
「いや、別に?」
 飛鳥が言うと、ティカと母親は同時に微笑んだ。
 ふたりのもとへ辿り着いた母親が、飛鳥に向かって深々と頭を下げる。
「先日はどうもありがとうございました、貴い方。お陰様で、この子は怪我をせずに済みました」
「礼を言われるためにしたことでもない、頭を下げるのはよしてくれ。敬語も要らん。なんかむず痒い」
「ふふ、ティカの言うとおり、変わった方ね……。なら、そのように。ああ、わたしはアマル、アマル・ドゥーカーン・ジャウハラ。アマルと呼んで下さると嬉しいわ」
「……希望と宝石か。悪くない名前だな」
「え?」
「いや、なんでもない。俺は飛鳥だ、アマル。好きに呼んでくれればいい。まぁ、何にせよ、あんたの大事な息子に怪我がなくて本当によかった。その後、問題ないか?」
「ええ、もちろん。ここはわたしたちのような他大陸民にも親切な国だから。フィアナ大通りの人たちにもよくしていただいているの」
「……そうか」
 ティカの頭を撫でながらアマルが言い、飛鳥は小さく頷く。
 レーヴェリヒトの行うまつりごとが、この、まちの最下層に生きる人々にも、均しく光を注ぐというのなら、それは悪くないことだと思う。
「あ、そうだ、兄ちゃん」
「ん、どうした」
「あのさ、明日ヒマ?」
「暇と言うことはないが、時間ならある。それがどうかしたか?」
「うん、あのね、明日父さんのお誕生日なんだ。家でお祝いするんだけど、兄ちゃんも来ない? そっちの、騎士さんたちも。母さんが美味しいケーキを焼くよ」
「……ふむ」
「ティカ、無理を言っては駄目よ」
「だって、きっと父さんも喜ぶよ。母さんもそう思わない?」
「そうね……でも、」
「あんたたちが得体の知れない部外者に入り込まれて不快ではないなら、行かせてもらうが」
 飛鳥の言葉に、ティカがパッと顔を輝かせた。ぶんぶんと首を縦に振る。
「やった! じゃあ決まり! えーとね、向こうの小道の、通りを挟んだ五軒目だから」
「判った」
「そうだ、判りやすいように、扉に白い布を結んでおくよ。どう?」
「ああ、それは悪くないな。何時に行けばいい?」
「ええと……二時くらいに来てくれたらいいかな。どう、母さん」
「そうね、そのくらいでいいわ。……でもアスカ、迷惑ならそう言ってくださればいいわ。無理はしないで」
「いや、そんな大事な日に招いてもらえるのは光栄で幸運なことだと思う」
「そう……ありがとう。あなたはとても優しい人ね」
「やめてくれ、恥ずかしい」
 翡翠の色鮮やかな目に、真摯な光を宿してアマルが言ったので、飛鳥は苦笑とともに肩をすくめた。
 飛鳥はただ、飛鳥自身のやりたいようにやっているだけのことなのだ、それを優しいなどと称されては収まりが悪い。
「なら、まぁ、また明日な。楽しみにしてる」
「うんっ! じゃあまた明日ね、兄ちゃん、騎士さんたちも。すっごく楽しみにしてるからね、絶対来てよ!」
「ああ」
 子供らしい、物怖じしない明るさでぶんぶんと手を振るティカに、手のかかる眷族と似た雰囲気を感じ取り、飛鳥は微苦笑して頷く。
 この、如何とも表現し難い、他者を放っておけない気分にさせる性質というのは、個人個人が持って生まれた、真似することの出来ない、ある種の宝だと思う飛鳥である。
 だからこそ、飛鳥は、何やかや言いつつ圓東を気にかけるし、ティカとの再会を喜ぶのだ。
「……では、またな」
 別れの言葉とともに踵を返す。
 自分を見送るふたつの視線を背中に感じつつ歩き出すと、両脇に金村とイスフェニアが並ぶ。
 恐ろしく鬱陶しいが、さすがに、それを口にするほど飛鳥は非情ではない。特に、このふたりに関しては。
「何やら楽しそうなことになったな。なぁ、イース」
「ああ。めでたいことだ。アスカの言ではないが、それに寄せてもらう我々はとても運がいい」
「そうだ、何か祝いの品を持って行った方がいいのかな。俺はそういうのとは無縁だったから、よく判らないんだが、どう思う?」
「なら、厨房から酒でもくすねて持っていってやったらどうだ?」
「でしたら、料理長に頼んで、質のよい果物でも詰めましょうか」
「ああ、それいいな。親父さんも、ティカもアマルも喜ぶ。そうしよう。頼んでいいか?」
「御意」
 イスフェニアが恭しく頷くのを視線の隅に見ながら、飛鳥は、こういうのも悪くない、本当に悪くない、などと思っていた。
 無論それが、嵐の、激動の前の小休止だと、理解していないわけではなかったが。