それは確かに夢だった。
 夢でしかない感覚だった。
 意識と肉体の双方が、眠りに就いている自分を理解し、認識していた。
 事実、自分を取り囲む薄暗い空間は、現実にはありえないものだ。
 ――だが。
 目の前に佇むその人物は、寒々しいまでに現実味を帯びていた。
 その人物だけが、くっきりとしたリアリティを伴ってそこにあった。
 血が通っていることがはっきり判るのだ。
 その人が確かに生きてここにいることが、何故か天地の理並の事実として認識されているのだ。
 それなのに、それが誰なのか、男なのか女なのか、若いのか年老いているのか、美しいのか醜いのか、背は高いのか低いのか、肌が白いのか黒いのか、どんな衣装を身に付けているのか、何ひとつとして判らないのだった。
 その人物は、男であるようにも女であるようにも思えたし、弾むように若々しいかと思えば、萎びたように年老いているかのようにも思えた。今までに出会った誰かのようにも思えたし、まったく面識のない赤の他人のようにも見えた。
 溜め息が出るほど美しいような感覚と、二目と観られぬほど醜いという意識とが同席した。
 それがあまりにも奇妙で不可解だということを理解していた。
 声をかけることも出来ず、絶望すら感じさせる隔たりの中、その人物を見つめ続けていると、彼なのか彼女なのかも判らないその人が、何色なのかも判らない髪を揺らして不意にうつむいた。
 そして、こぼれたのは溜め息だ。
 沈鬱で、孤独で、悲愴で、重々しい、耐え難い苦悩に満ちた溜め息だった。

 ――ああ。

 それはあまりにも哀しく、苦しみに満ちていたが、しかし、それを耳にした瞬間胸に去来した感覚は、同情でも憐憫でもなく、震えすら伴うほどの焦燥感だった。感覚のすべてが、『それ』が危険を生むのだと、『それ』こそが絶望の担い手なのだと絶叫しているかのようだったが、何故そう思うのかまでは判らないのだ。
 何のことなのかさっぱり判らず、眉をひそめるよりも早く、その人の足元に黒い沈鬱な靄が湧き上がった。それが何を意味するのか理解出来ないほど無知でもなかった。
 危ない、逃げろ、と叫ぶことも出来ず、ただ見守るしかない視界の中、靄はあっという間にその人を包み込み――……

 ばちん、

 と、音がしたかどうかは定かではない。
 その人の身体から、その内側から、得体の知れない、不気味な肉塊が弾けるように涌いて出た。
 ごぼごぼと……ねちゃねちゃと、嫌らしい、怖気をそそる音を立てて。
 かたちを変えて行くそれを、なすすべもなく観ていた。
 胸の内を満たすその感情が、どうしようもない無力感なのか歯痒さなのか、耐え難い恐怖なのか、このままでは終わらせないという戦意なのか、自分でも判らずに、持て余していた。
 そして――ついに。
 変化を終えたそれが、あの声で笑う。

「くく、くかか……くかかかかか」

 禍々しく寒々しいその声に、背筋が寒くなる。
 ――しかし、それと同時に、何故か、胸を締め付けられるような、ひどい哀しみを感じていたのも事実だった。



「……」
 目覚めとしては最悪だった。
 何故あんな夢を見たのかさっぱり判らない。
「これも啓示とかいうものなのか? ……あまり嬉しくないな……」
 飛鳥は大きな溜め息をついてから欠伸をした。
 身体の感覚からして時刻は午前四時過ぎといったところ。夏とは言え、空こそ少し白んでいるものの、まだ日も昇っていない。
 昨日(というよりもすでに今日だ)、ベッドに入ったのが午前二時前だったから、まだ二時間ほどしか寝ていないことになる。
 悪夢を見て飛び起きたことがないとは言い切れない生を送ってきている飛鳥だが、あんなに奇妙で不可解な夢を見ることは珍しく、彼はやれやれとまた溜め息をついた。
「あの夢が啓示だとして、いったい俺に何をさせたいんだ。とりあえずそこをもっと具体的に示せっつの」
 無論、夢ごときでアンニュイになれるほど繊細でもなく、啓示の送り主に向かって毒づくと、そろそろ鬱陶しくて仕方なくなってきた髪をぐしゃぐしゃとかき回し、飛鳥はベッドからひょいと降りた。
 すっかり目が冴えてしまったので、気に入りの茶でも飲みながら本を読もうと思ったのだ。
 幸い、多少の睡眠不足など屁でもない身体である。
 そうと決まれば善は急げ、とばかりに夜着を脱ぎ捨てると、飛鳥は、前日のうちに準備しておいた、多分にアジアっぽいデザインの衣装に袖を通し、懐にそろそろ電池が残り少なくなってきた携帯電話をスタンダードのごとくに忍ばせると、読みかけの本を手にして、まったく無音の動作で階下へと降りた。
 自分の都合で、まだ心地よい夢の世界に遊んでいる同郷人ふたりを起こしては申し訳ない、と周囲を気遣ったというよりは、それが彼のデフォルトであるだけなのだが。
「ま、休めるときに休んでくれればいい」
 ごくごく小さくつぶやきつつ、リビングと称しているくつろぎスペースへと足を運ぶ。恐ろしく夜目の利く飛鳥にとって、そこまで明りなしに辿り着くことなど造作もない。
 もちろん、本を読むには不便なので、光霊石という発光物質の小さな塊をふたつ、ランプの中に放り込む。
 欠片同士が触れ合って初めて発光するという面白い性質を持つ鉱石は、ランプの中でお互いがかちんと音を立てるや否や、花がほころぶようにふわりと光を放った。
 それを確認してから本をガラステーブルに置き、お茶を入れるべく賄い場へ向かう。
 その途中のことだった。
 唐突過ぎるほど唐突に、脳裏を、

 ――紡がれる糸の向こう側で、ささやかな営みを犠牲に、力ある色の凶宴が踊るでしょう。――情に流されて選択を間違われませんように。

 昨日、瑠璃色の目の賢者から聞いた言葉がよぎったのは。
「……」
 飛鳥はほんの少し眉根を寄せた。
 彼は自分の感覚が非常に信の置けるものだということを理解している。たとえ何を疑っても、自分の思考と感覚だけは信じるべきだということを、自分という意識だけは疑いようがないことを、魂の根本、本能の位置で深く認識している。
「……何が、起きる?」
 だとすれば、それは、この先起きる何かの前触れだった。
 恐らく、碌でもない何かの。
 ――無論、神ならぬ飛鳥にそれがいつ、どこで、どのように起きるのか判ろうはずもなく、彼はただ、何が来ても出来ることをやるだけだと、そうするしかないのだと自分に確認するだけのことだったが。



 不気味で不吉な夢から更に一夜明けた日の、正午をいくらか過ぎた辺りの、陽光に満ちた明るい昼間のことだった。
 ゲミュートリヒ市の領主夫妻は、何かあったのか色々と忙しいらしく、今日も連絡すら来なかった。仮にも他国と戦争中なのだ、そのくらいで当然なのかもしれないが。
 しかし、そのお陰で予定が狂い、アルディアから借りてきた本も読み尽くして――間の悪いことに、王城の書庫も資料整理があるとかで出入り禁止になっていた――すっかり暇を持て余した飛鳥は、金村とイスフェニアを伴ってフィアナ大通りの市(いち)へと来ていた。
 金村とイスフェニアに関しては、伴って、というよりは飛鳥が市に行くと言ったらスタンダードに背後にくっついてきたと表現するのが相応しいのだが、そこに突っ込むのもそろそろ飽きてきた。
 このままだと雪城飛鳥@金村・イスフェニアのオプションつき、などという表記すらされかねないな、などと溜め息混じりに思いつつも――そして今更それを彼らに言ったところで無駄だと心底理解しつつも――、飛鳥は市場の喧騒を楽しんでいた。
「いらっしゃい、アスカ。今日は何を?」
「騎士さんたちは加護持ちのお供かい? ご苦労さま。よければこれ、食べて行きなよ」
「アスカ、ご所望の竹はもうじき入ってくるよ、少し待っていておくれ」
「三年ものの赤葡萄酒はいかが? こっちは去年仕込んだばかりのものだけど、若い白葡萄酒も悪くないよ」
「ああ、ユージン、あんたに頼まれてた紙巻煙草、なんとかかたちになりそうだよ。よくこんな吸い方を思いついたね」
「アスカアスカ、握手して握手! だって、加護持ちと握手したら幸せになれるってティーシエが言ってたから!」
「いらっしゃい、アスカ。今日も綺麗な黒だね。ああそうだ、キースに言っておいておくれよ、紫玉茄子が豊作で、もうじき大安売りをやるからねって。マリネにしておけばずっと食べられるよ」
「いらっしゃいアスカ! 第二大陸産の高級チョコレートが入ったよ、買っていかないか?」
 ここ二週間ばかりですっかり顔馴染になった人々が、方々から親しげに声をかけてくる。
 飛鳥は、会釈や肩をすくめる仕草や苦笑でそれらに応えながら、特に目的もなくあちこちを歩き回った。歩き回るだけで楽しいのがこの市場なのだ。
 とはいえ、顔馴染の露店商たち、特に食料品を扱う人々が、通りかかるたびに様々な食材や料理の味見をさせてくれるので、何も買っていないわりに満足感というか満腹感は大きい。
 そもそも少食な飛鳥は、これならもう昼飯は要らないな、と胸中につぶやいて、惣菜屋が出してくれた鶏ひき肉と野菜の掻き揚げ(仮称)の欠片を口に放り込んだ。
 それから、レーヴェリヒトが食べたいと言っていた揚げ菓子でも買いに行こう、と、踵を返したところで人とぶつかった。
「あ、すまん」
 ぶつかったというほど強い衝撃があったわけではないのだが、反射的に詫び、相手を見遣った――相手が長身だったので見上げた、の方が正しいが――ところ、
「なに、オレも余所見をしていた。すまぬ」
 濃い茶色の髪に、淡い青の目をした背の高い青年が、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって詫びの言葉を口にしたので、飛鳥はわずかに肩をすくめた。
 引き締まった痩身に動きやすそうな衣装をまとい、腰には使い込まれた剣があるが、同時に、様々な食材が詰め込まれた木箱を抱えているところからして、単純に剣士、商人とは言い切れない風情の男だった。
「何事もなかったならいいんだが」
「ああ、お互いにな」
 鋭角的に整った、二十代後半から三十代前半と思しきその男は、厳しさすら感じさせるその顔立ちとは裏腹に、笑うと目尻が下がり、どこか幼く見えて、妙に愛敬があった。
 恐らく、笑った顔の方が彼の本来の姿なのだろう。無条件にそう思わせる、朗らかで裏表のない笑顔だった。
 あまり他人のことを詮索したがらない飛鳥が、
「……あんた、ここらでは見かけない顔だな」
 そう、思わず声をかけたのは、コンピュータ並に優秀な自分の記憶に彼が引っかかってこないことを訝しんだというよりは、単純に、その朗らかさにつられたと言うべきだろう。
「ん、ああ、ここの住人ではないからな」
「それがわざわざこの市まで? 酔狂なことだ、市などどこにでもあるだろうに」
「ここの市は特別品揃えがいい」
「なるほど、違いない」
「――……それに」
「ん?」
「なに、もうじきここで祭があると尋ね聞いたのだ。盛大な宴になると聞いてな、是非と思って来たわけだ」
「へえ、そうなのか。いったいいつやるんだ?」
「さて、それはオレには判らんが。今日か……明日か。いずれにせよもうじきだ、そう遠くはないだろうな」
「……?」
 この辺りで祭があるなどとは、足しげく通っている飛鳥でも知らず、また市場の人々も何も言っていない。何か間違えて覚えているのだろうかと思った飛鳥だったが、男の独白から別の何かを感じ取り、小さく首を傾げた。
「益体のないことを言ったな、忘れてくれ。それではな、加護持ち殿。お前の行く道に幸いの多からんことを」
 しかし、晴れやかに笑った当の青年が、祝福の言葉とともに手を振り、木箱を抱えたまま踵を返したので、首を傾げつつも苦笑し、頷いた。そしてきびきびとした動作で去って行く彼の背を見送る。
「若、どうかしたか?」
「……いや、何でもない。さて、ではそろそろ帰るか。ああそうだ、どうせだからバド爺さんの工房でも冷やかしに行ってこよう。何か用事があるなら先に帰っていいぞ」
「ふむ、面白そうだ。供をしよう」
「アスカの行かれる場所へならばどこへでも参ります」
「……言うと思った……」
 笑うに笑えない、見事なまでに統制立った下僕ぶりに、妙に疲れた気持ちになってボソリとこぼした飛鳥だったが、ふと流した視線の先の、ごちゃごちゃとした人ごみの中に、見慣れた姿を見つけて思わず声を上げた。
「お」
「ん、どうした、若」
「ああ、ほら、あそこだ」
「ん? ……ああ、ティカとアマルか」
「夕飯の買出しかな。あ、こっちに気づいたな」
 三十メートルほど先の露店で、褐色の肌の親子が、色とりどりの野菜や果物が入った籐編みの籠を手に、こちらへ手を振っていた。
 飛鳥はわずかに笑って――それはあまりにもわずかすぎて、恐らく、ティカやアマルには笑みと認識出来なかっただろうが――、手を振り返した。稚(いとけな)い存在に、こうして手を振る日がまた来ようとは、と、感慨深い思いを抱く。
 ――そのときだった。
 飛鳥は妙な違和感を覚えて周囲を見渡した。
 どうしてそう感じたのか、と一瞬考えて、すぐに答えに行き当たる。
 あれだけの人ごみが、あれだけ混雑していたはずの市場において、何故か、ティカとアマルの――否、恐らくアマルの、だ――周囲から消えていた。まるで、円形を描くかのように。
 まるで、舞台でも創り上げるかのように。
「……ッ!?」
 不意に、ぞくり、と、強烈な悪寒が這い上がった。
 それはあの、黒い靄を前にしたときとまったく同じ感覚だった。
 持てる感覚のすべてが危険を叫んでいた。
 飛鳥は、自分のそういう勘に裏切られたことがない。
「そこから離れろ、ティカ、アマル!」
 大声で叫ぶと同時に飛鳥は走り出していた。飛鳥の声に驚いて、ざわざわとざわめく買い物客を半ば以上突き飛ばすようにして。
「若、どうした!」
「アスカ!?」
 金村とイスフェニアが自分を呼ばわったのが判ったが、飛鳥に返事をしている余裕はなかった。
 突進してくる飛鳥に驚いた人々が、彼のために道を開ける。このときばかりは自分が他者に強い影響力を持つ黒の加護持ちであったことに感謝しつつ、彼らに目で詫び、飛鳥は足を速めた。
 悪寒は一層強くなっていた。
「兄ちゃん、いったいどう――」
 不思議そうに首を傾げたティカが、アマルから離れて飛鳥の方へ近づいた、その瞬間。ティカを抱き止めた飛鳥が、更に一歩踏み込んで、アマルに手を伸ばすよりも早く。
「アマ――」
 彼女の足元から、あの、重々しく沈鬱な、心をざわめかせるような黒色をした靄が勢いよく噴き上がった。
 飛鳥の手は、虚しく空を切る。
「――……っ!」
 それはあっという間にアマルを包み込み、そしてまるで生き物のような動きで彼女の中へと入り込んだ。
 飛鳥の呼吸が一瞬途絶する。
 それほど悲壮な顔をしていたのだろうか、飛鳥の腕の中で身じろぎしたティカが、
「兄ちゃん、兄ちゃん、何があったの。なんで、そんな顔してるの。母さんが、どうかしたの」
 不安そうに飛鳥を呼んだ。
 あの靄は飛鳥以外には見えていないのだ、それも当然だった。普段は無表情に近い鉄面皮の飛鳥が、唐突にものすごく必死な表情で突進してくれば誰でも驚くだろう。
 何でもないと言ってやりたかったが、背筋を這い上がる悪寒と危機感がそれを許さなかった。
 寒々しく空いた円形の空間に、黒い靄に絡みつかれながら佇むアマルは、表面上は何も変わっていないかのように思えた。――ただの思い過ごし、目の錯覚であってほしいと思った。
 だが。
「どうしたの、アス、……?」
 微笑んでふたりと向き合おうとしたアマルの表情がさっと強張ったのを、飛鳥は見過ごさなかった。
 彼女の手から、籐編みの籠が、色とりどりの野菜と果物、そしてその下に入っていたたくさんの糸束がこぼれ落ちる。
「あ、あぁ……」
 漏れたそれは溜め息のようだった。
 瞠目する飛鳥の目の前で、アマルが身体を折り、額を押さえた。
「母さん、どうしたの、母さん!」
 飛鳥は駆け寄ろうとするティカを抱き留める。
 放してと、とティカがもがくよりも早く、再びすっくと立ったアマルの額には、血の色をした禍々しい紋様が浮かび上がっていた。
「じ……《呪紋(じゅもん)》!」
 誰かの叫び、悲鳴に似たそれが聞こえる。
 ティカが鋭く息を飲んだ。
「討伐士様を、早く!」
 金切り声とともに誰かが駆け出す。
 不意に、こぼれ落ちて散らばっていた糸束、光沢からして絹だろうと思われるそれらが、ふわりと解けて宙に浮かび、アマルの周囲を舞い踊った。細い、繊細な糸が、光を浴びてやわらかく――美しく輝く。
 淡く色づいたそれらがたゆたうように舞う様は、こんな場面だというのに、幻想的で美しかった。
 彼女の周囲を、暗雲のごとき靄が漂っていることさえ除けば。
「か……ぁ、さ、ん……」
 飛鳥に抱き留められたまま、ティカが弱々しくアマルを呼ぶ。
 アマルが哀しげに微笑んだ、ような、気がした。
 理知的な唇が、声なく言葉を紡ぐ。

 ――逃げて。その子を、お願い。

 その、翡翠色の目には、白銀の光が宿り始めていた。更に、濃い茶色だったはずの髪が黒味を帯びてゆく。
 飛鳥が、生まれて初めて、禍々しい異形の腹に観た時には、異形の身体を食い破らんばかりの勢いで拍動していた《呪紋》は、今、彼女の額に整然と鎮座していた。それは神々しくすらあった。
「《色持ち》。――魔族か!」
 飛鳥は呻いた。
 かの五色を身に帯びる異形ならば、それは普通の異形とは一線を画した存在となるのだ。
「黒髪に、銀の目。ならば、魔王に次ぐ高位魔族が降臨することとなります」
 どこまでも静かな声は、イスフェニアのものだ。
 ティカが悲鳴のような息を飲んだのが判った。
 一瞬遅れて、少年の小さな身体が激しく暴れ出す。飛鳥はそれを、有無を言わさぬ力で抑え込むしかなかった。
「放して、放してよ兄ちゃん! 母さんのとこに行かなきゃ! 母さんを助けなきゃ!」
「お前が行ってどうなる!」
 思わず声を荒らげると、ティカの小さな身体がびくりと震えた。その翡翠の目に、みるみる涙が盛り上がる。
「だって……ッ」
 褐色の頬を、大粒のしずくが伝う。
「母さんまでいなくなったら、僕はいったい、どうしたらいいんだ……!」
 ティカの悲痛な叫びのあと、ゴウッ、と、アマルを中心として颶風が吹いた。
 風は激しく、物理的な力を伴って、周囲の露店や、商人たちや、買い物客を薙ぎ倒した。悲鳴とともに、人々がもつれ合って倒れる。
 いまや白銀となったアマルの目、怯えた表情で自分を凝視する街の人々を見るそれからは、人間らしいプラスの感情が伺えなくなっていた。それは精緻な人形のように虚ろで、冷ややかだった。
 アマルの周囲を漂っていた絹糸が、彼女の背に凝り始める。
 それは蝶の羽根のかたちをしていた。彼女がその羽根を羽ばたかせるたびに、彼女の周囲で激しい風が起こり、人々を、そして露店の商品を薙ぎ倒し、また、空に舞い上がらせる。
 一部の人々が、甲高い悲鳴を上げてその場を逃げ出し、辺りは騒然としたが、それもやがて収まっていった。
 フィアナ大通りには、息を潜めて成り行きを伺ういくばくかの人々と、飛鳥とティカとふたりの下僕騎士、そして今にも人間であることを辞めようとしているひとりの女だけが残っていた。
「『色』を持たない異形と魔族の力は、こんなにも違うのか」
 ほとんど物理的な力しか持たなかった色なしの異形とは違い、魔族と称される色持ちの異形は、存在そのものが力に満ちていた。飛鳥には何故かそれが判った。
 彼女が思うままに力を揮えば、恐らく、この市場などは一瞬にして消滅することになるだろう。
 ――遠くから、強い力を持った人間がふたり、こちらへ向かって駆けて来るのが感じ取れた。見知った気配は、あの、超級討伐士ギイとエルフェンバインのものだ。
「討伐士が来る」
 ぽつりとつぶやくと、飛鳥の腕の中で、ティカがびくりと震えた。
 ぎゅっと唇を噛んだティカが、飛鳥の腕にすがりつく。
 翡翠の双眸に、必死な光を宿して。
「兄ちゃん、兄ちゃん。お願いだよ……母さんを助けて。お願い、母さんを助けて! こんなところでお別れなんて僕は嫌だ!」
「……ティカ」
「一緒に父さんを待つんだ、一緒に父さんにお帰りって言うんだ! ねえお願いだよ兄ちゃん、黒の加護持ち様! 何でもあげる、僕に出来ることならなんでもするから、だから!」
 叫びは涙声だった。小さな手が、飛鳥を揺さぶる。
 飛鳥は瞑目した。
 ――だが、悩んでいる時間は、ごくごく短かった。
「判った」
「――え」
「約束は出来ない。俺は出来損ないの加護持ちだからな。だが……お前をひとりにしてやろうなんて、思っているわけでもない」
「兄ちゃん」
「やってみよう」
 ティカとアマル、そのどちらが欠けても、きっとあの希望は潰えてしまうだろう。いつ帰るとも知れぬ父親を、たったひとりで待ち続けることは出来ないだろう。
 こうして親しく交わった人間を、どうにかして救いたいと思う。なすすべもなく見送るだけなどという、腑抜けた人間ではいたくないとも思う。
 そして。
 せめて、今度こそ。
 そう思ったことを飛鳥は否定しない。
 何か出来るはずだと、そう思ったことも否定しない。
「若」
「止めるなよ。俺は俺のやりたいようにやる」
「止めねぇよ。ただ、気をつけてくれ」
「……ああ。ティカを頼む」
「御意。お気をつけて」
 どこまでも飛鳥馬鹿のふたりにほんの少しだけ苦笑し、ティカの小さな身体をふたりに託すと、飛鳥はアマルに向かって一歩踏み出した。颶風をものともせずに、彼女へ近づく。
 戦意を滾(たぎ)らせてフィアナ大通りへ駆け込んでくる、ふたりの討伐士を視線の隅に認めながら。