フィアナ大通りに辿り着いたギイ・ケッツヒェンは、
「くそっ、またお前か!」
 開口一番、そう吐き捨てた。
 月長石の双眸に、毒々しい怒りと敵意が燃えている。
「ギイ、今はそんな場合じゃないだろう。あんたたち、ここは危険だから早く離れてくれ。ここまで高位の魔族は、ここ十年お目にかからなかったな……手強そうだ」
 溜め息混じりにギイを諭したエルフェンバイン・ハールが、緊張を孕んだ翠玉のような目を、厳しくすがめてアマルを見上げた。
 ふたりの手には、すでに、剣がある。
 いつでもアマルを、異形を、魔族を殺せるようにと。
「だが、まだ完全に魔化しちゃいねぇ。叩くなら今だ、そうだろ」
「……違いない」
 淡々としたふたりの会話を聞いたティカが、身体を硬くして金村にしがみつく。少年の、翡翠の双眸に諦めとも哀しみとも取れぬ表情がちらついたのを観て、飛鳥は片眉を跳ね上げた。
 それを赦すわけには行かないのだ。
「何を勘違いしている」
 傲然と告げる。
「誰が殺していいと言った」
「あぁ?」
「何だって?」
 ギイから怒りの、エルフェンバインから疑問の声が上がる。
「殺すしか能のない万年戦闘狂どもはしばらく黙ってろよ、俺に俺の仕事をさせろ」
 静かに、しかし断固とした口調で言って、アマルに一歩近づくと、眦を吊り上げたギイが剣を構えた。奥歯がぎりぎりと噛み鳴らされているのが、少し離れた位置にいる飛鳥にすら判る。
「てめぇ、何のつもりだ。都の守護を預かる討伐士に盾突くつもりかよ。――それは真実、死を意味するんだと、カラダに教えてやろうか?」
「はっ、出来もしないことを偉そうに。そうじゃない、俺は俺にしか出来ないことをやるだけだ。お前たちには出来ない仕事をやるだけだ。邪魔をするなら、容赦はしない」
「殺すぞ、てめぇ」
「それしか言えないのか、語彙力の貧困な筋肉馬鹿め。脳まで筋肉とは、憐れみすら涌いてくるというものだ」
「っの……!」
「やめろ、ギイ。――どういうことなんだ、加護持ち。異形を、魔族を守ろうというのか、あんたは? それはこの地の人間すべてを敵に回す行為だと判っているのか?」
 頭から湯気すら噴きそうなギイに対して、エルフェンバインの眼はどこまでも静かだ。冷徹とすら言っていい。
 飛鳥は肩をすくめてアマルを見つめた。
 彼女の、冷ややかな銀の目は、まるで値踏みでもするかのように、フィアナ大通りに集う人々や、積み重ねられたたくさんの品物、突風によって随分散らばってしまったそれらを観察している。
 すでに、人間としての思考は残っていないのかもしれない。
「――お前たちには判らないのか」
「何だって?」
「彼女が死ねば自分も生きてはいられないという人間がいることを」
「……」
「哀しみの連鎖を創ることが討伐士の仕事だというのなら、俺はお前たちを認めない。止めようと努力すら出来ない人間を軽蔑しよう」
「あんたに何が出来るというんだ、何千年と繰り返されてきたこの凶事に。いかにふたつ至高色を持とうとも、その摂理が変えられるはずがない」
「そう思うんなら黙ってろよ、俺が死んでから彼女を殺せばいい。そのくらいの時間はあるだろう?」
「な……」
 きっぱりと言い切ると、エルフェンバインが絶句した。
 彼にはきっと判らないだろう、飛鳥が、出来損ないの、異端の加護持ちであるがゆえに、その摂理なるものをよく知らないがゆえに、そんなものは変えられるはずだと意固地に思っていることが。
 変えてやろうと、助けようと、今度こそと思っていることが。
 ――右手の人差し指が、熱を持ったような、気がした。
 ゆっくりとアマルへ近づく。
 ギイがぎしりと歯を噛み鳴らした。邪魔者への憎悪というだけでは説明のつかない、凄惨な怒りのオーラを感じる。
「てめぇごときになんとか出来るようなものが悪創念なら、オレたちが――オレが、こんな思いをしたはずねぇだろうがッ! エルフ、面倒だ、あいつごと殺る! 骨の髄まで灼いてやる、手伝えッ!」
 彼が吐き捨てると同時に、その、しなやかな身体から凄まじい殺意と闘気とが噴き上がった。それは魔力すら含んでいた。
 ゴウッ、と、彼の周囲を熱波が渦巻く。
 エルフェンバインは溜め息をひとつついたが、相棒の言葉を否定はしなかった。小さく頷いて、一メートル半はありそうな大剣を構える。
「加護持ちは地域の宝だ、出来れば殺したくはないが……仕方ない。陛下には魔族に操られて乱心されたと報告しよう」
「は、そりゃいい」
 淡々と告げる彼の、鮮やかな翠の目に、冷淡で酷薄な光が揺れた。飛鳥はそこに、エルフェンバインの本性を垣間見る。――決して朗らかなだけの男ではないのだと。
 だが、今の飛鳥にそんなことはどうでもよかった。
 心底どうでもよかった。
 飛鳥はただ、金村とイスフェニアをわずかに振り返り、
「邪魔だ、阻止しろ」
 低く、そう命じただけだった。
「承知した」
「御意」
 返る声に躊躇はない。
 むしろ誇らしげですらあった。
 ティカを安心させるように微笑んでみせ、彼を物陰に避難させると、ふたりは、腰に佩いた剣を引き抜いた。陽光を受けた刃がまぶしく輝き、己が強靭さを声高に主張する。
 それを確認し、うっすら笑って、あとはもう背後など気にも留めず、飛鳥はアマルへと歩み寄ってゆく。
 事実、己が背の安全性など疑いも抱かぬ程度には、飛鳥は、下僕ぶりが板についてきたふたりの男を信頼していた。
「なら、始めようか。後ろはヤツらに任せればいいようだから」
 飛鳥がつぶやくと、アマルは、絹糸の蝶翼で宙に浮かびながら、陽光に輝く雪原のような双眸で彼を見おろし、そしてわずかに微笑んだ。
 ――――蹂躙する者の眼で。



 金村勇仁は、特に焦るでも慌てるでもなく、敵意もあらわに自分を睨みつける、美貌の超級討伐士と静かに対峙していた。
 神代の美貌を誇るレーヴェリヒトに優るとも劣らぬ、神秘的な美しさを持った青年討伐士は、しかし、その表情の苛烈さ、毒々しさ、眼差しのきつさの所為で、人を寄せつけない威圧感、雰囲気をぴりぴりと発散している。
「そこを退け」
「若に阻止しろと命じられたからな」
「……てめぇも死にてぇのか」
「そうだな、別に死にてぇわけじゃぁねぇが。それ以上に若の命は絶対だ」
「ちっ、犬かよ。駄目だ、うぜぇ殺してぇ」
「そりゃすまねぇな」
「んだと?」
 淡々と、飄々と返すと、ギイの眼差しが更なる険を帯び、敵意が明確な殺意と呼べるほど強くなる。馬鹿にされたと思ったのかもしれないが、これが勇仁の地なのだ、どうしようもない。
 こちらの様子を伺っているらしく、まだ仕掛けては来ないギイを冷静に観察しつつ、自分と同じようにもうひとりの超級討伐士と向かい合っているイスフェニア・ティトラを視界の端で捉えていると、くすくすくす、という、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
 軽やかな、やわらかなそれらは、明らかにヒトの発するものではない。
 それどころか、勇仁しか聞き取ることは出来ないのだ。
(……精霊か)
 そう思うと同時に、周囲を、手の平くらいの大きさをした、ヒトとケモノの中間点のような姿の存在が、勇仁にじゃれつくかのようにふわふわと舞い踊った。
 今のところ勇仁の眼にしか見えぬ、そのスピリチュアルな存在は、彼が具合のよい剣を手に入れ、飛鳥に配下として正式に認められて以降――もっとも、残念ながらまだ護衛官としての正式任命はされていないが――、ますますはっきりと感じ取れ、また、見えるようになっていたし、以前よりもたくさんの言葉を聞き取ることが出来るようになっていた。
 無論、バーディア・クロム氏の手になる剣、“聖閃”の名を持つそれの自己主張も徐々に激しくなってきていて、勇仁は『彼』が、この戦いに臨んで身震いしていることを感じ取れた。

 ――異形。
 ――魔族。
 ――ためいき。
 ――また、かなしい?
 ――主様、かなしい?
 ――加護持ち。
 ――否
 ――否
 ――御使い。
 ――たすけてあげて。
 ――出来る。
 ――出来る。
 ――たすけられる。
 ――手伝う。
 ――ユージン。
 ――手伝ってあげる。

 何せ、最近では普通に勇仁の名を呼び、戯れてくる始末である。
 よほど言葉が交わせたことが嬉しかったらしい。
 だが、そのお陰で、ユージンは、アマルを助けようという飛鳥の意志が、きっと果たされるだろうと確信することが出来た。精霊たちの声に偽りはなかった。真実を告げる口振りだけがあった。
「後悔すんなよ」
 その目つきさえなければさぞかし女性が寄ってくるだろうに、というような、毒々しい凄絶な怒りを宿した眼で吐き捨てると、ギイが剣を構えた。
「……する暇があるように祈るさ」
 静かに答えて、勇仁もまた剣を握り直す。
 “聖閃”の上げる、自分を揮えという騒々しい自己主張に苦笑しつつ、勇仁は、勢いよく突っ込んでくるギイを静かに見つめた。
 そして、自分もまた地を蹴る。
 ――次の瞬間、金属音が高らかに響き渡った。
「ち……面倒臭ぇヤツと当たっちまったな……」
 がちりと組み合った剣の向こうで、月長石の目を歪めたギイが、忌々しげにこぼすのが聞こえた。
 光栄だ、と、胸中につぶやく。
 そうでなくては、意味がない。そうでなくては、飛鳥の下僕ではいられない。勇仁は自分の幸運を思う。それだけの力を持っていた自分の幸運を。
 だから、飛鳥がそれを望むなら、勇仁は全身全霊の力で叶えるだけだ。
 自分の持てる力のすべてで剣を取るだけだ。
 あまりにも潔い、あまりにも何も求めない、あの漆黒の少年を守るために。



 イスフェニア・ティトラは、妙な感慨とともに超級討伐士の男と向き合っていた。
 エルフェンバイン・ハール。
 世界に何十万人と存在する――それでも数はまったく足りていない――討伐士の中でも、十指に入る凄腕の戦士だ。その名は、彼がゲミュートリヒ市で騎士を務めていたころからすでに鳴り響いていた。
 討伐士の半数がそうであるように、エルフェンバインもまた、わずかながら攻撃魔法を使う。滅多に使うことはないようだが、ギイもしかりだ。
 人間を相手にするだけの、平凡な騎士たる自分に、勝てる相手ではないのかもしれない。その思いはある。
 だが、
「……貴殿が我が主に仇なすと言うのなら、私にここを退く理由はない」
「あんたに俺が倒せるか?」
「さあ、どうだろう。だが、あの方が望まれるなら、全うしよう」
 イスフェニアの命を救い――アスカ自身は、彼を助けるためにしたことではないと明言していたが、そんなことは大した問題ではないのだ――、主となり、個性的で強靭で苛烈なその性質を持って、彼に様々な新しいものを見せてくれる漆黒の少年が、彼にそれをなせと命ずるのなら、イスフェニアは死など恐れはしないだろう。
 彼のために死ぬ己を喜ぶだろう。
 ――無論、アスカは顔をしかめるだろうが。
「騎士様の覚悟には驚かされる。だが、覚悟だけで俺は止められないぞ」
「……そうだな」
 それが戦いの開始を告げる合図だった。
 恐ろしい膂力で、瞬時に振り抜かれた大剣が、イスフェニアの脇を狙って飛来する。エルフェンバインがかなり本気で殺しにきていることは明白だったが、イスフェニアは特に動じるでもなく、手にした剣でその重い一撃を止めた。
 がぢっ、と、音を立てて、鋼と鋼が鈍く鳴く。
「へえ」
 感嘆めいた声が、異大陸人の血を引く偉丈夫の口から漏れた。
「やるね、騎士様」
「そうか」
 低く返すと、一歩踏み込んで剣を突き入れる。
 剣閃の鋭さにエルフェンバインがヒュウと口笛を吹き、身体を巧みにひねってそれをかわす。大きな身体に似合わず、その動きは俊敏で、しなやかだ。
 がち、がきっ、という金属音とともに、打ち込み、打ち込まれを繰り返しつつ、イスフェニアはエルフェンバインの様子を観察していた。エルフェンバインもまた、イスフェニアの様子を伺っているようだった。
 彼らはただ忠実に職務を果たそうとしているだけなのだと、討伐士の存在意義を正しく理解しているイスフェニアは、出来ればふたりを殺したくも、傷つけたくもなかったが、そんな甘い思考では、反対に自分が倒される羽目になることもきちんと理解していたし、アスカがそうと命じたい以上手を抜くつもりもなかった。
 今のイスフェニアにとって、自分の命と同等に、他者の命は重要ではなかった。
 長年の相棒であり親友であり弟分でもある青年騎士、ノートヴェンディヒカイトの命すら、アスカという絶対的な存在のためになされる諸々の前にはかすんでしまうのだ。
 アスカが命じれば、恐らくイスフェニアは、ノーヴァですらも討つだろう。悩み苦しみつつも、きっと、最後には従うだろう。
 傍目にはそうとは見えずとも、今やイスフェニアは、それほどアスカに心酔していた。自分にはない、様々に激烈な、奇跡のような才能を持った少年に、彼が行き着く先を見届けたいという願望に、イスフェニアの忠誠心はがっちりと固定されていた。
 無論、そんな胸の内を、アスカに伝えるつもりも、技術も持たないイスフェニアだが。
「アスカが納得されるまで、ふたりには近づかせない」
「それで、被害が大きくなることになろうとも、か?」
「被害など、大きくなるはずがない。アスカが止めると仰ったのだから」
 断固とした口調で言うと、エルフェンバインが苦笑した。
「……判ったよ」
 その、引き締まった、強靭な肉体から、激しい殺意のオーラが噴き上がる。
「なら、殺し合おう。互いに退けない理由があるんだから」
 イスフェニアは頷き、かすかに笑う。
 この、死に近しい昂揚を待ち望んでいたのかもしれない、とすら思う。



 背後では、途切れることなく剣戟の音が響いていた。
 本来味方同士であるはずの、少なくとも同じ位置に立っているはずの人々に、本気で刃を交えさせるという愚を犯しながらも、飛鳥にそれを後悔する気持ちはなかった。
 彼らが彼らの思惑に、願望に従って動き、戦うように、飛鳥もまた飛鳥自身の思惑と、意志と、願望によってのみ動くのだから。
 そのためなら、飛鳥は、いくらでも様々なものを斬り捨てられる。
 自分の命に頓着しないのと同様の軽やかさで。
「――アマル。ティカが待っている、帰ろう」
 恐れ気もなく近づき、彼女を見上げると、飛鳥は静かに告げる。
 しかし、アマル・ドゥーカーン・ジャウハラという存在をいまや辞めようとしている女は、氷のごとき眼で飛鳥を見据え、彼の言葉を否定するかのような強い風で応えただけだ。更に、彼女の蝶翼を構成する絹糸の一本が、まるで刃のようにしなって飛鳥に斬りつけた。
 ぴっ、というわずかな衝撃とともに頬が切れ、熱い血がこぼれ落ちたのが判ったが、それで飛鳥が怯むはずもない。
 彼女をティカの元へ還すために、飛鳥はここに来たのだ。
「アマル」
『――……もう、手遅れ』
 再度飛鳥が呼びかけると同時に、アマルのふっくらとした唇が、冷ややかに凍りついた言葉を紡ぐ。しかしそれは、どこか、引き裂かれそうな哀しみを含んでいた。
『わたしは人ではなくなる。人に仇なすものになる。――早く行きなさい、あなたを傷つけたくはないわ』
 黒い沈鬱な靄は、なおも彼女を包み、そのすらりとした肢体にまとわりついている。
 ――誰かが、深い深い哀しみに溜め息するイメージが、不意に脳裏をよぎった。
 それが何者なのかは判らない。
 ただ、その誰かは、男なのか女なのかも定かではない誰かは、苦い懊悩と深い絶望、我が身を斬り裂くほどの悲嘆に、声が涸れるほど泣き喚き、気が狂うほど絶叫し、そして今やすべてを諦めかけ、溜め息をつくことしか出来ずにいるのだと、飛鳥はそれだけを疑いようのない事実として認識していた。
 その溜め息が、あの悪創念を産んでいるのだとも。
 そう、不可解なほどに強い確信を持っていた。
「ここで逃げ出すようなら、俺はもう一生、何ひとつ成し遂げることは出来ないだろう。俺は俺ではなくなってしまうだろう。だから、あんたを残しては、行けない」
 言って、一歩アマルに近づく。
『退がりなさい!』
 アマルが眉を厳しくして命じた。それと同時に、ヒョウ、としなった絹糸が、きらりと輝きを反射させながら飛鳥に襲いかかる。
 飛鳥はそれを避けることもなく、事象のひとつとして受け入れた。
 服地などものともしない力で、肉に鋭利なものがめり込む感覚とともに、糸の刃が飛鳥の身体のあちこちを切り裂き、決して少なくない血をあふれさせたが、その傷の痛み、熱さも、今の飛鳥には大した問題ではなかった。
「帰ろう、アマル。ティカを泣かせたいわけじゃあないだろう」
 何ひとつ変化のない声で、真直ぐ見上げると、アマルの目に、ほんの一瞬動揺が走った。
『何故……』
 独白のようなつぶやきが漏れる。
『何故わたしを畏れない。何故世界を守らず、わたしを守ろうとする。あなたは加護持ちでしょう、それなのに、何故』
「……俺が出来損ないの加護持ちだからだろうさ」
 心の底からそう思う。
 世界など、飛鳥が守らずとも続くだろうし、飛鳥が守らねば滅びてしまうような貧弱な世界なら、このまま消滅してしまった方がいい。たったひとりの存在、力にすがってしか存続できないような世界に意味はない。
 飛鳥は、人間ひとりひとりの命は星よりも重い、などという戯言には憎悪すら感じるが――命の価値がそこまで重く、平等なのだとしたら、何故自分のような存在が生み出され、望みもしない、数えきれない辛苦を舐めさせられ、そして何の罪もなかったあの少女は何故なすすべもなく死んだのかと、では人を殺した人間の命も同等に重いのかと、人権主義とやらを標榜する連中を小突き回してでもその答えを得たいと飛鳥は思う――、それでも、人間ひとりひとりの命は世界を支えるに足るものだと信じている。
 世界とは、すべての命が寄り添って初めてまわるものなのだと思っている。
 だから彼は、人々が加護持ちに望む『奇跡』などに興味はない。
 なるようになればいいと思う。
 今の飛鳥が思うのは、ただ、親しく声を交わした人間を、何もできずに見送るような真似だけはしたくないということだけだ。
「まだ戻れる、アマル」
 糸に絡みつかれたまま、飛鳥はアマルの目の前に立つ。
 そして、手を差し伸べる。
『消えなさい、下郎』
 言葉は倣岸だったが、声は揺れていた。
 アマルの言葉に従うかのように、差し伸べられた手や指にも、糸の刃が巻きつき、皮膚を傷つけたが、飛鳥は一切頓着しなかった。今更、傷のひとつやふたつが増えたところでどうということはなかった。
 怪我や傷や痛みに騒ぎ立てるような、騒ぎ立てる余裕があるような生を送ってきたわけではなかった。
「なら、殺してでも止めればいい」
 飛鳥の声はどこまでも静かだ。
 心には漣(さざなみ)ひとつなかったし、絶対に手が届くはずだという、驚くほど強い確信を持っていた。
『死のなんたるかも知らぬ人間風情が、偉そうに……!』
「そうだな。だが、そんなもの、誰にも判らないだろうよ」
 飛鳥はまた手を伸ばす。
 もはや、糸の刃に、全身を絡め取られながらも。
「俺はあんたを助けると決めた。あんたが望まなくても、あんたにはティカの元に戻ってもらう。――俺がそう決めたんだ、それは絶対だ」
 飛鳥が、そう、強い断定と確信とを込めて言った、そのときだった。
 カッ、と、右手の人差し指が熱を持った。
 そして、それと同時に、ばちんという衝撃があって、飛鳥を覆い尽くそうとしていた糸の刃の大半が、彼の身体から弾き飛ばされた。
 アマルが柳眉をひそめる。
『お前は、一体、なに……!?』
 訝しげにつぶやいた彼女が、次なる刃を飛鳥に差し向けるより早く、飛鳥は腕を伸ばし、勢いよくアマルを掴んだ。――アマルの身体を覆う、あの、黒い靄の一部を。
 それは確かな、しかしどこか寒々しい手応えを持って、飛鳥の手の中に収まった。飛鳥の確信は更に強くなる。
「俺がなんなのかなんて、別に、どうでもいい」
 深呼吸をして、靄を引っ張る。
 と、

 べりべりべりっ。

 靄は、破裂音に似た音とともに――ただし、それが飛鳥以外に聞こえたかどうかは定かではない――、驚くほど、呆れるほどにあっさりと、アマルの身体から剥ぎ取られた。飛鳥が手を離すと、靄の欠片は、何もかもが幻だったかのように消えてゆく。
『な、あ……』
 びくり、とアマルの身体が震えた。
 苦し紛れ、なのだろうか、糸の刃が飛鳥にまとわりつき、彼の身体を次々に切り刻んだが、雑念とは無縁のまま、飛鳥はなおも手を伸ばし、アマルの身体を覆う黒い靄を掴み取っては引き剥がした。
 アマルの背を飾っていた蝶翼が、徐々にかたちを失ってゆく。
 確かな変化に、結末を見守る人々からどよめきが起きた。
 ティカの眼が輝いたのを飛鳥は見た。
 討伐士たちが瞠目し、剣を退く。
「……もう少し、か」
 呟き、飛鳥が掴んで引き寄せた靄は、どこまでも長くつながって、アマルの身体に入り込んでいたたくさんの靄をも一緒に引きずり出した。気味が悪いほどの量がアマルを蝕んでいたのだと、今になって判る。
 翼を失って地面へと降り立ったあと、アマルががくりと膝をついた。
 髪に茶色が戻ってくる。
「……アス、カ……」
 漏れた声はひどく弱々しく、かすれていたが、人間らしい温かみがあった。
「母さん!」
 悲鳴のように叫んだティカが走り寄ってくる。
「……これで、仕上げ、だな」
 飛鳥はそれを横目に観つつ、アマルを覆っていた黒い靄の、最後のひと欠片をむんずと掴み、無造作に引き剥がした。
 びくり、と震えて上を向いたアマルの目は、すでに鮮やかな翡翠色だ。
 その褐色の額には、もうあの禍々しい紋様はない。
「……私、は……」
 かすれた声をこぼすアマルに、首を横に振ってみせ、飛鳥は彼女を支えてゆっくりと立たせてやった。あちこちから血が出ていたもので、衣装を少し汚してしまったが、そのくらいは大目に見てもらうしかないだろう。
「お帰り、アマル」
 満足げに飛鳥は微笑む。
 アマルが泣きそうな顔をした。困惑と感謝と歓喜を込めて。
「母さんっっ!」
 翡翠の目に涙をいっぱい溜めて、ティカがアマルに抱きついた。
「ティカ……!」
 アマルが小さな息子を抱きとめ、歓喜の涙をこぼしてきつく抱き締めると、嵐に薙ぎ倒された市場のあちこちから歓声が上がった。そして、割れんばかりの拍手が巻き起こる。
 奇跡を、黒の加護持ちを讃える声があちこちから沸き立つ。
 黒双神を讃える印を切り、飛鳥を拝むものすらいた。
 飛鳥は肩をすくめて、血まみれになった頬を、やはり血で濡れた袖で拭いた。もちろんあまり綺麗にはならなかったが。
「若」
「ご無事ですか、アスカ。――ひどい傷だ」
「大丈夫か?」
「普通だ。あんたたちこそ、ご苦労だったな。お陰で専念できた」
「……そりゃ、光栄だ」
「アスカのために戦えることこそ我が喜びなれば」
 フィアナ大通りは歓喜の渦のただ中にあった。
 満面の笑みを浮かべたティカが飛鳥に手を振り、アマルは何度も何度も飛鳥に向かって頭を下げた。
 露店商たち、買い物客たちが、母子を取り囲んでその無事を喜び合う。
 店を吹き飛ばされたり、自分も吹っ飛んだりした彼らだが、同胞たるアマルが、異形という呪われた存在にならずにすんだことを、誰もが心の底から喜んでいた。アマルを責める声はなかった。
 飛鳥はまたかすかに笑い、ティカに手を振り返した。
「……よかった」
 小さなつぶやきに、金村とイスフェニアが顔を見合わせ、微笑む。
 飛鳥は満足していた。
 自分の意志が、ようやく果たされたことに。
 浅くなく切り刻まれた身体のあちこちが、じわじわと痛みを訴え始めていたが、その痛みすら今の飛鳥には褒美や勲章のようだった。

 ――歓喜に満ちたフィアナ大通りにあっては、さすがの飛鳥も気づかなかった。
 超級討伐士ギイが、怒りのあまり震える拳を握り締め、食い殺しでもしそうな目で自分を睨みつけていたことに。
 そしてそれが、新たな騒動のタネを生むだろうということに。